これまでの日記 プロフィール

 

2019年8  August 2019

8月19日 月曜日

 夏休みは昨日で終わり、慣らし運転の一日。幸い気温は低くなり、過ごしやすくて助かった。午前中で帰宅する予定だったが、午後に客人が来ることになったので午後までの勤務に変更。明日からの準備はだいたい終え、溜まっていた読み物にいっぺんずつ目を通す時間を取ることができた。さまざまなことを暑さのせいにするのは簡単だ。だが、何かのせいにしてしまうことで人間は考えなくなる。考えないことが常習化してしまうと、知らず知らずのうちに誰かを傷つけてしまう。そして、そのことに気づかぬまま暮らすようになってしまう。八月は戦争のことを考える月なのか。ラジオでは昔のこととは思えないほどの距離感で先の戦争の話題が繰り広げられていた。素直でまっすぐな言葉が心に染み込むような気がした。戦争体験は、戦時中に生きていた者だけが語れるというのではない。この地に立ち、視野を広げて地球全体を見つめている者にならば、その体験を語る資格がある。私たちの営みはすべて「戦争」に結びついている。そのことを自覚しよう。

8月18日 日曜日

 異常な高温。涼しいのは朝の少しの間だけ。しかし、この日は湿度はそれほどでもなく、風も程よく吹いていた。明日からは通常通りの日々に戻るから、布団を乾かしたり洗濯をしたりするのにちょうど良かった。

 ラジオをつけると高校野球だった。東北の代表はこの日ですべて敗れたが、選手たちにとってこれ以上の経験はないだろう。眼前から勝敗を取り除いた風景をみることができたら、途中で去る者の未来は明るいものになるだろう。数日後には全国の野球部の中で一校だけが勝ち残ることになる。勝ち残った者のみえる景色が負けた者の心を包含したものであったとしたら、かれらは素敵な大人になるだろう。いずれにせよあまり熱中しないで少し気にかける程度にしたい。

 どこよりも車の中がいちばん涼しく快適である。夕方になって野菜を買うというのを口実にして車で出かけた。岩ヶ崎経由で築館を回って帰ってきた。

8月17日 土曜日

 二人とも自由になるのはこの日だけであった。黙っていればだらだらと家の中で過ごしかねなかったところを、九時前には家を出て西に進路を取った。須川温泉経由で秋田側に入り、小安峡の階段を降りて大噴湯を見学。稲庭うどんの里、川連漆器の里を過ぎて湯沢市内へ。この夏三度目の秋田行。思えば秋田にしか出かけていない。天然酵母を使ったパン屋を探して車を走らせる。以前偶然出会った一軒めは臨時休業。二軒めはグーグルマップを頼りに辿りつくと古い武家屋敷や蔵を利用したきれいな店だった。パンのことはそっちのけで店の女主人からしばらく話を聞いていた。その後、付近を走って一里塚や昔ながらの家並みを見学し、増田町へ。内蔵のある町並みには今年三度め。稲庭うどんの老舗、佐藤養助の内蔵を利用した店作りは素晴らしかった。小部屋に通してもらってゆっくりとうどんと天丼のセットを堪能した。食後には、中央の内蔵を見学。八代続く歴史の中で着実に信用を広げてきたことが伺えた。店を出て目の前の洋館を見ると外装が美しかった。招かれるままに店内にお邪魔すると、店主夫婦から興味深いお話をたくさん伺った。ご家族の話、この建物の話、増田の町の歴史、人々や商売の仕方の特徴など、多岐にわたり面白く語ってくださった。年齢をお聞きして外見の若さとの差に吃驚した。日帰りの旅ではあったが、この方たちのお話を聞くことができたのはありがたかった。この地域の奥深さを感じ、近いうちに来たいものだと思った。397号線、胆沢経由で帰宅した。ネットで調べているうちに、先ほどの方のたいへんな経歴を知り、二人でまた吃驚した。

8月16日 金曜日

 台風のために午前中は風が強かった。涼しいわけでなく、湿度は高くて何をするにも億劫になるほどだった。午前中は家にいてワープロを叩いていた。詰め込まなければならないことは数多あるのだがあまり頭には入らなかった。午後にはスーパーに買い物に行った。卵や豆腐を買った。夜にはゴーヤチャンプルーを作った。近くの町で花火大会があったが、行く予定はなかった。雨が降ったが酷くはならず、花火も問題なく決行されたらしい。

8月15日 木曜日

 七十四回目の記念日。終戦とはいうけれど、謝罪も反省の意も、相手に伝わっていないとしたら終わったなんて言えない。本当のところその名前には誤魔化しの気持ちが潜んでいる。水に流すとか、時が経てば忘れるとか、聞こえののいい解釈が行われるけれど、それは実は自分たちの命を粗末に扱う傾向を示しているに過ぎない。どれだけ水の害に悩まされてきたか、どれだけの裁判が不同意のままに終結させられてきたか。我が国には人権という概念がない、ということが明確になってきたように感じる。それを自覚し一人一人が身に付けていくこと。すべてはそこから始めなければならないと思う。

8月14日 水曜日

 気温は上がらなかったが曇って湿度の高い一日だった。目覚めてネットのニュースを読むと怒りが沸き、暗澹たる気持ちになるのがだいたい毎日の始まりだ。公私の区別のつかない人たちや自分たちの利益だけを求める人たちばかりが目に飛び込んできて、どうしてそうなってしまうのかと不思議な気持ちになる。世の中はまさかそうはならないだろうという方向に動いている。すべてのことは望まない形になりつつある。しかし、それを考えてもどうしようもない。考えるだけ時間の無駄だ。社会のために自分ができることをできるだけする。それこそがやがて自分に還ってくるのかもしれない。

 昼食はコンビニのおにぎりやパンを車の中で食べた。クーラーバッグを積んでスーパーに買い物に出かけたが、大したものは買わなかった。午後にはエフエムのYMOの特集をひたすら聞いていた。デビューから四十年だという。中学生の時、昼の放送でずいぶんかかっていたのを思い出す。その頃の感性とあまり変わっていないようだ。影響を受けたという言葉では片付けられないほどの感化があった。若い時に出会った物事が一生を左右するということがあるのだろう。だが、その時代性はもう二度と繰り返されることはない。似たような時代は再びやってくるかもしれないけれど、同じ時代はもうあり得ない。現代の中学生もかれらの一生を左右するであろう何者かに出会っているのだろうが、その価値は我々の年代にはどうしたって計り知ることはできないのだ。

8月13日 火曜日

 朝は通常通りに起床した。ロビーでパンを食べて八時前に宿を出た。以前毎月のように従弟と叔母とで飲んだ時に使った宿だったが、その時は必ず平日で、朝一番の新幹線で仕事にいかなければならなかったので、いつも朝食を食べずに出ていた。だが、今は夏休みである。久しぶりに盛岡で目覚め、ゆっくりと朝食を取れた。そして、まっすぐ帰宅するのはもったいない。

 雫石から西和賀を通って秋田に入り、西馬音内に行こうと思った。西和賀では早くも蕎麦の花が咲いているのを見た。西馬音内の盆踊りは十六日からなので見ることはできなかったが、町の中心には観覧用の座席が作られていた。狭い道が入り組んでおり、古い建物がところどころ残っており、味わい深い町だった。そこに、昼間だけ開いて蕎麦がなくなると営業終了というような、老舗の蕎麦屋が点在しているのだった。目星をつけていたところ数軒を訪ねたのだが、お盆だからなのかすべて閉まっていた。

 西瓜の直売所を見つけた。人がいなかったので隣の家に声をかけたらおじさんが出てきて対応してくれた。建物いっぱいに西瓜が敷き詰められていたのが面白かった。あれこれ話を聞いた上で、大きめのものを一つ購入した。おじさんに、蕎麦を食べたいがどこも休みだと話すと、道の駅に行けば食べられると言って行き方を教えてくれた。

 まだ昼前だったが道の駅は混雑していた。案内所で町の地図をもらい、蕎麦の話を聞き、食堂に並んで名物の冷がけ蕎麦を食べた。ネギだけがのったシンプルなもので、喉越しの良い蕎麦だった。谷地の肉そばとはまた別の味わいだった。同じ蕎麦でも所変われば多様なものだ。

 その後、町の真ん中の駐車場に車を停めて、ぐるっと町を一回りした。いつかあの盆踊りを見に、泊りがけで来たいものだ。それから高速で金ヶ崎まで行き、そこからは昨日の道を南下して、途中産直で野菜を買って十五時頃に帰った。

8月12日 月曜日

 十一時に家を出て北上川東岸の県道をゆっくりと北上した。この日も相も変わらず天気が良く、気温も上昇した。途中更木の産直で昼食を食べた。ラーメンにバイキング形式で惣菜などが取り放題という、割安感の高い食事だった。本屋と文具屋を経由して実家へ。従弟たちと合流して墓参し、盛岡へ。母方の菩提寺で叔母にも合流。本堂で少し涼んでから墓参。妻とはそこで別行動となる。その後は先日亡くなった叔父の実家を久しぶりに訪ねた。夕方からは市内に戻ってきて、予約してもらっていた宿に荷物を置いてから、食事会のために和食の店に向かった。従弟の子どもたちも加わって、美味しいものを食べながら飲みながらなかなか賑やかなひと時を過ごした。先日の通夜の時には話もできなかったのだが、中学生の男の子は学校のことなどを少し聞かせてくれた。その後は叔母たちと従弟と四人で二次会に行った。十一時頃にはお開きとなった。予約をしてもらっていた駅前の宿に行き就寝した。年に一度か二度ではあっても、こういうひと時がもてることは貴重だと思った。

8月11日 日曜日

 仕事に当たっていたので六時半に家を出る。七時過ぎに着いてから、しばらくは外にいたのだが、気温は高くなく、しばらくは暑さを感じずに済んだ。しかし、日差しは強かったので、雲間から太陽がのぞくとジリジリとした日差しが皮膚に突き刺さるようだった。外にいた時間はそれほどでもないのに、帰ると腕の日焼けが酷くなっていることに気づいた。昨年度とは幾つかの点で進み方が異なっており、たいへん負担感の少ない行事となった。負担感は少ないが、それが果たして効果的であったかどうかはわからない。ちょっと前なら批判的な態度を示していたかもしれない。

 昼にはどこかで外食しようと思ったが、思い当たる店もなかった。それで、農協の店でおにぎりやパン等を買って、家に帰ってから食べた。その後は入浴し洗濯し、何かしながらクリス・ペプラーのラジオを聴いた。最初から最後まで聴いたのは実に久しぶりだった。今流行りのビートやリズムが体に染みつくような感じだった。

8月10日 土曜日

 午前は二つ仕事をした。一つは水曜日の研修の所感用紙の記入。出席を取らない代わりに、この紙を出す必要がある。もう一つも書類の記入である。昨年度も同様のものを書いたので、それを読み返してから改めて書いた。前回書いた内容がよくない部分が自分なりにわかったので全面的に書き直した。その時は良いと思ったものでも、時間が経つと見方が変わるということがある。この一年で何が変わったのか、自分ではわからないけれど、書類の良し悪しの判断力が少しは変わったのかもしれない。

 夕方からの動きはどうしようか、考えあぐねてはいたけれど、職場には出ないことにした。昨年度までは考えられないことだったが、今年度は働き方改革を進めなければならないという状況も手伝って、土日のうちのどちらかで良いということが決められたのである。自分は日曜担当、というわけで今日はおとなしく家にいることにした。

 夜には久しぶりに近くの中華屋に行ってチャーハンと春巻きと五目焼きそばを食べた。

8月 9日 金曜日

 午前中は、かねてから予定されていた研修だった。年度の始めの会議で自分がキャップに決まったことから、気を遣って準備を進めてきた。たいして大きなものではないにせよ、公的な会合を組織するのは初めてだったので、それなりに緊張感があった。八時過ぎには係の数名が集まり、準備には十五分とかからなかった。九時に始まり十一時に終わる研修会は、皆の協力のおかげで無事終わることができた。講師の先生のお話も具体的でわかりやすく、単なる講義ではなく演習もところどころ盛り込んで、参加者も思ったことを表現し、交流し、共有することができた。とてもためになる研修会になったのではないか。後片付けを済ませてから職場に向かった。特にすることはなかったが、必要の無くなった資料を置いて、机上のものを整理したかった。昨日は職員が少なかったが、今日は多くが出ていた。しかし、早く帰る者も多かったので、紛れて自分も十二時過ぎに職場を去った。

8月 8日 木曜日

 午前中の活動がなくなったので、もともと休むつもりだった午後と合わせて一日休日となった。ところが、忘れてきた物を取りに、昼前から車で出かけることにした。片道一時間弱の田園地帯を進み、約束の時間に合わせて途中休憩を挟みなさら進んだ。パン屋で昼食を買い、車内で食べたり、「昭和の一里塚」というところで休みながら食べたりした。天気が良かったし、来たことのない地域だったので、半ばドライブ気分であった。用事を済ませてからは、少し遠回りをして、当地で治水事業を行った後藤寿庵のモニュメントや噴水等を見学した。

 その後は一気に職場を目指した。十五時前、金曜日以来の出勤。久しぶりですねと声をかけられたので、十分休ませていただきましたと答えた。案の定机上には様々なメモや回覧板が乗せられていた。それらやメール等を処理したり電話をかけたりした。以外と時間がかかって、職場を出たのは十六時頃になった。明日の研修場所を訪れて、部屋を下見させてもらおうとしたが、使用中だったためできなかった。しかも、係の集合時間にしていた八時にはまだ開館されないという。早い職員は八時頃には来ているとのことだったのでそれほどの問題はないだろう。しかし、計画を作る段階で確認が不十分だったことは残念だった。

8月 7日 水曜日

 研修の一日。相変わらず朝から暑く、会場まではバスを使うことにした。少し早く着くと、特等席が空いていたのですかさず座った。待ち時間は長かったが、その後に始まったイベントはあっという間に流れた。甲高い声と言葉の一言一言に無駄がなく、ストップウォッチを片手に間髪を入れず次々と指示が飛ぶのであった。超高速というのが大きなポイントだったが、それをまざまざと見せつけられた四十五分間だった。プロフェッショナルというのはこういう人のことをいうのだと思った。

 午後には講演会であった。午前の内容を振り返りつつ、新しい情報を盛り込んでのトークは眠気など全く催させる要素はなかった。ぐいぐいと引き込まれる話はすべて驚異的な結果を出した実践からくるもので、圧倒されっぱなしだった。これをやれば結果が出せるという事実を見せられたのだから、あとはこちらがやるかやらないかである。やらないとしたらその理由はなんなのか。何が障壁なのか、どうすればそれを取り除けるのか。そのことを考えなければならない。

 それにしても朝から何度も仕事の電話が入ったり、こちらから電話をしなければならなかったりと、研修に集中できなかった。携帯電話がなかったらと少し思ったが、こればかりは淡々と対応するしかない。学べるとすれば、その都度その都度、積み残しがないか、点検を怠らぬこと。そのような環境を、皆で作っていくことである。

8月 6日 火曜日

 広島原爆の日。サイレンとともに黙祷を捧げる。朝からうだるような暑さのために、暑さのせいで、せっかくの休みなのに、何も手につかない。高齢で勉強を始めた人たちの経験談をいくつか読むと、少しはやる気が芽生えた。とはいえこの暑さには閉口してしまう。アパートにはエアコンが一台設置されているが、効きが悪く、あまり涼しくない。もう少しで三十七度に届きそうなくらいの気温だったからそれも仕方ないか。だるく、力も入らず、車で少し出るけれども、すぐに帰宅。夜も早めに就寝。

 高校野球が始まった。百一回目だそうである。このところ様々なことが起こり、様々なことに怒り、様々なことに対する考えが変化してきた。もう高校野球は要らないような気がしてきた。社会人になって三十年間悩まされてきたことの一つの元凶が、この甲子園大会なのではないかという考えがはっきりしてきた。高野連とか中体連とかが推し進めてきた、全国につながるトーナメントなんて、百害あって一利なしである。挙げ句の果てに、小学生でさえ、多くの競技で全国大会があって、大人も挙って騒ぎ立てるのである。勝つことだけが大事。負ければそれまで。軍事と何ら変わらぬ構造から戦後七十四年経っても抜け出せない。

 野球のことを考えていたら、高校時代のことをふと思い出した。面白くない記憶が蘇った。体育館でしばしば行われる全校の集会でのこと。壇上の生徒が話すと上級生たちの多くが、決まって口を揃えて「シーー」と言うのだった。それは「しらける」「つまらない」という意味合いで、生徒会等のリーダーの話をまともに聞いていないことの表れだった。高校一年生の間は、母校や生徒たちへの違和感が抜けなかった原因の一端は、これにもあったかもしれない。自分たちが上級生になってからはどうだったか。少なくとも自分の周囲は先輩たちの雰囲気をあまりよくは思っていなかった。部活動でも、二年生は全く活動に現われなかったので信用できず、そのため、一年生の自分が部長になってしまったくらいだったから。はっきりと記憶があるわけではないが、「シーー」なんていう言葉は次第に聞かれなくなったように思う。

8月 5日 月曜日

 朝に墓参に出かけ、その足で盛岡に連れて行く。昼前にまた叔母と合流して、ホテルの和食屋で昼食を食べる。運良く個室を借りれたので、中でゆっくりと話をしながら食事をすることができた。今回は期間がそれほど長くなかったが、母親の負担も軽く、弟一家も満足度が高く、お互いに充実した滞在になったのではないかと思っている。年に一度くらい、こういう数日を過ごすことは大切だ。駅で少し買い物をしてかれらを見送った。その後は母親を乗せてまた実家に戻った。墓地関係の書類の住所変更をしなければならないというので、書類を書いて役場に行った。すると、住所が当地にない者が墓所の使用人になる場合は代理人を指定することが必要だという。そのためまた別の書類が必要だというので、一旦家に戻り、母親に書類を書いてもらい、また役場に持参した。新しい書類は手続きをしてから後日郵送するということだった。車があればすぐに済むようなことでも、たまの休日にしかできない。五月に言われていたことをようやく本日済ませることができた。

8月 4日 日曜日

 高速道路で秋田の増田まで。まんが美術館を見学した。子供向けのワークショップに姪が参加した。一時間強集中してうちわにひたすら絵を描いていた。内蔵のある通りに行き、二つの蔵を見学した。三月に来た時と同じものだったが、変わらず見応えを感じた。今度は他の蔵も見てみたいと思った。前回は非常に寒く、今回は非常に暑かった。季節のいい時にまた来たい。通りで昼食を食べ、くらをという麹屋で冷たいものを食べ、それからまたまんが美術館に戻った。時間を決めて、それぞれ収蔵されたまんがを読んだり、展示を見学したりした。原画を展示する美術館として見応えがあった。何より漫画というメディアの価値について考えを深めることができたのがよかった。特にも、矢口高雄の原画の田舎の風景は美しく、まさに芸術と呼べるものだと思った。

8月 3日 土曜日

 弟家族が帰省するのに合わせて月曜まで予定を入れた。その後にこの土日に飛び込んできた仕事の話があったが、これは全面的にお願いすることにした。車を出すことが最大の目的ではあったが、せっかくなので自分も楽しく過ごしたいと思い、その通り楽しく過ごすことができた。昼に実家に寄って母親を乗せて盛岡駅へ。叔母と合流し、弟家族の到着を迎えた。よ市の材木町界隈を歩き、光源社に立ち寄り、従姉妹とも会った。そして、駅前の冷麺の店で夕食。食事中、目眩なのか何なのか調子が悪くなり、倒れるかと思ったが、水を飲んでしばらく休んでいたら復調した。暑さのためなのか水分が足りなかったためかよくわからないけれど、こういうことが少しずつ増えていくのだろう。

8月 2日 金曜日

 午前中はいつも通りの出勤。しかし、午後には休みを取った。この土日は急な仕事の誘いが入ったが、すべて人にお願いすることにした。朝にはその担当の方から電話があり、打ち合わせをした。朝から気温がぐんぐん上がり、十一時頃には温度計が三十五度を超えた。この時点で体を動かす活動は終了した。十二時までは机で仕事をして、ほぼ時報と共に退勤した。

 いつもの帰り道とは異なり、海のある方へと進路をとった。三十分そこそこで気仙沼の海岸に着いた。南へと進み、ハマーレ歌津というところで海老天丼を食べた。ウニ丼を食べたい気もしたが、一人で勝手に食べるというのは悪い気がした。この日も暑くなって、車の温度計では途中三十八度を示すところもあるほどだった。

 夜には花火があったので、夕飯を食べてから外に出た。近くの橋の上にくると川風が心地よかった。確か昨年もこの日この橋のたもとまできて一人で花火を見たのだが、川の水のところまでは来なかった。今年も忙しいことは忙しいが、昨年とはまた気分が違う、どちらがいいかはわからないけれども。夜の川の水を見下ろしていると恐ろしい考えが浮かんだので引き返した。ちょっとの勇気でこれまでのすべてが報われるかもしれない。人生をかけてやってみるだけの価値がないとは誰も言えない。

8月 1日 木曜日

 休日だった。午前中は家の掃除をした。全体に掃除機をかけて、床をモップで拭いたりもした。毛布を洗い、布団を干した。動くと汗だくになった。午後には気温が三十五度を超えて猛暑日となり、外を歩くのもままならぬほどになった。産直の店まで車を走らせて、少しばかり買い物をしてきた。だが、暑すぎて遠出をする気にはならなかった。

 駐車場に行くまでには二枚の田んぼの横を通る。一枚目の田にはカエルの姿はあるが、タニシは見えない。二枚目の田んぼにはタニシがたくさんいて、カエルも大きな個体が多い。この違いは何の違いだろう。作る人の考え方の違いだろうか。