中米の旅(2004、8、2〜8、9)    中米の写真

■トロント〜カンクン(2004,8,2 lundi)
 2時50分起床。バスでヤング通りを南下。エグリントンで降りて、空港行きの深夜バスを待つこと1時間。30分に1本あるはずのバスがいっこうに来ない。夜風が冷たく、半ズボンで来たことを少し後悔した。いいかげん身体が冷えてきたので、結局タクシーをつかまえる。ピアソン空港、第3ターミナルまで45ドル。5時30分の開店を待ってカナダドルを両替。401.97ドルで280USドルになった。C38ゲート。さすがに朝早いので、眠い。しかも、寒い。デイパック一つの気楽な一人旅。ベンチで眠ることができないのはしかたない。
 カナダから初の任国外旅行。赴任してしばらくは許可にならないので、満を持しての旅となる。よくありがちなアメリカ合衆国というのはどうしても避けたかった。自分にしかできない旅でなければいけなかった。この頃は、赴任中はアメリカには行くまいとも考えていた。今となってはどうということのない考えだが、振り返ってみるとそこに行ったのは必然だった。不思議なものだが、旅に出る前はたまたま選んだ土地なのだが、帰ってくるとその旅なしでは語れない人生となる。常に旅のある人生でありたいと願う。
 トロントからメキシコ合衆国・カンクンまでは所要3時間25分。機内ではサンドイッチの朝食が出た。東部標準時より1時間遅れ。カンクンというと世界3大リゾート地の一つとして有名だが、そんなことにはまったく興味がなく、トロントから中米への玄関口として最適だと思ったのだ。近いし、安いし、アクセスもよい。地図を広げて思案しているうちに、マヤ文明の遺跡を巡るたびというのを思いついた。かつてスペインが侵略したという歴史。そのため中南米の多くの国では、スペイン語が公用語となっている。そういう先住民のことに思いを馳せたい。それに、10年で30カ国というかねてからの目標があり、できるだけ多くの国を訪れたかった。日程や体力的な限界を考えると1週間程度。それで結果的にカンクンに入り、カンクンから出るという旅程になった。
 第1ターミナルに到着。飛行機を降りてから入国審査までの通路。入国カードにサインするのを忘れていたので記入していると、ペンを貸してくれという声。返してくれるのを待っているうちに、列の一番最後になってしまった。長い列に並び、やっとのことで入国。さっそくグアテマラ行きのチケットのリコンファームをするため、第2ターミナルまで10分くらいのところを歩いて移動。外は曇っていたがさすがに暑い。80USドルをペソに両替。
 乗合タクシーを見つける。90ペソ(USドルだと9ドル)でホテルまで送ってくれるというので即決。マイクロバスに乗り込んだ12、3人の客は、リゾートの中心であるソナ・オテル(ホテル・ゾーン)で次々と降りてしまい、僕が最後になった。道の両側には豪華ホテルが並んでいて、時々のぞく海がエメラルド色をしている。南国の並木がきれいに続いている。途中、巨大なメキシコ国旗が立っていて、玄関口としての国の威信が感じられた。ドライバーのおじさんは、スペイン語はしゃべれるかと聞いてきた。もちろん全然できない。簡単な英語で少し会話をしながらホテルに向かった。
 ホテル・バタブはセントロ(ダウンタウン)にあった。リゾート地の雰囲気とはまったく異なり、ごみごみとして地元の人々のにおいが漂っている。値段が安いからというのもあったけれど、こっちにしてよかった。
 チェックインを済ませ、部屋で1時間ほど横になった。その後、ホテル周辺を散歩。予想以上の暑さ。バンコクを歩いたときと同じようなふらふらした感じ。バスターミナルが近くにあるというのでそこに行ってみることに。路上の人に英語で道を尋ねたら、手を横に振って聞いてくれようともしない。英語はまったく通じないらしい。ちょっと行くと、商店街らしき街並みになってきた。商店街といってもビニールシートを張った、屋台の少し大きなものという感じ。靴やらかばんやらTシャツやらの店が並んでいるところを進む。もともとメキシコへの予備知識をあまりもってはいなかったのだが、どちらかというとリゾートという感覚が強かったのだろう。ところが、実際に見た街は思っていたイメージとの違いが強烈だった。むしろカンボジアやベトナムなどアジアの感じと似ていると思った。なんというか、カメラを向けることができるような雰囲気ではなかった。
 フードコートで昼飯が食えるかと思い、ショッピングセンターに入ってみた。ところが、食事できるような場所を見つけることはできなかった。バス・ターミナルにもたどり着けずに、道を引き返す。ホテルの隣の小さな店で、ポテトチップスと炭酸飲料を買って10数ペソ。屋台で小さなホットドッグが8ペソ。それが昼食。ホットドッグはハムとチーズが入っていてうまかった。暑くて長い間外に出ていられない。部屋に戻り、またしばらく休息。クーラーがついていたのがありがたかった。
 ホテル・ゾーンのほうにも行ってみようと、タクシーを拾う。空車かと思ったら、すでに小さい赤ん坊を連れた女性が乗っている。「ソナ・オテル」と言うと、構わないから乗れという感じでドライバーが手で合図した。タクシーの相乗りもあるのか。車はどこかの住宅街の奥に入って行った。その親子を降ろすと、また住宅街を抜け、幹線道路に出た。巨大な国旗が見えるあたりで適当に降り、70ペソ。
 橋の上から海を眺める。美しい。通りかかった子どもたちに、写真を撮らせてくれと言うが、やっぱり通じないらしく断念。ホテルはすべて海に面しており、ホテルの利用者専用になっているのか、外から浜に出られるところは少なかった。ちょっとだけ海岸の空気を吸って、また道路に戻る。カネをかけたものだけが楽しめるところなのだと思った。道路を歩いてみてわかったが、排気ガスのにおいで気持ちが悪くなるほどだ。バス停ではたくさんの人がバスを待っていた。バスは頻繁に発着するが、混んでいるからなのか、行き先が違うからなのか、乗る人があまりいないのが不思議だった。観光客ではなく、ホテルで働いている地元の人がたくさん利用しているようだった。
 店で買った飲料水が6ペソ。一気に飲み干してしまった。これ以上ここにいてもしかたないので、ホテルに戻ることに。来たバスに適当に乗り込む。初めに6ペソを払うと、運転手からチケットのようなものを渡された。ところが、よく見るとどこかの店の割引券みたいだった。ホテルゾーンを抜け、ダウンタウンに入る。どんどん人が降りていく。ホテルの近くを通ったら降りようと思っていたが、どこがどこなのかわからない。結局終点まで行ってしまった。どこかの住宅街の中にある小さなターミナル。運転手にホテルの名前を言うと、「あのバスに乗りな」と教えてくれた。だが、そう急ぐこともない。タコスの屋台があって、その運転手がうまそうに食べているのを見たら自分も食べたくなって、思わず注文した。店のおじさんが「二個か?」という感じVサインを出した。一個じゃ足りないから、二個頼んだほうがいいよという意味と理解し、Vサインを返した。10ペソ。当然箸もフォークもなく、手でつまんで食べたが、これがなかなかうまかった。親指を出して、うまいよという気持ちを伝える。これが晩飯になった。そばにいた奥さんはクールな感じで、話しかけようと思ったがダメだった。記念に写真を撮らせてもらった。
 気がつくと、周りにはバスが一台もなくなっていた。待ってりゃ来るかと思ったが、来ない。しかたなく、タクシーを拾ってホテルに戻る。「20ペソ」というので20ペソ渡したら、ドライバーがたいそう喜んでいたのでかえって不審だった。洗濯をし、風呂に入り、就寝。
 この旅で一番困ったのが痔の痛みだった。来る前から少し調子は悪かったのだけれど、この時点ではまだ、たいしたことはなかった。それが、日を追うごとに痛みが増し、苦痛と闘いながらの修行の旅という色が濃くなっていった。帰ってからもかなり長い間治療に時間をかけなければならず、たいへんだった。

■カンクン〜アンティグア(2004,8,3 mardi)
 昨夜は9時30分に消灯したのだが、なかなか眠りに就けず、一晩中寝苦しい感じがした。部屋は涼しくて気持ちよく、疲れていて、寝不足でもあったのだが、それでも寝付けなかったのはなぜだろう。
 朝5時過ぎに起床。6時05分にホテルを出て、バス・ターミナルを目指して歩く。フロントで行きかたを教わったので、今度は大丈夫だ。歩いていると見覚えのある通りに出た。きのう通った道だ。きのう引き返したところから1分も歩くと、そこにバス・ターミナルの大きな建物があった。こんなに近くまで来ていたのだ。切符売り場で空港行きのバスの料金を聞いたら15ペソ。時間を聞くと、「今!」というので、慌ててバスに乗り込んだ。近くの屋台で朝食をとも思ったのだが。即乗車、即発車して、30分ほどで空港に着いた。早々とチェックインを済ませ、しかたなく空港のレストランで朝食。チーズ入りのオムレツを食べて70ペソ。市内と比べると異常な値段。リゾート目的にこの地を訪れる日本人は多いだろうが、セントロのほうに足を伸ばす人がどのくらいいるだろうか。僕にとっては、退屈なホテル・ゾーンよりも生活のにおいのするセントロのほうが何倍もおもしろい。植生がいっしょなのか、ベトナムに行ったときのことを思い出す。かなり似た印象を抱いた。売店で20ペソの高い水を買い、待合室で長いこと待っていた。
 カンクン発が9時25分。メキシコシティ経由でグアテマラシティまで行く。最初の飛行機で出た機内食はさっきも食べたオムレツ。空から見たメキシコシティーは住宅が密集していて、公園らしき緑がほとんど見えなかった。おもしろい建物がたくさんあるというので、いつかゆっくり回ってみたい。空港に着いて、ちょっと外に出てみようと思ったが時間が足りなかったのでかなわず。空港の建物の中をぐるぐる回る。ごちゃごちゃとして、ちょうど食事時で、フードコートも人でごった返していた。早めに中に入り、コーラを飲みながらベンチで待つ。
 メキシコシティー発13時50分。この機内でも食事が出た。今度はグラタン。食いすぎと思いながら、もちろんすべて平らげる。それよりも、尻をついて座る機会が多く、苦痛がじょじょに増してきたのが気になっていた。上空から見たグアテマラの町は予想以上に近代的で大きかった。大きいはずで、人口は200万人の大都市である。50USドルをケツァール(複数形はケツァーレス:Q)に両替。空港の観光案内のおばさんにあれこれ相談。アンティグアへの交通手段。ホテルの予約。コパンやキリグアの遺跡へのツアー、空港周辺の見所など必要な情報を得る。別のカウンターで、アンティグア行きのバスとホテルの予約をする。バスは80ケツァーレス、ホテルは20USドル。バスの発車まで1時間ほどあるので空港周辺を散歩。近くに博物館があるということだったが、そこまでは行けそうにない。おびただしいトラック、バス。排気ガスのにおい。アメリカのスクールバスのお下がりか、黄色と黒そのままの色のバスも走っているが、さまざまカラフルに色付けしたバスもたくさん走っている。ごみごみとしているが、活気がある。お菓子のようなものを売っている屋台がいくつかあるが、何も買う気にはならない。動物園の入り口がある。虹色の民族衣装をつけた家族連れが普通に歩いていた。売店で大きいプレッツェルと甘いだけのオレンジジュースを買って、バスを待つ。
 バスといってもワゴン車で、いっしょに乗ったのはイギリス人とスイス人の若者と僕の3人だった。イギリス人は僕と同じ年くらいだったと思うが、こちらで買い付けた雑貨や布製品をイギリスで売る会社を作るのだと言っていた。そういう輸入雑貨の店はイギリスにはなくて、そこに目をつけたということだった。グアテマラの奥地やメキシコのコスメルなど、行ったり来たりしているようで、国境越えとか、治安とか、貴重な情報をもらった。ベリーズまでの所要時間、ベリーズシティは危ないから迂回しろ、他の町は大丈夫、など知らなかったことを教えてもらった。スイス人は20歳くらいの青年で、世界旅行をしている途中らしかった。彼はベリーズへの入国を試みたがビザがないのでできなかったと言った。「その場で取れるのでは」と聞いたら、「それは日本人だからだろ。スイス人はそうはいかないんだ」と言われた。そうか、パスポートによってビザの発給のされ方が違うのだ。日本のパスポートほどどこにも行けるパスポートはないし、日本人というだけでビザも簡単に取れるという国が多いのだ。確かに日本人のパスポートは高く売れるというし。これは日本の外交努力の成果なんだろうな。
 いろいろと話ができてよかったのだけれど、やはり英語力の問題で、彼ら二人がしゃべっている間にちょっとだけ割り込むという感じで、それ以上にはなれない。二人は夜にどこかのバーで落ち合おうという約束をしていたが、僕も混ぜてくれとは言えなかった。
 グアテマラ・シティからは約1時間。標高1520mのところにある古都は、町全体がユネスコの世界遺産になっている。アンティグア・グアテマラというのが正式名称。スペイン植民地の首都でもあったところで、16世紀には中米最大の都市だったそうだ。道には石が敷かれており、カトリックの教会の建物やコロニアル様式とよばれる植民地時代の建物がたくさんあって、雰囲気のある町だ。町のいたるところに語学学校があり、スペイン語研修の拠点となっているそうだ。着いた頃はもう夜だったが、町を歩いてみると、たくさんの人がいて活気が感じられた。さすがに、街灯もそれほど明るいわけではなかったが、目抜き通りのレストランやカフェにはきれいな照明が灯り、幻想的だった。マクドナルド、バーガーキングなど、ファーストフード店もさまざまあったが、街の雰囲気を壊さないためにどの店も落ち着いた外観になっていた。鮮やかな衣装を着た少数民族の人々が、歩道にお土産を広げて観光客に声をかけていた。レストランがたくさんあってどこにしようか迷った。ここでいいかとあまり混んでいなそうな店にふらっと入る。メニューはもちろんスペイン語。ガイドブックの巻末にあるスペイン語の用語集を読み上げて、「お勧め料理は何ですか」と聞いて、店のおばさんが指差してくれたものを注文した。そして、出てきたのは皿いっぱいの野菜炒め。白いご飯。それになぜか食パン。量が多すぎ。なんだこりゃ。このときになって初めて中国料理の店と気がついた。店内をよく見回すと、神棚のようなものがあり、山水画の掛け軸のようなものが掛かっていた。おそるべし華僑勢力。
 やっとのことで完食した。80ケツァーレス。腹いっぱい食ったのに、こんなに安くていいの??ところが、USドルでいえば8ドルというところ。それほど安いわけではない。両替した時点でもう貨幣価値がわからなくなっており、グアテマラにいる間すべての物の価格が異常に安いような錯覚に陥っていたのだ。インターネットの店がいくつもあって安く使えたので、ふらっと寄ってメールを出した。
 ホテルに戻って洗濯。テレビでは大リーグ、ヤンキースの中継がスペイン語の実況で放送されていた。こちらでも野球は人気があるのかなと思った。

■アンティグア(2004,8,4 mercredi)
 きょうも長い一日だった。夜は熟睡できたかどうか。職場の先生方の招待で、日本食レストランで刺身を食べた夢を見た。5時頃には目を覚まし、布団の中で1時間くらい過ごした。
 7時過ぎから、町を歩き回る。とにかく、歩く。通勤通学の風景。声。におい。敷石を踏む足の裏の感触。町の回りを囲む火山。
 旅行会社を回りながら、コパン・キリグアの遺跡に行くツアーを尋ねる。1泊2日で2か所回るのが理想だったが、なかなか思うようなものは見つからない。一か所だけあったが、一人だというと追加料金がかかって倍くらいになるというのでやめた。結局コパンへの日帰りをすることに決めて契約した。
 とりあえず一泊だけ予約していたホテルを二晩延泊しようと交渉。この夜は取れたが、明日の夜はもう満室だという。それで、向かいのホテルを訪ねて、主人に「明日の晩は空いているか」と聞いたら、「8時頃来てくれ」という。これで明日の夜の宿まで確保できたと安心した。ところが、翌日の夜になって、それが誤解だったことに気づくのであった。
 中央公園の前のお菓子屋で、朝食にとクッキーのようなものを2個買い(Q20)、公園のベンチに座って食べる。頭に大きな風呂敷包みを載せた民族衣装のおばさんが話しかけてきて、どうやら布を買ってくれということらしい。風呂敷を広げると、グアテマラ・レインボーの織物をたくさん出してきた。一つ一つ説明するがよくわからない。一つ気に入ったものがあって値段を聞くと、45ドルという。高いからといって敬遠していると、どんどん値を下げていく。15ドルでどうかというので、あまり気が進まなかったが一つ購入して、写真を撮らせてもらった。
 後日、織物の博物館を見学してわかったのだが、ここで買ったのはあまり質のいいものではなかった。本物は織り方がもっと精巧で、色合いももっとえもいわれぬ複雑さがあった。考え方一つでどうにでもなるのだけれど、本当にいいものを買いたかったら、ああいうところからは買わないことだ。
 グレープフルーツみたいな果物の屋台があった。その場で半分に切って、絞って、ジュースにして売っている。これはなにかと尋ねたら、「ナランカ!」と答えが返ってきた。一杯Q5。これが、温いんだけどなかなか美味い。この旅でいちばんうまかったものといったら、このナランカジュースかもしれない。ところで、ナランカってなんだろうと思って調べたら、“naranja”スペイン語でオレンジのことだった。「カ」のように聞こえたのは、痰を出すときのようにして出す口蓋音だったのだ。僕はてっきり少数民族の話す言葉だと思い込んでいたので、スペイン語と聞いてちょっと拍子抜けした。
 教会の境内?で公衆トイレを見つけた。有料でQ2。受付?のようなところに男女がいたので写真を撮らせてもらった。その教会の真ん前にあった旅行会社に立ち寄って話を聞く。そこの女性は僕より少し若いくらいで、周辺の村の見所を、写真を見せながらいろいろ説明してくれた。世界一美しいと言われるアティトラン湖。先住民の町チチカステナンゴの市場。どれも魅力的。しかし、時間が足りなかった。英語が上手ですねと言ったら、全然できないと言っていた。観光地のこういうところに勤めるには、英語ができることが絶対条件なのだろう。英語ができるかどうかで、職業も収入も変わってくる。そう考えると、英語を学ぶことは自分たちの暮らしに直結してくるのだ。それだけ必死に学ぶだろうし、もし話せないとなったら、別の道を探るしかない。きっとそういう競争があるのだろう。見せてくれた写真の中に、スクールバスを塗り直したバスの写真があった。「いろんな色のバスがあって楽しいですね」と言ったら、「全然。あんなのチキンバスよ!」という感じのことを言った。スペイン語でバスは“autobus”(アウトブス)。チキンバスが訛って「チキンブス」に聞こえたのがかわいかった。
 グアテマラといえばコーヒー。午後から2時間ほどのコーヒーツアーがあるというので、それに行くことにして料金を払った。2時にここから出発するというのを聞いてその場を後にした。
 コーヒーを飲ませる店の裏手に回ってみるとレストランになっていた。Cafe Condesa。ちょっと早い昼食。そこで出されたコーヒーが、この旅の中でいちばんうまいコーヒーだった。それから、なんというのか、ジャガイモの料理もうまかった。
 2時。再びさっきの旅行会社に来て、そこからマイクロバスに乗った。10分くらい行った所に山があり、そこに見学用の立派な施設が作られていた。ツアー参加者は僕のほかに3グループくらいいたが、皆アメリカから来た人たちのようだった。はじめは実際にコーヒーが植わっているところを見て、その後工場の見学をした。バスの運転をした人が、説明から試飲用のコーヒーを入れるところまですべて一人でやっていた。もちろん、英語ができなければこのような商売はできない。説明によると、ここのコーヒーはスターバックスで使われ日本にも輸出されているということだった。どこからか工事の音が聞こえてきて、聞くと今この施設の隣にホテルを建造中とのことだった。数年後にはコーヒー関連の観光客が何倍にもなるのではないかと思った。ツアーの最後は試飲。しかし、飲んでみて、さっきの店のほうがずっとうまいと感じた。
 帰りのバスは、好きな場所で降ろしてくれるというので、それぞれ行き先を告げた。どこでもよかったのだが、市場というのがいちばん言いやすかったので市場にした。車内で、アメリカのパリパリした感じの奥さまからいろいろ話しかけられたが、何一つうまく答えられなかった。英語が不得意だとわかると、温かく聞いてくれようとする人と、冷たく突き放した感じになる人とがいる。この奥さまは後者だなと感じた。ここでもバスを降りるのは最後になった。ガイドの人から、「どうだった」と聞かれ、「楽しかった」と答えた。実際、説明もなんとなくわかったし、コーヒーのことを学ぶ機会なんてなかなかないから、よかったと思う。
 市場を見る。建物の中に入ってみると、かなりディープな世界が広がっていた。なんというか、観光客は来ないだろうなという雰囲気。こういうところを歩くと、ぞくぞくしてくる。もう少し気軽に話ができるといいんだけどなあ。アイスクリーム屋があったので、一個買ってみる。なんと1ケツァール。地元民だけのところは安いんだ。
 夕食は“PERSONAJES”というレストランで。店の奥はパティオのようになっていた。外のほうが気持ちがいいと思って、屋根のないところに座ったのだが、他の客は一人も出ていない。その理由はしばらくしてわかった。外だと蚊が出るのだ。虫除けスプレーをつけていたのでたいしたことはなかったが、なるほど人の居ないところというのは理由があるのだ。グアテマラ料理とは無縁のメニューで、洋風のチキンカツ定食みたいなのを食べてQ80。
 水とスポーツ飲料のようなものを買ってホテルに帰った。

■コパン(2004,8,5 jeudi)
 午前3時起床。4時にホテル前にマイクロバスが迎えに来た。それから延々6時間の旅。僕のほかにはアメリカの4,5人の若者男性グループとヨーロッパから来たらしきカップルが乗った。道路はすべて舗装されており、乗り心地は悪くない。しかし、座席は狭く、おまけに尻は痛く、何より時間が長い。苦痛の中の旅であった。アメリカの人たちは皆長髪で、朝から騒いでいたがしばらくしたら眠ったのか静かになった。隣になった人はちょっと怖そうだったが、「足伸ばしていいよ」とか「窓開ける?」とか、けっこう親切だった。
 途中のドライブインで30分ほど休憩。そこの、外にむき出しのカウンターで、ハンバーガーの朝食(Q10)をとった。炭焼きで肉厚の手ごねハンバーグで、なかなかうまかった。休んでいると、地元のおじさんが一人やってきて、へらへら笑いながら英語らしき言葉で話しかけてきた。文法的にめちゃくちゃだというのがわかった。僕より英語の下手な人も珍しい。しばらく聞いているとこの人は、お金をくれと言っているのだとわかったので、なんとなくさよならをして、場所を変えた。そしたら、どこかに行ってしまった。
 10時過ぎ。ホンジュラス国境を越える。料金は3USドル。コパン遺跡は国境を越えてから車で30分ほどのところにあり、遺跡だけ見て帰るという人は、ビザも不要でチケットだけが渡されるみたいだった。一旦バスを降りて、一人一人手続きした。全員が終わるのを待って、またバスに乗り込んだ。待っているときに、小さい子どもたちが2、3人。果物や土産物を売りに来たが、かなり控えめで、すぐに去ってしまった。「ナランカ」を荷台いっぱいに積んだトラックがいくつも停まっていた。箱にも袋にも入っておらず、むき出しの柑橘類がゴロゴロと積まれているのがおかしかった。
 天気はこれ以上ないくらいの晴れ。バスが到着したのは、遺跡の手前のコパンルイナスという町。ここから歩いて15分で遺跡に行けるという。他の人たちはここで宿泊するらしい。バスを降りるとすぐに誰も見えなくなった。帰りのバスは1時半に発車する。ホンジュラスには正味3時間の滞在である。
 遺跡に向けて歩き出す。町並みは美しく、きれいな花があちこちに咲いている。中南米の町の中心には必ずカテドラルという教会の建物があるそうだ。ここにもカテドラルがあり、太陽の光を受けて輝いていた。遺跡まで、石畳の歩道が続いている。途中で小さな女の子二人とすれ違った。写真を撮っていいかと聞くと、ぴったりと止まってポーズをとってくれた。光が強すぎてうまく撮れなかったけれど。
 入場料は10ドル。前に並んでいた人は、エルサルバドルから車で来たという。しきりに「俺の写真を撮ってくれ」と言ってきたので一枚撮らせてもらった。遺跡のあちこちに、JICAの看板が立っている。修復のために日本が大きな協力をしているらしい。お土産を売る少年が観光客に叫ぶようにしてしきりに声をかけていた。遺跡の入り口に、虹色をしたオウムのような鳥がたくさんいて、皆その写真を撮っていた。
 遺跡にはやはり圧倒された。長い道のりだったが、このときばかりは尻の痛みも忘れ、来てよかったと思った。ピラミッドなどを見ていると不思議な気持ちになるものだ。遺跡とは廃墟であり、今の人間は住んでいない場所だ。どちらかというと、ちゃんと今の人間が住む町の方が好きだし、遺跡にそれほど強い魅力を感じるわけではない。だが、やはりそこを実際に見て、歩いてみて、人間の営みのことを考えるというのは、得がたい体験である。
 遺跡を一周してから、30分で回れる自然道というのを見つけたので歩いてみる。いろいろな動物や鳥や虫がいると看板に描かれたのでおもしろそうだった。ジャングルというほど鬱蒼としているわけではなく、歩きやすいけれど何の動物も出てこない。そろそろ道が終わるかという頃、前から少年たちがやってきた。「何かいますか」と聞いてきたので、「何もいない」と答えた。
 町まで戻り、レストランで昼食。トルティージャというのを頼む。トルティージャには、フリホーレスという、見た目はあんこで味はしょっぱい豆の塩煮や、ケソというチーズ、クレマというサワークリームをつけて食べる。それから、バナナのソテーにオムレツ。卵の味は濃厚な感じ。なかなかうまい。こういう食事を旅の途中何度かした。バスの発車まで少し時間があったので、広場周辺で写真を撮る。尿意を催したので、ホテルのトイレを借りようとしたら断られた。「そこの店で借りなさい」と向かいの店のほうを指差された。それで、その店に行ったら、「うちにトイレはない」と言う。別のホテルに行ったら今度は人がいない。いつまでたっても誰も出てこない。不法侵入と思われては嫌だからすぐに去った。バスの発着所に聞いたら、「そこがトイレだよ」と快く教えてくれた。すごく狭い。立っている場所がないほど。それにしても、トイレ事情の悪い国はたくさんある。トイレがないわけはないと思うのだが、使わせたくはないのだろうなあ。この水まわりをきれいに整備するというのは、ずっと余裕が出てからのことなんだろうなあ。
 帰りのバスは、おそらくアメリカから来た高校生だろうと思われる子どもたちでいっぱいになった。僕は助手席に座らせてもらい、おかげでクッションも効いて快適に過ごすことができたが、後ろは始終うるさくてしかたなかった。国は変わってもこの年代はおしゃべりしたい年代なのだろうな。また6時間、バスの中。再びグアテマラに入る。入国は朝にもらったチケットを返すだけでよく、運転手が出してきてくれるというので、僕だけバスの中で待っていた。バスから見る人間模様。パインアップルの皮をナイフで剥いて、今にも丸ごと食おうとしていたお兄さんが、手を滑らせてパインを落っことしてしまった。彼は拾って泥のついていないところを食おうと試みたが断念した。銃を持って立っている警官がいたが、顔見知りが多く往来するようで、皆とのどかに話をしていた。この運転手はどっちの国の住人だろうと思った。帰ってきた運転手に聞くと、グアテマラの人だという。毎日国境を往復しているそうだ。
 朝と同じ場所で休憩。朝には開いていなかった建物が開いていた。入ってみたら外より暑いので、外の日陰で休んでいた。他の人たちは皆その建物の中で休んでいたが、あの風のない暑いところでよく我慢できるものだと思った。
 運転手はばんばん飛ばす。周りの車もばんばん飛ばすので、危険な感じがする。乗っていると慣れるけれど、日本やカナダではこうはいかないよなという手荒さである。ベトナムでのマイクロバスのスリリングな運転を思い出した。国道沿いに、十字架が立っているのをいくつも見つけた。おそらく以前そこで交通事故があり、亡くなった人を弔うためのものではないかと思った。こんなに速いのなら、予定時間の8時よりも前に到着するのではないかと期待した。しかし、峠の途中で突如渋滞。車が動かなくなってしまった。どうもこの先で工事をしていて、片側交互通行になっているらしい。すると、かごを持った女性たちが前から5、6人駆け寄ってきて、飲み物や果物やお菓子を売ろうとする。    
 高校生たちが何人か、先を確かめようとバスを降りて歩き出した。いちばんはじめに出て戻ってきた少年が、工事の看板はあったけど、工事はしてなかったと報告をした。運転手も携帯電話でどこかと連絡を取っている。結局そこで4、50分足止めを食った。工事現場を通り過ぎたが、たしかに何も行われていなかった。これはどういうことか。まさかとは思うが、地元の人々が現金収入を得るためにやっていることではないかという考えが浮かんだ。
 空はすっかり暗くなった。ちょうどグアテマラシティの混雑した道路を通った。仕事帰りの勤め人たちが、チキンバスにぎゅうぎゅう詰めになって乗っているのが見える。車掌なのか、ドアのところに半分身を乗り出してつかまっている人がいる。バス停に近づくと飛び降りて、「このバスは○○行きだよー!」と威勢良く言いながら案内しているように見える。それにしてもグアテマラシティの交通はめちゃくちゃだ。信号は少ないし、横断歩道でないところで、人がどんどん渡ろうとして道路に飛び込んでくる。助手席に座るのは快適ではあったが、ここに来て冷や汗の乾く間もないほど怖い瞬間ばかりが続いた。都市化のスピードが速くて、道路の整備が著しく遅れている。交差点にも信号がなく、かといって警官が交通整理するわけでもない。これじゃいつどこで人がはねられてもおかしくない。きっと毎日何十人かは事故に遭っているに違いない。まるで一か八かで渡っているような、人が猫か犬みたいな感じの動物といっしょに思えた。アンティグアの旅行会社の人が、「私はグアテマラシティは大嫌いだ」と言っていたのを思い出した。「空気は汚いし、道路は危ないし」これを見て納得した。僕もこんな街は嫌いだ。
 アンティグアに着いたのは8時15分頃。きのう予約したはずのホテルに入ったが、フロントの主人は「部屋はない」という。「きのう、8時頃来てくれと言ったじゃないか」と言ったが、きけば、8時というのはきょうではなく、きのうの8時ということだった。きのうの時点で、部屋が空くかどうかわからないから、8時に来て確認してくれということだったらしい。がーん。よく考えてみればわかること。だが、しかたない。
 というわけで、夜の町をホテルを探して一軒一軒回って歩くことになった。そうして何軒目か、やっと見つかったホテルはずいぶんきれいなところだ。主人はスペイン語しか話せないふうだった。一泊Q400、$50。きのうまでのところの2.5倍の値段。「部屋を見てみるか」という意味で、主人は自分の目を指差した。一応見せてもらって、いい部屋なのを確認したが、それよりも背に腹は変えられない。部屋を確保できただけよしとしよう。お金が足りなくなり、シティバンクの引出機から現金を下ろした。一度に下ろせるのが400ケツァーレス、50ドルまでだったので、4回操作して200ドルを下ろした。
 その後、食事をしに町へ。この夜は簡単にバーガーキングで済ます。なんだか喉が渇いてしかたなかった。ホテルに帰り、冷蔵庫の中のビールが飲みたくなり、誘惑に負けて一本買って飲んだ。Gallo(ガジョ)というグアテマラのビール。はー、うまい。だが、痔のときに酒を飲んではいけないという言葉はほんとうである。その後苦しんだことは言うまでもない。

■アンティグア〜ティカル(2004,8,6 vendredi)
 ゆっくりと起きる。昨夜の洗濯物はまだ生乾き。外に出て、旅行会社で空港行き12時半発のシャトルバスを手配。時間にホテルまで迎えに来てくれるという。だいたいこちらのホテルはチェックアウトの時間が午後1時だったので、なにかと助かった。きょうは涼しい。天気はいいけれど。火山がきれいに見えている。洗濯物を持って、公園で日向ぼっこしながら乾かそうかとよっぽど思ったが、できなかった。公園のベンチに座っていたら、土産物売りが声をかけてくる。靴磨きの少年も声をかけてくる。ナッツ売りの青年も声をかけてくる。うるさいなあ、今ケツが痛いんだからあっち行ってくれよ、という気持ちだった。
 朝食をとり、博物館を巡る。市庁舎。スペインの征服の歴史。アステカ帝国を滅ぼしたスペイン軍は次々とマヤの地に侵攻、征服していった。先住民を殺戮し、略奪を行った。そうやって、民から言語を奪い、文化を奪った。その征服の歴史を、征服軍の何とか将軍というのが、詳細に記録し、それが残っているというのだ。いったい征服ってなんだよ。見ていたら、なんだか涙が出そうになってきた。子どもたちがたくさん見に来ていた。きっと歴史の学習で来ていたのだろう。後でタクシーの運転手から聞いたが、グアテマラにはスペイン語を含め、全部で23の言語があるという。22言語は先住民の言葉だ。ということは、マヤの文化が今でも守られているということだ。それがたとえ細々としたものだとしても、このことはとても大きなことといえるだろう。
 教会の廃墟のようなサン・ヘロニモ教会。入っていくと、ミサが行われていた。この教会は、18世紀に大地震が起きて、建物が崩壊してしまった。このほかにも壊れた教会の建物が町のあちこちにあり、独特の風情をかもしだしている。再建が進められているということだが、そういう工事らしきものは見られなかった。
 織物博物館。昔沖縄の米軍キャンプにいたというアメリカ人夫婦といっしょに、説明を聞いて回った。日本はいいところだと言っていたが、気がつくとどこかへいなくなっていた。この鮮やかな虹色は、現在では皆化学染料を使って出しているのだそうだ。ここで即売されているものは皆素晴らしく手の込んだ本物らしかったが、町中で売っていたものよりも値段がずっと高かった。「一つ買いませんか」と機織りのデモンストレーションをしていた娘さんが言っていたが、ちょっと手が出なかった。
 ホテルに戻り、チェックアウト。シャトルバスを待つ。アンティグアに4日いたことになる。なんともゆったりとしたリズムをもった町だった。今度来たときにはぜひ、周辺の村々にも足を伸ばしたい。そのためにはもっと余裕のある旅程で来たいものだ。またいつか来れるかな。12時半を少し過ぎてバスが着く。グアテマラシティの混雑を抜けて空港に着いたのが2時前。チェックインをして、両替所でケツァールをドルに。きのう下ろした1600ケツァーレスを200ドルにした。
 薬局があったので、薬の相談をする。電子辞書でその単語を見せたら、すぐにわかってくれた。昼飯がまだだったので、コーヒーとパンを買ってベンチで食べる。空港でつぶす時間。立ったり座ったりがつらいのでかなり厳しい状況。空港関係者がこんなに多いのはどういうことか。カンクンでも思ったが。手作りの織物と機械織りの織物、手作りのほうがいいに決まっているような気もするけどほんとうにそうか。などなど、いろんなことが頭に浮かぶが、ちゃんとした言葉にならないうちに消えていく。
 ゲートに入って、9番を探すが見つからない。と思ってきいてみたら、ここは国際線の乗り場で、国内線の9番ゲートはまったく別の場所だった。入り口でチケットを見た人も、荷物を検査した人も、自分も、気がつかなかった。国内線なのに免税店があるのはおかしいと思ったんだ。それにしても、チェックがいいかげんだなあ。何についても、国によって違うというのはおもしろい。きょうは広島の日か。さっきまで気がつかなかった。日本は遠いわい。
 グアテマラシティを17時発。北部の町フローレスまでの飛行機。機内は暑くて汗だくになった。18時着。飛行機を降りて、空港の建物に入ると、「タクシー!」「ホテル!」と声をかけてくる人たち。案内所でティカルまではじゅうぶんきょう中に行けるということを聞き、その方向で決める。いちばん威勢良く声をかけてきた男に話を聞くと、ここからティカルまでのタクシーとホテル、そしてあすのベリーズ国境までのタクシーを合わせて約140ドルでやってくれるという。安いのか高いのかわからなかったが、移動の手間を考えれば安いものと考えて手を打った。
 当初フローレスで一泊し、翌朝ティカル遺跡に移動するつもりだったが、もう日も暮れてしまい、フローレスに滞在する必要もなくなった。ベリーズを抜ける時間をじゅうぶん確保したかった。運転手は、自分をチリと名乗った。チリペッパーのチリ。皆がそう呼ぶんだと言った。英語が達者だったが、どこから習ったのかと聞くと、全部独学だという。「あんたのような観光客と話をして覚えたのさ。でもそのおかげで今はずいぶん忙しく働いているよ」人当たりはいいが、怒らせると怖いだろうなという感じがした。もしかしたら、してやられたかなとも思った。
 ちょうどラジオで、サッカーの試合が放送されていた。グアテマラとエルサルバドル。1対0でグアテマラが勝つと、チリは喜んでいた。グアテマラではサッカーの人気が一番だという。野球はと聞くと、人気はないと言っていた。スペイン語の数の数え方を一つ一つ教えてくれた。そして、グアテマラの言語が23あることもチリから教わったことだ。
 途中でティカル国立公園の中に入る。入園料がQ50かかった。ホテル・ティカルにチェックイン。チリとは明日の朝9時に迎えに来てくれるように約束して別れた。ホテルは一泊二食で50ドルちょっと、食事もうまかったし、部屋には扇風機がついていて涼しかった。
 夜の食堂では、10数名の学生たちと一人の白髪の男性が食事をしている。どこかの大学のゼミという雰囲気だ。研究室の合宿かなと思った。途中まで男性がいろいろと話をしていたが、しばらくすると皆いなくなった。テーブルの上を見ると、食べ物がずいぶん残っている。ずいぶんもったいない食い方をする人たちだと感じた。

■ティカル〜ベリーズシティ〜コロザル(2004,8,7 samedi)
 朝4時前に起床。5時に行動開始。まだ夜明け前。デイパックにしのばせていた小型のライトが役に立った。ティカル遺跡。月明かりの中、ジャングルにはサルの鳴き声が響いていた。遺跡への入り口を間違えながら、やっとのことでルートに入った。すでに門のところには3人の人がいて見張っていた。地図を買ったほうがいいと言われてQ5で買った。歩いているうちにだんだん明るくなってきた。霧の中にぼうっと浮かんでいる神殿。枝から枝へ飛び移るサル。神殿への階段はとても急で、ちょっとためらったけれどいちばん上まで登った。そしたら、もうすでに何人かの若者が腰を下ろしていた。霧のためジャングルの眺めはあまりよくなかったけれど、遺跡の大きさは実感できた。すれ違う人たちと、「ブエノス・ディアス!」「オラ!」と声をかけ合うのが楽しかった。とにかく2時間半、ぐるっと歩いて汗をかいた。
 ホテルに戻って朝食。9時頃にはすっかり霧が晴れて、きれいな青空になっていた。そしてひどく蒸し暑い。ひきりなしに到着する観光バスが、見学する人の多さを物語っていた。だが、これだけ暑いところで2時間半歩くのはたいへんだ。早く動いてよかったと思った。チェックアウトし、飲料水を買って、チリが来るのをしばらく待つ。彼は、別の客を乗せて、30分近く遅れてやってきた。
 昨夜は暗闇の道でよくわからなかったが、昼間通ると沿道に大小の村々があるのがわかった。右手にはきれいな湖が見えている。途中で車を停めるので何かと思ったら、湖の向こうの山がちょうどワニを横から見た形になっているのを教えてくれた。車はひたすらベリーズ国境を目指す。舗装が途中で途切れ、砂埃の道になる。両脇には巨大なソテツみたいな植物が多くなり、だんだんそれが大きくなっていく。国境付近は暑いのだろうか。しばらく人も車もない状態が続いたが、グアテマラ側の国境の町、メルチョル・デ・メンコスが近づいてくると、またにわかに人の動きが見えるようになってきた。
 だいたい11時頃に国境着。ゲートのところで車を降り、チリと握手を交わす。彼は「また会おう!」と言っていたが、なんだか「もう会うこともないだろう」と言っているように聞こえた。きのうきょうと、世話になった。車の中で話ができて、とてもよかったと思っている。チリの中では、毎日訪れる観光客のうちの一人、しかもいいカモ、かもしれないが、僕にとっては大事な旅の1ページを作る重要人物だった。おカネじゃないべさ。
 「カンビオ!カンビオ!」というのは、両替屋の声。余ったケツァールをベリーズドルに替えたら、何ドルかになった。出国のゲートには西洋人のバックパッカーの列ができていた。グアテマラを出国すると、きれいな川にかかる橋があって、そこを歩いて渡る。子どもたちが川で楽しそうに泳いでいるのが見える。ここの人たちにとっては、国境はあまり関係がないのかな。行ったり来たり自由にしているのではないかなと思った。
 この国境は、国の境というだけでなく言語の境でもある。グアテマラはスペイン語圏だが、ベリーズは中南米唯一の英語圏なのだ。この境界はどんななのだろうという興味は大きかった。橋を渡ると立派な建物が建っている。看板はもちろん英語。グアテマラの人間くさくてごみごみした建物とは違って、なんだか無味乾燥。書類を書いて窓口に出すと、偉そうな人の居る別室に通された。外は暑いのに、その部屋だけはがんがん冷房がかかっている。ビザの手数料は最初「50ドル」というので、「25ドルでは」と聞き返すと、ベリーズドルでは50ドル、USドルでは25ドルということだった。1USドル=2ベリーズドルの固定相場制なのだ。無事、ビザを発給してもらうことができた。なるほど、これは日本人に対する待遇なのだ。スイスのパスポートではこうはいかないのだ。しかし、この役人の偉そうな態度と部屋の冷房の効かせ方にはちょっと違和感を覚えた。
 建物を出た先に、バスの発着所があった。サン・イグナシオという町までバスに乗るつもりでいたが、そこでタクシーの運転手に声をかけられた。「どこへでも行くよ!」。サン・イグナシオまで10ドルだという。まいいかと乗り込むと、「ほんとにどこにでも行くよ」という。サン・イグナシオからバスに乗ってベリーズシティーで乗り換え、メキシコの手前まで行くと言ったら、「いいよ」という感じで返事した。「バスで5時間かかるところもタクシーだともっとはやいよ」ということだったが、とりあえずサン・イグナシオまでにした。運転手によると、ここらへんの人はみな英語とスペイン語の両方話すのだそうだ。「国境の近くだからね」  でも、雰囲気としてはスペイン語の方をよく使っているのではという感じがした。もともとグアテマラの領地だったこの地にイギリス船団が到達し、移住を始めたのが17世紀。その後、スペインのカリブでの覇権がイギリスに移る流れの中で、イギリス領になったのだという。独立したのは1981年であり、アメリカ大陸でもっとも新しい国だそうだ。そういう歴史をみれば、スペイン語だろうが英語だろうが、先住民たちが欧米の列強に翻弄されてきたことには変わりない。もちろん、侵略された側はただの被害者ではなく、伝統を守りながら、新しい文化も受け入れ、それらを融合させてきたはずなのだ。先住民と移住者が混血し、もともとの侵略者を自分たちの中に取り込んでいく過程というのは、どれほどの闘いだったろう。このような歴史は、中南米だけのことではない。世界中で、そういう闘いが繰り広げられてきた。それは人間の心の中での闘いだ。それを思うと胸が締め付けられる思いがする。
 途中、道路沿いの川が滝になっているところに通りかかった。「この町がおいらの住んでいる町さ。きれいだろう?」ここでも子どもたちが泳いでいるのが見えた。深緑と水の色が強い日差しに輝いて、ほんとうにきれいだと思った。「左の道をまっすぐに行くと、遺跡があるんだ」 この人の自慢のふるさとなのだ。もともと国家と故郷というのはあまり関係ないものかもしれないな。どこの国に属していようと、故郷は故郷のままなんだ。
 サン・イグナシオの町でタクシーを降りた。英語の看板ばかりというのは親しみやすい。しかし、どこか雑然とした感じがする。「ベリーズは多民族国家」という先入観がそうさせるのだろうか。バス・ターミナルで1時発ベリーズ・シティ行きの切符を購入。まだ40分くらいあるので、近くの食堂で飯を食った。豆のスープに白いご飯。バナナの揚げ物に鶏肉のシチューで10ベリーズドル。腹いっぱいになった。バスの出る5分前にターミナルに戻ったら、なんと乗るはずのバスがちょうど出た後だった。予定の時間前に出発してしまうということもあるのか。次が1時半だったので、これは逃すまいと待合室でじっと待つ。客たちの話を聞いていると、スペイン語も英語もある。この人たちはメキシコに帰るんだなと思われる人たちもいる。発券窓口のところでペプシコーラが売られていた。何人もの人がコーラを買っては実にうまそうに飲む。それをを見ていたら自分も飲みたくなって、1本買って飲んだ。
 バスが来た。この国でも、アメリカの(もしかしたらカナダのもかも)スクールバスのお下がりのチキンバスである。だが、乗ってみてチキンバスのチキンたるゆえんが納得できた。スクールバスはもともと子供用だから、座席が狭くできているのだ。大人が座ると膝が前の背もたれにくっついてしまう。おまけに古いので、座席のカバーは剥がれ、中のウレタンがむき出しになり、取れているところもある。もうボロッボロになっている。クッションは効かず乗り心地は最悪。これでベリーズ・シティまで3時間。乗り換えてまた北へ3時間である。これでは臀部の状況も悪化してしまう。
 使わなくなったバスを途上国に援助する。先進国はまた新しいバスを作る。これは一見途上国にとっても先進国にとってもいいことにみえるかもしれない。だけど、これでは利用者には使いにくいわけだ。こんなのマヤカシだって!と思った。バス会社はもっと乗り心地のいいバスを開発しなければならない。その前に、途上国の中でそういうバスを作る技術を援助しなければならない。他国のお下がりを使うような状況をなくさなければならない。そんなことを考えた。具体的にどうすればいいのかわからないけれど、こんなチキンバスを使わなければならない人の気持ちを想像したら、やっぱり嫌になってしまうって。
 近くに座ったのはメキシコ人の学生グループのようだった。トウモロコシを食っては芯を、ブドウを食っては皮を窓から外に無造作に投げ捨てていた。少し大きな停留所では、飲み物などを抱えた子どもが窓越しに声をかけて売っていた。僕も一度コーラを買って飲んだ。コーラ飲み過ぎ。
 ベリーズ・シティのバス・ターミナルで降りる。アンティグアで会った人から、ベリーズ・シティは危ないから素通りしろと言われていたので、ターミナル周辺をちょっと歩くだけにする。川のほとりに屋台の店がいくつか出ている。川も屋台もお世辞にもきれいとはいえない。町の中心ではないにしても、あまり立ち寄りたい雰囲気ではなかった。メキシコ国境のコロザルまでの切符を購入する。待合室には、白目が真っ赤になった黒人がいて、何かの中毒だという気がして気味悪かった。アンティグアで会ったイギリス人の話を思い出した。「ベリーズ・シティにはカリビアンの黒人がたくさん来ているのだが、彼らはどういうわけか働こうとしないんだ。人を脅しては金を巻き上げる。だから、人通りの少ないところにいってはダメだ。ただし、シティ以外のところはぜんぜん大丈夫、心配は要らない」
 切符にはエクスプレスと書いてあったので、今度はもっといいバスかなと期待していたのだが、さっきとまったく変わりないチキンバス。5時発で、何時に着くかは確かめなかった。あるいはコロザルの手前の別の町でもいいかなと思っていた。今夜の宿は取っていないし、見つかるかもわからない。でも、今夜一晩なんとか過ごせば、明日はカンクンのホテルに泊まってゆっくりできる。もう旅も終盤だから、何とかなるだろうと楽観していた。
 隣に座った黒人の青年が話しかけてきた。とても気のよい感じの人だったのでほっとした。「このバスはどうだい?」と聞いてきた。「ベリーズは貧しい国だから、車を持てる人は少ないんだ。だから、みんなバスを利用しているんだ」と言っていた。窓の外には草原が広がっており、ところどころに小さな家があり、南国のでかい樹が生えている。畑も何もないところをバスは進む。ベリーズといえば、ダイビングをする人の間では美しい海のあるところとして有名らしい。だけど、僕の通ったところは、美しい海も見えず、産業らしい産業もなさそうで、なんだか何にもないところばかりだった。「ここに家があるんだ」 何にもない真ん中の停留所で、青年はバスを降りた。日暮れどき、オレンジ色に染まった原っぱをぼーっと見ながら風に吹かれていた。車内の明かりもすごく暗く、昔僕らの町に走っていた、床が木でできているバスや列車の車内を思い出した。あの頃の日本も貧しかったのだろうか。この国もいずれ豊かになるのだろうか。みんな平等に豊かになればいい。
 しばらくは降りる一方だった客が、町が近くなるとまた乗る人が増えてきた。小さい子どもを連れた親子が何組か乗ってきて、なんとなく夏祭りに出かけるような雰囲気を感じた。オレンジウォークという町に着いた。海からは遠いが、かなり大きな町だ。地球の歩き方には一言も載っていなかったが、アンティグアのイギリス人が、「とてもいい町だった」と言っていたのを思い出した。窓の外から見るとホテルもたくさんあるし、人通りも多いし、国境の町まで行かなくてもという思いもあった。5分ほどの停車時間があり、その間降りようかどうしようか迷いに迷ったが、結局、当初の予定通りそのまま終点まで行くことにした。なんとなく海辺の町に泊まりたかった。
 だんだん海が近くなってきているのがわかる。車掌がなぜか車内の明かりのスイッチを入れたり切ったりしていた。車内が真っ暗になると、窓の外に満天の星空がぼうっと浮き出て見えた。夜風も心地よく、輝く星を眺めながらだまってバスに揺られていた。こんなにたくさんの星を見たのは生まれて初めてだろう。そういえばきょうは月遅れの七夕だったな。星が見れたから、やっぱり正解だったな。宿が取れなくてもなんとかなるな。
 コロザルの町に入ったのは8時を過ぎていたと思う。車掌が「終点の一つ前!」というアナウンスをしたら、発作的にここで降りて歩こうという気になった。歩いていると宿の看板を発見。「全室エアコンディション完備!」喜び勇んで行ってみると、一階にバーがあって宿のフロントを兼ねており、建物の二階が客室になっているという宿だった。バーのカウンターには西洋人だか東洋人だか判別できないが、スタイルのいいお姉さんがいた。「部屋はありますか」と聞くと、そのお姉さんは「あなたは運がいいね。一部屋だけ空いてるよ」と言ってぱちっとウインクをした。ウインクなんて今までされたことなどないわな。ちょっとどきっとした。何か食べるものがあるかと聞いたら、もう終わったと言われた。
 鍵を受け取って部屋に入ろうとするが、なかなか鍵が開かない。ガチャガチャやっていたらやっと開いて中に入ることができた。部屋はほんとにひどいもので、シャワーも水がちょろちょろと出るだけ。だけど全然構わない。宿があるだけラッキーであった。今夜一晩我慢すれば、明日はきれいなホテルに泊まれるのだ。
 腹が減ったので、外に出る。家の形を見ても、西洋なんだか東洋なんだかよくわからない。どこか、日本の住宅街のような感じにも似ている。表通りに出ると漢字の看板の食堂がいくつか見える。ここでも華僑が活躍しているのだ。焼きそばを頼むと、日本で食べるような普通の焼きそばだった。不思議だった。宿への道で、暗闇から2度くらい声をかけられた。「どこから来たんだい?」、ちょっと気味悪かった。
 宿に戻り、鍵を回すが開かない。さっきにもましてダメである。もうどうしようもないなと半ば諦めかけたときに、どういうわけか鍵が開いた。
 天井にでかいプロペラがついている。これがエアコンディショナーの正体。ところが、効果ゼロ。暑くてほとんど眠ることができないまま、朝を迎えた。長い夜だった。

■コロザル〜カンクン(2004,8,8 dimanche)
 6時半頃には宿を出た。一階に鍵を返しに行ったが、昨夜のお姉さんではなく全然違うおばさんがいた。海沿いの町は、特にきれいでもなく、雑然として、言ってみれば無国籍な感じ。教会からは賛美歌が聞こえてきた。きょうは日曜日だった。腹の調子が悪い。汗ばかりだらだら出てくる。どうやら脱水症状が出ているみたいだ。日曜日は店は休みかなと思ったら、バス・ターミナルの裏手にある八百屋が開いていた。バナナを2本と飲料水を買って朝食。バナナをよくかんで、水で流し込む。すると効果覿面、腹の痛みは消え、汗も引いてきた。これで何時間かは大丈夫だろう。
 メキシコはチェトゥマルまでのバスに乗る。ベリーズを出国し、また別のバスに乗り、メキシコの入国管理局に行く。長い書類を書いて、めでたくメキシコ再入国を果たす。バスを待っていたのだがいつまで経っても来ないので、タクシーに乗る。チェトゥマルのバス・ターミナルまで、50ペソ。
 時刻表を見るとちょうどすぐ発車するバスがあったので、その切符をくれというと、「そのバスはもう出ました」と言う。なぜかわからなかったが、ベリーズとメキシコは1時間の時差があることに気がついた。カンクンまでの途中にあるトゥルム遺跡までのチケットを98ペソで購入した。
 腹が痛くなり、尻も痛くなり、コンディション最悪。待合室で座っているのも苦痛。かといって立とうとするときにも痛みが走るので、えいやっと気合を入れて立たねばならない。せっかく来たのだから遺跡は見たい。幸いバスはチキンバスと比べると最高級の乗り心地。これなら大丈夫かな。
 トゥルム遺跡は海沿いにある。バスを降りて、タクシーで入り口まで20ペソ。青いカリブ海。海水浴をする人々。なんて美しいんだろう。やっぱり無理を押してでも来る価値はあった。来てよかったと思った。
 またタクシーでバス停まで。そこを4時発でカンクンのバス・ターミナル着が6時半。車内のテレビで“The Hunted”というのを見るが、ちょっと変だった。バス・ターミナルからはもう一気にタクシーでホテルまで。最後の夜は大手ホテルチェーンのデイズ・インを取っていたので実に快適。体調のことを考えると、初日と最終日はこの順序で正解だった。これが逆だったら、あまりおもしろくないことになっていただろう。
 この夜は近くのコンビニでパンを買って食べ、ゆっくり風呂に入って、テレビを見て、早めに就寝。

■カンクン〜トロント(2004,8,9 lundi)
 昨夜はゆっくりと眠れた。素晴らしい朝を迎えた。ホテルで朝食を取り、タクシーで空港へ。土産物を少々買い、11時10分発のトロント行きに乗り込む。3時間半の旅はあっという間。帰ると空は暗く雨が降っている。もう何も考える力も残っていない。時間も関係なく、風呂に入って就寝。