二〇一四年一月

 三連休明けの勤務。道路はほとんど凍っていなかった。職場は寒かった。午前中のんびりと書類作りをしたり、部屋の片付けをしたりした。それから、電話やメールで交渉ごとをいくつか済ませた。

 農協で手づくりのおにぎりを買ってきて食べた。コンビニのおにぎりを食べ慣れた者からすると、手作りでまだ温かいおにぎりは嬉しい。食事して、少しだけ働いて、後は休みを取った。この体制はきょうで最後、明日からはほんとうの通常業務となる。きょうは会議もなく、初めから休みを取って職場には来ない人も多かった。自分もきょうは早く退けて、家で自由に過ごした。今の時期をこんなふうに過ごせる年は、もうないかもしれない。

(一月十四日 火曜日)

 アパートの窓を二重サッシにする工事があった。9時ちょうどに工務店の方々が5、6名来た。大小すべての窓の内側にぴたっと窓をはめ込む工事だった。その間、工事の様子を見たり、太陽の光を浴びてボーッとしていたりした。工事は10時過ぎには終わった。窓の側に行くと今までは冷気を感じたが、二重窓にしてもらったおかげでそれが感じられなくなった。これから春まで暖かく過ごせそうだ。

(一月十三日 月曜日)

 寒い冬になった。ここ数日は最低気温が氷点下10度近くまで下がっているようだ。日中も断続的に雪が舞っていた。午前中は明日の工事に備えて部屋を片付けていた。昼前に家を出て、水沢まで行った。途中、十割そばさくらという蕎麦屋でざる蕎麦を食べた。この時期、熱い蕎麦も良いが冷たい蕎麦も悪くない。その後スポーツ店で運動着と運動靴を購入した。帰宅してから時間があったが、まとまったことは何もできなかった。

(一月十二日 日曜日)

 満足な暖房がなかった。小さな反射式のストーブを焚いたが、部屋はなかなか暖まらなかった。布団を何枚も重ねて寝たから、眠っている時は寒さは感じなかったが、目覚めてもすぐには起きられなかった。部屋を片付けていると、あっという間に昼になった。起きたのが遅かったために、活動開始が遅れた。そして、要不要を本気で分別しようという意識で棚という棚を点検したため、時間がかかったのだ。昼にはお雑煮を食べながらテレビを見た。和風総本家という番組。新潟県の鋸職人と、その職人が作った小型の鋸を使って仕事をするイタリアのバイオリン職人との交流の物語だった。互いが互いを必要とする職人同士が、国を超えて結ばれているなんて素敵だと胸が熱くなった。下らない番組が多い中、いいと思う番組、皆に見てほしい番組も時々はある。

 午後には片付けの続きを進めたが、この調子だといつまで経っても終わらないと思ったので、適当なところで終わりにして実家を後にした。正月飾りやお札を神社に持っていって、お参りした。

(一月十一日 土曜日)

 午前中はまた文書の手直しを行った。書かれていることを変えずに、組み立てを変えるだけで見違えるようにすっきりする。3編を打ち直して返してあげた。それを読んで自分の書いた物が新鮮にみえた人もいただろう。言葉は情感をもたらすが、それは言葉の一面に過ぎないのであって、筋道が整えば社会を変えるほどの力をもつはずだ。

 昼過ぎには職場を後にした。帰り道、川崎のいよりという店で熱い蕎麦を食べた。外は雪が降って寒かったが、蕎麦を食べたら身体が温まった。ガソリンスタンドで、車のワイパーを交換してもらった。冬用の幅の広いものを進められたが、普通のものにした。ガソリンがリッター1円引きになるというカードをもらった。コンビニでも使える便利なカードだということだった。無料ということと店員の勢いに気圧されて、断ることができなかったのだけれど、もうたぶん使うことはないだろう。

 帰宅してから身支度をして、不要になった物を車に積んで実家に向かった。夜には母親を連れて、台温泉の日帰り入浴施設精華の湯と焼肉冷麺の明月館というおきまりのコースを辿った。

(一月十日 金曜日)

 朝には吹雪いていたので、いつもと違う坂の少ない道を通った。しかし、気温がまだ高かったのでそれほど滑るわけではなかった。きょうは午前中3件の面接があり、その後は7通の文書の手直しを行った。昼には1件電話を入れなければならない用事ができたが、しばらくつながらなかった。14時半にようやく話ができて、ひとつの問題は解決した。その後は訪問が1件。15分でと思っていたが、気がつくと40分滞在していた。できるだけのことをして、できるだけの思いを伝えたつもりだ。大切なのは、誰の人生でもない自分の人生だということだ。どんな場合でも、決定すべきことの最終的な決定権は自分自身にある。それに気づいて主体的に生きていけるかどうか。こちらは祈ることしかできない。

 帰宅途中でスーパーに寄り、今夜の買い物をした。帰宅してから歯医者に行った。今回は待ち時間はゼロに近かった。前回の歯磨き指導の成果が表れて、歯茎の腫れがおさまり、違和感が少なくなっていた。きょうの歯科衛生士の話では、歯間ブラシを毎日使うことが大切だということだった。

 夕食は白菜と豚肉の料理にビール。おいしくて身体が温まった。早めに風呂に入って寝よう。

(一月九日 木曜日)

 7時過ぎに仕事関係の電話がきて驚いたが、昨日のうちに手はずを整えておいたことだったので胸を撫で下ろした。きょう一日は自宅近くまでの出張で、出発が遅くて済む。だから、朝のうちはパソコンに向かってここ数日を振り返りながら日記を書いた。

 朝にはガソリンスタンドに寄って、給油をし、灯油を買った。昼の休憩時間には銀行に行った。ネットバンキングの手続きに40分くらいかかったので、昼食を取る時間がなくなった。コンビニで公共料金の支払いを済ませ、おにぎりとお茶を買って車の中で食べながら戻るとぎりぎり間に合った。

 午後にはたくさんの人が集まっていた。地域には知っている人が少ないから、あまり話はしなかった。多くの人は長く同じ地域にいるために顔見知りが多かったようだった。ただ一人、もう20年も前に隣の住宅に住んでいた方とお会いして、少し挨拶を交わした。20年経ったとは思えないほど変わっていなかった。

 終了後は床屋に行った。ちょうど2か月ぶりだった。短くしてもらい、すっきりした。頭が軽くなったが、気温が高かったせいか寒いとは思わなかった。

 珍しく本屋に立ち寄って、クルマの雑誌を購入した。今のクルマにしてから8年になる。まだまだ乗れる。不満もまったくなかった。だが、手放すタイミングというのもある。走行距離は12万5千キロを越えたから、もう十分かという気もする。とにかく最後まで大事に乗り続けたい。

 クローズアップ現代は、パキスタンの女性活動家、マララ・ユスフザイさんのインタビューだった。16歳とは思えないよどみない物言い、そして鋭い眼し。世界のこれからを考えれば、身の安全を祈らずにはいられないと思った。

(一月八日 水曜日)

 昨日話をしたことについては多少の進展があったが、急いで何かをできるわけでもなく、時期を待つより他はなかった。いずれにせよ昨夜話しておいたことはよかったのだろう。

 きょうの仕事は昨日とほとんど変わらなかった。淡々と進めて、午後になると目処も付いたし、飽きてきたので早めに帰宅することにした。明るいうちに帰れることが嬉しかった。このように自由度のある勤務は今週までである。

 帰宅後急に妻の実家に物を届けることになった。高速道路を使えば40分ほどの道のりだから行けない距離ではない。ただ、気持ちにゆとりのある今の時期でなければなかなかできない。ドライブがてら車を走らせて、実家に向かった。暗くなってから行くのは初めてだったので、途中の道を間違えた。到着すると、義母に挨拶をし、物を置き、再びそそくさと車に乗った。途中どこかで夕飯を食べたいと思った。しかし、市中にはこれといって目ぼしい店ががみつからなかったので、長者原のサービスエリアで食べた。帰宅してもまだ19時台だったので、その後はゆったりと有効に時間を使うことができた。

(一月七日 火曜日)

 仕事始めの清々しい朝。10日も職場を離れていると、通勤路も人々も久しぶりという感じがする。明日提出の文書をつくり、印刷してから帰宅した。一日いっぱい仕事をすると脚が痛くなった。休みの間それほど運動しなかったということか。

 暮れからの懸案があって、夜にはそれについてあれこれと話し合った。状況によって考え方ががらりと変わる。当初の方針が揺らいで、これまで隠れていた脆弱な部分も露呈する。これも当然のことといえば当然のことであり、慌てる必要もない。

(一月六日 月曜日)

 翌日から仕事なので少し緊張してきた。午前中にはテレビを見たり、パソコンの中身を整理したりした。午後には妻が眼鏡屋に行くというので車で送った。用事が済むまでは周辺を運転しながら山下達郎のラジオを聞いていた。いつもこの時期は大瀧詠一との新春放談が楽しかった。二人の声が似ていたから、どちらがどちらかわからなくなったりした。また聞きたいと思っていたのだが、昨年の暮れに大瀧詠一が亡くなってしまったのでもう叶わない。「雨のウェンズデイ」が、時々聴きたくなる。

(一月五日 日曜日)

 午前中には近所の歯医者に行った。徒歩で30秒のところにある。きょう診てもらえるか電話をしたら大丈夫だというので予約した。約束の時間に行ったらそれから1時間半待つことになった。待ち時間で読書が進んだからよかったといえばよかった。診察や治療には45分かかった。11月に別の歯科で診てもらったところの違和感が増してきたので、悪化しているかと心配だったが、歯根には問題が無さそうで、歯茎のほうが弱くなっているのではという見立だった。そこで、歯磨きの仕方を丁寧に指導してもらい、殺菌のためのうがい薬をもらった。来週からまた何回か通うことになる。

 午後には何をしていたか。そうそう思い出した。教育テレビで「イーハトーボの劇列車」を観たのだった。つい一月ほど前に観た芝居だったから、もう一度反芻することができた。その後は、少し部屋の本を片付けたりしているとすぐに暗くなった。夕ご飯を食べてから車で出て、少しだけ買い物してきた。

(一月四日 土曜日)

 妻の実家に正月の挨拶に行ってきた。義母と話をして、小豆餅やお雑煮をたらふくご馳走になった。義父は地域の新年会に行っており不在だったが、昼過ぎにちょっとだけ姿を見せて、またどこかに忙しく出かけていった。

 テレビでは新春恒例の演芸や駅伝が放送されていた。声帯模写の江戸家猫八・子猫親子は代替わりしていた。思えば先代の猫八が亡くなったのはもう10年以上前だ。子猫を名乗る若い息子がウマやカエルの声を見事に真似ていたのをみて愉快な心持ちがした。また、父正楽譲り、林家二楽の紙切り芸はさすがだったが、驚いたのはその隣でハッポゥくんという人が発泡スチロールを切り抜いて様々な物を作っていたことだった。発泡スチロールで作られた白いメガネや帽子を身に付け、電気のスチロールカッターを操る芸に斬新さを感じた。時代は変わった。そして、東京からの落語、古今亭菊之丞の「親子酒」と柳家小三治の「初天神」をみて笑ったところでチャンネルを切り替えた。寄席に行きたくなった。

 駅伝では、1位の大学の表情と2位の大学の表情とには大きな違いがあった。1位を目指してきたかれらにとっては、2位では悔し涙を流すほどに不満なのだ。しかし、みていると10位以内のシード権争いで勝ったチームや、最下位近くを走ってはいるが完走しそうな選手は笑顔を浮かべたり、ガッツポーズを出したりしていた。それぞれ目標が異なり、その目標に到達できなかった者は悔しがり、到達できた者が喜ぶと、なるほど世の中はそういう仕組みなのだと、当たり前のことを当たり前に認識することができた。

 たくさんご馳走になった上に、お土産の食べ物をたくさんいただいて帰ってきた。この日のお餅をおいしく食べるために元日からずっとお餅を食べていなかったから、今年初めてのお餅だった。お餅だけでなく、お煮染めや漬け物や、ひき菜と呼ばれるお雑煮の具が美味しかった。

(一月三日 金曜日)

 元日よりは少し騒がしい朝。向かいのパチンコ屋に車が押し寄せていたのと、雪もあまり降っていないのに除雪車が稼働していたことが原因だろう。それに、アパートにはこれから初売りに出かける家族が多いのかもしれない。昨日と今日の関係は、カナダにおけるクリスマス当日と翌日のボクシングデーにそっくりだと思った。

 昨日に引き続き、きょうはテレビで出雲大社の特集を見た。その後で、押し入れの中身を整理しようとしたら、部屋が物だらけになり、夜になっても片付かなかった。

 昼はうどんを食べた。徒歩で釣山に行き、田村神社で初詣をしてきた。神社の辺りは清浄な空気に包まれているようだった。雪がうっすら降り積もっていたが、風はなくて日の光が暖かかった。帰りには駅前の商店街を通り、スーパーで豆腐等を買った。商店街は歩行者天国になっており、中央付近にはマイクやスピーカーが設置され、その周りを買い物客の一団が丸く囲み、何かの始まりを待っているようだった。しばらく見ていると、司会者らしき男性とアシスタント役らしきピエロ様の化粧をした女性が登場して、初売りの大抽選会が始まった。我々は抽選券を持っていなかったのですぐにその場を立ち去った。後でわかったことだが、その日はそこで、大鏡餅神輿の奉納が行われたということだ。震災で中断していて、今年3年ぶりに復活したイベントだったらしい。道理で、抽選会だけのためにあれだけの人が集まるとは思えなかった。2時間弱の散歩。帰宅するとまだ15時前だった。

(一月二日 木曜日)

 実家でも旅先でもない場所で新年を迎えたのは初めてか。静かな朝。テレビで伊勢神宮の特集を見てから、昨日の「街道を行く」を再び見た。元の本を手にしながら番組を見るとまた面白かった。

 人間はずいぶん未来まで到達したものだ。まだ国の形が定まらない古代のことでさえ、科学の発達によって詳しく読み解けるようになってきた。情報が情報を呼び、知らない人やもの同士が結びつき、新しい可能性が次々と目に見える時代になった。それと同時に、混沌が混沌を呼び、価値を見定めきれないうちに物事があれよあれよと進むことも多くなった。そして、ネットが出現してから一変した時間の流れ。もう以前の感覚に戻ることはできないだろう。ネットのなかった時代に生まれネットのある時代に死ぬ、そんな世代は後にも先にも自分たちだけだ。100年なんてあっという間だと思っていたが、この先の100年を平穏無事に過ごすのは容易いことではないという気がしてきた。

 今年はこれまで以上に大きな変化の年になる。仕事はどうなるかまったくわからない。理容師になぞらえていえば、ハサミ一本あればどこにだって渡っていけるくらいの自信をもちたい。そしてもうじき、自分の手にするハサミがどれだけの切れ味なのか、それを試す機会が訪れる。だが、ハサミの使い方が上手だからといって良い床屋とは呼べない。床屋を営むために必要な要素がバランス良く調って初めて、良い床屋として認められる。しかもそれを判断できるのは客以外にいない。良い仕事とは、ただ喰っていくための仕事とは異なる。ハサミをしっかり研ぎながら、ハサミ以外のものについても配慮を欠かさず、客に対しては真心で接し、終わった後には客が満足を覚え、時間が経ってもあの店で良かったと思ってもらえる。そんな職業人を目指したい。

(一月一日 水曜日)