二〇一四年六月

 自分にとっての絵筆などと何を今更という話だが、日々に流されているのみで自ら磨くことを怠ってきたことが、ここにきて、様々な場面で露呈している。ようやく仕事にも生活にも慣れてきて、表向き平穏無事な日常の中で、ときどきいたたまれなくなることがある。拭い去ることのできぬ、生きることへの根源的な疑問。

 北上高地の山あいでのことがこの頃よく思い出される。関わっていた生徒たちの人数が今と近かったことと、コミュニティの状況がある意味似ていることのためだろう。それから、ここがどこかがわからなくなることがある。まるで、実写版の映画なのか、現実の世界なのかわからないみたいに。

 もう二十年も前の話。当時はまだパソコンなんてなくて、職員たちはワープロで文書を作った。ワープロだって、僕が初任の年に慌てて月賦で買ったくらいだから、普及してそれほど経っていなかった。手書きへのノスタルジーなど完全に排除され、当然だけど、内容勝負の仕事を強いられた。どこまでも付き合ってくれる教頭先生がいて、教諭は全員二十代で、放課後の職員室はしばしばサロンとなった。いや、教頭による教育道場と呼んだほうがぴったりだ。いつまでも終わらない。午前零時を過ぎることもたびたびあった。ワープロをたたいて仕上げた書類は、教頭の赤ペンで真っ赤になって返ってきた。それを直して持っていくと、また真っ赤になった。それを繰り返してようやくOKがでるから、締め切りに間に合わせるにはどうしたって早めに取り掛かる必要があった。間に合わなければ寝ないでやるしかない。もっとも皆若かったから、寝ないでやれば済むという程度で済んでいたのだけれども。めったにほめられたことはないけれど、たまにほめられたときにはとてもうれしかった。

 それがその学校での一年目のこと。二年目には教頭は街の学校に転勤した。僕などは残念という気持ちもあったけれど、正直なところ解放感があった。午前零時を回っても煌煌と電気のついている職員室なんて僕は気持ち悪かったし、大嫌いだったから。ところが、その教頭に取って代わって僕らの指導役となった人が現れた。もっと厳しく、冷たかった。その人の下でその後の三年間、僕は研修生となって労働した。毎日のように罵倒され、教師道場の時間は延び、午前三時を過ぎることさえあった。しかも毎朝レポートの提出を求められていたから、僕は自宅のこたつに寝て、どんなに遅く帰っても朝四時には飛び起きてワープロに向かった。重く苦しく、嫌な時代だった。かれも二十代だったけれど、きっと僕とは全く異なる二十代を過ごしたはずだ。でもそこで大切なことを学んだのは間違いない。あの四年間がなかったらと思うと少し恐ろしい。だから、あの先生たちには感謝しても感謝しきれないくらいの恩がある。でも、あの時に戻るなんてことはまっぴら御免だ。だから、かれらのようにはなりたくない。僕はかれらとは違うやり方をめざす。

 昨日の夜のこと。阿蘭陀のサッカーチームは西班牙と対戦し、歴史的な大勝を飾った。ゴールや勝利の瞬間には、ところどころ橙色の旗が掲げられた住宅街では歓声やラッパの音が鳴り響いていた。サッカーは単なるスポーツの一種目ではない。だが、今後どう移り変わるかはわからない。十五年後のことと、百五十年後のことと、千年先と、十万年先と、俯瞰しようとしたら何がみえる。

 いたるところで繰り広げられている戦いが、すべてこれまでの歴史の結果だとすれば、偶然のことなど一つもありはしなかった。一人一人の生には意味があり、かけがえのない価値があった。そして、一人一人の死こそが、歴史にとって重要だった。

 人類の可塑性ということに思いが至る。歴史は彫刻のようでもあり、絵画のようでもあり、音楽のようでもある。これからどんな世界が形作られていくのか、水面に綾なす無数の波がぶつかり合い、船の行く先は誰にもわからない。ましてや一個人の運命など何一つ決まっているものなどない。

 刻々と意味が創り出される。このちっぽけな存在ですら、唯一無二の担い手に違いは無い。

(六月十四日 土曜日)