二〇一四年三月

 日記を書かない生活をしてみたら、他の人のために書いていたわけではないことがわかった。同様に、自分は誰かのために生きているわけでもないこともわかった。自分は自分であり、だれのものでもない。そして、誰かは誰かでしかなく、自分と何ら相容れるものなどない。自分以外の要因が次々と押し寄せてきて、自分の願いを押し流していった。しかし、数日が経つとその記憶は消え去り、言葉にも残らなかった。良いかそうでないかに関わらず、何も残らないことの虚しさ。これまで私を形作ってくれた大切なものごととの記録が、一切残らないとしたらかなしい。何をしてきたというのか。大きなことを何ひとつしてこなかったにせよ、できたことがひとつでもあったなら、それはその人が生きる意味があったということだ。だとしたら、それを書き留めることだけが、生きる意味を確認できる唯一の方法だ。来週阿蘭陀に立つ。自分に果たして何ができるのだろうか。それを確かめに行く。

(三月三十日 日曜日)

 

        14/04/21 10:09 am