2012−2013 ベトナム・ミャンマーの旅

 ベトナムとミャンマーを旅した。23日に成田からハノイに飛んだ。ハノイには1999年の夏に初めて行った。その時はスタディツアーで、一般的な団体旅行とはひと味もふた味も違った旅だった。その時の記録はサイト内に残してあるが、今回はあの旅とはまったく様相の異なる一人旅だった。

 当時使った宿に2泊し、ハノイのあちこちを迷いながら歩き回った。その後、世界遺産のハロン湾へと向かい、島を巡るクルーズを体験。バスでハイフォンに入り、散策。列車でハノイに戻った。ハノイ市内をさらに歩き回り、バスでバチャンという村にも行った。そしてハノイからヤンゴンへ。飛行機の切符が取れなかったためバガンやマンダレーには行かず、ヤンゴンの宿を中心にして、チャイティーヨ・パゴダやバゴー、そしてヤンゴン川対岸のダラという村などを巡った。3日早朝に帰国した。

 東南アジアの一人旅は久しぶりだった。スーツケースは持っていないから、当然バックパックの旅。英語漬けの10日間はすべてカタコトだったけれど、意思疎通できたし、危険な目にもあまり遭わなかったし、いい休暇を過ごすことができた。新鮮な驚きは以前よりも減ったが、その分ゆとりをもって楽しんでくることができた。こんな気ままな旅ができたことに感謝。

 

 12/22(土)23(日)

 成田駅を降りてから道に迷った。ホテルの場所がどうしてもわからなかったので、電話をかけて道を聞いた。電話の男は無愛想に道順を説明した。ようやく辿り着いたホテルのフロントには3人の男性がいたが、3人とも日本人ではなかった。カードキーを受け取ってエレベータに乗り、ドアにカードキーを差し込んだがうんともすんともいわない。またエレベータでフロントに引き返し、新しいキーに交換してもらい、また部屋の前に。しかしそれでも開かなかったので、三たびフロントへ。別のキーをもらってようやく部屋に入ることができた。まだ日本にいるのに、もう日本ではないような気がした。

 一夜明けて、10時のフライト。ノイバイ空港に到着したのは15時頃だった。銀行で2万円を両替すると、およそ489万ベトナムドンになった。タクシーからの眺めは特に珍しくもなく、どの国でも特段変わりばえのしない、空港から市街地までのありふれた風景として目に飛び込んできた。前回訪れた時には、赤茶けた農地と、そのところどころにノン笠を被った農民や水牛たちがいるのが珍しくて、ずっと窓の外を見ていたものだ。風景そのものの変化と自分の受けとめ方の変化を意識した。

 ホテルまでは45分くらい。市街地に入ってからはいくつかの湖を見た。車とバイクの洪水に巻き込まれ、思うように進めないことがあった。そして、いまいったい街のどのあたりをどう進んでいるのか、位置関係が皆目見当もつかなかった。考えてみれば、以前来た時は全行程がマイクロバスでの移動だった。どこに行くにもガイドとドライバーに任せっきりで、地図を見る必要さえなかった。次はどこに行きます、お昼は何を食べます、と言われるがままの団体旅行。しかも季節は夏で蒸し暑く、外で消耗した体力を冷房の効いた車の中で回復させるような感じがあった。

 ところが今回は冬である。この時期の気温は高くても20度に満たない。そして気ままな一人旅である。そこで、この街では地図を見ながらとにかく歩き回ってやろうと目論んでいた。

 ホテルの前でタクシーを降りた。料金は40万ドンだった。前の道路は拡幅され、通行量が以前にも増して激しくなっていた。ドアボーイが扉を開けてくれた。十三年ぶりの懐かしいホテルは、古くなってはいたが、大きなガラス扉とロビーの天井の高さにはそれなりの風格を感じた。前にも泊まったことを話し、市内の地図をもらった。

 部屋に入るとさらに記憶が蘇った。少し薄暗い部屋の中で、ミニバーの明かりが洋酒の瓶やグラスを照らしてきれいだった。以前はここに果物を盛り合わせた籠があって、客室係にナイフをもってきてもらって部屋で食べた記憶がある。あのときのバナナが香り高く、食感もまるでプリンのように感じられて、日本で食べるバナナとはまるで別物であることに驚いたのだった。

 コート掛けの下に、金庫型のセイフティボックスが備わっていた。とりあえず貴重品をまとめて預けようと思い、中に入れてから4桁の番号を押そうした。しかし、具合がおかしい。どうも「1」を押しても認識しないようである。中身を取り出してからカチャカチャいじっていたら、鍵がかかってしまい、開けることができなくなってしまった。フロントに話したら、ボックスごと交換してくれた。

 貴重品を置いて、夕飯を食べに外に出た。前回の旅では、夜には毎晩ビアホイというビアホールに出かけては仲間たちと飲んだものだった。その時の記憶を引き出して歩いた。途中の食堂でフォーを食べ、ホテルに戻るつもりが、戻れなくなってしまった。左に左にと曲がって歩いたから元の場所に戻るはずなのだが、どこをどう間違えたのか、ぜんぜん見たことのない通りに出てしまった。ビルの警備員に道を尋ねると、どこからか別の警備員もやってきて、二人がかりで丁寧に道を教えてくれた。おかげでホテルに戻ることができた。フォー一杯食べて帰るのに2時間近くかかった。後になって冷静に振り返ってみれば、自分のとった道が間違いだったことがわかった。夜だったためか、疲れたからか、歳のせいなのか、いずれにせよ判断力が鈍ったのだ。今まではこういうことはなかったのにと、我ながら情けなくなった。

 24日(月)

 ホテルに隣接した中華料理店が、朝食の会場だった。後に増築されたものらしい。いわゆるバイキング形式だったが、フォーと卵料理はその場で注文に応じて作ってくれる形式だった。フォーをベトナムラーメンと呼ぶ人がいたが、このあっさりした味と香草の香りが何ともいえない。以前もこれを毎朝食べたのだった。卵は野菜のさまざま入ったオムレツにしてもらった。トマトが入っていたのがうれしかった。卵は最近ではほとんど食べる機会がないので、熱々のオムレツがとてもうまいと感じた。

 この日はとにかくハノイを歩き回るつもりだった。ホテルを出てから、地図を頼りに中心部に向かって歩く。道路にはバイクが多くて、横断もままならない。信号が整備されていない交差点も多いし、信号のある交差点まで辿り着き、信号が青になったとしても、見切り発車や信号無視や逆走が多いのでなかなか渡れない。地元の人の後ろにひょいひょいと着いていき、やっとのことで横断するという具合である。たまに制服を着た警察官が辻に立っていることもあるが、驚くことに彼らは特に何もしない。通行人が道路を渡ろうとしていたら、手で車を制止するとか、安全に歩行できるように補助するとか、形だけでもしそうなものだが、黙って見ているだけなのには呆れた。

 それにしてもこのバイクの波はいったいどこに行くのだろうか。出かける目的があってバイクに乗っているのだろうが、ひょっとするとバイクに乗ることが目的なのかと思ってしまうくらいにバイクだらけ。暑い夏には風に当たって涼む目的でバイクに乗ることもあるらしいが、今は冬で着込まなければいられないほどの寒さである。マスクをしている人が多い。そしてそのマスクの色や柄は多種多様であった。排ガスを吸いたくないのはもちろんだろうが、防寒やファッションとしての意味もあるのだろう。