二〇一三年四月

 朝には雨が降っていた。四時には目覚める癖がついたが、眠る時刻はまちまちだ。昨夜はあるシンガーソングライターの曲を初めて聴いて刺激を受けた。昨今ではこんなふうに感動することは珍しくなった。そしてきょうは四月のつごもり。仕事は仕事で目の回るような一日だったが、それなりに先へ進んだような気もする。黙っていても月日は過ぎるが、過ぎることは単に終わることではない。爽やかな風のように、吹いた後に何かが残るような存在になれたらいい。そして明日から五月。

(四月三十日 火曜日)

 六時半頃に出て、北上の展勝地で花見をした。桜はまだ半分くらいしか開いていなかったが、きょうこれから満開になりそうな様子だった。川沿いの新緑と遠くの山々の景色がきれいだった。すでに人が多く訪れていた。消防団の人たちが多いと思ったら、消防演習の日だった。一等地に青いビニールシートを敷いて、演習が終わったらそのまま宴に入るのだろうと思われた。ベンチに座って、おにぎりと味噌汁の朝食を食べた。少し肌寒かったが、夕方の酒臭くてごみごみしている時間よりずっと良いと思った。帰宅するとまだ十時前。何か生産的なことができるかと思ったら、そうでもなくだらだらと過ごすことになった。

(四月二十九日 月曜日)

 一週間前に降雪のため中断されたイベントの続きが行われた。桜はすでにほぼ満開だったが、風が冷たくて真冬の格好をして外に立った。集合時刻こそ早かったが、始まってからの展開は予想以上に早く、拍子抜けというくらいの時刻に終了した。帰宅するとまだ正午前だった。以前のことを思うと、これまでは何だったのだろうと驚く。

 桜も見頃だし、時間もあるしと、午後から海へと車を走らせる。復興商店街というところを歩いて見て回った。ほんとうは寿司を食べるつもりで出かけたのだが、昼の営業時間に間に合わず、揚げたてのコロッケだけ食べて帰ってきた。復興には人々のたゆまぬ努力が欠かせない。だけど、それに先立つものが必要だ。国土は民のものだけれど、そこに民が安心して暮らせるための用意が必要だ。

 賽翁が馬、何が良いかはわからない。損得で評するつもりもない。だが、立つ場所によって労力や消費される時間に差があることには強い疑問を感じる。誰もが事情を抱えながら生きている。自分も、自分以外の人も。それを忘れないようにしたい。

(四月二十八日 日曜日)

 小雨混じりの朝、車を走らせて仕事場まで行く。土曜日ではあるけれど、平日と同じ車とすれ違うことも多い。この往復の時間はそれぞれにとって何のための時間とカウントされるのだろう。生きる時間のほとんどは、無為に過ぎ去るものでしかない。

 仕事とは名ばかりで、何も生産的なことがないし、人のためになるようなことでもない。昼には人の家にまで行って、30分ほども話し込んできたけれど、それが何の力になるというのか。

 ところで、隣町の食堂で昼食を食べた。席もないほど賑わっており、品物を注文してから出てくるまでに40分もかかった。少年漫画の雑誌をぱらぱらとめくってみたが、酷いものでストーリーが頭の中に入ってくるものがほとんどなかった。酷いというのは、きっと理解できない自分の頭が酷いのだ。これを理解して楽しめる子供の頭の方が、現代に適応できているということなのだろうか。

(四月二十七日 土曜日)

 話し合うというのは好きでない。自分を言葉で表現するのは慣れていない。心を人前で曝け出すのは得意ではない。細胞が一つ一つ膜で覆われているように、肉体が皮膚に包まれているように、人間はいつでも壁で防護されており、剥き出しにされることを特別なこととして意識するようにできている。

 しかし、好きだとか慣れていないとか、得意か不得意かとは関わりなく、開くことを常に求められるのが人間の本質だ。思いがけないことばかりが起きる。むしろ思い通りになることなどまず無いものなのだ。否応なく誰か他の人の力によって無理矢理何かをさせられるのが、生きるということだ。

(四月二十六日 金曜日)

 会議の最初から別の役で抜けていたので合流した時にはわけがわからなかった。知らない間に何かが決まって、知らない間に何かが動き出していた。知らない間に机の上に何かが積み上げられ、知らない間に時間が経って、知らない間にすべてが終わる。25年もこんなことを続けていたから、知らない間に頭の悪い人間になっていた。頭の悪い人間が、頭の悪い人間とつるんで、また頭の悪いことをしようとしている。頭の悪い人の住む国に住む頭の悪い人は頭の悪い人を増やすことに頭の悪い人自らが加担していることを頭が悪いので分からない。一番の害悪が自分の存在だということも分からずに、のほほんと生きていることを、死んだ人たちはみんな許さないだろうなあ。

(四月二十五日 木曜日)

 いくらモノが使いやすかったり、価格が手頃だったりしても、その社のトップの発言が認められないことによってもう買う気が失せてしまうということもある。そんなふうに社長の言い分で判断することなどほとんどないのだけれど、それでも最近の風潮には耐えられないものがある。

 せっかくいい考えだったのが、運用する人の誤用によって陳腐に変質してしまうこともある。たとえ社長の会社でないとしても、顔によって売り上げがよくも悪くも変わることがありうる。

(四月二十四日 水曜日)

 知人の死を知らせる葉書。自ら選んだという十七歳の頃のモノクロ写真に、自らが綴ったと思われる言葉が添えられていた。「充分生きた」という総括はできるものではない。どういう逡巡があったのかは想像するしかない。しかし、格好のよい生き方を最期まで貫いた人だったと思う。

 どんな時どのようにして死ぬかは誰にもわからない。誰の死も突然である。しかも、旅立つ時はひとり。時折そのことに向き合うと、いのちの儚さと重さを同時に感じて背筋が伸びる思いがする。

 人がいつも死と隣り合わせだということを身をもって教えてくれた人たちがいる。その人たちに報いるような生き方ができているかどうかと考えると、心許ない。

(四月二十三日 火曜日)

 三連休明けの朝には健康診断だった。朝食を取らず早朝に出かけて7時から待ち、全部が終わったのが8時だった。それからは通常業務だった。イベントの後始末というのがあって、昨日吟味した資料が役に立った。思うにすべての事業には、事前と当日と事後とがあって、それぞれに果たすべきプロセスというのが存在する。多忙を極める現場ではともすると当日に重きを置きがちになるが、それでは当然事業全体の質が下がる。個々の考え方によるところは大きいけれど、自分としては明快な視点をもって今回の事業を眺めることができたことが大きな成果だった。

(四月二十二日 月曜日)

 寒い朝、小雨が降っていた。念のためと厚着に合羽の用意をして家を出た。何分勝手が分からないから、とにかく周囲の様子を見ながら動こうと思っていた。途中から雨がみぞれとなり、みぞれが雪に変わった。着込んでも相当の寒さ。決行か中止かの判断はどこで下すのか、係らしき人に聞いたら、よくわからないという。まさかこんな天候でやるわけはないだろうと思っていたが、少し待っていると、当然決行でしょうという雰囲気で周りが動き始めた。やはりどこも同じ。こんな場合は大概決行という道をとりたがるのが主催者である。それはわからないではない。しかし、何を最も重視しているかと考えると疑問符が浮かぶ。

 緑の人工芝に白い雪が積もり始め、結局のところ開始して1時間半でイベントは中止、残りは来週行われることになった。昼には帰宅し、午後には翌日使う資料を作成した。浮いた時間は仕事に捧げることとなった。その分内容を吟味することができたが、そのような時間の使い方が果たして望ましいものかはわからない。

(四月二十一日 日曜日)

 休みにもかかわらず仕事に出るのはいつものことだ。きょうも平日と同様に家を出た。その負担については担当の部署によって雲泥の差があるもので、昨年までと今年とは気分がまったく異なる。

 しかし、そもそも休日に出勤するのが常態だということ自体が異常事態なわけで、それに慣れてへらへらと生きている自分がばかだと思う。七曜表が月・月・火・水・木・金・金、土曜も日曜もありゃしないというのは大日本帝国の頃と何一つ変わらない。未来にかかわる壮大な仕事と思ってやってきたが、思うような方向にはまったく進んでいない。

(四月二十日 土曜日)

 きょうは何の予定もない気侭な休日。仕事中心の慌ただしい生活からも距離をおいて、のんびりとここ十日間くらいのことを振り返った。昼には至近にある市場内の食堂で食べた。品質に気を遣っており、値段も良心的な店で、好感が持てた。

 ところで、東京はどこも修学旅行生で溢れかえっていた。ただでさえ人の多い都会に、あんなふうに地方の子供たちが訳も分からず彷徨い歩いているのはさぞかし邪魔だろうと思う。同時に、ここで地震が起きたらおしまいだと思わされる場面も幾度となくあった。それだけのリスクを冒してまでも東京を選ぶ意味がどれだけあるのだろうかとも考えた。地域によってはもう保護者の方が許さないだろう。きっと保護者の声が上がらなければ何も変わらない。平和ぼけから脱した地域が先を行くことになる。

 ふと「首都学習」という言葉が浮かんだ。首都に来て学ぶ。首都のことを学ぶ。首都に集積するさまざまな事柄から人間の本質に迫るという手法。3年間のすべてがここに結びつく。「人間」をこれだけ多面的に学習できる素材が集まっている場所はない。そして、これはたとえどこの国でもできるくらい普遍的なコンセプトだ。情報化社会を抜け出して、人間のほんとうの知性を俯瞰できるような学び。断片的な情報の羅列でなく、樹木のように幹から枝葉に広がる「知」を学ぶという発想。これなら修学旅行に3年かけるだけの意義がある。3年かけてやっている学習のすべてをここに集積させることができる。災害のリスクを冒してまでも選ぶ意味があるとすればこれ。「学ぶ」という営みが一つの線で一気につながったような気がした。

(四月十九日 金曜日)

 以前はディズニーランドで6時間も過ごすのは苦痛でしかたなかった。しかし昨夜は特に暇を持て余すでもなく、一人で楽しく過ごせた。昨日一日で何人の客があったのかわからないが、ものすごい勢いでカネを使わせる集金システムには驚くほかない。今日も東京スカイツリー、浅草仲見世と、ディズニーランドと同様のシステムについて、実物を見て学んだ。非常に暑い三日間だったが、岩手に戻ると寒さに身が縮むほどだった。

 今回ほど気楽で、ゆっくりとやってこれたことはない。その原因の一つは、事前の準備がわりと手厚かったことにあったと言えるだろう。そして何よりそれを受けて付いてきてくれた対象の存在が大きい。幸運の一言で片付ける人もいるだろう。しかし、その運をたぐり寄せる手立てを事前に講じてこれたこともまた事実だろうと思う。

(四月十八日 木曜日)

 

 一日目の昨日は上野公園、国会議事堂、全日空の整備工場、そして劇団四季のミュージカル「ライオンキング」の鑑賞。二日目はグループでの研修で、東京駅、日本橋、東京証券取引所、お台場、第五福竜丸展示館を訪問。その後は21時まで東京ディズニーランドで過ごした。個人的には、日本語版の「ライオンキング」を鑑賞できたことが感慨深い。ずいぶん前のこと、順調に進めば5月に鑑賞することになっていた年があった。それが寝耳に水の配置換えで自分だけ反故にされた。苦渋を味わったあの経験が、在外を志すきっかけとなり、数年後カナダに赴任することになった。赴任した年の春、トロントで英語のライオンキングを観た時にも感慨を覚えたが、今日はまた一周してあの頃のあの場所に戻ってきたような感じがした。

(四月十七日 水曜日)

 きょうから二泊三日の出張。必要経費すらどこからも出ず、自己負担を強いられるというおかしな出張である。全国の多くの同業者たちが首都に集結して焦燥と溜息と興奮の三日間を過ごす。このイベントを今回は今までとは違った見方で捉え、比較的かなり入念に事前の準備をしてきた。昨年度はこれに関連する項目を年間にいくつかちりばめて取り組んできたし、面白い資料が手に入ればすかさず印刷して配布し、読んでは解説を加えた。そこで対象のみならず、自分自身も学びを深めることができたのが大きな成果である。残念なことはあった。しかし、やるべきことはやった。大切なのは、これが結果ではなく、まだまだ途中経過でしかないということである。

(四月十六日 火曜日)

 大きな区切りの一日は、特に問題なく通り過ぎた。手を尽くしてもうまくいかないことはたくさんある。それでも構わない。手を尽くすということ自体が次の一手を導くものだからである。一手が見えたならあとは動くか動かないかのどちらかしかないから、そんなときは大概動いてみる。失敗することもあるが、またそれも次につながればいいとのんびり構えている。将棋はまったくの不得意だから何手も先を読むなんてことはできない。けれど、一つ動けば景色が変わる。動かないよりも動いた方が多少なりとも面白いかなという思いはある。一手の失敗が負けに繋がる勝負とは異なる。もっと長きに渡る闘いに挑んでいる。失敗かどうかなんてのは思うほど重要ではないのかも知れない。

(四月十五日 月曜日)

 丸一日の休みは仙台に行ってきた。郊外のアウトレットに開店の時刻に着くように出てジャケットを一つ購入した。その後いくつか見て回り、昼食を食べ、市内に入った。駐車場探しに少してこずった。午後はほとんど本屋で時間を費やし、戻ると夕方だった。いつものことだが一日がかり。だが、こういう日もたまにはほしい。

 夜には仕事上の依頼の電話をするが、見事に断られる。そして、もう一本電話をする。こちらは返答には時間がかかりそうなので結論は来週以降となる。

(四月十四日 日曜日)

 今週は一日長くて、きょうまでが通常営業。しかも夜には歓迎会が入っていた。昨日は帰宅してから作成に取りかかった。始めるとおもしろくなってきた。夜中までかかったが、そのかいあってなんとかプレゼンテーションも無事終了した。良いものができたかどうかはわからない。しかし、もしも昨日のままだったらと考えると恐ろしい。担当部分の説明も一応時間内におさめることができた。一つ懸案が残ったが、それは自分の責任の範疇には及ばないので致し方ない。やるべきことをただ粛々と進めるしかない。夜の歓迎会ではおもしろい人たちと話すことができて、思わぬ収穫があったので吉。

(四月十三日 土曜日)

 苦手なことの一つといえば、機械の扱いである。特に、放送機材の操作やプレゼンテーションソフトを使ったプロジェクターの使用についてはいつも誰かがやってくれていたから、自分でやる必要がなかった。それが、今回は自分がやらなければ誰もできないという状況が生じてしまった。明日が本番なのだが、きょう試しに映し出してみたらあまりに貧弱で情けなかった。それで以前誰かが作ったものを土台にして、新しいものを作ることにした。まずは明日を乗り切らなくてはならない。

(四月十二日 金曜日)

 

 いくつかのプロジェクトが交錯して、頭の中も整理がつきにくくなっている。一つ一つ切り分けて考えればわけはない。だが、夜になると何も考えられなくなる。そこで、日中にどれだけの段取りを付けておくかが大切になる。一つは来週に迫った二泊三日の出張。避けなければならないのは、「これさえ終わればあとはなんとかなる」という誤った認識に支配されることだ。一つがうまく終わったからといって次もうまく終わるとは限らない。

 一つを終えるその都度良きものに生まれ変わる。昨日の自分はここにはおらず、また、きょうの自分は明日にはもういない。その連続が人間として前に進むということなのだろう。

(四月十一日 木曜日)

 

 苦手意識を持ってきたことに向き合わねばならない場面が次々と訪れる。3月末で大きなプロジェクトの担当を交代し、一つの区切りがついたと思った。しかし、それが目の前から消え去るとまた別のものが目に飛び込んできた。負担感やストレスといったものは過去や他との比較によってもたらされる。以前より悪くない状況は気持ちを軽くするが、慣れて当たり前になれば重たく感じられるようになる。相対的な感覚だけでは状況に流されたり後追いになったりしやすい。現状維持で良しという甘さが通り、成長できずに終わる。要は、常に心にたしかな柱をもって風に揺らがないこと。そして結果として質的向上を図れるかどうかである。

(四月十日 水曜日)

 

 昨日の夕方行ったことが、きょうにつながった。多少動きがぎこちないところもあったのだが、自分なりには想定の範囲内で、まずまずの結果となり胸を撫で下ろした。一難去ってまた一難というが、これから11月くらいまではそんな感じが続いていくことになるだろう。だとすれば、こんなことを一難と呼ぶには抵抗がある。ほんとうに目指すべきはこんなものではない。もっと大きなものを作らねばならない。作れないとしたらそれは無力なのではなく、サボっている以外理由はない。

(四月九日 火曜日)

 

 新しい週が始まった。新年度が本格的に始動することになる。朝少し早めに職場に着くと、きょうの夕方のことについて、こうしたほうがよいのではという声があった。たしかにそのほうが良さそうだ。自分の考えにはなかったことだが、より良いと思えるアイディアがあるのなら、そして時間が許すなら採用しない手はない。午前中に目を回しながら構想を練り文書を作り昼休みに打ち合わせしているうちに、自分のイメージもはっきりしてきた。かくして夕方にはスムーズに動くことができた。いつでもスタッフの集団としての総合力が試されているのだと思った。

(四月八日 月曜日)

 昨夜は雨が降ったようだが、夜が明けてからはそれほど荒れ模様とはならなかった。左目の視力がさらに落ちたのか、レンズをはめても見え方がよくない。休日だと気持ちが緩むので、身体もあちこちの不具合が目立つのかもしれない。左の首のある一点に痛みがある。これも目から来るものだと思う。

 フェイスブックなどをみていると、若い人たちはよくやっているなと感心する。まだ十代でありながら、ほんとうに良いものに親しんだり、国境も世代の差も気にせずにまっすぐに世の中に向き合っている人たちの多いこと。着実にそういう人々が育っていることが嬉しい。内田樹先生はきょう公教育の破綻について書いていた。学校教育の再生にはもう打つ手がない。だが、私塾はそうでないのだという。たしかに、活躍しているのは学校という枠の中におさまっているような人たちではない。未来のことを真剣に考えて行動する人が、学校なんていうところで小さく縮こまっていられるわけがない。

 学校の破綻はもうずっと以前から感じていることである。それは、教師自身の生活が破綻していることからもわかる。いつの間にかそれにしがみついて生きる理由を探すのが困難になってしまっている。いずれ、「世のため人のために役立ちたい」という若者たちの素朴な気持ちに寄り添う機関でなければ、存続できないだろう。では自分がどうすればよいか、ぎりぎりの選択を日々迫られている。

(四月七日 日曜日)

 逃げてばかりと書いたけれど、考えてみれば自分から逃げたというのではない。これまでは望むと望まざるとに関わらず、巡りあわせることがなかっただけだ。そして、今回はたまたま自分に巡ってきたというわけで、それを自分にとって良き経験にするかどうかは自分の在り方次第なのだ。誰でも、どんな時にも言えること、つまり人間の本質に関わることなのだろう。

 きょうは平日と同じ時間に家を出て、午後1時頃まで仕事をしてからゆっくりと家に戻ってきた。昼寝していると銀行からの電話で起された。今度保険業を始めるというので、個人情報を根掘り葉掘り聞いてきた。言葉遣いが丁寧なわりには、個人的なことにあまりに踏み込んできたのでいささか不愉快であった。

 夜にはトロントという韓国家庭料理の店に行って食事をした。まるで輸入家具屋のようにきれいな調度品に囲まれた店内で、チヂミやプルコギやキムチ炒飯を食べた。この町の良店のひとつである。

(四月六日 土曜日)

 大きな節目の一日。さまざまな出会いが交錯して、至る所で笑顔が弾けていた輝くべき第一日に、僕はあまり不満や怒りなど感じなかった。だが、同じような感覚の人はここには少ないようだ。

 バランス感覚は悪くなかった。終わりと始まりは、別なのだ。終わりには始まりが隠されているが、始まりには終わりが隠されているのではなく、始まりとは終わりの次のことだからである。

 夜には四月の行事があって、またしても進行役をやらなければならなかった。しかも、今度は会長という役まで仰せつかって、これから一年は夜の会のたびに挨拶することになった。一つ解放されたと思ったら、意外なところでお鉢が回ってきた。でも仕方ない。これまでこういうことからは逃げてばかりいたのだから、少しはやって勉強せよという神様のお達しなのだろう。毒を喰らわば皿までの心境である。ひょっとしたら何かの役に立たないとも限らない。

(四月五日 金曜日)

 誰の声も聞こえない部屋で黙々と掃除を続けていた。汚れた部屋が少しずつきれいになっていくのは気分が良い。自分がやったことで変化がこんなに目に見えるというのが良い。はじめの一日のために、何日分の時間をかけて準備をする。そのことの価値を疑わない。一年かかってだめだったことが、最後の一日で報われることもあるし、逆に、最初の一日がうまくいくことであとの一年が嘘のように円滑に進むということもある。最近前者のようなことはなくなったが、後者のようなことは増えた。それは一年が早く感じられるようになった理由とは別だろうけれど。

(四月四日 木曜日)

 きのうもおとといも同じ言葉を書いていた。以前意識して使わなかった言葉だから、無意識とはいえ恥ずかしい。うそでもまことでも書いたことがそのとおりになるとしたら、もうその言葉は使うまい。 この日は比較的自由度の高い一日で、会議がいくつかあったものの、自分のリズムで仕事を進めることができた。しかし、右左に飛び交う会話を小耳に挟むといささか耐え切れない気分に陥ってしまうのであった。余裕やゆとりでは済ますことのできない病理がそこにあるような気がしたからだ。

(四月三日 水曜日)

 準備の会議やら文書作りやらばかりだから、それほど労力がかかるわけではない。しかし、本来職務に当たる場所とは別の場所にいる時間が長いために、普段とは疲れ方が違う。帰宅して、夕食を作って、食べて、ソファーに座ると眠くなり、20時には布団に入ってしまった。

 きのうは三年前まで関わりのあった二人から立て続けにメッセージをもらった。二人ともとても丁寧に気持ちを書いてくれていたので、成長を感じて嬉しくなった。故郷を離れて、遠くの街で新しい生活を始めたかれらの輝かしい前途を祈る。

(四月二日 火曜日)

 最近では風呂に長く浸かっていると寝てしまうので、湯船にはほとんど入らないことにしている。年度の初日だった。何をまとまったことをしたわけではないが疲れた。新しい人たちと顔を合わせたからだろうか。あるいは、きのう書いたことについて考えが頭の中を行き来して、眠りが浅かったためだろうか。批判ばかりで自ら変えようとしていないじゃないかと、自分を責めていた。 

(四月一日 月曜日)