二〇一三年八月

 今月も最終日となった。お盆あたりからは日記を毎日書くことをしなかった。先月試みたフェイスブックへの掲載もしなかった。今月は今月で、一か月分の一つのファイルでアップしてみようか。毎日ご飯を食べるように、トイレに入るように、何かを書くことが人間にとって当然のことと意識できたならおもしろい。音楽を口ずさむように、絵を描くように。それができるような世の中となれば、一人一人ができることは広がるだろう。

 ところで、この日は6時半に家を出てから17時頃まで仕事で外にいた。予報では夕方から雨とのことだったが、幸い最後まで降ることはなかった。何かまとまったことをしていたわけではないけれど、頭の中を絶えず動かし続ける土曜日など心身が休まるわけがなかった。

(八月三十一日 土曜日)

 怒涛のような、というほどでもない一週間が淡々と過ぎた。今朝も3時半に起きて仕事をした。今日のものを今日仕上げるのは愚かだが、そうしなければとても間に合わない。完成したのが6時半。朝は集中できるから書くのには最適だが、それでもこれくらいかかったのは不本意だった。今日は、茨木のり子の「聴く力」との出会いが鮮烈だった。それから、ネットで「ちょっといい話」と検索したら、簡単におもしろい話が出てきた。その中で「ノミの話」がわかりやすくて示唆に富んでいたので、朝に話した。探し方は安易だったけれど、多くの人々に言葉との出会いをもたらすことができたとしたらうれしい。

 夕方の空はきれいだった。こういう神秘的な現象がけっこうな確率で繰り広げられていることに、関心を向けることがあまりないと思った。オーロラと並んでダイナミックな空のスペクタクルではないか。

 必要に迫られて某所を訪問したり、人物と面会して今後のことを確認したりした。その後、閉店間際の産直で買い物をした。蛍の光の鳴る中で籠を持って回っていたら、店内の照明を消されてしまい、焦った。

(八月三十日 金曜日)

 3時半に起床して当日の準備。杉原千畝について調べ、資料を作成した。杉原は第二次大戦中にリトアニアの日本領事館にいた外交官で、ナチスの追手を逃れて救いを求めてきたユダヤ人たちに対し、外務省の訓令に背いてビザを発給し、約六千人の命を救った人物である。終戦後杉原は外務省を免官となったが、亡くなる前年の1985年にイスラエルから日本人初となるヤド・ヴァシェム賞を受けた。しかし、日本政府により公式に名誉回復がなされたのは、生誕百年である2000年のことであった。 国の命令と人の命を天秤にかけたとき、どちらが重いかは自明かもしれない。しかし、自分がどちらかの選択を迫られたとして、人命を取る者がどれだけいるだろう。責任ある立場である程、国の中枢を担う者である程、それを選ぶことは難しくなる。

(八月二十九日 木曜日)

 学校時代の3年間を人の一生になぞらえてみれば、3年生の2学期はいわば老後である。これから卒業までの目標を考えようなどと問いかけて午後の1時間を過ごした。こちらとしては、限られている自覚を促したいと思ったわけだが、そもそも人生と並列でイメージすることなど難しかったかもしれない。学校ではこれから文化祭という一大行事があり、最後に進路選択という大問題が待ち構えているわけで、人の老後とはわけが違う。 若者は持ち時間が長い分、その時間を浪費しがちである。時間が限られていると自覚するのとしないのとでは生き方が異なる。尤も後悔を活かす時間も多く与えられているのだから、どれほど多く失敗してもあますことなくすべてを自分の財産にできる。そう考えれば、浪費を諌めることも無駄を否定することも必要ないかもしれない。 「人生をあと5年と仮定せよ」とずいぶん前に何かで読んだ。いまの自分は果たして5年もあるだろうかと考えてしまうが、そんなわけないと無制限な時間の中で自由でいられる若者なら、その時間を思う存分謳歌してほしいとも思う。

(八月二十八日 水曜日)

 月曜を終えて火曜の朝に目覚めると、きまって「きょうも休みか」と間違った感覚に襲われる。もちろんそんなはずもなく、すぐに観念して仕事の気分に切り替える。長い一週間が長いと感じるのはせいぜい火曜あたりまでで、水曜の朝を過ぎるともう週末かという気分になる。一週間というスパンがどんどん短くなっている。 今朝の朝日新聞の「耕論」は「時間を取り戻す」がテーマだった。「ゾウの時間 ネズミの時間」で有名な本川達雄氏の言葉が載っていた。その中から印象に残った部分を引用する。

 「~効率化を求める近代文明は、主役がモノから情報に移ったことでスピードに歯止めがかからなくなってしまった。だから、『24時間、戦えますか』という空気が再び生まれたのです。 こんなこと、対応できるのは機械だけですよ。人間の体では無理です。脳みそだけならまだしも、体は悲鳴を上げる。極限まで働かせるブラック企業で、耐えられなくなる若者の方が普通だと思いますよ。 ただ、世界で勝ち続けるには、私たちは猛烈な速さで進む時間を耐え忍ぶしかないのかもしれません。だからせめて、自分は異常に速い時間の中で生きているんだ、ということを早く認識した方がいい。そしてオフの日には機械から離れ、自分の時間を取り戻してください。さもなければ、そのうち身も心も破裂してしまいますから~」

 こんな時代にまた土曜日が復活するという噂もある。以前とは違う時間感覚で週一日の休日、しかもその休日も満足に休ませてくれないとしたら、早晩破滅してしまうのは必定。これが全国で広がるとしたら悲劇。そんな職業からは早々に足を洗うのが身のためかもしれぬ。

(八月二十七日 火曜日)

 8月最終週。たしかこの日は夕方から会議があった。一つの懸案について、かなり長い時間かけて議論したのだった。それは、今後予想されるある事態への対処法であった。この事態はすでに全国各地いたるところで発生しているのだが、それなら他の所を真似すれば解決できるかというと、そんな簡単な問題ではない。それぞれ個別に、実態に応じたやり方を開発する必要がある。この労力たるや相当なものである。もしも根本のところで、優れたアイディアを示してくれるのであれば、現場がこんなにも混乱することはないのにと思う。

(八月二十六日 月曜日)

 朝から涼しい日曜日。この十日間くらいのことを振り返っているうちに昼になる。日曜美術館で見た影絵作家・藤城清治の特集は見応えがあった。那須高原の美術館にも訪ねてみたいと思った。那須にはいつか仕事で行ったことがあるが、そんなこととは関係なく行ってみたいと思ったのだ。藤城が種山ヶ原を訪ねる場面も出ていた。種山ヶ原ならここから1時間ちょっとで行けるはず。

 イチローが四千本安打を達成したときの記者会見を読んだ。この人だからこそ言える言葉がある。その言葉の重みを感じることができる人と、そうでない人がいるのだと思った。子どもの頃、藤圭子をテレビで見ると、なんて無表情なんだと思ったものだった。だけど、いま当時の映像を見たらきれいな人だし、何より良い歌手だったんだなとわかる。子どもの頃の記憶や感覚なんて信用できない。

(八月二十五日 日曜日)

 仕事場に出るもたいした仕事はなかった。外のベンチで30分ほど本を読んでから、一カ所訪問して用務を済ませた。何の進展もないことには腹立たしいが、今後どのようにして問題を解決すればいいのか、結局のところ自分は当事者ではなくて、ただの支援者とかオブザーバーとかいう立場でしかないのかもしれないと思った。一関に戻ってきて、今まで入ったことのない店で少し食材を買った。

 早朝には雨が残っていたが、昼前には青空が広がり、夏らしくなった。夕方にはトマトとにんにくとタマネギとピーマンとウインナーを炒めて、スパゲッティに絡めて食べた。ケチャップは使わないので洋食屋のいわゆるナポリタンとは別物だけれど、悪くなかった。

(八月二十四日 土曜日)

 「処暑」だそうだ。朝晩に限って言えば、少しは暑さが和らいだろうか。日中でも、風があれば騒ぎ立てるほどの暑さでもない。風がなくて空気が停滞している時には、気温に関係なく暑いと感じるらしい。午後からは出張で、早く職場から去れるというのがきょうの励みとなった。出先の会議ではどうでもいいようなことが話し合われた。つまり、これからやらなければならないプロジェクトは、やらなければならない以外には目的がないということだ。無意味だが続いているようなことが、ここにもひとつ。二つ三つ懐かしい顔があり、終了後に少し挨拶をした。会場近くの産直で野菜や果物を買って、早めに帰宅した。金曜に早く帰るというのは気持ちにゆとりができて良いと感じた。

 「夢で会いましょう」というテレビ番組を見た。ギャグなどはそれほどとは思わなかったが、中村八大の作った曲がよかった。価値観が多様化した現代でも、音楽は質の良いものだけを求めたい。

(八月二十三日 金曜日)

 あっという間の一日。高校野球の決勝戦が行われた。東北勢は全部敗れたので、熱が一気に冷めてしまったが、どうにかして戦況をチェックしようとしていた人も多かった。仕事に関していうと、面白いことはひとつもない。つまらないこと、というか、不条理だと思わされることがひとつあった。つらい。この怒りをどこにぶつければいいのだろう。

 「モリー先生との火曜日」(ミッチ・アルボム)という本を読んだ。読むにつれて、つまりモリー先生が死に近づくにつれて気持ちが引き込まれていった。病が襲ってくることは不条理だ。それが自分に降りかかってきた時、多くの人はそれを不幸だと思う。僕だってきっとそうだ。でもそれさえも許せる人がいる。最近考えるけれど、この先それほど大したことはできないだろう。これだけはやっておきたいこと、なんてきっとひとつもできずに終わる。それでも笑って死ねる心性をもてたら。

(八月二十二日 木曜日)

 高校野球の準決勝が行われた。地元のチームが敗れてしまったが、ここまでやった選手たちやスタッフを讃えたい。思うに自分は野球という競技が好きだということではなく、地元のチームが活躍していることへの関心のほうが強いのではないかと思う。これがたとえサッカーであっても、注目する気持ちは変わらないかもしれない。思えば高校サッカーで盛岡商業が優勝した時は、結構熱く応援していた。

 勝敗の決まるスポーツというのは、人間育成のシステムとしては必ずしも深みの維持できるものではないと今では考えている。しかし、人々の気持ちを結集するには手っ取り早い手法ではある。

 ピッチャーが振りかぶって投げるまでのリズムと、力士がはっけよいで両手を付き、のこったで前に飛び出すまでのリズムが似ているように思う。野球の人気の秘密はここらへんにあるような気がする。

(八月二十一日 水曜日)

 通常業務に戻った日。朝からすぐに普通の感覚になった。それほど心が波立つこともなかった。しかし、しばらくアウトプットから遠ざかっていたから、自分の発する言葉がぎこちなく感じられた。アウトプットばかりかインプットもサボっていたこの休みの過ごし方に問題があったということだ。何事も使わないと錆び付いてしまう。錆び付くうちにその使い方さえ忘れてしまう。以前は必要だったことさえ、そうとも思わなくなる。必要だったことが必要でなくなるのは、悪いことではないか。それは歳を取るということだろうか。たしかに歳を取った。歳を取ったわりには無駄なものを抱え過ぎている。

 夕方には二つ会議があった。一つ目は内部の会議で、言いたいことを言ったけれど説得力がなかった。後から思えば、説得力はなかったが、納得力もなかったのだろう。二つ目は来客があってその方達との話し合いだった。そこでも言いたいことを言った。言っているうちに暴走気味になっているのが自分でわかったので、途中から自重した。この人たちに話したところで、何も変わらないと思った。

(八月二十日 火曜日)

 この日は当番に当たっていた。それほどたいへんな仕事もなく、一日が通り過ぎて行った。高校野球の準決勝が行われた。四試合とも良い試合だったようである。夏の暑い日に一日涼しい格好で気楽な立場で球場にいたら楽しいだろう。でも、太陽の下で一日いたら日焼けでひりひりになるだろう。ナイトゲームで夜風に吹かれたことに味を占めて、今シーズンもう一度宮城球場に足を運んでみることにした。特に今年は楽天が優勝しそうな勢いなので、地元の盛り上がりに混じって雰囲気を味わうのもいいだろう。と、そんなことくらいしか楽しみも浮かばないということか。

(八月十九日 月曜日)

 今年の盆休みは比較的余裕があった。それで読書をする時間や、ゆったりテレビを見て過ごす時間をもつことができた。この日は朝から座って本を読んでいた。昼過ぎになって少し買い物に出たくらいだった。そうして、休んだなと思った頃には、また仕事が始まるのだった。

(八月十八日 日曜日)

 花巻東高校の試合からずっとテレビを見ていた。合間には少し本を読んだりもしたが、こんなに長時間テレビを観ていたのは久しぶりだった。

(八月十七日 土曜日)

 妻の実家に墓参に出かけた。寺では境内に吊り下げられた色とりどりの盆提灯に季節を感じた。手作りのおこわとスイカを御馳走になった。いつもそうだが、義母とそれほどじっくり話をすることはできなかった。野菜類をたくさん土産にもらった。

 その後、やくらい高原の麓にあるGENJIROという名の喫茶店に立ち寄った。自然の中にある雰囲気の良い店だった。店内の調度品がきれいなだけでなく、厨房の鍋や食器などが素敵だったので、写真を一枚撮らせていただいた。それに、店の外には木道が整備されており、森の中をぐるっと散歩できるようになっていた。なかなか楽しい時間だった。

 店を後にした車の中で、あのおこわがおいしかったという話をしたら、もらって帰ろうということになり、再び実家に寄って帰宅した。

(八月十六日 金曜日)

 朝食を食べて宿を出た。朝から外は暑かった。本宮のほうに出ると街がかなり変わっていた。珈琲を飲みたくなったので、マクドナルドのドライブスルーを使った。レーンが二重になっており、これだけ規模の大きなドライブスルーを見たのは初めてだった。ここはアメリカかと思った。

 原敬記念館の前を偶然通りかかり、ちょっと見てみようという気になった。入ったのは初めてだった。官僚、政治家としてだけでなく、経営者としても実力のある人物だったことを知った。その後は国道をゆっくりと南下して帰宅した。

(八月十五日 木曜日)

 午前中は部屋で過ごし、午後から実家に出かけた。高速道路に乗ったら、水沢の手前で事故があり、そのため長い渋滞ができていた。1時間くらいのろのろと進んだので家に着くのが遅くなった。仏壇を拝んでから、墓所に行った。その後は盛岡まで行って、親戚たちと飲んだ。妻はまだ体調が思わしくないので新幹線で帰宅したが、自分は駅近くのいつもの宿に泊まった。

(八月十四日 水曜日)

 

 読書をしていた日。七月末からこんな本を読んでいる。「直感力」(羽生善治)、「修行論」「街場のメディア論」(内田樹)、「コミュニケイションのレッスン」(鴻上尚史)、「千々にくだけて」(リービ英雄)。書き出してみるとわかるが、小説はあまり読んでいない。

 午後からはテレビで花巻東高校の野球を観戦した。

(八月十三日 火曜日)

 実家に持っていく手土産品や、靴やらシャツやらの買い物をした。それから、「風立ちぬ」という映画を観た。ジブリの映画を劇場で観たのは初めてだった。そして、宮崎駿のアニメを最後まで観たというのも自分にとっては珍しいことだった。零戦は戦争に使われるとしても、設計者はそれほど意に介さなかっただろうし、ましてや責任など感じなかったのではないかと自然に思った。時々織り込まれる夢の場面が楽しかった。夜みる夢と将来の夢というのは、やはり同じなのだ。環境や時代とは無関係に人は夢をみ、夢を追いかけるものであると思った。

(八月十二日 月曜日)

 6時半頃に出なければならなかったので、朝の散歩はしなかった。突如強い雨が降り出したが、しばらくすると小降になった。祭会場でも降ったり止んだりしていたので、外ではなく屋内で行われることになった。作品の審査や表彰式が中心であった。中学生が最高賞を取ったのは初めてだという。その他にも関係者が三つ賞を受けたことも痛快だった。だが、これで晴れて盆休に入るという解放感が何よりも嬉しかった。昨年度とは全く違う。ありがたいことである。正午過ぎまでいて、帰宅した。

 楽天の試合を見ようと仙台に行った。球場の上の方は風が心地よかった。4時間半くらいかかる緩慢な試合だったが、ボールパークの風情を感じながらビールを飲むのは楽しかった。

(八月十一日 日曜日)

 この日も朝に散歩をした。磐井川にかかる下之橋を渡り、また戻った。昨日の大雨のため北上川の水位が上がっていたのだろう。そのため、磐井川の水量も増え、流れは淀んで鏡のように河畔の木々を映し出していた。

 昼から出勤した。地域の祭に関わる仕事だった。22時頃までいて、帰宅した。

(八月十日 土曜日)

 リハビリを兼ねて5時から家の周辺を散歩した。どれほど続けられるか。昨日の打ち合わせ通りに書類を調えて、電話で打ち合わせをして、早いうちに必要な文書の送付を終えた。それから雨が落ちてきて、外仕事が中断となったことも幸いして、午前のうちに必要な文書を作成することができた。午後に時間が出来たので、少し離れた町まである物の支払いに行った。昔ながらの風情が残る町だった。

 秋田と岩手でこれまで経験したことのないほどの大雨が降っているとのニュースを聞いた。雫石や盛岡、そして実家の近くもたいへんらしい。

(八月九日 金曜日)

 朝には新宿の街を散歩した。宿を出た途端に、仕事の電話がかかってきた。休みには必ずといってもいいほど仕事関係の電話が入ることになっている。それが自分の癖なのである。

 東郷青児美術館で、「<遊ぶ>シュルレアリスム―不思議な出会いが人生を変える―」と題された展覧会を見て、紀伊国屋で本を見て、伊勢丹をぐるっと見て、原宿の太田記念美術館で浮世絵を見たら帰りの時刻になった。

(八月八日 木曜日)

 昼過ぎまでの動きはこれも昨日とほぼ同じ。午後から明日まで休みを取って、芝居を見て来ることにしていた。大宮経由で新宿まで。紀伊国屋サザンシアターで、こまつ座の「頭痛肩こり樋口一葉」を鑑賞。明治期の変革の波、女性の生きにくさ、時代に関係なくある人間の苦悩。主題はと問われると、まとまりがまだつかない。ただ、「ぼんぼんぼんの十六日に地獄の釜のふたが開く」という挿入歌のフレーズが頭の中に鳴り響いている。

(八月七日 水曜日)

 午前中の動きは昨日とほぼ同じ。必要だった交渉事は無事終了し、それを電話で報告。昼には、本日退院の妻を迎えるため、職場から直接仙台の病院まで車を走らせた。病棟の看護師さん方や患者の皆さんに感謝を告げて病院を後にした。

 15時前だったが空は真っ黒で今にも雨が降り出しそうだった。帰りに少しモール内を散策し、飲み物を買って外に出る頃、ぽつぽつと降り始めた。車内で少し休み、落ち着いてから車を出した。高速道路で前の見えないくらいの豪雨に襲われた。雷も凄かったが、雲を抜けると小降になった。

 帰宅してから、寝耳に水の留守電メッセージを聞いた。度肝を抜かれたが直接話して事なきを得た。(八月六日 火曜日)

 

 定刻通りに出勤してから、電話で数カ所と交渉。朝の早いうちにだいぶ進めることができた。その後は、外と内を行ったり来たり。昼には少し本を読む余裕もできた。やらなければならないことは、朝に済ませるというのがいい。朝に済ませる時間があればの話だが。

(八月五日 月曜日)

 この日も好天。最寄り駅まで弟たちを送り、そのまま国道を南下。道の途中で気になっていたパン屋を発見することができた。本屋と文房具を物色。残念なことに、2000円分もたまっていたポイントカードが失効していた。

 帰宅すると仕事の電話が二件入った。多少驚いたが、来週の動きが確認できてよかった。

(八月四日 日曜日)

 朝から好天に恵まれた。花巻広域公園のちびっこ広場で、姪を遊ばせた。充実した遊具群。大人たちが交代で面倒をみた。お尻から水たまりに落ちたり、帽子を泥に落としたりとたいへん。マルカンデパートの大食堂で昼食。名物のソフトクリームも。夜には盛岡の叔母と合流し、さんさ踊りを少しだけ見物。人の多さに表通りはほとんど進めなかった。

(八月三日 土曜日)

 久しぶりの青空。午前中は奥州市で研修。以前の同僚に会い、いくつか情報交換をした。日中は暑くなった。終了後は国道を北上して実家まで。弟の家族が帰省。花巻南温泉郷は渡り温泉で一泊。

(八月二日 金曜日)

 朝には市内にちょっとした出張。小雨混じりの曇り空。用件が済んでからは職場に行き、仕事。

(八月一日 木曜日)