二〇一三年二月

 高田松原について、ウィキペディアには次のような記述がある。

 高田松原は江戸時代の1667年(寛文7年)、高田の豪商・菅野杢之助によって植栽され、仙台藩と住民の協力によって6200本のクロマツが植えられた。その後、享保年間(1716-1736年)には松坂新右衛門による増林が行われ、以来、クロマツとアカマツからなる合計7万本もの松林は、仙台藩・岩手県を代表する防潮林となり、景勝の一つであった。その白砂青松の景観は世に広く評価されていた。

 東日本大震災の津波の後、高田松原でわずか一本だけ倒れずに残った松の木は、「奇跡の一本松」と呼ばれ、復興のシンボルとなった。衰弱した松は一旦切り倒され、防腐処理を施され、金属の心棒を通された上で、モニュメントとして元の場所に再び植えられるという。

 はじめに植えられたのが1667年というから、今から345年ほど前のことだ。それからたびたび増林されて、7万本の見事な松林となった。

 あの津波により、松林は惜しくもそのほぼすべてが失われてしまった。しかし、自然現象としてみれば何も不思議なことではない。人間は、時には自然の恵みに与り、また時にはその猛威と向き合い、闘いながら生きてきた。たしかに人命をはじめ計り知れない犠牲をともない、今なお復興まではほど遠い道のりであることは事実だが、それを受けとめて前に進むことが必要だと思う。

 その受け止めた証がモニュメントということなのかもしれない。だがそれなら次にもやるべきことがあるのではないかという気がする。

 碑(石文)はいずれ読まれなくなる。ほんとうに残さなければならないものは、人間の営みそのものではないか。菅野杢之助の志、松坂新右衛門の志を受け継いで、樹を植える努力である。300年かけてできたものは失われたが、また300年かければまた元の林を作ることができる。幸い現代日本には、財力をもつ者、権力をもつ者がまだまだ多くいる。いま生きている人が、再び高田松原を目にすることは叶わなくても、300年後の人たちが浜辺で憩う姿を想像すれば楽しい。そんなふうに具体的に歩む人々をつくることに、わずかながらでも携わることができたらうれしい。

(二月二十八日 木曜日)

 昨日付朝日新聞「わたしの紙面批評」で内田樹先生の書いた文章に共感するところが多かったので、備忘のためここに全文を引用して掲載しておきたい。

 大阪市立桜宮高校の体罰自殺事件に続いて、女子柔道監督の暴力に対する選手たちからの告発報道があり、紙面はこの話題が続いた。この件について片山杜秀氏の「体罰、近代日本の遺物」(2月19日朝刊文化面)が私が読んだ範囲では、もっとも射程の長い考察だったと思う。

 片山氏によれば、体罰による身体能力操作の悪習は日露戦争に淵源(えんげん)を持つ。「持たざる国」日本は火砲に乏しく、「大和魂」に駆動された歩兵の 絶望的な突撃と悲劇的な損耗によって薄氷の勝利を収めた。このとき火力の不足は精神力をもって補いうるのだと軍人たちは信じ、その結果、大正末期から一般学校にも軍事教練が課された。以来「しごき」によって戦闘能力は短期間のうちに向上させられるという信憑(しんぴょう)は広く日本社会に根づいた。今日の学校体育やスポーツ界に蔓延(まんえん)する暴力はその伝統を受け継いでいると見る片山氏の指摘は正鵠(せいこく)を射ていると私は思う。

 日露戦争より前、西南の役において、農民出身の鎮台兵を短期の訓練で前線に投じる「速成」プログラムの整備が陸軍の喫緊事であると説いたのは山県有朋であった。「速成」が要請されるのはいつでも同じ理由からである。「ゆっくり育てている時間がない」というのだ。短期で精兵を仕上げるためには、青少年の心身の自然な成長を待つ暇がない。「負けてもいいのか」という血走った一言がすべてを合理化する。

 私はひそかにこれを「待ったなし主義」と名づけている。近代日本の組織的愚行の多くは「待ったなし」という一語を以(もっ)て合理的な反論を遮り、押しつぶし、断行されてきた。今もそれは変わらない。

 スポーツにおける体罰を正当化する指導者たちもまた例外なく「待ったなし主義者」である。「次のインターハイまで」、「次の選考会まで」、「次の五輪まで」という時間的リミットから逆算する思考習慣をもつ人にとって、つねに時間は絶対的に足りない。だから、アスリートの心身に長期的には致命的なダメージを与えかねない危険な「速成プログラム」が合理化される。

 その一方で、「待ったなし」主義はアスリート自身にも不条理な指導を受け入れるための心理的根拠を提供する。というのは、「あそこまで我慢すれば、この苦しみも終わる」という「苦しみの期限」があらかじめ開示されているからである。

 私が大学入試の面接官をしていた頃、推薦入試の自己アピール欄に高校でのスポーツでの実績を掲げていた受験生に幾人も出会った。「大学でも続けますか?」という私の問いにほとんどの受験生は気まずそうな表情で応じた。「まさか」と苦笑するものもいた。そのときわかった。彼らにとって、競技での好成績は「苦しみの代価」として手に入れた高校時代の誇るべき達成だったのである。ようやくその「苦しみ」から解放されたのに、どうして大学に入ってまで……と いう高校生の素直な驚きのうちに私は現代の学校体育の歪(ひず)みを見た思いがした。

 体罰と暴力によって身体能力は一時的に向上する。これは経験的にはたしかなことである。恫喝(どうかつ)をかければ、人間は死ぬ気になる。けれども、それは一生かかってたいせつに使い伸ばすべき身体資源を「先食い」することで得られたみかけの利得に過ぎない。

 そんな背景も押さえながら、今後、この問題を報じていってもらいたい。

 「待ったなしだ」という脅し文句で、手をつけてはいけない資源を「先食い」する。気鬱(きうつ)なことだが、この風儀は今やスポーツ界だけでなく日本全体を覆っている。

 根本的に、スポーツや体育といったものは勝つためにやるものではないと思う。勝つために苦しむことを子どもたちに強いるのは、子どもたちをスポーツから遠ざけてしまうことにならないかという心配がある。ましてやそこに暴力が介在するとしたら、それは指導ではなくエゴであり、子どもたちの未来を奪う行為だ。いわば大人たちの身勝手。運動とともに一生を送るなら、勝ち負けは必要ないし、体力や運動能力の優劣も問題にはならない。ただ己を高めることを目標にして親しむ道を歩めるのがよい。

(二月二十七日 水曜日)

 酷い態度を向けられたので、それを誰かに伝えたいとか共感してもらいたいとかいう気持ちがわいた。それが自分でなくて誰であっても、自然に嘆き節が口をつくに違いない。この2年間、それだけ特殊な状況に置かれていたのだと改めて感じる。聞かせられる側は迷惑だったかもしれないけれど。

 きのうきょうは、日曜夜の出来事について周辺の人々に聞いてもらったのだった。それによって、今後どのような展開になるのか、考えることはしなかった。ただ、誰のどのような動きによりどのような展開になろうと、悪い方向には転ぶまいという気はしているのであった。

(二月二十六日 火曜日)

 その日何をしたのかなど、忘れてしまった。大したことなどなかったはずだと片付ける、投げやりな態度では、いくら充実した一日を過ごしたとしても、その人にとって価値は残らない。忘却の彼方の朧げな残像が、遠ざかった頃に際立ち重厚な実体として目の前に迫ってくる。そんな一日があればよい。

 この月曜日をやり過ごすために、土曜も日曜も仕事をしたのだった。特段イヤだなあなどという感情をもつこともなく、時間を消化した。それが良いことか悪いことかはわからない。

(二月二十五日 月曜日)

 大雪の日曜日、朝9時過ぎには職場にいた。午前中は二つの場所を行き来したが、そのうちの一か所には少しの時間しか滞在しなかった。午後には、コンビニで買った昼食を食べて、少し仕事をして、また場所を移動した。2時間ばかり、とあるパフォーミングアーツに接する。地方と中央をつなぐ在り方を体現した脚本と言ってよい。この脚本家とはその夕方に初めて短く会話をした。鄙には住むが埋もれず、常に世界を見つめる目を持つ人なのだという意識でかれをみた。

 終了後はすぐ職場に戻り、1時間ほど仕事をしてまた場所を移してある会合。焼き鳥を4本くらい食べて、ノンアルコールで流し込んで、17時から始まったというのに終わったのが22時半だった。そこから凍った道を1時間かけて帰る。酔った人の言葉が二転三転してわけがわからなかった。ここはまさに外国のようなところだと思う。

(二月二十四日 日曜日)

 休日だというのにすぐに朝9時を回った。クリーニングを出して、不動産屋に行って書類を取って、戻ってくると1時間が経っていた。ラジオではシェイクスピアの芝居のことを話していた。原作は古くならないが、翻訳は必ず古くなる。だから、できるだけ古くならない表現を心がけているという話だった。できるだけ古くならないようにというのは、多方面に応用の効く言葉だと思った。

 仕事をする必要があった。結果的に夜までだらだらとやることになった。テレビもたいして見なかった。翌日のことを考えると楽しいことは何も思い浮かばなかった。

(二月二十三日 土曜日)

 いつにもまして金曜までが速かった。週末まであと二三日残っているような感覚である。テーマは朝から一貫していたが、それが伝わったかどうかは疑わしい。ところで、暴力についてはかなり敏感に身体が反応する。自分から手を出すことなどもう考えられない。夜はきょうも遅かった。だからなのか、金曜の夜はいつもそうなのか、スーパーマーケットもコンビニエンスストアも、弁当類はほとんど売り切れだった。

(二月二十二日 金曜日)

 気がつくと夕方だった。しなければならないことに手をつけたのは18時頃だった。3時間かかって半分終わったが、それ以上は何もできなかった。外は雪景色となり、10センチほども積もっていた。車の雪を払って乗り込もうとした時に、足下を滑らせて転んでしまった。遅かったから、コンビニでおにぎりなどを購入して、車内で食べた。

(二月二十一日 木曜日)

 時間は有限であるということを忘れがちだ。心臓辺りがくくくっと苦しくなって意識を失ってそのまま帰らぬ人となる。明日それが起きてもおかしくない。気が遠くなるほどの時間を駆け抜けてきたこの生命は、いったい何人の人をここまで運んで来たのだろう。しかも、私達には気が遠くなると感じられるほどの時間も、他の者たちにとってはほんの一刹那でしかない。長い時間は、同時に短い時間でもある。ちっぽけな存在は、同時にかけがえなく大きな存在でもある。事実は一つかどうか、2時間突っ立って考えていた。一つとも言えるし、無数とも言える。たくさんの主体がある。それら個々の意識の中に、世界のすべてが存在する。哀しみはいずれ消えるが、同様に、愛しさですら音もなく消える。こんなことを全身全霊で空想している自分のこころすら、いずれ無に帰することになる。それは、世界にとっての救いかもしれぬ。

(二月二十日 水曜日)

 雨水を過ぎたと言えども雪は断続的に降る。日曜日に洗った車もまた汚れが目立つようになった。すぐによごれることはわかっていたけれど、それでも洗わざるを得ないほど気持ちが悪かったのだ。雪はすすぐと読むけれど、雨でなければ洗い流せないものがある。汚れて洗ってまた汚れてと、三寒四温というのはそういうことか。春が待ち遠しいと言うけれど、今の季節も悪くない。と言っているうちに、今の指し示す内容が確実に変化していく。

 仕組むことが大切というが、変に仕組まれているのがわかると興醒めということもある。仕組むことは仕組み。だとすると、仕組み方いかんですべてがおかしくなるということもある。そんなとき根本のおかしさを目にしても、何も変えようがない。この無力感をどうしてくれようか。

(二月十九日 火曜日)

 東京の魅力について考える。特に東京駅から日本橋辺りにかけて。知らずに購入した雑誌に、そのテーマど真ん中の記事が載っていて驚いた。以前シマウマについて考えていた頃、本屋で偶然目にしたのが表紙にシマウマの写真が載ったナショナルジオグラフィックだった。それを思わず購入した時みたいに、偶然が偶然のふりして透明なレール上を突っ走っているような感覚に陥った。透明なレールはやはりたしかにこの地平にまっすぐと、どこかに向かって伸びているというように。

(二月十八日 月曜日)

 早朝に起きて入浴。風が強く、かなり寒い一日だった。朝のうちは先週の新聞をまとめて読んだりした。フェイスタイムというので話すと、まるで同じ部屋にいるように感じられる。Siriというのも、声がそのままテキストに変換できるから優れものである。慣れると、それまでの日常とは質が変わりそう。

 昼には買い物に出かけ、その足で洗車場に行った。この時期は車が酷く汚れてしまう。その他きょうは不動産と車のディーラーに連絡をした。アパートの契約を更新することになるし、車も車検が迫っている。夕方からは仕事の続きを進めた。何かと片付けなければならないことの多い二月三月である。

(二月十七日 日曜日)

 土曜日の午前中はあっという間に通り過ぎる。昼から仕事を始める。ほんとうであればとっくの昔に終わらせていなければならないことだったが、ここに来るまではそれをする時間も確保できない現状があり、難しかった。まあ、遊んでいる時間も長いのだが。この週末に目処は立ったが、ほんとうにこれでいいのか、やっていることは適正なのか。自分の中の基準が揺れ動いていないかどうか、いつも心配な部分を引き摺っている。

(二月十六日 土曜日)

 今朝は5時に起床して、6時前に宿を出、また新幹線で町に戻り、アパートに少し寄ってから出勤。昨日はあまり進めることができなかった事柄も、きょうはすべてが流れるように進んだ。そして、夜には職場の宴会があった。いろいろな話が聴けたので面白かった。しかし、疲れが出て気をつかうことができなかったのか、年のせいで何事にも構わなくなったのか、ちょっとしたことで恥ずかしい思いをした。どうでもいいことといえばどうでもいい。しかし、若者にあってはたいへんなことなのかもしれないが、その辺の事情は忘れた。

(二月十五日 金曜日)

 朝から少し新鮮な空気に変わった。面白可笑しいことばかりではないけれど、けして苦痛なことばかりでもない。さまざまなことの均衡のとれた状態が理想的である。まずは、時間の使い方を気をつけなければならないだろう。同じ時間を消費するにせよ、昨日の消費ときょうの消費では意味が異なる。残りの日々の貴重さを考えれば、時間に対する態度にも変革が要求されるだろう。

 家に戻らずに新幹線に乗った。20時頃に着いて、24時頃まで食べて飲んで、宿に泊まった。

(二月十四日 木曜日)

 休みぼけが続いているうちに、しなければならないことが次々と襲ってきた。ただ、時間をうまく使って予想以上に速く進めることができたのでストレスはかからなかった。公私混同ということについて、自分なりの考えを話した。やってよいことと悪いことの区別はもちろんだけれど、それより目に余るのはおとなの公私混同だ。節操がなくなったと思うことが多い。

(二月十三日 水曜日)

 火曜日始まりの一週間はひじょうに速い。日記を書くのも忘れているうちにもう週末がやってきて、火曜日に何をしたかさえにわかには思い出せない。昨夜の電話の件で、関係の各所に報告して、今後の方針を確認した。面倒は面倒だが、ある程度は致し方ない。この日も慌ただしく働いた。午後からは出張で、小さなバスに乗って移動した。十数年ぶりに懐かしい顔に会い、少し話をした。まだ若者だった頃の仲間だから嬉しかった。出張から戻ってからも長かった。帰宅したのは22時を回っていた。

(二月十二日 火曜日)

 疲れが出たためか、午後から急に寒気がして、熱が上がり始めた。インフルエンザにかかったかと思い、布団に飛び込み3時間眠ったら、だいぶよくなって、普通に過ごせるようになった。どうやらインフルエンザではなかったようだ。少しほっとしていると、夜に変な電話がかかってきた。楽しい三連休の思い出も泡と消え、嫌な気持ちで新しい週を迎えることとなった。

 きょうはこのサイトを開設した記念日である。十三年前のきょう、立ち上げた。紆余曲折を経ながら、形はこんなふうに変化したけれど、本質的にはたいして変わっていないのではないか。

(二月十一日 月曜日)

 ホテルの朝食会場は宿泊客でごった返しており、しかもそれほどうまいものはない。ひとりのおばさんがバイキングの料理が並んだテーブルとテーブルの間の通路を塞ぐように立ち、腰に手を当てて牛乳を飲んでいて非常に邪魔だった。日曜の朝はどこにも寄らず、バスに乗って早々に帰ることにした。

 ゆったりとバスに乗り、駅に着くと今度は途中まで快速電車に乗った。その後、バスまでの待ち時間に文房具屋に立ち寄り、バスで隣町まで。そして再度電車に乗って最寄り駅まで戻った。

(二月十日 日曜日)

 朝の通りを歩いて市場へ行く。表通りも路地裏も雪で真っ白。男たちも女たちも、魚を売る人も野菜を売る人も、もの静かで声もかけてこない。市場の食堂で焼き魚の朝食を取る。その後には、海沿いを走る列車に揺られながら、時折景色に見入ったり、文庫本を読み進めたりした。昼過ぎには列車を降りたけれど、次の目的地は決まっていなかった。少し遅い昼飯をと思ったが、駅の側には何もない。少し歩いて、小さな喫茶店に入った。カウンターでは五十代くらいの男女四名が粋な会話をしていた。店内に置かれた地方の小冊子もなかなか味わい深く、文化の香りがした。ランチもコーヒーもうまくて、最後には街の見所についても話を聞くことができた。その店に入ったことで、この街に泊まってみるかという気になった。夜はとても寒くなったが、灯籠や電飾がきれいだった。イベント会場で聴いたグループの歌の迫力、教会で聴いたゴスペルの手づくりの雰囲気、泊まって初めてわかったことも多い。

(二月九日 土曜日)

 三連休の前日であることをどこかに隠しておいて、通常業務をこなす。夜からすべてを忘れて雪国に旅立つ。列車内はがらんとして寂しいものだろうという予想は見事に裏切られ、指定したはずの自分の席にさえ座れない始末。見た目五十代以降の方が多かったが、まるで修学旅行のようににぎやかな声があちこちで鳴り響いていた。それは夜9時を過ぎているというのに周囲に憚ることすらなく、しかも大人とは思えぬ下世話な話題ばかりで笑い合っているのには閉口した。缶ビールを飲んで居眠りをと思っていたのだが、とてもそんな状態ではなかった。こどもばかりの国になったのかと思った。

(二月八日 金曜日)

 短気は損気というが、呑気は何だろう。呑気だからといって得をすることもないけれど、損をすることもない。なぜなら、損得勘定自体しないから。木曜日も終わった。仕事のことを考えるのは、考えることには入らない。日中は何も考える余裕がない。熱のあるのもわからなければ、食事の味もしないというのが平日の生活である。しかし、だからといって土日だけの人生が楽しいわけはないだろう。

(二月七日 木曜日)

 昨日と同じ時間に家を出たら、普段通りの時間に到着した。道がほぼ乾き、走りやすかったためだ。日中は細かな雪が降り続いたが、夕方にはほぼ解けた。日中の気温が高くなってきたので、雪も早く解ける。水曜日も夜になると、今週も終わりかという気になる。あまり考えたくないひとつのことがある。それに対しては不適任という烙印を自分自身で押したいくらいである。このことを除けば、週日はこのように高速で過ぎる。

(二月六日 水曜日)

 今朝は道が凍っていて、普段より20分も余計に時間がかかった。1時間も冬道を運転すると神経を使うから眠気を催す。朝には職場で欠伸が出、夜には自宅で睡魔が襲う。通勤時間がこのくらい長くなると仕事のみならず生活全体に支障が表れる。

(二月五日 火曜日)

 月曜は朝からあまり乗り気でない。おそらくそういう人は多いだろう。早く一週間が経たないか、とそんなことばかり考えている。考えているうちまたあっという間に過ぎてしまうのだろうけれど。

 立春というのに午後から雪が降り出して、短時間に積もって白くなった。せっかく解けたと思ったらまたこうである。三寒四温というけれど、雪も降っては消え降っては消えしながら、季節は変わっていくのだ。いまは名のみの春だけど、いまに名実共に春になる。春にもいろんな春がある。僕は一気に春を飛び越えて夏を過ごした。そしていまはすでに思秋期(阿久悠)

(二月四日 月曜日)

 朝には数独を何度かやった。論理的思考力が鍛えられるというがどれほどのものなのかはわからない。成田を発った飛行機で隣り合わせた旅好きの紳士にやり方を教わった。その後面白くなって旅先でダウンロードして、時間ができると遊んだ。もう少しで総使用時間が24時間になる。平日帰ってからと思っても集中力が持続しない。だから、こういうのは朝にするに限る。しかし、なんだか少し秋的多感、いや飽きてきた感がある。

 節分だからといって、大きなのり巻きを食べたりしない。なぜならこの地域にはそのような伝統はないから。各コンビニやスーパーマーケットには何年か前からそのようなものが出るようになったが、やはり違和感がつきまとう。それなら豆まきはするかというと、豆もまかないのである。

(二月三日 日曜日)

 

 駐車場の日向のところは雪がかなり解けた。気温は高くなったようだが、それほど暖かさは感じられなかった。肩の調子がおかしい。先日は右腕の付け根に痛みがあったが、今日は左に違和感がある。でも腕が上がらないほどではない。運動不足だからなのかもしれない。典型的な四十肩か。

 昼には自宅から徒歩1分の食堂でチャーシュー味噌ラーメンを食べ、その後は夕方まで気ままに過ごした。仕事にも少しは手を付けたが、思ったようには進まなかった。夕方からは用足しに出かけた。しばらく足が遠のいていた蕎麦屋に行き、ざる蕎麦と蕎麦汁粉を食べた。蕎麦汁粉のとろみのある団子がうまかった。それからホームセンターと電気屋を回り、戻ってくると21時だった。

 テレビで「メイドインジャパン」という、なかなかに見応えのあるドラマをみた。

(二月二日 土曜日)

 同様の雪景色は何枚も撮っているが、一つとして同じものはない。一週間前、久しぶりに田んぼの中のパン屋に行った時の写真。誰に踏まれることもなく、除かれることもなく、そのまま解けて消えていくのだろう。真っ白とはいうけれど、実際には白黒無段階の陰影が続いている。

 臥待ち月の浮かぶ空。満たされていれば完全であるとは限らない。欠けて初めてできあがるものもある。何が満ちて何が欠けていることかは他の人には分からない。見るものと見られるものがあるから、そこに美しさが生まれる。誰も見るものがおらぬところにぽつんとしていたら、どんな存在も虚しい。

(二月一日 金曜日)