二〇一三年一月

 新年を迎えて一か月が経過した。一月は往ぬというように、あっという間にここまできた。慌ただしい中で、今年度の総括も少しずつ進められている。しかし、何が良くて何が良くなかったか、実際のところなんだか良くわからない。思うようになるわけではないが、かといって全くコントロール不能というわけでもない。遊びのひじょうに大きな舵を右に左に取って船を操っている。それでふらふらしながら前に進んでいる。舵取りもその他のクルーもそれなりに一生懸命やっている。さらに性能をアップしていかなければ対応できないという感じだ。

 テレビを小一時間みたら、ちょっと気持ち悪くなった。ドラマの映像が不気味だったことと、また別のドラマの演出があまりに在り来たりだったことが原因だろうか。毎日2時間も3時間もテレビをみる生活をしていたら、もののみえかたはどう変わるだろう。

(一月三十一日 木曜日)

 情報交換するだけではまったくもって不十分だ。会議で現状を垂れ流しただけの発言をしたことに自己嫌悪。解決策とはいかないまでも、目指しているところや現在試行していることなどを含めなければ意味がない。ただでさえ時間のないところで、要員が揃わないために20分も遅れて始まったのにも関わらず、つまらない時間の使い方をしてしまった。なんとなく、がんばっている他の人々から水をあけられた気分。とりあえず今夜はちょっと早めに寝よう。

(一月二十九日 火曜日)

 定年まで働くよりも早期退職した方が給与が高いとしたら、早期退職する方を選ぶというのは真っ当な判断ではないかと思う。そもそも3月末を区切りとしていたなら問題は起きなかった。児童生徒の進級や卒業を待たずに辞める先生を無責任と責めるより前に、十分な検討無しにそんな制度を設計した行政の無責任さのほうを追及するべきではないか。

 百五十万円という額を捨ててまで続けることが教師の責任と言うなら、それは、先生は土日もなく働くのが当然だと言うのと変わりない。先生は先生でそれを真に受けたりして、中には本分である授業なんかそっちのけで部活に傾倒する先生もいて、土日も朝から晩まで部活という教師のなんと多いことか。その中には、そんな教師の現状を理不尽に思いながらも出ざるを得ない状況に追い込まれている教師も相当数いるはず。そういう先生たちは体調を崩したり、精神を患ったりするのである。

 そういえば人間ドックの結果が届いた。明らかになった異常は予想の数を越えた。昨年検査でわかった胃と大腸に加え、胆嚢と肺も冒されていたことがわかった。特に自覚症状はなく、緊急性は薄いようで、一つは経過観察。もう一つについては、一年後に再検査を受けるようにとの指示だった。

 年齢を重ねると様々なところに異常が出るものだ。思えば自分も長年理不尽な働き方を求められることが多かった。その弊害が出ているのだろうか。その割にこの結果というのは、まだいい方か。しかし、今後は仕事もほどほどに、これ以上身体に無理させないようにしなければ、とても定年までは保たない。

(一月二十八日 月曜日)

 そうしてまた次の一週間が経過した。日曜日からのことを振り返って、前週と同様に薄っぺらだったと評するのは簡単だ。しかし、そんなに単純なものでもないだろう。何があったかにわかには思い出せないが、それでも毎日何かに取り組み、それなりに前に進んできたはずだ。少なくとも、もう一週間前に戻ることは不可能だ。
 平成ひとけたの頃の資料を引っ張り出してみた。当時はときどき使っていたものの中にも、今見ると古さを感じて使えないものが多い。時代を超えて変わらない哲学をもってつくられているものであれば時代が変わっても通用するかというとそんなことはない。心は大切だが、心だけでは伝えきれないものも厳然としてある。

(一月二十六日 土曜日)


 今週一週間を振り返ってみて、なんて中身の薄っぺらな毎日だったのだろうと思う。それはこの一週間に限ったことではなく、この一か月のことでもあり、この一年のことでもあり、この十年のことでもある。この調子で薄っぺらな一生ができあがるのだろうか。

 平成になって25年だと。神戸の地震から18年だと。平成になってからというのは、自分にとって勤め始めてからとほとんど同義だ。この間の空虚な感じは何だろう。何も身についていなかったのではないか。最初の数年、こんなことをよく言われたものである。「あんたはよくがんばった。これだけの経験をしたのだからどこに行っても大丈夫だ」と。

 だがそれはただの気休めだった。その後どこに行っても、最初より楽なところなど無かった。それは当然の話だ。仕事に真摯に向き合えば向き合うだけ、責任は重く感じられるようになる。そして、やるべきことが次から次へと見えてくるから、楽になるわけがない。もしも楽だと感じたら、それは手を抜いているか、感覚が鈍くなっているかのどちらかに違いない。

 そうはなりたくないと思いながらやってきたが、周りを見回すとそういうのが山ほどあって、毎日ため息が出るようだ。

(一月十九日 土曜日)

 朝から雪が降り続いて、辺りが真っ白くなった。昼から車で出かけたが、雪でワイパーが凍り付いてしまい、視界が悪かった。休日で、急ぐ必要もなかったので、時々降りてはワイパーに着いた氷を落としながら進んだ。小寒を過ぎ大寒まで、冬のいちばん冬らしい時期が今の時期。もう少しの我慢だ。

(一月十四日 月曜日)

 帰ってきて10日が経ったが、この間何一つ旅のまとめをしていなかった。撮った写真をじっくり眺めることもせず、文章に書くこともしていない。しかしこのまま時に埋めてしまうのは惜しい。それで一日目二日目のことを思い出しながら書いてみた。非常に時間がかかった。この調子だと、終わるまでに何日かかるかわからないが、別のページにしてみようと思う。

 昨日は久しぶりに映画を観てきた。007の新作「スカイフォール」。007はテレビで観るくらいのものだったけれど、ジェームズ・ボンド役がダニエル・クレイグになってからは、劇場まで足を運んでしまうのである。昨日はそれで一日が終わった。

 今日は午前中新聞にある言論を何日か分読んだ。心は晴れなかった。

(一月十三日 日曜日)

 ベトナムとミャンマーを旅した。23日に成田からハノイに飛んだ。ハノイには1999年の夏に初めて行った。その時はスタディツアーで、一般的な団体旅行とはひと味もふた味も違った旅だった。その時の記録はサイト内に残してあるが、今回はあの旅とはまったく様相の異なる一人旅だった。

 当時使った宿に2泊し、ハノイのあちこちを迷いながら歩き回った。その後、世界遺産のハロン湾へと向かい、島を巡るクルーズを体験。バスでハイフォンに入り、散策。列車でハノイに戻った。ハノイ市内をさらに歩き回り、バスでバチャンという村にも行った。そしてハノイからヤンゴンへ。飛行機の切符が取れなかったためバガンやマンダレーには行かず、ヤンゴンの宿を中心にして、チャイティーヨ・パゴダやバゴー、そしてヤンゴン川対岸のダラという村などを巡った。3日早朝に帰国した。

 東南アジアの一人旅は久しぶりだった。スーツケースは持っていないから、当然バックパックの旅。英語漬けの10日間はすべてカタコトだったけれど、意思疎通できたし、危険な目にもあまり遭わなかったし、いい休暇を過ごすことができた。新鮮な驚きは以前よりも減ったが、その分ゆとりをもって楽しんでくることができた。こんな気ままな旅ができたことに感謝。

(一月八日火曜日)

 「組曲虐殺」を観たのは先月22日のこと。前の晩は忘年会。温泉に泊まって夜中まで飲み、朝は早起きして帰宅し急いで旅支度。新幹線に飛び乗って東京は天王洲銀河劇場。これでは眠ってしまうかもしれないなと思っていたが、その心配は全く無かった。

 プロレタリア作家小林多喜二の評伝劇。小曽根真の印象的なピアノが全編に響き渡り、時折人物たちが歌い踊る音楽劇の楽しさ。そして、胸に突き刺さる台詞の一言一言。文学や社会に対する熱のこもった多喜二の言葉は、井上ひさしの思想そのものであった。「黙阿弥オペラ」を読んだ時にも思ったが、評伝劇は、その作家を同志と認め、その熱情に寄り添うことで成り立つものである。文学を志す者同志の連帯、そしてその可能性への信頼が根底にある手法なのだ。

 心にもっとも強く残ったのは、妻のふじ子が多喜二を逃がそうと特高刑事に銃を向ける場面。多喜二は「僕の思想に人を殺すという思想はない。互いの命を大事にしない思想に価値はない。」と叫ぶ。その後、刑事が銃を奪い引き金を引くと……。その後、大いなる笑いが緊迫を解く。

 哀しみと笑いの行き交う中で、人間の本質と言葉の普遍的な価値が描かれる。多喜二は社会を少しでも明るいものにすべく言葉を紡ぎ出そうとした。井上もまさに登場人物の言葉によって、同じ願いを訴え続ける。最後には多喜二の拷問による死という重すぎる事実が残るのだけれど、組合をつくるというひとりの特高に、次の世代にわずかな希望を橋渡しする人間の姿が描かれる。

 昭和の初めという時代と、現代が奇妙なほどシンクロしているのは、時代を超えて「人間」を捉え、描いていたからだろう。あれほどの犠牲を払いながら変わらない体制への絶望感と、その下で苦しみながらも健気に生きようとする愛すべき市井の人々の示してくれる希望。三・一一を過ぎても、あるいは過ぎた今だからこそなおさら力強いメッセージとなって心を打ったのかもしれない。

 氏の作品は読み継がれる価値があるという思いがますます強くなってきた。今後も機会があるたびに触れたい。

(一月七日月曜日)

 ホームページをつくり始めてから十四年目の正月を迎えた。更新頻度は低くなったが、自分の体験を言語化してその意味を定着させる試みであることは変わらない。ここまでには、ブログが一般的になり、ツイッターで誰もが呟き、フェイスブックでみんなが繋がり合うような変化があった。それぞれネットの可能性を示してくれた変化ではあった。しかし、それぞれに正直なところどこか違和感を引きずっている部分がある。ブログでは、誰かのつくったテンプレートに乗せるというのが面白くないし、ツイッターでは短過ぎたり流れが速かったりで何も残らないし、フェイスブックではすべて知人に向けた書き方になりどうしても表現が制約されてしまう。

 結局のところ、このサイト自体の作りは何ら変わっていない。そのとき感じたことを素直に記録し表現すれば、自分が浮き彫りになる。一つ一つは小さな点でも、後から眺めればその積み重ねが線となりくっきりと現れる。その信念は間違っていないと思いたい。

 年末年始に旅をした。さまざまなものに触れ、忘れていた空気を思い出した。均質化された社会を飛び出して、異質なものに身を投じることでみえるものがある。今の時点では何かわからない。ほんとうの意味、ほんとうの価値を見いだすには、どうしても自らの発信が必要だ。時間をうまく使いながら、今年も可能な限りの発信をしていきたい。

(一月五日土曜日)