二〇一三年七月

 

 七月最終日。きょうも朝方まで雨。明るくなってからは曇り。朝と昼はカレー。午後からはこの時期恒例、この地区の業界人が集っての学習会。会場までは徒歩で往復した。雨がぽつぽつきていたが、いい散歩になった。会の前半は、国際リニアコライダー誘致についての説明。後半は、金子みすゞ記念館館長の矢崎節夫氏の講演だった。

 リニアコライダーの場所がここに決まるのかわからないし、決まっても政府がほんとうに金を出すのかも疑問だ。つくばのような学術都市ができるなら面白い。けれど、これからの見通しとして示されたものは、市長が独自に策定した表ばかりで、夢物語が先走っているような印象を受けた。ただし、何事も夢語りがなければ始まらないということも事実。

 矢崎節夫氏は金子みすゞの価値を発掘して世に知らしめたブームの火付け役とでもいった方だ。表情も言葉の抑揚もわずかで、話は淡々と進められた。金子みすゞの詩がいくつも諳んじられ、そこに込められた言葉や人間の心の本質を矢崎氏が読み解いていった。詩の価値、言葉の価値はこうやって新しく生み出されるものなのだと思った。身近なところに埋もれている言葉のなんと多いことか。言葉が埋もれるということは、その心が埋もれるということだ。それを発掘するのも我々の仕事だ。終わり10分前くらいになってようやく会場が矢崎氏の言葉によって和やかな雰囲気になった。愉快な人柄が少しずつ伝わってきたような気がした。もしかするとこちらが彼の気持ちを長らく強ばらせていたのかもしれないと思った。講演はインタラクティブなパフォーミング・アーツ。授業といっしょだ。

 金子みすゞは薄幸の詩人という言い方をされる。26歳にして自殺した点も気になっていた。しかし、それについては一切何の話もなかった。あれだけ弱き者に寄り添う言葉を残しながら、自ら死を選ぶという生き方を僕は承服しかねている。そう思うと、なんとなく言葉自体が胡散臭く感じられるところもある。それについてはまた今度。

(七月三十一日 水曜日)

 

 昨夕は夏野菜をふんだんに入れてカレーを作った。量はいつもと変わらないが、食べるのは自分一人だけだから、食べ切るのに三日はかかるだろう。いくら一人だからといっても、外食ばかりでは能がない。少しは健康に配慮しながら、無駄遣いも防ごうというわけだ。

 今朝、鍋を冷蔵庫にしまうのを忘れたまま家を出た。行きの車の中で気がついて、一日中気が気でなかった。先日「ためしてガッテン」で見た怖い食中毒について思い出したのだ。帰ってきてから、ウェルシュ菌についてあれこれ調べた。ネットのいくつかの情報によると、症状が出てもせいぜい腹痛や下痢ぐらいだということだ。それに、きょうも気温があまり上がらなかったので、過度な心配は不要と判断。火を通して、茹でたスパゲティにかけて食べた。

 「子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?」という本を読んだ。子ども編と大人編があるが、どちらもためになった。子ども編も大人編も、大人がもっと勉強しなさいと書いてあるように思えた。

(七月三十日 火曜日)

 

 明け方は霧が出ていた。窓を開けても風は吹き込まず、室内にこもった熱はそこに留まったままだった。タマネギの味噌汁と、電子レンジで温めたご飯と、昨夜のおかず。四日ぶり、仕事場までの距離は感じなかった。いつもより遅く出たものの、着いた時には誰もいなかった。鍵を持っていなかったので中には入れず、しばらくは外で待っていなければならなかった。机上に置いてあった書類を片付けて、急ぎの文書を仕上げて、外を回ってくると11時半だった。成果の感じられない面談がひとつ。いくらやっても徒労に終わることはある。だが、今の時点では何が徒労かなんて誰にもわからない。

 松井秀喜氏の引退式が行われたそうだ。一日だけの契約を交わすことで、ニューヨーク・ヤンキースの一員で引退することができたのだという。松井選手にはどれだけ励まされたかわからない。ニューヨークという街のことをいえば、佐野元春のラジオを聴きながら憧れを抱いたものだった。いや、当時は憧れほどの意味もなく、ただ何となくカッコいいなと思った程度だったのかもしれない。

(七月二十九日 月曜日)

 

 日曜日の過ごし方など仕事さえ入らなければいつも同じだ。ここ1週間くらい溜った新聞に目を通したら午前中終わってしまった。その記事の中にもう10年以上も前にお世話になった方が出ていたのが目にとまった。その方は当時から同じことに関わっており、こちらは少しの期間関わったというだけだった。年齢とか経験とかはどうでもよくて、ただ好きで続けていたことで、これまで憧れてきたことが、あれよあれよとあちらから自分のほうに転がり込んできた、そんなふうに言っては失礼だけど、ほんとうはものすごい努力があったはずだけど、僕にはそんなふうにみえた。

 「もう諦めようと思ったこともあった」もう辞めようかと思ったその先で、状況が好転することもある。まるでつい今しがたまで空を覆っていた黒雲が一気に晴れて日が射すように。

(七月二十八日 日曜日)

 

 こんなに何もない土日なんてそうそうあるわけでない。しかし、そんな日に限って眠くなってしまったりして、雨も激しく降ったりして、読書でもするかという気持ちは現実にはならなかった。テレビすらつけない日。何もやる気が出ないのは、誰の所為でもない。

 ちょっと前に「あなたのストレス解消法は」と聞かれたとき、ぼんやりと(ストレスあるかな)と思ったりしながら、お喋りして、日記を書いて、次の日に不満を溜めないことと答えた。去年も一昨年も他の人が思うほどのストレスを感じてはいなかったのかもしれないし、ストレスはあってもそれを意識しないで済んだのかもしれないし、いずれにせよ過ぎてしまえば忘れてしまうお気楽な性質なのかもしれないのだった。これが20年前なら、ストレス解消法は間違いなく消費行動だったし、10年前なら食事だった。では今はなにかと問われると、実際はよくわからない。

(七月二十七日 土曜日)

 

 宿で目覚める。ここのところ3時頃には目覚めるので、この日も起きてからのんびり過ごすことができた。6時前に宿を出て、駅まで歩いた。道沿いの温度計は28度を示していて、すでに蒸し暑かった。駅にはすでに人が溢れていたが、駅弁屋以外に店は開いていなかった。30品目入っているとかという弁当とお茶を買って座席で食べた。

 はやぶさ1号で仙台までおよそ1時間半。この日は家人の入院する病院で一日付き添うことになっていた。仙台市内は雨が降ったり止んだりだったが、病院内は、消毒薬のにおいがする以外は、湿度も暑さも感じない空気だった。何しろ相手は寝ているだけなので、話すらできない。別に病気ではないので不安はない。しかし、いつも眠たがるのはやや心配だ。当番の看護師が30分おきに来て血圧を測定していたが、数値は毎度低めだった。低血圧と眠気に関係があるのではないかと思った。

 昼食時に食堂に行っただけで、それ以外は病室で本を読んだり、うとうとしたりしていた。8時半に着いてから15時半頃までその調子だったから、おかげで昨日買った本はほとんど読み終えた。

(七月二十六日 金曜日)

 

 区切りの日だったが、職場にいることができなかった。用事でミヤコに赴かなければならなかったのだ。朝はいつもと同じくらいの時刻に駅に行き、電車に乗った。目的地近くに着いてから集合時刻までが長かった。天気は良くなかったのだが、一つところにじっとしているよりはとあちこち動き回って時間を潰した。

 昼食は大戸屋というところに入った。半田屋みたいにおかずが選べるところかと思ったら、そうではなかった。味はよかった。出先ではいつも食事に困る。とにかく混むのは嫌なので、昼時をずらすことにしている。味は二の次だが、どこもそこそこうまいのがこの街のすごいところだ。ゆっくりゆっくり食べた。

 用事にそれほど時間はかからなかった。係の人は、どういうわけか僕にだけ重要な書類を渡してくれなかった。書類を下さいと言ったら少し慌てて渡してくれた。見ていなかったはずはないので不思議だが、単に忘れたみたいだ。それ以外は困ったことも難しいことも一切なかった。

 恵比寿で世界報道写真展を見てから、冷やしおでんとビールを頼み、一人でご苦労さん会をした。

(七月二十五日 木曜日)

 

 きょうは女子の教育を受ける権利を主張して武装勢力に銃撃されたパキスタンの少女、マララ・ユスフザイさんの国連演説の全文とその対訳を印刷物にして配布した。

 「親愛なる少年少女のみなさん、私たちは今もなお何百万人もの人たちが貧困、不当な扱い、そして無学に苦しめられていることを忘れてはいけません。何百万人もの子どもたちが学校に行っていないことを忘れてはいけません。少女たち、少年たちが明るい、平和な未来を待ち望んでいることを忘れてはいけません。無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとってもっとも強力な武器なのです。 1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です」

 教育こそ第一にという彼女の言葉に共感する。これを読んだ人が一人でも何か変わるきっかけをつかむことができればいいと願う。しかし、実際のところはその、世界を変えるだけの力を持っている自分たち自身が、その力を発揮せずに、余計なことにエネルギーをかけたりしてどこかになくしてしまう。何が悪いのかわからないけれど、大切なことの輪郭がはっきりすればするほど、それを自ら描くことが難しくなってくる。

(七月二十四日 水曜日)

 朝方まで雨だったが、昼前から晴れて蒸し暑くなった。雨なら中止となるイベントが午後にあった。8月以降に延期するよりはやってしまいたかったので、湿度は不快ではあったが天気に助けられたような気分だった。今までやったことがなかったので、どういう展開になるかは不明だった。だが、実際にやってみると、意外と成果が目に見える形で表れた。何事もやってみるものである。秋には第2弾を行うことになるのだが、それもあれこれ自由に考えてみたいと思う。夏の間の宿題か。ここに来て、自由な発想の大切さを強く感じる。前例に縛られていては何もできないのだ。

(七月二十三日 火曜日)

 

 今回の参院選の投票率は52.61%だったという。有権者の半数が投票しなかったのに、国民の負託と言ってよいのか甚だ疑問。「ねじれ解消」という言葉がまるで良いことのように響くのだが、ねじれていることの良さもあったろう。いずれにせよ、不安のほうは解消でなく増大していきそうだ。

(七月二十二日 月曜日)

 

 朝方に今週分の通信を仕上げた。それから、木曜日の出張に持参する書類にようやく着手できた。一度全部書き上げてから家人に目を通してもらうと、分かりにくいところを指摘された。それでもう1時間くらいかけて書き直すとOKが出た。昼にはスパゲティを茹でて、昨夜のカレーをかけて食べた。午後からは金融機関を回ってから、市内の本屋2件をはしごした。文庫本はあるけれど、新書となるとまるで在庫が少ない。欲しいものはひとつもなく、仕事関係の雑誌を一冊買うのみだった。夜には野菜と地物の堅い豆腐とソーセージを炒めたものと素麺を食べた。夕飯後には今週の見通しを立てた。水曜日を最後に、後は出張に出たり、休みを取って家人の見舞いに行ったりすることになる。

(七月二十一日 日曜日)

 

 1時40分頃に地震があった。その後まったく眠れなくなり、2時半頃に起床した。パソコンに向かってあれこれ書いていると、すぐに5時になった。職場に出るのが遅かったので、午前中はゆっくりと部屋で仕事を進めることができた。10時半に家を出て、クリーニングを出し、コンビニで昼食のおにぎりを買って、車の中で食べながら職場に向かう。30分印刷などをしてから外仕事が3時間。戻って17時までほとんど机上整理。それから館が森の売店でパンを買って18時過ぎに帰宅。夕飯後もパソコンに向かって文字を打ち続け、課題は一応終了した。夕飯は夏野菜のカレーを食べた。夜には早めに就寝した。

(七月二十日 土曜日)

 

 ほんとうは昨夜のうちにやっておかなければならなかったことがさまざまあった。しかし、帰宅が遅くなってしまった。それで今朝早く起きようと3時半に目覚ましをかけたが、実際に起きたのは5時だった。さまざまなことのうち一つ二つだけを済ませて出かけた。

 午後まで自由な時間が1時間もなくて身動きが取れなかった。ただ、きょうやったことは珍しくだいたいが順調に進み、平和裡に今週末を終えることができた。例えば、朝会での情報化社会の話。マッピング例の提示。ピアノ。緊急調査。通信等。残った仕事は明日片付けることにして、早々に退勤した。途中の産直で野菜を買い、夕飯は中華料理の中村で五目焼きそば等を食べた。

(七月十九日 金曜日)

 

 森鷗外の「高瀬舟」を朗読した。病の弟を死なせ殺人罪で流刑となる喜助が、護送される船の中でその顛末を語るという短編である。この小説には、大きく二つのテーマがあると言われる。一つは、財産の多少と知足という問題。もう一つは、安楽死という問題。死にかかっていて死なれず苦しむ弟の苦を取り除くために死なせた喜助の行動の是非について考えてみようとした時に、今までとはどこか違う肌触りを感じた。苦から救うために死なすことの是非を問うのは十分現代的な問題だが、その問いがなんとなくどこか上滑りしているような感覚があってちょっと戸惑った。

 思うにそれは、おそらくあれだけの災害を経て、命のはかなさと、はかないからこその命の重みについて否応なく考えさせられたあとだからではないだろうか。脈絡なく突如自然の猛威により奪われてしまう、はかない命。はかないけれどけして軽くはない命。それを理由はどうであれ人の手で奪うという行為そのものに、少し抵抗を感じたのかもしれない。

(七月十八日 木曜日)

 

 日記を実名で公開するのは今月が初めてだ。当然のことながら、匿名で示すよりも当たり障りのない内容が中心となる。実際にはもっと起伏の激しい毎日なのが、フェイスブックにあがった途端に平坦になるような気がする。もっとも読んでくれる方はこちらの選んだ友達だから、気にせず自由に書けば良いのかもしれないけれど。

 暮らしの根本はどこにあるか。どうも仕事の話ばかりになるけれど、仕事を支える土台は家庭であり、個人である。そして、個人の見方をつくるのは、周囲の環境であり、人間関係であり、接する情報である。あれこれが関わり合いながら、人間ひとりの暮らしが進んでいく。その暮らしの軌跡を残す手段は、ないよりあったほうがいいと思う。フェイスブックもその一つとしての価値はありそうだ。でも、これ一つということはあり得ない。数あるうちの一つと軽く考えたい。

(七月十七日 水曜日)

 

 週明けは少し暑かった。先週末から引き続いての特別時程で、息つく暇なく昼になった。午後は10件ほどの面談があり、気がつくと夕方になっていた。朝に提出した書類に付箋がいくつも付いて戻ってきた。ケアレスミスというか、充分に見直していなかったためのミスが多かった。

 8月中旬までの見通しが立った。今年はそれほど遠出ができるわけではないが、そこは仕方ない。無欲に慎ましく暮らそう。今の職場の最大の不満は、家から遠いことだ。自転車や徒歩で行ける距離なら、腰が痛くなったりはしないと思うのだが。また明日から三連休かという錯覚がつきまとっていた。

(七月十六日 火曜日)

 

 連休の三日目。海の日か。この日も雨が降ったり止んだりした。午前中は書類ケースや書棚の紙類を整理した。保険とか銀行とかの葉書などを片付けたらすっきりした。基本的にモノが多すぎる。仕事上必要とはいえ、実際に使うものは限られている。使うからというよりは、置いておいて安心している本がたくさんある。そういうものはもっと減らしていきたい。

 昼には少し車を走らせただけだった。ガソリンを入れて、ちょっとコンビニに寄っただけだ。満足な本屋がないのは残念だ。ラジオを聞こうと思ったら、月曜日だったので番組が違っていた。

(七月十五日 月曜日)

 

 雨が降ったり止んだりの日曜日。梅雨明けはまだ先の話。昨日怠けてしまったので、その分きょうは朝からパソコンに向かい、文書作りの仕事を進めた。昼には徒歩一分の食堂に行き、タンメンを食べた。帰ってくるとまた仕事に取りかかったが、明日もあると思うと集中できず、すぐに別のことをしてしまうのだった。夕方には市役所に投票に行った。投票を終えて帰ろうとすると、一人の男性が声をかけてきた。彼は新聞社の出口調査をしているのだった。協力を求められたが断った。帰ってきてからはまた仕事をした。夜にはほぼ終了した。後で見直して完成させることにする。明日は午前中は少し片付けをして、昼からは出かけて気分転換したい。

(七月十四日 日曜日)

 

 3時頃目覚めて、頭の中であれこれぐるぐる考えて、また1時間くらいうとうとして、5時頃起床した。きょうも一日雨が降り続いた。三日分ためていた日記を書いて、家人を駅に送ってきてから朝食。何週間ぶりかで「あまちゃん」を見た。午前中机に向かうも宿題はなかなか進まず。昼前になると眠くなってきたので布団に横になった。目覚めると13時半。近くのスーパーでパンを買って来て遅い昼食。夕方には整体で1時間ぐりぐりしてもらった。2週間ぶり。なぜかすんごく痛かった。帰ってからも仕事は進まなかった。スパゲティと夏野菜を炒めて食べた。「七つの会議」というテレビドラマを見てから、家人を迎えに駅に行った。頭が空っぽの、たいして面白くも何ともない一日。

(七月十三日 土曜日)

 

 涼しい一日。猛暑のニュースをみると、もう暑さは災害である。梅雨の明けるのが恐ろしい。なんとなくまだ今日が木曜日のような気がしたが、金曜と分かるとちょっとほっとした。しかも三連休前である。日程はきのうの同じだったが、昨日の倍くらい気持ちに余裕があった。

 夜には会議があった。会場に移動しようとする矢先に重要な電話がかかってきた。焦りのためにずいぶん素っ気ない対応になってしまったことを後悔した。会議には1時間ほど参加して、その後の飲み会が始まる前に失礼した。

(七月十二日 金曜日)

 

 雨が一日降り続いて、湿度は高かったものの暑さは和らいだ。あっという間の木曜日。この速さはいったい何なんだろう。期日前投票に行こうと思っていたが、このままでは行かないうちに投票日になってしまう。ま、それでもいいか。過ぎてから気づくのでは困るけれど。

 この日から来週の水曜日までは、連休を挟んで特別な時程で進む。午前中は息つく暇もなかった。昼食後には面談が夕方まで続いた。さまざまなことが後回しというか先送りというか、やらないまま日が暮れる。できないまま夜が更ける。そして眠くなる。

(七月十一日 木曜日)

 

 書かないでいたから、三日前のことなど頭の中には何一つ残っていない。職場の週報などを眺めれば何があったかは思い出せるが、そのとき思いついた最高のアイディアなど跡形もない。自然と人間は対義語。忘却は自然現象とはいえ、それに抗う営みあってこその人間だ、という理屈は解る。「自然の反対は勉強だ」と、いつかどこかで読んだのをぼやっと思い出す。たしかに、忘れない努力を自らに勉めて強いることが、真に人間的な営みといえるだろう。

 と、そんなことを書いていたら思い出した。この日は講演会があって、10年前に今の仕事現場を立ち上げた方から貴重なお話をうかがったのだった。温故知新。創立当初に関わった方々の思いに接して、背筋がしゃんとなった。「初心忘るべからず」というが、それは組織にも言えることである。創建の志を知るのは後々の者にとっても重要なことだと、思ったのだった。

(七月十日 水曜日)

 

 昨日よりさらに蒸し暑かった日。きょうは雨が降らなかっただけ、夜になっても暑さが収まらなかった。山梨では39度を超えたそうだ。こんな暑い7月は異常だと騒いだりするけれど、昨年の今頃も同じことを言っていたかもしれない。

 梅雨寒はすでに死語となった。死語というのは言葉の死を表すものではなく、その言葉が表現する状況そのものが死ぬのだ。と去年の同時期の日記に書いてあった。毎年同じようなことを考えたりやったりしているのだが、つい忘れてしまう。

(七月九日 火曜日)

 

 朝から空は青く晴れて、暑い日差しの照りつける月曜日。きょうも暑くなりそうだ。しかも昨日の今日なのであまり乗り気がしなかった。しかし、そこは職場に着くといつもどおりの気持ちに切り替わるものだ。暑い中、通常業務を淡々と行って昼になった。朝にはあれだけ青空が広がっていたのに、だんだん雲が広がって来て、昼には雨が降り出した。その雨が、夕方になるに連れて勢いを増し、帰り道は土砂降りの中を帰ってきた。実は今日も宿題を抱えてきたのだが、まだほとんど手を付けていない。ネットで合唱を聴いたのは逃避行動以外の何ものでもない。今夜はもう遅いから、明朝早起きして進めることにしよう。

(七月八日 月曜日)

 

 母と叔母が一関のアパートに来た。行ってみたいと言われ続けて3年目。このままだと機を逸するかもしれないので、秋風が吹く頃よりは早いうちにと声をかけた。駅で迎えてまずはアパートを見せた。一通り見回し、その後はドライブに出た。国道を東進し、藤沢の職場をちらと見、千厩、室根を通って気仙沼まで。いつか食べそびれた鮨智という寿司屋で握りを堪能した。店を出て、近くのアンカーコーヒーで休憩。本吉を回り大籠経由で館が森アーク牧場へ。パンやソーセージ、野菜を買った。

 花泉に入って、ブルーベリーの農園の幟を見かけたので案内に従って小道に入ってみると、一軒の農家があった。ご主人は盛岡の会社を退職して実家に移り、休耕田に土を入れてブルーベリーの木を植え、農園にしたそうだ。きょうは今年の開店初日で、我々が一番の客だったというのでいたく歓待してくれた。ブルーベリーを3パック買ったら、お土産にと別の袋に入ったブルーベリーを4つ、それに缶ジュース4本をもたせてくれた。さらに、ブルーベリー畑一周をぐるっと案内してくれた。畑の周囲には多種多様な草花や樹木がきれいに植えられ、築山があったり石が積まれたりして、手づくりの庭園という風情だった。ご主人の説明も詳しくて、思いがけず楽しく学ぶことができた。僕はブルーベリーというものが木になることを初めて知った。てっきりビニールハウスの中に葡萄棚のようなものがあって、そこで栽培しているとばかり思っていた。それから、あのご主人が退職後のひとつの生き方を示してくれた気がして刺激的だった。またいつかここに買いに来よう。

 一関に戻ってからは電車の時間まで間があるので、世嬉の一酒造の蔵を見て回る。ここも雰囲気のあるところで、二人は気に入っていた様子だった。長時間の運転で腰が痛くなったけれど、充実した旅に満足して帰っていったのでよしとしよう。

(七月七日 日曜日)

 

 荒天を理由に午後からの外仕事をキャンセルした。その分、きょうは部屋に閉じこもってデスクワークを進めた。朝のうち小降だった雨は昼になると上がって、気温が上昇した。このあたりでは30度までは届かなかったが、昨日に続いて多湿の状態で、ときどき冷房を使いたくなるほどだった。

 今週末に完成させなければならなかった書類は半日ほどで作り終えた。昼食の後には眠気が襲って来て、うとうと2時間ほど昼寝した。もしも予定通り午後から職場に出かけたとしたら、体力的につらいことになっていたはずだ。昨日の自らの判断と、判断通りに実行できる今年の状況に感謝したい。

(七月六日 土曜日)

 

 湿度の高い日。午前中は4時間の立ち仕事。建物の3階は蒸し暑く、1階は結露で廊下の床や壁がベチョベチョになっていた。梅雨時だから当然といえば当然だが、以前はこれほどまで気温は上がらず、むしろ肌寒い日が続いたりしたものだ。「梅雨寒」という言葉はもう死語となってしまった。

 午後の予定は、入れ替わり立ち代わり訪れるゲストがそれぞれ15分の持ち時間でプレゼンテーションを行い、それを参加者が聴くという、この時期恒例のプログラムだった。どの方も時間に収まらず、予定がずれこみ、すべて終わるまでに3時間かかった。長時間しかも不快指数が高かったにも関わらず、参加者が最後まで飽きる様子もなく真剣に話を聞いていたのに感心した。それほど興味深い内容だったのだろう。

 帰宅したのは19時半頃。それからいつもの中華料理店に出かけ、夕食をとった。

(七月五日 金曜日)

 

 職場のある場所が岡本太郎に縁のある土地で、近くの施設にかなり大きな岡本太郎作のモニュメントがあったり、毎夏縄文をテーマにした祭が盛大に行われていたりする。岡本太郎の考え方からはずいぶん刺激を受けているが、ここ二、三年、祭が近づくこの時期には改めて彼の言葉を読み直している。あす発行する小さな通信には、岡本太郎の名言集としていくつかを掲載することにした。その中から。

「生きるというのは瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて現在に充実することだ。過去にこだわったり、未来でごまかすなんて根性では現在を本当に生きることにはならない。」「自分という人間をその瞬間瞬間にぶつけていく。そしてしょっちゅう新しく生まれ変わっていく。エネルギーを燃やすほど、ぜんぜん別な世界観が出来てくる。」「人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。」

(七月四日 木曜日)

 

 どんよりと暗い朝。天気予報はサイトによって雨の降り出す時刻が異なる。早くて正午、遅ければ3時。遅い方に賭ける気持ちと嫌な予感を抱いて出勤。2時間の通常業務を経てイベントの開始。直後にポツポツときて、まだ11時過ぎというのに雨はすでに本降り。頭の中でどうしようどうしようとうなりながらも方針を立てて相談。主務者は「どうしましょう」と言ってはいけない。「こうしましょう」と言うためには自分の頭を使わねば。そこが苦しいところ。

 ひとまず外の部を中断、屋外避難させてから、慌てて午後のスケジュールを組み直す。時間が限られていたので、焦りで頭から湯気が出そうになった。ようやく時間と場所を組み替え、外の部を屋内で消化させる見通しが立った。最適だったかはわからない。でもそれ以外考えられなかった。ここが本日の山。あとは坂を下るように、多少デコボコはあったにせよ、終わりまでこぎつけたのでホッとした。

(七月三日 水曜日)

 

 一つのイベントを翌日に控えて準備も最終段階。気になるのは天候。雨天時の時間割を組んでみたが、実際に使うような事態にはなってほしくない。それにしても、実際の計画というのは、晴天時と雨天時の二通りしかない。もしも途中で雨が降ったらどうするのか。10時頃降り始めたら、昼頃降り始めたら、降っていた雨が途中で止んだら、どうするか。すべての場合を想定して準備しておくなど不可能だ。不測の事態が起きた時にその場にいる者が即座に最適解を見定め実行に移す、そのメンタリティーこそが必要だ。担当者個人にも、集団全体としても。さてどうなるか。

(七月二日 火曜日)

 

 月初めだからか一気に様々なことが去来した一日。いろいろな人がいて、その人たちと作る世の中があって、何が起きてもそれは誰の所為でもなく、自分を含めた関わりの為せる業である。自業自得ということばの意味を想えば、存在自体がそもそもの発端なのだろう。ところで、国が危ういという感覚が日に日に強まっている。ここにいるからそうなのか、かといってどこに行ったら抜け出せるというものでもないだろう。今何をすべきか、自らに問うけれども新しい道はなかなか見つからない。

(七月一日 月曜日)