二〇一三年六月

 今年も半分が終わった。朝には少し仕事もしたが、その後は車で出かけた。墓参してから宮沢賢治記念館へ。久しぶりだったが、展示が古くなってしまった印象が拭えなかった。アイディアはさまざま湧くけれど、それを実行するには先立つものがいる。そこまで景気は良くない。そして、今後良くなる見通しなんてあるのだろうか。昼にはうどんを食べ、いくつか買い物をして15時前に帰宅した。

 夕方から自転車で整体に行って来た。先週よりもぐりぐりが力強くて痛かったが、60分もやってもらうと少しは歪みが取れたような気になる。しばらくは通ってみようか。

(六月三十日 日曜日)

 

 霧雨は9時過ぎに晴れた。午前中いっぱい外仕事だった。負担の少ない仕事と映るだろうか。本来なら本業の質を上げるための研修を積むことができるはずであるところの時間とエネルギーがこうして無為に消費されていくのである。自分ひとりの話ではなく、全国の同業者の多くがそれを強いられているとしたら、この国は悲劇の国である。昼からは部屋で2時間半仕事をして、某所を訪問して1時間ほど話した。食事もとらぬままに4時を過ぎた。帰宅後は、残した仕事に2時間かけた。

 ところで、スポーツが若者の特権のように語られるのには理由がある。スポーツをするだけの運動能力を有するのが若者であるということだけではない。スポーツ自体が、人間活動として未成熟なものだからである。勝ち負けを決める性質そのものが人類の理想と矛盾している。というより、そもそものねらいは他のところにあるのだろうが、多くの指導者の意識がそこまで到達していない。そんな気持ちが強くなっている。

(六月二十九日 土曜日)

 

 誘惑に負けず自分をコントロールする力、集中力や根気、目標を設定し、計画し、実現させる計画力・実行力、大事なことに嫌でも本気になって向き合う力、実現するという強い思いを持ち続ける力…。受験生にとっては点数ももちろん大切だが、そういうことのほうが百倍も大切だ。しかし、何一つ身につけていないとしたら何なのだ。言動の不一致という大問題。矛盾の中で生きる地獄。若い頃にね。勉強しなかった人はこんなふうになってしまうのだ。反面教師を地でいく男。こんなふうにはなるな。

(六月二十八日 金曜日)

 

 昨夜も例によってやらなければならない仕事を持ち帰ったが夜にできるはずもなく、4時に起きて片付けた。目覚めると昨日のことなどもう遠く彼方に過ぎ去っていた。今日は今日で朝から一気に流れていった。夕方気がついた頃には日が傾きかけていて、帰り道には今日は何だったのだろうと虚無感だけが漂っているのだった。明日の分の書類を完成させたので、明日の朝は安心だ。書くことを決めあぐねて熟睡できないという、最近続いていたそのパタンからは脱け出した。

(六月二十七日 木曜日)

 

 遠国からの客人たちがあって、朝から全体が異様に明るい雰囲気に包まれていた。皆の表情もどことなく浮かれているように感じられた。ただ、この事業には現場の意見がどれだけ反映されているのかというと疑問である。時期と内容と、それから効果の面と。せっかくの機会があまりにあっさりとやり過ごされてしまってはいないかと思うともったいない。

 11時過ぎに出発した。高速道路のサービスエリアで昼食を取り、本屋で見舞いの品を選び、目的地に着いたのはほぼ3時間後だった。打ち合わせを小一時間ほど行ってから、隣接した病院に行って見舞いがてら話をしてわかれると16時だった。久しぶりに見た明るく元気な表情から希望を感じた。ほとんどどこにも寄らずに帰路を飛ばして、家に戻ると19時前だった。

(六月二十六日 水曜日)

 

 自由にできる時間が長かったので、当座必要な文書の作成を進めることができた。来週以降のことを考えるとまだまだ必要なものはあるが、それは後日やることにする。人によってさまざまな考え方があるけれど、どれもその人独自の考え方だとすれば、誰の考え方が間違っていて、誰の考え方が正しいということはない。ただ、自分と別の考え方をもつ人とうまくやっていこうと思えば、心の障壁を乗り越える手続きが必要だ。多くの人たちは、そこにストレスを感じるのだろう。自分も以前はそうだったような気がする。双方が歩み寄るというのであれば、相手を変えなければならない。しかし、こちらが相手に歩んでいくと思えば相手が変化するしないは問題でない。

(六月二十五日 火曜日)

 

 荷物が重く感じられることが多くなってきた。これは以前より荷物が増えてきたからというわけではない。むしろ、荷物は少なくと心がけて来てはいるものの、それでも重く感じてしまうのだ。なるほどこうやって人の身体は老いていくのだろう。

 水曜日に急な出張が入った。目的地が遠いのでほとんど一日がかりとなるだろう。そして帰ってきてからはおそらく使い物にならない。つくづく土日に済ませておいてよかったと思った。

 帰りに洋服屋に寄って夏場のスラックスを買った。ほとんど急場凌ぎの選択だった。

(六月二十四日 月曜日)

 

 きょうは午前中いっぱいかけて書類を完成させた。そして、一週間を振り返って書いた。中身の薄い一週間だった。新聞もろくに読んでいなかったのだが、今朝は沖縄のことについて読んで考えを新たにさせられた。学校時代沖縄戦については何も学ぶ機会を得なかったが、こういうことはしっかり学んでおいて次の世代に引き継がねばならない。明日にはこの記事を切り取ってみんなで読もうと思った。

 ラジオは耳に入らなかった。昼には素麺を茹でた。今日一日でコーヒーを7、8杯飲んだかもしれない。午後には車で買い物に出たが、たいしておもしろいことはなかった。夕方にはざる蕎麦と心太を食べた。20時からは日曜美術館でムンクの特集をところどころ見た。21時頃に散歩に出ると、大きな月が明るく輝いていた。

(六月二十三日 日曜日)

 

 昨夜は就寝後2時間くらいしたところで突然右足の甲が吊った。親指が思い切り持ち上げられるようになって痛かった。そして、右足の痛みが治まったと思ったら今度は左の向こう脛が吊り出してたまらなかった。こんなときにはポカリスエットを飲むと痛みがひけるんだと這々の体で冷蔵庫を開けるが何もない。台所にあった缶入りの野菜ジュースを飲んだらほどなくして痛みが取れて落ち着いてきた。それで再び布団に入ったのだった。

 土曜の朝には部屋で仕事をした。数日前から引き続き腰の辺りが痛かったので、駅前の整体に電話して4時から予約を入れた。書類をだいたい半分ほど終わらせてから、徒歩で近くの食堂に行き、五目中華を食べた。その後も仕事を続けて七割ほど終了した。自転車に空気を入れ、埃を拭き取り、駅前に出発。整体では1時間かけて全身揉んでもらった。ベッドに横になり肩を揉んでもらっていると、突然もう一人女の人が来て、昨日吊った向こう脛をダイレクトに拳でぐりぐり押し始めた。とても痛かった。なぜここをピンポイントで攻撃してきたのか不可解だったが、異常な気の流れが見えたのかもしれない。きっと腰痛と昨夜の足が吊ったこととは関係があったのだ。今回の整体は初めてのところだったが、これから何回か利用することになるだろう。

 夕方には宮城県北にある延年閣という入浴施設に初めて行ってきた。アルカリ泉質で少しぬるぬるしたお湯で、なかなか良かった。どちらかというと年配の方々で込み合っていたが、我々の帰る頃には都会の若者らしき人たちがバスで大勢来ていた。おそらくボランティアの帰りだったのだろう。この風呂も、これから利用することになりそうだ。

(六月二十二日 土曜日)

 

 夏至の一日はばかだった。緊張感がなくなっているのか、ベルトを忘れて出勤するという前代未聞の失態を繰り広げてしまった。言わなければ多くの人は気づかないが、少数でも自分のだらしのなさに気づかれた方があったであろうことを想像すると耐えられない。しかも県南の事務所の元締めが来訪するというので職場は何となくかりかりとしたムードが漂っていたというのに自分だけが浮いてしまっているように思えて情けなかった。夕刻になって上司から通告があった。予想より一か月ほども早くに上京しなければならないらしい。詳細は後日連絡があるという。まずは第一関門を突破したが、ここで浮かれてはならない。きょうの忘れ物は、気を引き締めよというサインだったのだろう。

(六月二十一日 金曜日)

 

 夕方の活動時間が短くなったので、帰れる時刻も早くなった。仕事が少なくなったわけではないから、残ってやろうと思えばできないことはない。しかし、そこまでして職場にしがみついて仕事をしたい気持ちはさらさらない。勤勉なのは日本人の特徴なのかと思ったが、ただただ真面目なだけというのは百害あって一利無しである。真面目であれば社会が良くなるのか、人々が生きやすくなるのか、より良き人生を送れるのか。そのための仕事でなければならない。そして、仕事が人生の時間を犠牲にするものであってはならない。それを忘れたら働くことの価値はゼロに等しい。

(六月二十日 木曜日)

 

 連休明けの仕事はだるかった。運転が長かったためか、背中が少し苦しかった。定時に終えて帰宅。

 新幹線で盛岡に行き、従弟たちと飲む。昨日まで休日だったのでそれほど疲れていなかったのだろう。あまり眠くはならなかった。飲み過ぎると具合が悪くなるから、予めペースを自重していたこともあったのだろう。四月、五月と仕事で行けなかったから三月以来の再会だった。二カ所で飲み食いし、宿に戻ると零時を過ぎていた。翌朝は4時半に起きて、6時過ぎの新幹線で一関に戻り、自宅に寄ってから出勤した。

(六月十九日 水曜日)

 

 朝食をいただいてから盛岡へ。岩手県立美術館に来ているプライスコレクションの展覧会に行ってきた。「若冲が来てくれました」というタイトルだったが、もちろん伊藤若冲だけではなく、江戸期の日本画の、どこかで聞いたような見たような画家の作品が多数展示されていた。数だけでもたいしたものだが、よかったのは解説が誰にとっても平易であり、なおかつ何かを探そうとか、これは何だろうとか、視点を提供してくれていたことだ。これなら小学生が見て絵の楽しみ方を学べるだろうと思った。

 その後は光原社に寄ってから、花屋町の喜六そばで昼食にした。遠縁なので年越しにもらったり買ったりして食べることが多かったが、店舗で食べるのは初めてだった。

(六月十八日 火曜日)

 

 月曜火曜と平日の二連休。午前中は週明けに使う資料作りなどの仕事をしてから、金融機関を回って用事を済ませてきた。夕方から国道を北上して実家へと向かう。久しぶりに母親を台温泉に連れて行った。3か月ぶりくらいだったが来てみればどうということもない。まだまだじゅうぶん元気である。

 夏の間に実家の部屋の片付けをしなければならないだろう。衣料はほぼ片付いた。仕事関係の書類の古いものを大量に処分しよう。それから、物置小屋や屋根裏にあるがらくた類も思い切って捨てよう。溜め込んだモノをだんだんに減らしていこう。

(六月十七日 月曜日)

 

 3時前に目が覚めた。昨日と同じだ。その後は出発まで眠れなかった。昨日と同じ時刻に家を出た。昨日は雨だったが、きょうは降らずに時折暑い日差しがあった。それでも気温は予想までは上がらなかった。昨日のような展開で、意外と早めの帰宅、そして解散。自宅に戻ってすぐに近くの食堂に行き、タンメンを食べて帰ってきた。きょうはそれで終了。

(六月十六日 日曜日)

 

 3時前に目が覚めた。雨が少しずつ強くなったが、雨は開催の可否にあまり関係ないらしい。結果は芳しいものではなかったが、まずは予定通りに消化できたという事実そのものが大切に思えた。夕方には多少判断力が鈍り、自宅に戻るともう何もしたくなかった。

(六月十五日 土曜日)

 

 土日には大きな節目の行事が控えており、職場はそれ一色の雰囲気に染まっている。僕はといえば、朝から3時間めいっぱいに仕事をしてから、15時に始まるインタビューの会場に向かうため、正午で職場を後にした。外に出ると、真夏のような暑さだった。自宅近くの食堂で中華ざるを食べた。冷たいごまだれがうまかった。

 会場までの道のりは意外と時間がかかり、会場近くの駐車場に車を入れたのは開始10分前だった。上着を抱えて慌てて歩いていたらハンカチを落としてしまった。そしたら、すれ違った小母さんが「落としましたよ」と声をかけてくれたのでありがたかった。まだ見放されてはいないと感じた。

 あとは流れに乗って、聞かれるままに思い浮かんだことを話した。緊張はしたが、自分の考えを伝えることはできた。やれるだけのことはやった。しかし、どのような結果が下るのかはまた別の話。

(六月十四日 金曜日)

 

 スマートフォンというのが普及してきて、新製品はみんなスマートフォンだ。従来型の携帯電話が旧式に見えてしまうけれど、これから先もスマートフォンが続くのかはわからない。電話でありながら、指先でスワイプして画面を変える方式がそれほど「良い」ものとは思えない。世の中こぞってスマホスマホと騒ぐ現象にはちょっと危険なにおいがする。

 ところで、夜には長い会議があって、帰宅するともう22時だった。インタビュー前日。ほとんど何の準備もしていなかった。だが、付け焼き刃の勉強でどうなることでもあるまい。

(六月十三日 木曜日)

 

 宮城県沖地震が起きてから35年。当時は小学生だった。自宅で友達と遊んでいた。大きく揺れたので、すぐに外に出たのを覚えている。その後、ブロック塀が倒れて何人も犠牲者が出たと知り、すぐに外に出たのは危険な判断だったということがわかった。

 人の一生は短いので、大地震などそれほど多くの回数を体験することはできない。人々の記憶も薄れ、さらに世代が変われば残ることはわずかだろう。時間は人を癒すと同時に残酷なものだ。

(六月十二日 水曜日)

 

 疲れが溜っている人も多いが、動き過ぎというよりも基礎体力のなさが原因ではないか。普段は動いていない人が少し動くとすぐに変調を来す。いかに普段楽をしているかということではないか。

 金曜日には今回最初の関門がある。対策も何も講じていないが、普段の思考や表現力が試されると思えば恐れる必要はない。結果がダメだとしても、甘んじて受け止めるしかあるまい。

(六月十一日 火曜日)

 

 レギュラープログラムをこなして、気がつくと夕方になっている。何もかもが瑞々しさを失い、時間はそこに置き去りにされて、色あせていくばかりだ。昨日と同様に晴天が続き、外は暑くなった。しかし、夕方日が陰ると肌寒くなった。湿度がないのでまだ夏という気はしない。

(六月十日 月曜日)

 

 気温は高かったが、からっとして風があり気持ちのよい一日だった。午前中は昨日とほとんど変わらないことをした。少し町中を走ったら、右の足首が痛くなったので湿布を貼った。岩手と宮城の県境を縫うように車を走らせた。4号線に出たら、ニセアカシアがちょうど花をつけており、甘い香りが車内にまで入ってきた。帰宅してから2時間昼寝をした。

(六月九日 日曜日)

 

 平日よりも30分遅く家を出る。田畑と森林と河川。土曜日には土曜日の風景が広がっている。きょうの午前中は外で3時間仕事をしたが、端から何をやっているのかと訝しく見る目もあったろう。同様に、僕はと言えば小学校の校庭の5分の1ほどのスペースに繰り広げられていたこども園の大運動会を物珍しげに眺めていた。万国旗のもと、不思議な生命体があちこちとぎこちなく動き回っているのだった。そして、世話をする先生方と、それを遠巻きに見る保護者との対照。自分が子供好きと思ったことはなかったが、このときそれを再確認した。そして、しいていえば好きなのは人間だということに気がついた。それは途上の存在だからだ。何を目指す志さえもたぬ者は、人間とは呼べない。

 場所を変えて1時間ほどデスクワークをして、一カ所訪問して、腹を立ててすぐその場を後にした。この歳になっても人をぶん殴りたくなることはある。苦い気持ちのまま知らない道を進んでいたら、道に迷った。迷った道を進んでいくと行き止まりで、その先はただの民家だった。戻って進路を変えるとまた行き止まりだった。何だか可笑しくなってきた。田舎道を侮ってはいけない。

 蕎麦屋での昼食。入れ過ぎたわさびが鼻孔を刺激して、頭がくらくらしてきた。思い切りむせ返ってしまい、しばらく咳が止まらなくなった。最近ではこういうことが増えてきた。

(六月八日 土曜日)

 

 通勤時の楽しみなど沿道の自然を愛でるくらいしかない。道路に人はおらず、ただ人の運転する車の往来と、季節の樹木と草花とがあるばかりである。フジの花の色はほとんどが目立たなくなったが、たまに日陰だろうか、まだ紫色の残っているところもある。キリの花もフジに近い色をしているが、つる性のフジとは違って歴とした高木で、しかも房の向きが逆だ。フジのツルなど、見頃が過ぎた今では広葉樹の枝にまるで網のようにかかって汚くなっている。はて、ニセアカシアの甘い香りが車の中にまで漂ってくるのはもうすぐだろうか。

 帰宅後は近くの中華料理屋に歩いて出かけた。ビールを飲むのにちょうどよい気候で、気分良く飲んで食べて帰ってきた。明日も仕事だ。一瞬だけの週末のひととき。

(六月七日 金曜日)

 

 困ったことがあれば人の所為にするくせに、良いことがあるとそれは自分が良く動いたからだと誤解する。そんな性質があるかもしれぬ。良いと言われれば有頂天になるが、別の角度から眺めれば最も酷いこともあって、要するに偶然性に委ねた成り行きがこうなっているといえなくもない。自分の存在意義を疑えば、止めどなく矮小化させることなど容易だ。そして自分を亡き者にすることさえできる。

 吉岡秀人医師の言葉は厳しいけれど、共感することも多い。若者に対する期待というのは人間に対する希望と同義である。それを表現する言葉は、強く望むほどに鋭く研ぎ澄まされていく。本田圭佑選手の言葉もその通りだ。志の高さが表れるほどに、近寄りがたく感じる人も増えるのかもしれない。だが、同じことを考える人が多くなれば社会は変わると思う。

 ところで、オーストラリアと引き分けてワールドカップ出場を決めたサッカーの試合。ゴールを決めた本田に対するインタビューを聞いてがっかりした。先週初勝利を挙げた日本ハム大谷翔平投手へのインタビューも酷かった。アナウンサーは誰もが申し合わせたように「気持ち」ばかり聞こうとする。なぜあの場面であそこに蹴ったのか、その意図について聞かないのか。なぜ二刀流にこだわるのかを聞かないのか。もしも尋ねられれば口を開いたかもしれない。しかし聞かれないならあえて話すこともない。イチロー選手が日本のマスコミの取材を嫌っていた話を以前どこかで読んだが、当然だと思う。

 日本人の会話には「なぜ」がない。だから思いがはっきりしない。はっきりしないものは、人に伝えることなどできない。なぜなら、自分自身が何がなんだかわけがわからないからである。「なぜ」という質問からは対話を編み出すことができる。相手の答えを取ってはさらに聞き出すことができる。しかし、「気持ち」を問うことだけでは対話のキャッチボールは続かない。「どんな気持ち」「こんな気持ち」一問一答で終了。まるで下手な国語の授業そのものだ。

 アナウンサー自身が自覚できていない。聞いている人々も疑問をもたない。とにかく場が盛り上がれば誰も文句を言わない。これは長年の我が国の国語教育の大いなる成果である。退屈な授業を全国的に浸透させたためである。それに加担してきたわたしたちの罪は重い。ではどうするかをわたしたちが真剣に考え、動かねばならない。

(六月六日 木曜日)

 

 十年前とはわけが違う。体力がずいぶん落ちてしまい、情熱すらそれほどでもなくなった。歳とともに要領が良くなったとはいえないし、適応能力がついたとも思えない。しいていえば多少技術がついて、ものの見方は古いものと新しいものがすっかり入れ替わった感じがする。例えば、いま望んでいることは、十一年前にはもっとも望まないことだった。それに、十年前にやっていた実践なんてもうばからしくて使えない。五十分の流し方がまったく変わった。それにしても、若い人は入れ替わる前に初めから新しいのだから羨ましい。迷う事無し。しばらくはそのまま突っ走ったって構わないだろう。

 十年前にはまだ折り返し前だったが、今は折り返し地点を過ぎてからもうずいぶんになった。できることの数はもう少なくなるいっぽうであり、記憶力も薄れ、腰も肩も痛いし、目も利かなくなってきた。いちばんしたいことは、もう死んでもできない。それでも再び挑戦しようなどと考えているのであれば、かなりいい加減な人間だ。歳は取る。みんな死んでいく。早くまた十年経たないか。

(六月五日 水曜日)

 

 今住んでいる町の中に比べると、職場のある地域は最高気温が二度も三度も低いらしい。それをラジオの天気予報を聞いて知った。きょうも日中は暑くなったようだが、それほどの不快な感じは受けなかった。この二、三年というもの、暑さに対する自分の感覚が変わってきたように思っていたが、それは単に気温がそれほどまでには上がらなかったためなのかもしれない。

 夕方からは細切れでいくつもの用事を済ませた。そのうちの一カ所では焼香をした。ヤンゴンで見た、派手な電飾に囲まれた仏像を思い出した。スピーカーを使ったり、コンピューターを使ったりするのはいいけれど、真に伝統的な信仰にとっては、電気の有無などどうでもよい。

(六月四日 火曜日)

 

 仕事を終えて帰途に就いた頃には、太陽がまだ高い位置にあった。西日に向かって車を走らせるとやや眩しかった。遠くの地名の書かれたナンバープレートをいくつも見た。その人たちは海の方からやってきて、僕と同じく西の方角へと走っていくのだった。

 人が亡くなったと聞いて、いい気分にはならない。だけど、誰もが避けては通れないとしたら、耳を塞いでしまうわけにはいかないだろう。いくら尊敬されている人でも、普段の行いがいい人でも、死ぬ時は死ぬ。情の世界とは別のところに存在し、また突如として果敢なくなるもの。

(六月三日 月曜日)

 

 誰もいない。ゆっくり起きる。日曜美術館は、夏目漱石の特集。漱石はイギリス滞在中頻繁にロンドン周辺の美術館に通い、絵を見て歩いたのだという。そして、それが小説の所々に表れる。絵画のイメージが小説を書く動機であり、絵画なくしては小説も生まれなかったということか。おもしろい。

 昼には松尾堂のラジオで歴史などの話を半分聞きながらうとうとする。窓を開けていると風が心地よい。少し車を走らせる。川沿いの土手に伸びた夏草。その向こうに広がる空。

(六月二日 日曜日)

 

 朝から晴天。6時40分に家を出て、車を走らせる。15時過ぎまで外で仕事。帰宅して、洗濯をして、ひと風呂浴びてから、半袖のシャツを着て、駅まで歩く。17時発の高速バスで仙台へ。18時半前駅前に到着。アウトドアの店で一点買い物。アップルストアで修理の終わったコンピュータを引き取って駅に戻る。駅ビルの店でビールを一杯、そして食事。20時の最終バスを待つ頃に霧雨。駅に着いたのが21時半。歩いて自宅に戻ると22時前だった。

(六月一日 土曜日)