二〇一三年三月

 人間をもっと学ばなければいけない。今回の東京行でそう考えさせられた。あちこち回るたびに人が多くて気持ちが悪くなった。それはきまって商店街であり、流行のスポット、いわゆる新名所というところだった。僕は「新名所」という言葉が嫌いだ。それを敢えて何か目新しいものがあるように宣伝して人々の購買意欲を駆り立て、ほんとうはたいして価値のないものを価値があるようなふりして売りつけ、カネを巻き上げるようなシステム自体に反吐が出そうになるのである。別の言い方をすると、人々がこぞってその宣伝に素直すぎるほど素直に乗っかって、何の疑問ももたずに消費生活を楽しんでいる状況が気持ち悪い。子供も大人も消費することが生活の中心になってしまったとしたら、そんな人生はほんとうに薄っぺらなものになるのではないか。

 全国の子供たちが修学旅行でここに来る。学校で子供たちをここに連れてくる意味とはいったい何だろう。考えると自己矛盾に陥り、それも気分を悪くする原因となるのだ。終戦後、軍国主義が一夜にして否定され、新しい民主主義を前に教師たちが苦悩したときの状況と、現在を重ねてしまう。

 311は戦争とは違うけれど、否が応でもこれまでの価値観に見直しを迫る大きなできごとだったことには違いない。だが、それを越えてもなお僕らは価値観を転換できず、みなければいけないものにふたをして、気づくといつの間にかこれまでと同じ路線を突っ走っているようにみえる。

 整備され塵一つ落ちていないオフィス街と、裏通りにある猥雑で下品な歓楽街は、どちらも人の心を映し出している。どっちを向いても、人で溢れかえっている街。この都市の設計に理念があったのかはわからないけれど、もしあったとすればその理念を支える人間理解に、根本的な甘さがあったのではないか。消費で人の心が満たされるなんて、あまりに貧しい発想だ。後藤新平の理想を最後まで実現できたなら、果たしてこんな街になったろうか。目に焼き付いたのは、嬉々として消費に興じる老若男女の姿。いやいや、何でも叶えてくれる夢の街、ここは世界一幸せな場所だ。正直な話、いま住む地元と同じ日本かと思った。

 きょうは疲れを引きずって、資料の整理などしているうちに昼になった。午後には日曜喫茶室を聴いていた。最近他界した大島渚と藤本義一の話で、二人の未亡人が故人たちの思い出を語っていた。いつ死んでもいいように準備しておかなければならない。残された者は、モノの片付けをするだけでもたいへんだろうなと思った。あの世の人たちに守られているとは思うけれど、だからといって早死にしないとも限らない。むしろ今まで生きてこられたことは幸運だったかもしれない。そして、この年まで生きたらもう早死になんて言えない。

 妻を迎えに行った帰り道、偶然通りかかった教会の建物が素敵だったので車から降りてみた。離れて立つ住居からご夫人が出てきて、内部を見学させてくれるという。司祭の妻であるというそのご夫人は、上品な服に着替えて鍵をもってきて扉を開けてくれた。内部は予想以上に荘厳で、落ち着いた輝きがあった。ログハウスの建物は地震にも強く、311の地震でも窓ガラス一枚割れなかったという。礼拝堂のそこかしこに掲げられているいくつものイコンが目を引いた。これらの多くは日本最初のイコン画家山下りんが描いたものであるという。研究者たちが時々これらの絵を目当てに来るらしい。正教のこと、ニコライ堂のこと、沢辺琢磨とニコライとの出会いのこと、信者たちのする教会の手入れのこと、聖書や聖歌のことなど、多岐に渡ってとても詳しく説明してくださり、ありがたかった。普段の日曜はあちこちに礼拝に出かけるため不在のことが多い。各地に教会はあるが、司祭の数が不足しているので週代わりでお祈りに赴かなくてはならないのだそうだ。だが、きょうはたまたまここで司祭がお祈りをする日だったという。そのおかげで小一時間ばかり教会について学ぶことができたのである。素敵な時間だった。

 雪が降って寒い日だった。身体も冷えてしまって、珍しくラーメンが食べたくなった。それで午後3時頃、近くの店にラーメンを食べに行った。その後いくつか買い物をしてきて、戻ると眠気が襲ってきた。目を覚ますと午後8時。それからパソコンに向かい、ここ数日のことをつらつらと書いたのである。

 もう零時になる。あすからまた新しい年度が始まり、いくつものことが変わる。この一年は大きな勝負、挑戦の年でもある。身体に気をつけながら、後悔しないよう日々を大事に過ごしたい。

(三月三十一日 日曜日)

 昨日は任務を終えてから日本橋小舟町の宿に入り、風呂に入ってさっぱりとしてから、汐留で劇団四季のミュージカル「オペラ座の怪人」を鑑賞した。台詞の日本語の明瞭すぎるほど明瞭な発音が印象的だったが、なぜあんなにも明瞭にするのか不思議に思った。四季メソッドというそうだが、海外作品をほとんどそのまま翻訳して演じる時に、わかりやすさを優先するとあのようになるのだろうか。

 ミュージカルの現在に至る系譜を辿ると、その前にはオペラがあり、バレエがあり、背景には欧州におけるキリスト教の歴史があるのだろう。そこに思いを至らせてはじめて、異文化を受け入れるということになるのではないか。わかりやすいということが、複雑な歴史的背景を目立たなくしているということはないだろうか。わかりやすさばかりを追わなくても良い。背景や意味についてもっと学ぶ姿勢をもちたいと、そんなことを思う。

 今回のミュージカルは、特にオペラ調の歌やバレエの踊りが多く、重厚で見事なものでとても満足した。しかし、役者たちの言葉遣いから、西洋文化の奥深さに触れる事無しに表面ばかりを真似て、追い付け追い越せと猛進してきた、文明開化以来の日本の在り方を、同時に垣間みたような気がした。

 午前中はブリヂストン美術館を見学した。「Paris、パリ、巴里 ─ 日本人が描く 1900–1945」というテーマ展示が行われていた。戦前パリに渡って絵を学んだ洋画家たちの絵が、文字数豊富な解説付きで紹介されていた。これらを読み、観ながら、かれらが異国から芸術を肌で学びとろうとする情熱を感じた。それは単なる技術ではなく、西洋文化の底に流れる思想や哲学だったはずである。

 美術館を出てから、再び日本橋界隈を歩いた。沿道の桜は盛りをとうに過ぎて、半分ほど散っていた。鰹節のにんべんで土産を買い、刃物の木屋で爪切りを買い、東京駅では印伝のカードケースを買った。手に入れたのは期せずして日本の古くからある良きものばかりだった。良きものの良き所以はその心にある。心の通ったものはうまいし、使いやすいし、見た目も良くなるはずである。けして、うまさや使いやすさや、見た目が先にくるものではない。すべては人の心から始まる。

 外の良きものを受け入れるためには、内なる良きものについて知らなければならない。いずれにせよものごとの本質をみる目を曇らせてはいけないと感じた休日であった。

(三月三十日 土曜日)

 二日目も一日かけて都内を歩き回った。朝食後にホテルを出て同僚と分かれ、そこから先は最後まで単独行動となった。この日も雲はあったものの気温が高くて、汗をかきながら移動した。東京駅周辺を確認し、それから徒歩で日本橋界隈を回り、東京証券取引所では見学コースに乗って1時間ほど勉強した。三つの大学から来た経済系のゼミの学生たちとともにコースを回った。ビデオを視聴したり、案内人の解説を聞いたりしたのだが、そのときの学生たちの反応があまりに素直だったのが印象的だった。

 ところで、証券取引所の周辺には郵便や銀行発祥の地がある。また、日本橋は五街道の起点であり、今でもいくつかの国道の始点となっている。さらに、日銀や三越など重厚な建物も多い。だから、東京駅からここら辺まで歩くのはなかなか楽しいものだと思った。

 日本橋から新橋経由、ゆりかもめに乗ってお台場に向かう。お台場では必要なところを回った。ここにも人がたくさんいて気持ちが悪かったので、長居は無用と急いでその場を後にした。臨海線で新木場へ。駅ビルで遅い昼食をとり、第五福竜丸展示館へ。受付の方に挨拶をしてから展示を見て回った。ここには17年前に来て以来の訪問だ。あのときは船の上に乗れたが、もう乗れなくなっていた。

 品川に向かい、駅周辺の数か所を探して回る。そして次は渋谷。ハチ公像の辺りを確認して写真を撮った。ほとんど休憩無し。任務が一通り完了するともう夕暮れだった。

(三月二十九日 金曜日)

 二泊三日の行事が来月の中旬にある。その下見のための東京出張に同僚と二人で出かけた。上野駅で下車し、上野公園からアメヤ横丁を通り、地下鉄で移動。この日は宿泊予定のホテルを二カ所訪問して、部屋や設備を見学、担当者と打ち合わせをした。さらに、東京スカイツリーに出かけ、当日の動線や注意点について確認した。人が多くて気持ちが悪くなるくらいだった。終わるともう日暮れだった。気温が高くて暑かったこと、駅から宿まで歩く距離が結構長かったことで、時間がかかり、足も疲れた。在京する同僚の弟夫妻とともに夕食をとった。滅多にないような出会い方だったが、話を聞けたことは楽しかった。

(三月二十八日 木曜日)

 明日からは出張なので、職場で過ごすのはきょうが今年度最後の日となった。思い立って宿の予約をし、いつもよりも十五分くらい遅く家を出た。締め切りのある書類は昨日のうちに済ませていたから、きょうはゆとりをもって仕事を進めることができた。それでも、外に出て何人かと話したり、中でまた他の人と打ち合わせをしたり、物の片付けがあったり、昼食会のために歩いて食堂に行ったりと、あちこち動き回ることも多かった。3月で転勤する方々を囲んでおしゃべりをすることもあった。今くらいになると、誰も次のことが頭を占めるようになっている。自分のタイマーも、もうすでに1年を切っている。待ち遠しさを感じる間もなく、あれよあれよといううちに来年度は終わってしまう。

 不思議なことに、この類の出張はこれまで経験したことがない。これもタイミングを逃してきたからともいえるだろうが、それとともに、これまで自分が行くことを求められなかったからということもある。あるいは、そのどちらでもなく、単に頭数が必要だということなのかもしれぬ。とにかく、この2年続きの流れがこれまで意外に少なかった。こうなることが、自分にとっては希少な経験なのだ。いずれにせよ、この旅で気分転換ができて、4月からの平和な暮らしにつながることを期待したい。

(三月二十七日 水曜日)

 未明に目覚めてから朝方までうつらうつらして熟睡ができなかった。午前中は部屋の机の配置換えで、詳細な計画が何にもないままになんとなくできてしまうのだった。それは楽なことと言えば楽だが、全体の空気の緩さを作ってしまっている要因の一つであると感じた。

 場所が変わると気分も変わる。こまかな仕事を済ませてから外に出た。郵便局に行ってから、二軒に用事で訪問した。一軒目は難なく済んだが、二軒目では重い話を一時間ばかり続けなければならなかった。頭の痛い問題を新年度も引きずることになる。戻ってきてまた少しデスクワークをして終了。

 まだ明るいので、通ったことのない道に挑戦する。思わぬ道から思わぬところに抜ける。頭の中に立体的な地図が書き込まれる。今まで気になっていた総菜の店でいくつか買ってきて、蕎麦を茹でて食べた。

(三月二十六日 火曜日)

 朝から少し緊張していたが、緊張したからといって何がうまくいくわけでもない。少し前につけた段取り通りに動くべき人物が動ければそれで十分のはずなのだ。余計な気を回す必要はない。

 山は10時には過ぎた。その後来た客と小1時間話して仕事の仕上げ。午後にはゴミ溜めみたいになっていたある部屋をみんなで片付けた。ほんとうにゴミばかりがあって、それらを取り除いたらきれいな部屋ができあがった。ここで仕事もできるし、小さな会議も可能なくらい。これも気になっていたことの一つだったが、解決できてよかった。

 夜には先週とは別の送別会。送別される側ならば当然出席しなければならない会であるはずなのに、不参加だった人がいたのは残念だった。週の始めにも関わらず、送り出すために参加を決めてくださった方がたくさんいたのだ。その方々に精一杯の誠意を尽くすのが当然なのに、それに思いを至らせずに自分の我を通すことはあまりに勝手で未熟だと言わざるを得ない。どこでも毎年あることだが、これは非常に重要な局面だと思っている。

(三月二十五日 月曜日)

 6時に家を出た。職場に行って作業をした。毎年一回はこんな休日がある。誰もいない間にロッカーや机の中などをあらかた片付けておく。そうすると机の配置換えの時に楽になるから。そして、昼過ぎまで書類作りを進める。8割くらいできたところで終了。今年度終わりの目処が立った。

 その後は松尾堂を聞きながら曇り空の下、北上川沿いを南下。県境を越えてから西へ向かい、国道4号線と交わったところから北上。途中の店で透き通ったスープのあっさりした中華そばを食べた。

(三月二十四日 日曜日)

 朝のうちは頭がふらふらした。軽い二日酔いの症状だったが朝食を食べると和らいだ。彼岸だったから、昼前に妻の実家に墓参に出かけた。風の強い日。街中で昼食にすっぽこという郷土料理を食べた。野菜がたっぷり入って、うどんが入っていてうまかった。身体が温まった。

 実家からは梅干しをたくさんもらってきた。あまりしょっぱくなくておいしい梅干しだ。これを毎日朝に一個ずつ食べれば健康が維持できそうな気がする。

(三月二十三日 土曜日)

 送別会の司会をすることになっていたので、朝から落ち着かなかった。進行が得意なわけではないのだが、これまでのことを振り返るとこういう役回りが多い。間の悪いことと何の特技もないことが、司会に限らず面倒な役を自ら引き寄せてしまうのかもしれぬ。これも勉強と前向きに考えるのもいいけれど、できればやりたくないというのが本心だ。

 会場となったのは先日個人的に使った店で、料理も雰囲気も悪くなかった。そして自宅から徒歩で行けるところだったから、我慢せずにビールが飲めたことがよかった。割り当てられた部屋には多少不満があったものの、こぢんまりとして始まってからは却って会が進めやすかったので助かった。

 二次会では何年ぶりかでカラオケ屋に入った。若者や歌の上手な人たちに紛れて、古い歌を三曲歌った。他の人たちの歌う歌には知らない歌が多かった。この二十年、いわゆるヒット曲とは無縁の生活を送ってきたのだと思った。それが悪いとはいわないが、良いと思う歌を多くの人と共有できない時代というのは寂しいものだ。ネットがあるじゃないかという声もあろう。しかし、共有というのは同じ場所にいて同じ気持ちを確認し合うことだ。ネットでなんていわば括弧付き、(仮)のものでしかないね。

(三月二十二日 金曜日)

 月曜のようだが木曜だった。雪がうっすらと積もって滑りそうだった。席に座って黙々と仕事を進めようとするが思うようには進まなかった。午後には新年度準備の会議があった。骨組みが簡単に示されただけだったが、今までなかなか動かなかった船が少しばかり動いたという感じがした。これまで2年間携わってきた部署から、別の部署へと変わることになった。これまでのことが何だったのか、今後見えてくるものもあるだろう。それがまた改めて学びとなるだろうから、意味がなかったなんてことはない。この2年に比べたらと、困難も困難と思わないくらいでいられたら、大きな成果である。帰宅は早かった。明るかったので、別の道を通りたくなった。川が光ってきれいだった。着いてからわずかながら料理をした。気分転換になった。朝のうちは、今夜はあるところに見学に行こうかと考えていたのだが、腰が痛くてそんなことはする気が失せた。それで夕食後は結局だらだら過ごしてしまった。

(三月二十一日 木曜日)

 朝食後に高速を飛ばしカワトクまで用足しに出かける。開店まで間があったのでホテルの一階の珈琲屋でコーヒーを飲み、店が開くのと同時に入る。しかし用が済むまでに1時間ほどかかった。その後スポーツ店に行ったが、店の広さと人の多さと店内放送の騒々しさに気分が悪くなった。

 彼岸なので実家に寄り、墓参。産直で林檎と豆腐と野菜を買い、芽吹き屋で昼食。天丼と蕎麦のセット。そして、先日の法事でいただいた桜餅味のアイスクリームも。クマリンのほどよい香りがよかった。家で少しのんびりしてから国道を南下、途中の書店で思わず仕事の本を物色。小麦屋でパンを買って帰宅。

 夕飯は冷や奴とどら焼きという取り合わせ。もう眠いので早めに就寝予定。

(三月二十日 水曜日)

 パソコンはほとんど使わずに、ペンで紙に字を書く単純作業を進める。朝から夕方まで続いた。右肩が痛くなったので、ぐるぐる回した。以前先輩方が同じような動きをしていたことを記憶しているが、これがあのときの症状なのかと納得した。首も凝るし、肩も凝るし、目も痛くなる。

 夕方からは分会の歓送迎会があった。こぢんまりとしているが、こぎれいな部屋で、上等の料理を堪能した。ノンアルコールビールでも何ら問題なかった。

 一つ一つ学ばなければならない。どの道も同じことである。いつの世も上の者が下の者に教えてきた。いくら変わりやすい世の中だとはいえ、順番が逆になることはあり得ない。教えられることを教える。同時に若い者からも学ぶ。いつまでも言われることを待っていても仕方ない。若者の存在こそが、世の中の唯一の希望である。

(三月十九日 火曜日)

 朝からパソコン仕事を続ける。来年度のことについて話を聴く。そして、それ以降のことについて意思表示をする。また新たなスタートを切った。やれるだけのことをできる一年にする。

 新しいこととは、特別に奇を衒ったことをいうのではない。やるべきことを、やるべきときに、やるべき人たちが、やるべき方法で、淡々と進めるときに出来上がるものである。それは目の前の状況にとってもっとも良い方法となるはずだからである。

(三月十八日 月曜日)

 夕方、散歩しながら清酒の蔵元世嬉の一のレストランに出かけた。四種類の地ビールを飲みながら、うまい郷土料理を食べた。町中で飲むのはビール祭り以来2度目ではないか。

 思えばサイトを始めてから13年が過ぎた。13も年を取ったということだ。しかし、そのわりには自分が何も変わっていないことに驚く。それはまるでこの間時間が流れなかったかのようである。

(三月十七日 日曜日)

 銀行や郵便局を回り、不動産に書類を届けてきた。家事など誰もが時間を見つけてこなすものではあるけれども、それをこなすだけの時間を見つけるのも難しい人が多い。それだけ、休日であるはずの土曜日曜の過ごし方を汲々としたものにさせる原因がひとつある。自分の考えでは、それが大元凶なのだが、追及する人は不思議だがほとんどいない。

 ところで、携帯電話だスマートフォンだと宣伝がすごい勢いで、今や高校生になったら所有するのが当たり前という感がある。しかし、月々の使用料金が高いという側面から考えても、子供にもたせるようなものではないだろう。世の親御さんはよくも黙って支払っているものだと感心する。宣伝文句にはゼロとか無料とかの文字が踊っているが、人を騙しているとしか思えない。まんまと集金システムにはまって誰かに自動的に吸い取られてしまうような、そんなことばかりの世の中になった。

(三月十六日 土曜日)

 午前2時間の年休を取ったので、定宿では珍しくゆっくり起床し朝食を食べることができた。宿を出て駅までの道を歩いていたら、すれ違う人の数の多いのに驚いた。街を歩くというのはそれだけで十分能動的で刺激的な行為なのだということを改めて感じた。

 飲み過ぎとは思わなかったが、きょうは午後まで頭が痛かった。机の上や中などを片付けたが、効率は悪かった。かといって、土日に職場に行って片付け方をするのは極力避けたい。

(三月十五日 金曜日)

 午前中はこれも節目の簡単な儀式があって、その後は昼まで慌ただしく過ごした。これまで1年間のことを顧みれば、対象の変化は目に見えており、それは明らかに成長と呼べるものであった。それについて感謝を述べるとともに、単年度とか、一年間とかいう節目の大切さについて改めて強調した。

 19時過ぎの新幹線で盛岡へ。始まったのは21時頃で、零時には宿に入っていた。きょうはいろいろと食べたが、その分アルコールの量は少なかった。

(三月十四日 木曜日)

 大きな節目の儀式。天気は崩れそうだったが最後まで持ち堪えた。いくつかの心配される場面でも、練習してきたことが生かされ、全体的には良いものを作り上げることができた。しかし、儀式が終わってから、自分の常識ではもっともやってはいけないことが目の前で展開されたのには唖然とした。

 自分もけして多くを学んできたわけではないが、誰でもある程度の回数をこなせば否応無しに身に付けるものだろうと思っていた。ところが、そうでもないのだとわかった。学ぶ姿勢のないものは、何を見聞きしても何年経験していても、何も学べない。それは厳然たる事実だ。

 夜はとある会の席で、幾人かと言葉を交わした。その中には、ありがたい言葉もあれば、自分の気持ちと相容れない言葉もあった。一つ言えるのは、明確な節目があることは救いであるということだ。

(三月十三日 水曜日)

 4年前のことを思い出す。きめ細かい計画がなければすべてが回らないことを学んだ。これでよいだろうと見込んでいたことが、あまりに大雑把だったと気づかされた。尊大というか、不遜というか、謙虚な姿からはほど遠い人が話しているのを聞くと、不思議な気持ちになる。そういう学びかたもあるのだろうか。では自分はどうだろうかと考える。逆に、卑下し過ぎているのではないだろうか。

(三月十二日 火曜日)

 震災から2年が経過した日。その時間に同じ場所にいた人々とともに犠牲者に黙祷を捧げた。震災の時のことはいろんなところで語りぐさとなっている。あの時自分はどこにいて、どんな苦労があったとか、よくあの状況を乗り越えてこられたものだとか。自分たちの転勤や転居と重なったから、その慌ただしさについて思い出すことが多い。震災があってからなのか、今の土地に移ってからなのか、職場が変わったからなのか、この2年の時の流れが異常に早く感じる。今まで通りでいるつもりでいても、今までとは違う心のもちようがあって、それが時間感覚を変えているのかもしれない。しかし、身内を失ったわけでも、土地や大切なものを失ったわけでもない自分が、いま心に何を残しているだろうか。

 震災の前後で日本社会は変わったのかという問いを突きつけられた。実際のところどうなのだろう。変わらなければ意味はないと思っていた。できるところから変えようとも思った。だが、それでは何がどのように変わったかと問われると疑問だ。あれだけのことがあったというのに。

(三月十一日 月曜日)

 風が一日中強くて、寒かった。午前中はディーラーに出かけて、車検証をもらってきた。次の車検の時までこの車に乗り続けるかはわからない。かといって、すぐに新しい車を買おうと思うほどには購買意欲はない。それほど乗りたくなるような車種がない、といったほうがよいか。車に乗るのは必要に迫られているからであって、徒歩や公共交通で済むようなら特段要らないと思う。(三月十日 日曜日)

 朝7時過ぎ、祖母の三回忌法要のため実家に向かう。外は時折雪がちらつき、強い風が吹いていた。北上のサービスエリアで朝食をとり、着いたのは9時頃だった。お茶を飲みながら寛いでいるうちに親類たちが一人二人と集まってきた。叔父叔母など総勢11名、菩提寺で法要に参列、その後墓参、芽吹き屋の二階で会食。その料理の多さに皆満腹を訴えていたが、それぞれ自分で種類を選んだアイスクリームが出ると、うまいうまいと平らげた。選ぶ、比べるという手法の面白さ。食後はまた実家で少し休憩。それから古いビデオを見たり、仕事がらみのことで話したり笑ったり。少し買い物をして18時過ぎに帰宅。夕飯はもらってきた食料で済ませる。

(三月九日 土曜日)

 

 夥しい書類の山に埋もれながら、今日締め切りの仕事はなんとか終了。それにしても、仕事に追われてばかりの日々だ。おまけに夜には外で会議があった。提案の内容自体がよくわからなかったので、いくつか質問をした。その口調も心なしか攻撃的だったのではないかといささか反省した。他の方々はもっと紳士的に、そして建設的に話し合いに参加していたように見えたので、素晴らしいと思った。

(三月八日 金曜日)

 今月はすべて昼食を自分で調達しなければならなくて、家で用意するのには時間がないから、毎日コンビニエンスストアのおにぎりを買っているのだが、それも続くと飽きる。昼食が出ないのは、準備や後片付けの時間が省けるのでむしろ歓迎。問題は、食べ物をどうやって工夫するかだ。

(三月七日 木曜日)

 時間の流れがどんどん速くなってきて、このごろでは水曜日の朝になるともう一週間の終わりという感じを覚えるようになってきている。充実しているのか、時に流されてばかりいるのか、いずれにせよ、この異常な速さの感覚が加速度的に増していることは間違いない。子供の頃から多くの人に聞かされてきた言葉ではあるが、気がつけば自分もかれらと同じことを喋っているではないか。それを聞かされる若者からすれば、また言ってるこいつはばかだと思うのかもしれない。

(三月六日 水曜日)

 昨日は早起きについて書いたけれど、啓蟄の日の朝は眠くて起きることができなかった。夜中寒かったせいか、長々と嫌な夢を見て熟睡ができなかった。進めなければならない仕事があるが、明るいうちはあまり進まず、暗くなってからしか取り掛かることができない。それが常態だというのはどんな仕事なのか。

 家に持ち帰ってパソコンに向かうけれど、眠くて進めることができない。

(三月五日 火曜日)

 日の出が早くなってきた。明るいと目覚めるのが楽だ。冬の間は、長く眠っていたかったのだが、最近は早起きしたい。春眠暁を覚えずというけれど、たしかにそういう側面はあるかもしれないけれど、春は、早起きする方が得をするような気がする。

 帰りは明るいうちに帰宅できた。仕事を進めようかと思ったが、集中できる状況ではなかったから、早めに職場を後にしたのだった。そしたら、まだ外が明るくて、夜陰に紛れるなどということはできなかった。何の憂いもなく、明るいうちに家に帰れるのがどんなに素晴らしいことか。

 きのうやるべきだったことは、夕飯の後に少し進めた。音楽なんかかけながら、適度の音量で聞きながらやると、意外と捗るのであった。一生懸命作りこまれている作品に触れると、自ずと力が湧く。

(三月四日 月曜日)

 仕事のことを忘れて本を読んだ。しなければならないことはいくつかあったが、週明けでもできるような気がしてきて、ほとんど手をつけなかった。やっておけばよかったと口に出すことはあるが、たいていそれは見せかけであり、実は仕事から離れるときがもっとも至福で有意義な時間である。だから、そういう時間をもてたことに感謝はしても後悔などまったくしない。

 ところで、ありがたいことに車を本日中に引き渡せるとディーラーから電話がきた。それで、夕方取りに行き、18時過ぎにはきれいになった車に乗って帰宅した。

(三月三日 日曜日)

 昨夜は会議があり、その後に締め切りの仕事をようやく終わらせたので、帰宅が遅くなった。土曜の朝は、車で床屋に行き、車検のためにディーラーに寄って車を置いて、歩いて家まで戻った。早ければこの日のうちに、遅くとも明日までには出来上がるということだったから安心していた。しかし、昼頃ディーラーから電話があり、交換の必要な部分が多くあって、時間も金額も見積もりよりかかるということだった。取り寄せる部品もあるから、もしかしたら代車で対応せざるを得ないかもしれないという。2年前は走行距離が約5万キロだったのが、今回は10万キロを超えていた。それで、特にブレーキ周りの擦り減り方が激しかったらしい。安全に関することだからある程度お金がかかるのは仕方ない。けれど、乗り馴れない車で仕事に行くことは避けたい。日曜日中に戻ってくれたらいいのだが。

(三月二日 土曜日)

 

 耳や目を疑うようなことばかり次々とあふれてきて、考えることをやめたり、楽な方へ流れたりしてしまいたくなることも少なくない。たとえば、モノが売れればよいのか、カネが儲かればよいのかという疑問、また、命は大切で暴力は否定すべきといった、一見自明と思われる事柄についてさえ、個々によって多様な答えがあることを忘れがちであったことに気づく。それは、多様な考えに思いを馳せる懐の深さ、寛容さの欠如といったものと無縁ではない。だが、かといってすべてを許したり、受け入れたりすればいいのかというと、それも最良の選択だとは思えない。ではどうするか。とほうもなく険しいけれど、道を開くたしかな方法がありそうだ。

(三月一日 金曜日)