二〇一三年十一月

 
 仙台のU学院の公開に参加。三年連続だ。先週に続き、朝から夕方まで言語技術漬けで、記憶が抜けないうちに復習できたから効果的だったと思う。淀みなく話すスタッフの姿から最先端を自分たちが切り開いているという自負を感じた。コーディネータもすごいが、試行錯誤しながら着実に結果を残す現場のバイタリティが素晴らしいと感じた。あの方たちに肖って自分も少しは良い実践をしたい。

(十一月三十日 土曜日)


 朝には全体に話をする機会があり、珍しく自分の十代の頃の体験談を語った。自分や自分の家族のことを話したのが意外と受け取られたようである。それほどまでに自己開示が少ないと捉えられていたことが自分にとっては意外だった。伝えていると思っていることが伝わっていないのはこちらに責任がある。しかし、受けとめる側のリテラシーの問題もまた大きいことも事実といわざるをえない。

(十一月二十九日 金曜日)

 つくばの講座が終わった日に「かぐや姫の物語」を観た。かぐや姫や翁と媼などの人物が魅力的に描かれており、水彩画のような筆致が人物の気持ちの在り方につれて自在に変わるところが面白かった。自分は竹取物語をすべて読んだことがあったろうかと思った。あとで原典を紐解いて比べてみよう。この映画が子どもたちの読書につながり、子どもたちが古典に親しむきっかけになると良いと思う。

(十一月二十八日 木曜日)


 昨日は情報を聞いてから少し不満を引き摺っていた。もう十年も前に中央の役人から言われたことが心に引っかかっていたのである。その人の言を信ずると、自分は職務においてあまり価値の高くない人間ということになるのだった。ところが、今日になるとプラスの感情だけに変わっていた。もちろんさまざまな面で不安はあるが、気持ちを切り替えて一つずつ地道に解消していくしかない。

(十一月二十七日 水曜日)


 一か月後にしかわからないと思っていた情報が伝えられた。春からのことがかなり明確になった。期待や予想などにはまったく根拠がなく、決まったことにも誰の意図が入っているわけではないのだということを感じさせられた。もしもすべてが偶然の為せる業だとしても、その偶然を自分にとって最も良い道だったと、最後に思えるように自分の思考や行動を仕向けていけるようにしたい。

(十一月二十六日 火曜日)


 移動日。今年はつくばに何度も来たのに、どこも見ていなかった。最後かもしれないので、悔いを残したくなかった。朝一番のバスで筑波山に行った。ロープウエーで登るつもりだったが、登山道まで来たら登れそうな気がしてそのまま一気に女体山の山頂まで登り切った。男体山からケーブルカーで麓に降りた。昼前にはつくばに戻り、バスで東京駅まで行き、汐留で展覧会を見てから帰宅した。

(十一月二十五日 月曜日)


 昨夜は部屋で宿題に取り組んだ。内容は作文と、短編四本の熟読だった。結果は作文がようやく及第点というところだった。日本語によるパラグラフライティングが自然にできることが求められる。なんとなくわかったような気になっているが、その「なんとなく」がすでに間違いだ。まるで旧世紀と新世紀の間に横たわる広い川、時代を隔てる高い壁を、超えようと足掻いているかのようだ。

(十一月二十四日 日曜日)


 土日は言語技術教育の研修。昨年度からの基礎講座の最終段階である。内容はさすがに難しい。と同時にこれまでの研修の中で最も面白いとも感じる。それはおそらく内容のすべてが文学関連だったからだ。特に詩については欧米の事情を詳しく知ることができて興味深かった。いつものことだが欧米の国語教育事情を聞くほどに、今まで自分は何をやってきたのかという後悔の念が沸々としてくる。

(十一月二十三日 土曜日)


 仕事はあっという間に過ぎた。夜にはまた新幹線に乗り、上野から秋葉原経由でつくばエクスプレスに乗った。大きな荷物を持ち、満員の車内では肩身が狭かった。ようやく守谷あたりから客が減って座ることができた。ホテル到着は23時30分頃だったが、夕食がまだだったので空腹だった。それで、コンビニで少し弁当などを買って部屋で食べてから就寝した。深夜のテレビ番組が新鮮だった。

(十一月二十二日 金曜日)


 仕事を終えてから新幹線で盛岡に行った。三か月ぶりに叔母と従兄と三人で飲んだ。従兄が月に一度の出張で盛岡に来た際に声がかかるのだが、九月十月はこちらの予定が合わずに参加できなかった。何を話すわけでない、ただ顔を合わせて世間話である。翌日のことを考えて酒量を控えたはずだったが、翌朝帰ると家人から酒臭いと言われた。翌日が仕事の時には気をつけようと思った。

(十一月二十一日 木曜日)


 午前中二時間ほど通常業務の後、バスで文化センターに移動した。そして夕方までのイベントに参加した。到着が早過ぎたので、開場まで一時間近く待つことになった。このイベントは毎年のことだが、様々な事柄が翌年の参加者に引き継がれていないことに気づいた。しかもこのイベント自体を重要視せず、難なく過ぎれば質などどうでもいいという感覚があったのではないかと反省した。

(十一月二十日 水曜日)


 あらゆる分野の専門家には、その道を知らない人間に対して道を開く役目がある。だから、専門家には、言葉で人に説明し人の理解を得る力が求められる。ひとつの道に通じているのが専門家だが、それはひとつの道しか知らぬというのとはまったく違う。むしろ、専門以外の事柄に広く関心をもち、事柄同士の結びつきを深く考え、言葉にする努力を怠っては、役目を果たすことは不可能だ。

(十一月十九日 火曜日)

 来週半ばの準備ができた。後は翌日に印刷するばかりである。ここまで早く仕上がったことはいまだかつてなかったことだ。しかし、ほんとうに時間のかかるのはこれからで、だからこそ先回りして準備を進めておいたに過ぎないのだ。一週間は実に早い。歳を取ったからだけではないのかもしれない。二十年前の同年代と比較できたら、きっと時間の流れそのものが全く異なるのではないだろうか。

(十一月十八日 月曜日)

 昨夜は外食した。調子が悪かったのか夜中に気持ち悪くなった。幸い朝起きると何事もなかったかのように快調だった。木曜には飲み会が入り、週末は研修でつくばなので、再来週の文書も計画的に仕上げなければならない。それで朝から籠ってやっていたら昼過ぎに完成した。明日からはまたハードな一週間が始まるけれども、週末のことを考えるとがんばろうという気になる。

(十一月十七日 日曜日)

 昼過ぎまで県境の町で外仕事。天気はいいが空気の冷たかった一日。スーパーでおにぎりなどを買って車内で昼食を取った。帰りは県境を行ったり来たりしながら戻った。部屋で少しずつ仕事を進め、夕方から歯医者に行き、本日でクリーニングが終了した。数年前に治した部分に違和感が少しあった。疲れがたまると悪化する可能性があるというが、今回は治療を見送ることにした。

(十一月十六日 土曜日)

 大きな一区切りの日。これで長い間の胸のつかえが取れた。その勢いで月末に休みを取ることを伝えた。朝まではそんなつもりはなかったのに、いい加減なものだ。わけがわからなかったから途中で交代させられただけ。できない者にさせる管理職がどこにいるだろう。ようやくそれを思い知った。今では誰も覚えていないだろうけれど。一年という単位の壮大さ。人生はその積み重ねあるのみ。

(十一月十五日 金曜日)

 よく言われることだが、自分一人がいなくても仕事は回る。誰も困らない。そして後には「だから遠慮なく休みを取れ」と続く。そのとおりとは思う。しかし、そんなことはない、と思う自分もいる。もし誰もがそう考えて休んだら、世の中は立ち行かなくなる。自分が休むときに働く人がいるお蔭で、地球はきょうも回っている。お互い様といえるくらいには、迷惑をかけずに働きたい。

(十一月十四日 木曜日)

 努力や誠意に優劣はない。携わってきた人々の姿をみれば拍手がしたくなる。傍からとやかく言うのではなく、どれだけ寄与したかを、自分のこととして慎ましく見つめ直してみよう。きょうはいつもの仕事場を離れて過ごす学びの一日だった。朝は部屋で仕事をしてゆっくり出かけた。前の職場の同僚と久しぶりに会って話ができた。しかも日中に二時間も読書できた。ありがたいことだ。

(十一月十三日 水曜日)

 勉強が人間を作る。学校や職場ではない。学校を出たら仕事が人間を作る。もし仕事がなくても勉強はできる。人間作りに終わりはない。とはいえその人間が状況によって型に填められるのもまた事実だ。状況が時には力を奪い、命を縮めもする。弱いと何かにすがりたくなるけれど、最後には何も残らない。西も東も善悪すらも幻想。そんな空虚な生を引き受ける。仮令きょう死んでもいいように。

(十一月十二日 火曜日)

 一気に冬が押し寄せてきた。公孫樹の葉がきれいに落ちて、空の青が目に沁みた。午後には風花が舞って、子どもたちが窓辺に駆けよった。ところで、進行中の暖房工事、部品が届かないから月末まで稼働できないという。夕方から文書を大量に刷った。二台ある印刷機のうち一台は数カ月前に故障して以来そのまま。予算不足とのこと。ああ。真っ当な仕事がしたい。それを阻むのは何だ。

(十一月十一日 月曜日)

 昨日は寒かったけれど晴れて心地よい一日だった。ところが今朝はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうだった。鳥たちがやけにうるさく騒いで、飛び回っていた。雪の予報も出ていたので、車のタイヤを付け替えた。自分でやったのは久しぶりだが、汗をびっしょりかき、運動したような気分だった。午後には読書したり仕事の文書を進めたりと、気侭な休日を過ごした。

(十一月十日 日曜日)

 フロントガラスが凍り付くほど気温が下がった土曜、朝まだきより出勤。国道脇の池に靄が立ちこめ、そこに曙の光が差すのを見た。休日には専門外の仕事と決まっている。だが25年もやっていればそれが一つの専門と言えなくもない。一つのことばかりするのが専門ではない。むしろそういうのは最近ではどこにも通用しないとされている。多様性がなければ人間など扱えるわけがない。

(十一月九日 土曜日)

 昨日は立冬だった。高村光太郎の「冬が来た」という詩を紹介した。冬はそれほど嫌がられる季節なのか。冬来たりなば春遠からじというではないか。冬にしか見られぬ風景を楽しむ心のゆとりがほしい。生きていれば悲しみはあるが、だからこそ喜びもまたあるのだという人間の真実を忘れてはならない。故人の人生がどれほどの意味をもつのか、それは私達がこれからどう生きるかにかかっている。

(十一月八日 金曜日)

 国際リニアコライダー(ILC)に関わって、高エネルギー加速器研究機構(KEK)吉岡正和名誉教授の特別授業を参観する機会があった。すべて興味深かったが、物理科学の話というよりも若者たちへの応援歌のように聞こえた。「壁を打ち破れ」「自分が世界を変えるのだというスピリットをもて」「いま起きていることを自分のこととしてとらえろ」等の言葉に強く共感した。

(十一月七日 木曜日)

 いくつもの居場所があるといいという。学校で、仕事場で、地域で。もちろん家庭の居場所がいちばんの基本になる。基本のところで子どもが「勉強しなさい」と言われ続けたら、子どもは家にいたくなくなるだろう。家庭ではまず、勉強していなくてもここがあなたの居場所だというメッセージが示されなくてはならない。勉強しろなんて学校の教師に言わせておけばいい台詞だ。

(十一月六日 水曜日)

 勤務時間の真っ最中というのに保険業者が堂々と営業活動を行っていた。その人の話に腹を立てたわけでなく、保険がある社会に生きることが腹立たしく思えた。ガンも早期なら薬を服用すれば生き延びられる、その薬代として保険金が下りる。だから加入をなんて、胡散臭い絡繰りにしか思えなかった。銀河系には地球と同様の惑星が百億もあるのだと。この一個の命のどこが特別なものか。

(十一月五日 火曜日)

 何か読もうと本を自然に手に取る気になった。それだけの余裕が生じた振替休日。アウトプットがとにかく大事だというのがきょう引っかかった言葉だ。ちょっと読んでからは、月末の予定に関連して宿泊や交通の手配などをしていると昼になった。車で前沢まで出かけてとんかつを食べ、買い物して帰宅した。帰って昼寝したら頭がすっきりして、活字がすっと染み込むように感じた。

(十一月四日 月曜日)

 楽しみにしていた茂木健一郎氏の文化講演会「幸福になる脳の使い方」を聴きに行った。情熱溢れるトークを90分。誰にでもコンプレックスがある、欠点と長所は表裏一体だ、などの話に、今まで考えてきた通りにやっていこうと思った。夜には日本シリーズ第七戦。九回の田中投手登板には驚いたが、初の楽天日本一は嬉しかった。今年ほど日本シリーズにのめり込んだ年はなかった。

(十一月三日 日曜日)

 四時に起床、五時出発での外仕事。今朝は霜が降り、高速の途中の気温表示は零度を示していた。太陽が出るまではかなり寒かったが、その後は日の光が暖かく感じられた。幸い快晴で、風も吹かぬ穏やかな日だった。しかも、予定よりもずっと早く終了できた。江釣子のパン屋で買い物をしてから帰宅。睡魔に襲われ一時間半ほど寝て、起きてからは日本シリーズをテレビで観戦した。

(十一月二日 土曜日)

 午前中は慌ただしく動いて必要なことを済ませた。昼食後は時間の流れがわりとゆっくりと変わり、残務整理などをしているうちに夕方になってしまった。ほんとうは近隣から集まった職員たちが挙って身体を動かすイベントがあったのだが、身体を動かす気分になれず、そのままぼーっとしていたのだった。帰宅してからは、翌朝に備えて早めに就寝した。

(十一月一日 金曜日)