二〇一三年一〇月

 会議出張のために昨日と同じ時間に同じ道路を同じ会場に向かった。天気は曇っていたがそれほど眠くはなかった。会議に出された提案はよくわからないことばかりだった。二週間後のイベントの準備会だったが、何一つ具体的な情報は提示されなかった。自分が行ってどれほどの意味があるのか。ひいては、その会を継続することが果たして意味あることなのか、甚だ疑問を感じた。終了後は直帰。

(一〇月三一日 木曜日)

 日曜日の行事の片付けは朝の一時間で終了した。午後には、あまり行くことのない山間の会場まで会議のために出かけなければならなかった。天気も悪く、運転中は眠くてしかたなかった。四十五分くらいかけて辿り着くと、あろうことか会議の期日は明日だという。変更の連絡が止まっていたのだ。さらに、そこに勤める教え子と偶然会うという珍事が重なった。あれこれ言葉を交わした後、直帰。

(一〇月三〇日 水曜日)

 朝には海鮮市場まで行って魚の朝食を食べた。それから日和山公園を通ってバスターミナルまで歩いた。仙台直行のバスに乗り、仙台で新幹線に乗り換えて、昼過ぎには一関に戻っていた。午後には買い物をして、カレーを作った。土門拳の撮影した数々の仏像が心に何かを訴えてくる。寺院を訪ねるよりも直接に御仏の有り難みを感じるというのはどういうことか。また明日から仕事だ。

(一〇月二九日 火曜日)

 大きな区切りがついた。振替の連休は酒田への旅に出た。このところ年に一度は行っている。土門拳記念館を訪れ、カレーを食べる旅。車で行くことが多かったが、今回は陸羽東線、陸羽西線を回って電車で。到着するなり無料の自転車を借りて、アルバで昼食。その後は土門拳と山居倉庫。夕方からバスで鶴岡へ。暗いので何も見ることなく電車で戻り、駅前の焼き鳥屋で少し飲んだ。

(一〇月二八日 月曜日)

 いよいよ文化祭当日。朝から予定通りに進んでいった。リハーサルでの不安要素は一つ一つ見事に消されていった。細かなところは反省点もあるが、全体としては上出来であった。真剣さと、笑いとが交錯する、文化活動を表現できた。かれらの力が発揮できたことは学校にとっても価値があるし、かれら個人の自信にも繋がるだろうというのは自画自賛か。夜の酒宴も気分良く参加できた。

(一〇月二七日 日曜日)

 前日は朝から準備と練習に追われた。例のビデオは担当が隙間を縫ってパソコン室で作業し、昼までかかって完成させた。水面下で打ち合わせ以外の企画が進んでいるらしかったが、敢えて首を突っ込むことはしなかった。きっとどう転んでも悪いことにはならないという信頼があった。夕方のリハーサルは延びたが、一通り流すと形が見えた。当日は自信をもって迎えられる。

(一〇月二六日 土曜日)

 準備も大詰めの日ではあったが、見た目上は完成とは言いがたい。しかし、周囲は焦りを感じるわけでもなく、あと半日あれば十分という認識でいる。自分もそれに則って大きく構えている。時代、考え方、力量、要求水準…、多くの変数があるので過去との比較は難しい。言えるのは、この時期が一年で最も自己嫌悪に苛まれる時期ではなくなったということだ。

(一〇月二五日 金曜日)

 焦って先回りしてあれこれ手を出してはそれが杞憂だったことに気づくという、お決まりのマインドセット。当日のことを考えて、興奮して落ち着かなくなっていた。かれらからすれば少し滑稽にも映ったのではないか。夕方行うはずのリハーサルがビデオ作成が間に合わずに流れてしまった。だが、事情を聞けば無理もない。それだけの重い仕事を彼は一人で担っていたのだった。

(一〇月二四日 木曜日)

 きょうは空き時間が多く、溜っていたことを午前中に少し片付けることができた。机上の整理をし、溜っていたいくつかの文書を作成した。早く帰りたいと思っていたのだが、さすがに今週は毎晩遅くて、自分が施錠する日も多かった。頭の中が変に覚醒しているようで、アイディアが泡のように浮かんでは消える。端からは浮かれているように見えるかもしれない。自重しよう。

(一〇月二三日 水曜日)

 話し始めると辺りがしんと静まり返る。耳を傾けてくれているのかどうかはよくわからない。もしそうだとすると、その気持ちに見合うほど価値ある話ができるのかと、恐怖にも似た気持ちが湧く。三年という月日がそうさせるのか。関係性の深まりゆえならありがたい。これほど日々を共有することが長くなると、これまで感じることのなかった楽しさも生ずるのかと新鮮な気持ちになる。

(一〇月二二日 火曜日)

 日曜には文化祭があって、きょうからはそれに向けた特別時程が組まれている。通常業務は午前中だけになり、午後からは準備活動一色となる。いつもは六コマのところが午前四コマに押し込められるので余裕を失い、午後は長時間あちこち動き回るので体力的にも厳しい。しかも今回は初めて主務者を務めているので緊張感も大きい。だが、執行部の仲間たちが応えてくれるから疲れも吹っ飛ぶ。

(一〇月二一日 月曜日)

 この週末は特に予定は入れなかったものの、次週末の行事に向けて頭の中を整理する時間がほしかった。たしか一週間の見通しをもったり細かな文書を手直ししたりという具体的な行動はあったが、それらを辿るだけでは不十分だ。ここぞという時に注ぎ込めるだけの集中力を蓄える時間が必要、という場面もある。中五日の周期で登板するプロ野球の投手はそれが半年続くのだから凄い。

(一〇月二〇日 日曜日)

 半月ほども書かないでいると記憶はほとんど消えてしまっている。そこで何か記録は残っていまいかとあちこち探すのだが、ネットの書き込みもメールもない。仕事上なら週報を見ればわかるけれど、土日だとそれもない。結局辿り着いたのは、ノートに貼った買い物のレシートだった。この日は朝にクリーニングに行き、午後にはテレビで楽天戦を見から中華の中村で食事をしたのだった。

(一〇月一九日 土曜日)

 青木新門の「納棺夫日記」の一言一言が心に染み込むように思われた。これまでの人の死に際して感じてきたことと、書かれてあることが融合して、人の生き死にに関する想念がこれまでよりも鮮やかに、幅広くなったような気がする。それで、今週の便りのテーマは「限られた時間をどう使うかがすべて」。時間の使い方=生き方=人生=いのち。掲載した詩は、岩井俊二が書いた「花は咲く」。

(一〇月一八日 金曜日)

 やなせ・たかし氏死去のニュースから、関連していくつかの資料を作成した。アンパンマンは絵本でしか接したことがないが、その背景にはやなせ氏自身の戦争体験があったのだと知った。食料を分け与えることは、人助けの基本形。それは自分の命を他に与えるということだ。それによって自分の命がどうなるかとは無関係に、最も崇高な行為であることは間違いないと思う。

(一〇月一七日 木曜日)

 台風の影響で朝から風雨が強かった。運転中は気にならなかったが、外では風で周囲の草木がちぎれそうになったり、看板がぐらぐら揺れていたりした。だが、午後には強風もおさまり、青空も見えるようになった。空気がいっそうひんやりと感じられるようになり、また季節が一歩進んだ。伊豆大島では大きな被害があったようだ。自然を前にして、あらためて人間の存在の小ささを思う。

(一〇月一六日 水曜日)

 また新しい週が始まった。休養十分で一日集中できたので、思いのほか速く仕事が進んだ。気がつくと夕方だった。台風が近づいているせいで、夜から雨がぽつりぽつりと降り出した。ワイシャツはネットの通信販売を使うことにし、パソコンから注文することにした。最近では近場の商店で買うことなどほとんどなくなった。これも経済が回らなくなってきた理由の一端だろう。

(一〇月一五日 火曜日)

 朝には窓から気球や飛行船が見えた。近くの河川敷で祭があったらしい。午前は家計の収支を計算して金融機関を回り、クリーニング屋に行った。昼は近くの食堂でタンメン。午後には車で外に出た。もう涼しくなってきて半袖も終わりだ。長袖の新しいワイシャツが欲しかった。少し離れたショッピングモールに入ると、その場末の雰囲気に嫌気がさして、何も買わず早々に帰宅した。

(一〇月一四日 月曜日)

 昨夜は三十年来の友人と3年ぶりくらいで酒を飲んだ。たがいに歳を取ったが、前回会った時より二人とも痩せていた。片方が語りたいことを語り、もう片方がそれを聴く。このスタンスには変わりがない。不惑などというのは大嘘で、年を重ねるにつれて惑うことは増える。たいていのことは複雑で、一筋縄ではいかないことばかりになる。それが素敵なことなのかもしれない。

(一〇月一三日 日曜日)

 昨夜は久しぶりに母親を温泉に連れて行き、帰りは花巻の明月館で冷麺と焼肉を食べた。歳を取るほど、肉を食べなければならないという話になった。8月以来ではあったが、特段変わったこともなかった。日中は古い雑誌や本を片付けたが、まだまだ時間が必要だ。大切に仕舞っていたものも、時間が経つと要らなくなる。こうやってどんどん物を少なくしていけるとよい。

(一〇月一二日 土曜日)

 

 雨の朝、いつもより30分ほど遅く家を出た。職場に最も近い県立病院に行き、健康診断を受けなければならなかった。電話をしたら予約は要らないと言われたが、混むと14時頃までかかることもあるということだったので、早めに動いたのだった。結果、待たされることは待たされたが、午前中にはすべて終えることができた。午後には歯科に行き、夕方から実家に移動した。

(一〇月一一日 金曜日)

 普段は金曜にすることをすべてきょう済ませた。茨木のり子の「苦しみの日々 哀しみの日々」という詩を紹介した。それほどの苦悩を抱える人がいるかはわからないが、浮かれてばかりの者に釘を刺す意味もある。やるべきことをやるべきときにやらないともう取り返せないということがある。気づいた時にはすでに遅くどうしようもない。一生悔やまねばならぬということがある。

(一〇月一〇日 木曜日)

 フェイスブックの古い写真を変更したら、多くの人が書き込んでくれていささか驚いた。顔をはっきり出すのはコミュニケーションにとって大切なことなのだと感じた。だが、多くを曝け出すのも問題がある。そもそもネット上のやりとりなんてもともと無かったものだから、無ければ無くともよいものだ。着かず離れずの距離感を保って続けていけると良い。

(一〇月九日 水曜日)

 寒露とはいえ気温が上昇した一日。午後から出張だったため、午前に集中して動いた。おかげであっという間に昼が来て、昼食も早めに終えて、すっきりとした気持ちで出かけることができた。何より目的地が自宅近くというのが良い。今朝も目覚めたのは2時台だったから、出先では少し眠くて困ったが、用務は時間には終わり、いつもより早めに帰宅できた。夜に時間があってほっとできた。

(一〇月八日 火曜日)

 きょうは何度も歌った。歌うことは生きることと同義か。直立不動で歌うのには抵抗を覚える。人は口だけで歌うのではない。全身使って奏でるのだから、身体が動いて当然なのだ。前後左右自由自在に揺れ動く。それが歌うことの本質ではないか。ミュージカルで突然歌い出したり踊り出したりすることの違和感が昨日のラジオで取沙汰されていた。それは真に歌ったことのない人の台詞だろう。

(一〇月七日 月曜日)

 早朝作業を終えて9時過ぎに帰宅。日曜美術館で高村光太郎を見てから仕事を3時間。ラジオを聞いてスーパーまで買い物。夕方には友人とメールや電話でやりとりをして今度の土曜に会う約束をした。3年くらい会っていない。3年なんてあっという間。人の命なんてほんとうに泡沫のようなものだ。いくら何かを嘆いても、辛いとか嫌だとか思っても大丈夫、すぐに終わるから。

(一〇月六日 日曜日)

 仕事に捧げた土曜日。曇り空の下、気づけば10時間立っていた。賭けはすべて失敗に終わり、また無駄の積み重ねで魂を擦り減らした。17時に帰宅。布団を敷いて横になると2時間熟睡した。昨日電話をくれた友人からメールが来た。時間の無さを嘆いた返信に少しの後悔を感じた。しばらくして届いた文面に、「時間は自分でつくるもの」と。そんな自明のことを書かせて申し訳ない。

(一〇月五日 土曜日)

 筆と硯を持って二階と三階を行ったり来たり。この季節の自己嫌悪を打ち破る方策は、意外に身近なところにあった。やらないのではなくやる、しかもかなり積極的に。億劫なことにほど、気持ちをぶつけてみる。と、それは破れかぶれな方向かもしれないけれどね。ああそれにしても恐ろしく早く週末は来る。語気強く言い放った言葉は、要約すると吉野弘の「生命は」に集約される。

(一〇月四日 金曜日)

 そこがどんなところなのかわからないけれど、この言葉からそれを連想したとしたら、悪いけどテレビの見過ぎというかメディアに毒されているというか。言葉の意味が、不本意に汚く塗りたくられていき、使える言葉が少なくなっていく。常套句を実しやかに使う若者は、それで自分を生きているように誤解してしまう。容易いことではないけれど、いつも自分の言葉で生きなければならない。

(一〇月三日 木曜日

 歌は世に連れというけれど歌だけではない。すべては状況を反映する。そこに貫かれるのが呼吸であり水や空気であり。いにしえより続く生き物たちの駆け引きを経て構成されるもの。魂から湧いて出る調べは何より尊い。今朝の紙面に僕は女神をみた。瞳の奥まで優しさの満ちたような表情。人のもつ最高の信実に涙を流した。何よりも美しく輝く命の音楽を耳にしたような気がした。

(一〇月二日 水曜日)

 十月に入ったというのに日中は少し蒸し暑い。衣替えとはいえ、上着を着るのは朝だけだ。暑いと感じる理由は気温が高いだけではないだろう。一日中立って動いて気がつくと夕暮れになっている。そういう過ごし方をしていると、熱が上がるのかもしれない。火曜日なのにもう週末という感じがする。在庫は一日で底を突き、また初めから仕入れなければならぬ。自転車操業とはこのことか。

(一〇月一日 火曜日)