二〇一三年九月

 

 父の命日は区切りが良い。年度のちょうど半分だから少し気が引き締められるような気になる。もう15年になる。年齢から15を引いてみると、当時はまだそんなに若かったのかと驚く。あれは夏の時期にいちばん忙しかった年だった。そして、その頃はまだ何もかもがへただった。何者でもなかったのに、何者かであるような振りをして、何でも見下して、侮っていた。

(九月三十日 月曜日)

 

 日曜日には持ち帰った仕事を進めた。だいたい午前の時間を一つのことにかけて、午後の時間をまた別のいくつかのことにかけた。特に寸劇の台本作りの仕事がわりと楽しかった。気がつくと日暮れだった。クリーニングを取りに行ったらかつての同僚とばったり会った。年度が変わって半年になる。あと半年経ったら自分たちはいったいどういうことになるのだろうか。

(九月二十九日 日曜日)

 

 昨夜は職場の仲間たちとの酒宴があった。和やかな雰囲気で、誰もが気持ちを緩やかにして場を楽しんでいた。挨拶では少し歯切れの悪い言葉になってしまったのだが、それが過ぎると近くの人たちの話を聞きながら自分も楽しく参加することができた。そして、きょうは平日とほぼ変わらぬ時刻に出て、昼過ぎ帰宅。昼は蕎麦。夜には市議選の投票をしがてら隣町まで行き、トンカツを食べてきた。

(九月二十八日 土曜日)

 

 朝から息つく暇なく仕事をした。呼吸法や姿勢、発声法というものが、すべての活動の根幹にあることを、最近は強く意識している。身体を通して理解し表現すること。これぞ「身につける」ということだろう。これまではあまり考えることはなかったが、それがどれだけ重要で汎用性の高い技術であることか。コミュニケーションやパフォーマンスにとっての基本中の基本はこれなのだ。

(九月二十七日 金曜日)

 

 プロの声楽家のパフォーマンスに触れることなどそれほどあるわけではない。だが、ひとたび本物に出会いさえすれば、子どもはその良さに衝撃を受け心が揺さぶられ、本物の人間に近づくものである。メディアを買い与えたり、テレビを垂れ流ししていたりするだけではだめだ。まずは保護者が意図的に良いものだけを子どもに与えなければならない。その次にくるのが学校だ。

(九月二十六日 木曜日)

 

 やるべきときにやるべきことをやれるくらいやりつくすということが、いかに大切か。それを伝えるのは難しい。失敗者であるから難しいのか。だが失敗者なりの方法があるのではないか。茨木のり子の「自分の感受性くらい」を紹介した。自身が戒められるものであれば、他への説得力ももつというものだろう。自分の嫌な部分を見つめることは誰にとっても難しいが、必要だ。

(九月二十五日 水曜日)

 

 彼岸の中日だった昨日は、朝に道の駅まで行って野菜やリンゴを買った。それから車で実家に墓参に行った。帰りに通りかかった空港でイベントを見学し、屋台の焼き魚やたこ焼きを食べた。それからデパートの食堂でホットケーキとソフトクリームを食べた。天気が良い秋の一日。学びにはほど遠かったかもしれないが、こうやってゆっくり過ごすこともまた必要なのだと思う。

(九月二十四日 火曜日)

 

 昨日の最後は蔵の町栃木の散策をした。電車の連絡が悪く、辿り着くまでに時間がかかり、名物だという焼きそばにありついたのは14時過ぎだった。その後はまっすぐに帰宅した。今回の旅ではいくつか日本の古きものを訪ねることができた。明治維新前後の歴史的な風景からだけでなく、これまで未踏の地を眺め、これまでの日本像を少し広げることができたことが成果だった。

(九月二十三日 月曜日)

 

 高崎駅前のホテルを出て、長閑な私鉄に40分ほど揺られて、富岡製糸場まで行く。史跡では一度一人で全体を見学後、ガイドの案内にしたがって再度見学した。明治の初めに作られた建物は一昨年の地震でもヒビが入らないほど頑丈だったという。数多ある土地から多くの条件がととのったここが選ばれたのだそうだ。ガイドさんの名調子を聴ききながら回ると学びに深まりが増すのがわかった。

(九月二十二日 日曜日)

 

 朝食は6時半からと書いてあるので時間ちょうどに訪れたのだが、7時からだと言われた。看板に偽りあり。時間まで周辺を散歩すると別所沼という沼を見つけた。たくさんの人が周囲をひたすら走ったり歩いたりしていた。食後は電車を乗り継いで、群馬県大泉町を訪ねた。カルナバルと称する祭を見学し、昼食を取り、利根川まで2時間くらい歩いた。赤岩渡船という今時珍しい渡し船で県境を越えた。

(九月二十一日 土曜日)

 

 午後はいつもと別の場所で研修に参加した。ワークショップは何度やっても好きにはなれないが、有能な若い人の姿を目の当たりにすると少しは刺激になる。帰宅して、風呂に入って、着替えてから電車に乗った。何も仕事の入らぬ連休などそうそうないから、時間を有効に使うべく夜のうちに移動しようと思ったのだ。中浦和駅前には特に何もなく、夕飯は近くのスーパーで弁当を買って食べた。

(九月二十日 金曜日)

 

 連休の谷間の2日間。ぬるま湯に浸かった雰囲気が辺りに充満しており気持ちが悪かった。それは、来週の大きな試験に備えようとする意気込みがまったく感じられなかったということだ。中秋の名月について説明したが、手応えは感じられなかった。聴く者聴かぬ者さまざまだろう。伝え手が聴く価値のあることを話すのが前提だ。だからこそ全員が聴くという建前も成り立つ。

(九月十九日 木曜日)

 

 昨日に引き続ききれいな晴天が一日中続いた。市場の朝食はそれほど良いとは思わなかったが、文句を付ける必要もあるまいし、おそらくもう二度とそこには行かないだろう。日中は1時間とちょっと外で寝転んで昨日買った本を読んでいた。ページは予想以上に進んだが、服に小さなダニのような生物がいくつも付着しているのに気づかなかった。後にはしばらく痒くて困った。

(九月十八日 水曜日)

 

 台風一過の青空が広がった。仕事については何も聞いていなかったし、こちらからも確認することはしなかった。金融機関を回ったりと用事を足した。午後には車で出かけた。少し本屋に立ち寄ったら、面白そうなものをいくつか見つけたので購入した。夜には先月に続いて外に座りめまぐるしく変わる攻防を眺めていた。周囲の声や動きがおもしろかった。

(九月十七日 火曜日)

 

 台風が迫っているというので、用事で朝に出たほかは終日家の中にいた。雨が時折激しく降り、午後には風も強まった。テレビは各地の被害の様子を伝えた。浸水や竜巻も起きたらしい。朝にはひたすら赤ペンを使って仕事をした。昼前からはパソコンに向かい、夜まで文字を打ち込んでいた。一日あればできることに何日かけてきたことか。仕事に限った話ではないが、やるべきときやるに限る。

(九月十六日 月曜日)

 

 朝はまだ曇りだったが、昼頃に雨はかなりの勢いになった。持ってきた合羽を着て、雨の中を過ごした。お蔭で安心して芝生の上にも座ることができた。午後から雨は一段と強くなった。電話で何度かやりとりをしているうちに、携帯電話の画面が出なくなった。電気屋に見せると乾燥すれば直るかもという。しかし、ポイントを使えば無料で新機種に変更できるというのでこの際だから変えた。

(九月十五日 日曜日)

 今週末は外仕事。5時半に出て、帰宅は19時を回った。土曜日は30度を超えるくらいの暑い日で、日焼けもするほどだった。いろいろと頭に来ることばかり起きるので呆れた。怒鳴りたくはないが、こちらもいつまで我慢できるほど忍耐強いわけでもない。ばかにはつける薬はないが、そのばかに薬を付けて治せという。悲しいけれどそれが仕事の一側面である。

(九月十四日 土曜日)

 職場の位置には不満があるが、たまにはいいこともある。早めに帰れることだ。しかし翌日は早いので損も得もないようである。外食をしようということだったが、店が混んでいたのでスーパーで出来合いのものを買い、部屋で温めて食べた。ほとんど恒例のようになったカツは今回はサンドウィッチだった。スーパーのカードが変わると店員から聞いたが、手続きはしなかった。

(九月十三日 金曜日)

 一週間くらい前から準備してきた。さまざまな意図をもって臨んだが、それほどの手応えは感じなかった。悪くはなかったけれど、参観者には伝わらない部分も多かった。それは十分に伝えるほどの時間も労力もかけなかったことによるのだろう。何の予備知識も持たぬまっさらな感性も、何も映さないうちは何の役にも立たない。映してみなければだめだ、それも自分自身の手で。

(九月十二日 木曜日)

 外で組合関係の会議があったので早めに退勤した。内容はそれほど充実したものではなく、毎年この時期に同じように行われている行事についての確認であった。面白いことが何もない代わりに、厄介なことも回ってこない。無気力を装うほどに誰からも相手にされなくなる。それはもしかすると大切な素養かもしれなかった。ぬるま湯の中でつるんで過ごすような環境はもう勘弁してほしい。

(九月十一日 水曜日)

 難しい道だ。健康面の不安は心理面の不安でもある。だが、どう転んだとしても罰は当たらないだろうとも思う。いろいろな可能性。その可能性を自分自身で閉じてしまう可能性さえ、開かれているのである。寿命が今日尽きても、きっとどうということはない。それで喜ぶ人もいる。こちらが思い通りにならないことを楽しめたら、それも思い通りの人生だったことになるから円満解決だ。

(九月十日 火曜日)

 

 重陽の節句について四度同じような説明をした。菊酒などもう知っている者などいない。だが、廃れた習わしなどほかにいくらでもある。例えば、10月10日が何の日であったか。それがどうしてその日になったのか。もう若者は由来を知らない。敬老の日が9月15日だったことでさえ、今では昔話になった。それは、誰も聞きたくないほどに価値を失った話になったということだ。

(九月九日 月曜日)

 

 朝5時からテレビをつけていた。さまざまな違和感がつきまとっていた。決まったものは受け入れるしかないが、自分にできることなど簡単には見つからない。財界の考えていることを理解するのは難しいが、それよりも名もなき一般庶民の集団心理というのがよくわからない。そして、自分もそのうちの一人だと思うとなおさらである。もったいない日曜日。何も次に繋がらない一日だった。

(九月八日 日曜日)

 

 3時頃には目が覚めた。パソコンに向かってこの一週間のことを振り返って書いた。きょうは白露だった。気温が下がり、部屋の中も涼しくなってきたから、冷房のない部屋でもまとまったことができるようになってきた。もう少し気温が下がるともっといい。7時半に出て、外仕事を3時間してから職場に入り、パソコンで文書を出してから、いつものところに訪問。きょうはできるだけ短時間で済ませるようにした。長々話すことはないし、実際に行動するのはこちらでなく先方の番である。

 昼食は千厩の小角食堂で食べた。テレビではちょうど連続テレビ小説「あまちゃん」が放映されていた。座った席の角度が悪く、音声が小さくて聞き取れなかったのでよくわからなかったけれど、震災後を描いている場面をみたら当時のことを思い出した。もしもあの地震が起きなければ、僕らもここに住んでいたかもしれなかった。契約までして、住むはずだった建物はこの食堂のすぐ近くだ。

 帰宅するとさすがに眠たくなった。クリーニング屋に洗濯物を出して来てから19時半頃までぐうぐう眠った。それから二人でスーパーに行き、夜の食事と翌日の食材を買った。

 「世界ふしぎ発見」では戦場カメラマンの渡部陽一さんが富士山に登っていた。面白い番組だった。

(九月七日 土曜日)

 

 3時半に起床したが目覚めは悪かった。今日配布すべき文書を一から作成した。いつも掲載する詩の選定が出来ていなかったので、いくつかの詩集をめくることから始まった。だから、進み方は遅かった。一週間に一つ、タイムリーな詩が見つかったときには幸せを感じる。きょうは高田敏子の「花火」という詩を見つけた。見つけた時にはそれほどとは思わなかったが、それに文章を重ねたら思わぬ化学反応が起きて面白かった。

 職場では一日中パソコンとテレビを使用した。移動や接続が厄介なこともあったが、使ってみるとやりやすかった。だが何といっても秀逸だったのは、ハードよりもソフトだ。週に一回の割合で、このソフトを使って取り組むのであれば、何とか続けることができるのではないか。この季節は自己嫌悪に陥ってしまうのが常だったが、少しは期待できそうである。(九月六日 金曜日)

 

 一つのイベントが終わったので、きょうは通常業務であった。時間にゆとりがあれば新しいことに着手するところだったがそこまでは難しかった。そのかわり、これまでなかなかまとまって取れなかった、作業の時間を取ることにした。珍しく終了時刻が遅くなったけれど、思いがけず和気藹々とした空気ができたのでよかった。

 夕方には予期せぬ要因が重なって、意外と早く帰宅することができた。やらなければならないことはたくさんあったが、テレビの前に座ってボーッとしていたら22時を回ってしまった。ドクターズというドラマの最後の方を見た。登場人物たちはなんだかみんな元気で楽しそうな人々に見えた。仕事は翌朝やることにした。(九月五日 木曜日)

 

 途中から某発表会のために特別な動き方になった。発表の練習時間を十分に取って、早めの昼食を会議室で食べた。時折大粒の雨が降ったかと思えば、ぴたっと止んで青空がのぞいたりした。不安定な天気であった。関東地方では竜巻が相次いでいる。そしてこの日も全国的に竜巻の可能性があるという予報が出ていた。

 会場へはタクシーでの往復だった。到着してからは流れに乗って進むだけである。主催者の中に昨年と同じ顔を見た。動きを見て、細かなところまで気が回る若者だと思った。発表者それぞれに工夫を凝らし、努力の跡が認められた。当方は特に表現力についていえば群を抜いていた。しかもこれまでの練習以上のものを本番で出したので、嬉しかった。帰りのタクシーを間、ゆっくりとコミュニケーションを図った。また、タクシーでは、運転手さんの身の上話をたっぷりと聴かせてもらった。まるで取材している記者のようなつもりになった。

 感慨に耽る間もなく別の仕事場へ移動すると、手伝いに来たという現在実習中の若者に会った。ただ者でない雰囲気を感じたが、言葉を交わしてみるとまっすぐな視線から素直さが伝わってきた。来年のことはわからないけれど、もしも指導できるのなら楽しみだと思った。

 夜は昨日とは違う場所での懇談会だった。初めて入った建物だったが、内装がきれいなことに驚いた。参加者は昨日より多かった。意見交換も盛んだったが、20時半前には終わったのでほっとした。

 さまざまな人たちに会えた一日。帰りの車の中は気分がよかった。

(九月四日 水曜日)

 

 朝は昨日と同じような流れだった。午後には参観の機会があった。専門分野ではなかったが、一つの提案として興味深く拝見できた。途中で上司と二三課題について話せたのもよかった。自分のもっていた視点もそれほどずれているわけではないかなと思った。

 夜には地域の公民館で懇談会が行われた。人数は多くはなかったが、19時の開始からさまざまな意見交換が続き、終了は21時だった。畳の上に座るのはきつい。だが、まだ週の始めだったので眠気も感じることなく終えることができた。それからコンビニに寄って、夕飯を買って、道の駅の駐車場で食べて帰宅した。こういう時間に立ち寄って食事をする場が一つもないのは残念だ。

(九月三日 火曜日)

 

 淡々と新しい週が開始した。朝には少し慌ただしかったが、短時間の打ち合わせで問題は解消した。月が変わったが蒸し暑さは相変わらずで、ズボンが太腿にまとわりついて不快だった。昼休みと夕方の時間を使って、水曜日の某発表会の練習を行った。時間のないところでぐんぐん上達するのには感心する。素直に聴く耳を持つものに対してはこちらもよどみなく言葉が出る。受け手がいるから送り手が生きるというパフォーマンスの本質を実感する。心配なのはこちらの言葉がほんとうに適切なのか。ベストを尽くすことができているか。頭の上の神様がこちらをずっと睨んでいるのを想像する。

 

(九月二日 月曜日)

 

 日曜は朝からテレビ。がっちりマンデーではマンダムの特集だった。サンデーモーニングをとびとびに見て、9時からは日曜美術館。再放送の神田日勝。以前見たものだったが、また別の感慨があった。

 午後からホームセンターに行って買い物をし、帰り道を少し遠回りして帰った。夕方はクリーニング屋まで歩いた。アパートの駐車場では小さな子供たちが何か叫びながら走り回っていてうるさかった。ここで車を出して事故を起こしたらたいへんだと思い、歩いたのだったが、いい散歩になった。

 夜にはNHKで昨夜に引き続き地震の番組を見た。やはり首都圏や西日本でも大きな地震が起きるのは確実らしい。しかし、それが明日なのか三十年後なのかはわからない。関東大震災が起きたのは、今村明恒博士が予測してから18年後のことだったという。天災の起こるスパンは人間の感覚とは尺度が違うから、どうしても自分の問題として捉えるのが難しい。だけど、来るのがわかっているにも関わらず人や物が集中する流れを止められないのは悲しい。

(九月一日 日曜日)