2014年11月

30日(日)
 前半は毎日何か書いてきたが、後半は毎日何も書かなかった。一日経つと、一日の記憶は薄れ、それが一週間続くと、先週末のことなど何も残っていない。これは心に留めておこうとたしかに感じたことすら、心の片隅にもない。そういうことの繰り返しで、今月も晦を迎えている。
 書かない理由を問えば、おのずと答えは出る。ひとりで書くための時間をパートナーと話す時間に充てているのであり、個人的なことを考える方向性を仕事のことに向けているということだろう。無駄話になることも多いが、話すことで考えが広がることもある。また、個人的に考えるというのにも限界がある。個人は否応なく社会とつながっており、その社会との大きな接点は仕事にある。好きな時間だけが大切な時間なのではなく、選び取ったことだけが必要なことなのでもない。いつでもどこでも、いま目の前にあることにすべてを傾けることに集中する。おのずとそうした時間の積み重ねがその人の人生、生き方となる。

29日(土)
 昨夜は遅かったので、今朝はゆっくりと起きた。外は晴れて、気温がまたぐっと下がった。二か月ぶりくらいに床屋に行くことにした。今まで3回行った床屋は、ずいぶん近いところにあって値段も安かったのだが、仕上がりもそれなりだった。そこで試しに、街場にある少し料金も高めのところにバスに乗って行ってみた。運河地区にある築200年は経っているであろう歪んだ建物に、開店と同時に入った。中に入ると洒落た小物たちが雑然と置かれている。スタッフの青年たちは英語で話し、ときどき笑い声が響く。出してくれたコーヒーは旨かった。愛想も良いし、手際も悪くなかった。でも、洗髪をしなかったから、細かな髪の毛が首回りや背中をちくちく刺して気持ちが悪かった。店を出た後は、ぶらぶらとあてどなく散歩した。市の開かれている通りを歩いたり、サンドイッチを買って公園で食べたりした。コンセルホヘボウ近くの裏通りにテントが並んでいて、そこは食料品の市場になっていた。隣の通りはまた綺麗だった。シント祭の直前だったので、シンタクラースやピットたちのパレードが行われていたのに偶然ぶつかった。ピットたちは吹奏楽を演奏しながら、商店街を練り歩く。彼らはパン屋の店内に入っていき、また出てきた。職場のオランダ人の職員の話では、この時期にはオランダ中にこのシンタクラースとピットたちが現れて、子どもたちと写真を撮ったりするのだそうだ。クリスマスの習慣と歳末大売り出しのチンドン屋役が融合した、オランダらしい光景の一つではないかと思う。

15日(土)
 休日にもかかわらず朝からワープロに向かい、書類作り。結局15時頃までかかる。永年勤続表彰に恥じぬ仕事ぶりである、情けない。目は使ったが、身体はゆっくり休ませながら、霧雨模様の土曜日を暮らした。途中、家の前の通りをシンタ・クラースのパレードが通りかかり、そのときは少し外に出て様子を見てきた。シンタ・クラースはオランダのサンタクロースのようなものであり、黒人のピットというのを連れて、ゴーダの町からやってくる、ということになっているらしい。アムステルフェーンにはきょう、そしてアムステルダムには明日上陸してパレードが行われる。このところ子ども向けの放送局ではこのシンタとピットの話が連日放送されており、クリスマスのムードを盛り上げている。外に出てみたら、何十名といるピットさんが沿道の子どもたちに手を振ったり、白い袋から菓子を取り出して分け与えたりしていた。

14日(金)
 表彰の日だったようだ。自分はここにいるので当然受け取る訳にはいかなかった。だから、あらかじめ欠席ということにしておいてもらっていたことを思い出した。夏のことだったように思う。特に長いとも感じないし、それが名誉なことだとも思わない。記念の品など要らないし、ましてや賞状など受け取る筋合いなどないとさえ思う。くれるものなら拒むこともないが、おそらくここまで届けてくれるようなことはあるまい。成人式の時のことを思い出した。友達からの誘いを断ってでも行く訳にはいかぬと勝手に決めていた。今もその頃と変わらない。ど根性ガエルで、町田先生は生徒が困ったことをするといつも「教師生活25年、こんなひどい生徒を受け持ったことは初めてだ」などと言いながら泣き出すのだったが、その25年=「長い年月」という記号はまったく実感できなくなった。年か。

13日(木) 
 ずいぶん暖かい冬の始まりなのだろうと思う。気温なんてまだプラスだし、雪や氷なんて気配すらない。もっともそんなことを言うとひんしゅくを買ってしまうかもしれないが。冬には冬の過ごし方があり、夏には夏の過ごし方がある。やはりどうしても、23.4度の傾きというのが世の中の揺らぎの一因という気がする。

12日(水)
 ずいぶんいい加減な仕事をした。準備の時間を取らなかった。というよりも、別のことをしていてこちらに時間を回せなかった。お前がいると皆悪くなるから死ねと言われたことがある。いまならパワーハラスメントということになる。午前3時過ぎまで職場にいて、帰ってからは炬燵で寝て4時半には起きてワープロを打たなければならなかった日々がある。いまならブラックもいいところだ。しかし、20年前には自分も体験した。それで良しとされた時代があったのだろうか。栄養ドリンクの宣伝で、24時間戦えますかというのが流行ったことがある。24時間戦うのが当たり前。今でも似たようなものではないか。こちらに来てからそのときのことをよく思い出す。どうかしていたのだと思う。自分でなく、自分をそんな風にさせた人物が。そして、もう過去のことであるにもかかわらずそれを引き摺ってしまうことが残念だ。

11日(火)
 十一月十一日は実に様々な日になっているのでおもしろい。シントマールテンといえばオランダの祭りで、今宵はランタンを持った子どもたちが住宅地を練り歩いてお菓子をもらって歩くのだそうだ。そのほかにリメンバランスデイだったり、シングルズデイだったり、日本ではポッキーだったり鮭だったりする。それらを広く知ることでどうということはないといわれればそれまでなわけだが。しかし、この多様な広がりが自分にはおもしろい。

10日(月)
 英語習得の面からみれば、相当に効率の悪い学びの実践者ということになろう。10年前よりは格段に向上したが、ではそれがどれくらいかというと、それほど顕著なわけでもない。朝起き抜けのラジオやテレビはなぜか細部まで聞き取れ意味を理解しやすいのだが、これが夕方になると集中できずに終わってしまう。疲労度が高いときでもある程度聞き取れることが理想だが、そこまではまだまだである。

9日(日)
 ベルリンの壁が崩壊してから25年の記念日。あれからもう四半世紀が経ったのか。CNNでは18時から始まった儀式の模様をずっと中継している。壁のあった場所にしつらえられた風船が、ベートーベンの第九の鳴り響く中、次々と夜空に上っていった。
 今朝テレビでアンデルセンのアニメーションが放送されているのを見た。どこの国で制作されたのかはわからなかったが、ヨーロッパの言語であればどこの言葉に吹き替えても通用する映像だと思った。それだけ欧米の文化というのは共通する部分が多い。日本人が欧米語を学習する困難さに比べれば、欧米の人々が他の欧米語を学習することなどたやすいことである。特にもアルファベットを使っている言語同士であれば、もはや他の言語と呼べないのではというくらいだ。それらが離合集散を繰り返しながら西洋の歴史を展開してきた。そして、ある一時期、ドイツがおかしなことになった。欧州はいま一応の平和の中にあるが、(ほんとうは平和などと呼んではいけないのであるが)、いつどうなるかわからない。歴史は前に進むものではなく、繰り返すものだから。

8日(土)
 朝から快晴の佳き日。そういう日に限って進めなければならない仕事があるのは、どこにいても変わらない。昼過ぎまで、適度な集中ができて、ある程度のめどを付けるところまで進めた。それで午後には気が楽になった。バスでハーレムまで出かけて、商店街をふらふらして、少しだけ買い物をすると、すっかり暗くなった。これまでは日が長かったので、夜の街を歩くことはほとんどなかった。だが、最近は17時を過ぎると暗いので、どこを歩いても暗い。その分、商店の電飾や教会の明かりが暗闇に美しく輝くのを見ることができる。それはこの季節の楽しみの一つだ。教会の中では古本市が行われていて、シャンデリアとか裸電球とか、ステンドグラスやモザイクが綺麗だった。教会の前のカフェでビールを飲んだ。これまでは外の席を取っていたが、もはや寒くなってきたので建物の中に入った。夏にはあまり見ることもない内装が魅力的に映る。これからの季節ならではの楽しみがある。

7日(金)
 やけに長いと思ったら日曜日から勤務が続いていたのだった。土曜は休日とはいえ一日仕事をしていたのだから、2週間休んでいなかったことになる。文句のやり場も無いが、これでは日本での過ごし方と変わらない。何のためにここに来たのであったか。同じことに神経をすり減らしているようではいけない。
 職場でも暖房が入るようになった。ポプラの木も箒のようになってきた。街のあちこちで、空気の噴射機を持った人たちが沿道の落ち葉を吹き飛ばしているのを見かける。落ち葉は拾い集めるのではなく、吹き飛ばして片付ける。落ち葉が腐ってまた翌年の木々の肥料となるのだろう。だいたい焼いてしまっては養分は細っていくばかりである。そのまま腐葉土として大地に戻し、循環を保っていかなくてはなるまい。人間も同じ。死んで土に返すから、また新たな人が生まれ育つのである。火葬して灰にしてしまっては、新たな人が生まれる土壌は失われていく。当て外れな話か。いやそれほど遠くないように思う。

6日(木)
 出勤時の明るさは夏時間の終わりの頃の暗闇に少しずつ近づいてきた。どのような関数かはわからないが、変化の度合いはかなり極端である。朝には濃い霧が出ている。7時半前後に橙色の街灯が一斉に消える瞬間がある。
 きょうどこかで、わたしは秋が大っ嫌いと大声で叫んでいた人がいた。秋が嫌いということも、かれにとっては自分の立ち位置を確かめる一つの要素なのだろう。それに比べると、食べ物の好き嫌いがないのと同様、自分には好きな季節とか嫌いな季節とかいうものがない。それぞれのもつ味わいを、道行くつれづれに感じたいと思うだけである。

5日(水)
 週のはじめというのに昨日の疲れが抜けず、朝に首を捻ってしまいしばらく痛かった。この首は凝りが激しくなるとたまに寝抉ったような症状が表れることがある。目と肩と腰とにも繋がっているようだ。
 昨日乱れた気持ちの理由を自分なりに分析しようと試みた。心の断片を整理しているうちに、余計な言葉がいくつも口をついて出てきた。それを聞く人にとっては迷惑なことだったろうと少し反省した。

4日(火)
 穿った見方をすると様々なものが変に思われる。そして、思った通りのことを思った通りに言おうものなら、その後の展開が危うくなるということもあるだろう。そうやって自分を追い込んできたともいえるけれど。
 良薬口に苦し。そして、良薬でも何でもないものに限って、口当たりが良くて取り憑きやすくて好まれる。
 海水浴場で遊ぶだけなら浮き輪があれば十分だが、まさかそれで荒海に出ようとはしないだろう。かれらにとって本当に必要なものは何なのか。旨いだけでなく深みのあるしかも他の味と混ざって滋味が増す、それくらいのものを提供できる力をもちたい。

3日(月)
 午前中は研修だった。近くの学校を訪ねて、話を聞いたり見学をしたりした。一言で言えないくらいの収穫があった。まとめることができれば、3年間のまとめのレポートができあがりそうなくらいだ。昼には近くの日本料理屋で昼食を食べた。そして帰宅すると13時を過ぎていた。雨が降っていたので、外に出ることはやめにした。パソコンに向かい、作業をしていると薄暗くなった。

2日(日)
 勤務日だった。きのう準備したことを使って、朝から立て続けに仕事をこなした。一日かかって用意したものを半日で消化した。はたしてそれだけの成果があったか。正当な評価ができる人間は誰一人いない。なぜなら、自分の仕事を誰も見ていなかったのだから。もしも評価が下るとすれば、それは数年後から数十年後の話だ。そのときにはこの世にいないかもしれぬ。
 午後には早くに放免となった。帰り道で見る風景は、枯れ葉と高い青空と緑の芝生が鮮やかだった。日が暮れてきてからバスとトラムを乗り継いで市街地へ出かけた。夜から街に出るのは初めてだった。クリスマスの電飾に彩られた街は、昼間とは違っていた。レンブラント広場の店でワインとピザの夕食を取った。外の席は暖房が効いているとはいえ少し肌寒かった。席から広場を眺めているとさまざまな音がした。バイクはヘルメットなどかぶらずに自転車道をぶっ飛ばす。車のスピーカーからは大音響のラップが聞こえてくる。けんかをしている声が聞こえてくる。欧州の人々の自由気ままな音だった。帰りは通ったことの無い道を通った。雰囲気の良いレストランが軒を連ねており、窓からのぞくとランプやろうそくの炎が屋内をぼんやりと照らす空間で人々が食事をしているのが見えた。

1日(土)
 朝から夕方までこれ以上ない晴天が続いた。それにも関わらず明日の仕事の準備で薄暗くなるまで部屋でパソコンに向かっていた。先月一か月分の日記は跡形も無く消え去ってしまったが、それを元に戻すだけの気力など無かった。一応のめどが立ち、夕方から買い物に出かけた。