2018年4月  April 2018

4月30日 月曜日

 朝のうちにきのうのまとめの文書を作った。昼前に職場に出かけて夕方まで仕事をした。帰宅して少し休んでから、近所のフランス料理店に行って食事をしてきた。これで今年の4月も終わり。1年の12分の1が終わったことになる。

4月29日 日曜日

 初めての挑戦の日。大きな集まりがあって、各所から一堂に会した面々は、それぞれ異動したりしなかったりではあったが同じ顔ぶれが多かった。きょうを皮切りに、今年度もまた同様のサイクルが始まった。だが、今年度は昨年度とは異なる。これまで頼ってきた人に頼れない状況が生じ、4月はそれに翻弄された。

 それぐらいできるだろという声が聞こえる。ちょっと無理すれば、できることはある。でも、そこには無理が生じる。無理が祟って本分をおろそかにしてはならないと考えると、踏み込んではいけない領域もある。できることからというけれど、その前にまず、しなければならないことをしなければならない。

 4時起床。5時出発。5時40分出勤。7時40分移動開始。8時20分会場着。そこから17時過ぎまで立ち仕事。帰宅して落ち着いたのが18時であった。そのあと、町内会の班長さんと打ち合わせがあった。4月から副班長とおまけに環境委員ということになり、ゴミ置場の清掃管理と広報の配布という役割を担うことになった。ゴミの出し方が酷いのでなんとかしなければならない。まずは何か張り紙をこしらえてみようか。

4月28日 土曜日

 土曜日ではあったが通常業務+αの一日。特に午後には凄まじい状況に置かれ、臨機応変の対応に迫られた。必死だったので何をどのように話したかは思い出せない。ただ誠意を尽くそうとしたし、それが少しは伝わったのではないかという手応えは感じることができた。そしてそれは今後常に誠意を尽くすと誓ったことになるわけで、これからの生き方が問われる、それはいつでもそうだが。夜には歓迎会で何人かの方とお話をした。現代の状況について分析的なお話を聞けたのがよかった。午前中には対話と雑談について話をしたのだが、自分自身が対話できていたかどうかを反省する。

4月27日 金曜日

 いつもであれば週末だから、明日が出勤だとしても気分が緩んでしまう。夕方には集中力も切れて、この職場に来た年のことを思い出しながら、あれこれ同僚と語り合っていた。最近では少し早めの帰宅だったが、それでも気づくと20時を過ぎていた。

 「よどむ」と「汚れる」の意味を混同する例がみられるが、気持ちはわからないでもない。何年も同じ顔ぶれの職場では、独創性も新鮮さも感じられなくなってしまい、そこからけがれが生じがちになる。反対に、人が新しく入れ替わることで、これまでなかったものが生み出されることがある。未来が開ける心地を覚えることもある。

4月26日 木曜日

 会議。時間短縮を意図したものの、必要と思われることを十分な時間をかけて周知しようとすると、時間はかかってしまう。働き方改革というけれども、時間が短くなった分、楽になったり煩わしさが軽減されたりするかというと、そうとも言い切れない。例えば大量のハンドアウトが横行し、あとは読んでいてくださいと言われたところでいつ読めば良いのか。読まずに積み上げられていく資料の山はいつまでも減ることはない。複雑に絡み合った物事を一つ一つ解いて単純化していく。それをできるだけガラス張りのショーケースの中で進めていくという作業が必要だ。

4月25日 水曜日

 きまりにないものは取り締まらない。目につくとか鼻につくとかいうことは、一切気にしない。隣との差異は、比べない。他がどうであれ、ぶれない。過去からの積み上げでないものは、受け付けない。勝手な意見は聞かない。気分でものを言わない。筋の通らないものは、いくら声が大きくても取り上げない。

 人間が歴史から学べることは、人間は歴史からは学ばないということだ。この言葉は真実かもしれない。

4月24日 火曜日

 定期健康診断のため早朝に出た。昨夜は早めの夕食をとり、朝には何も食べなかった。小さな試験管3本分の血液を採取した。ベテランの看護師風情の女性から、採血で具合悪くなったことはないかと聞かれありますと答えたら、横になってでもできますよと言われ、まさかと慌てて拒否した。学生の頃に、近所の病院で採血途中で貧血を起こして卒倒したことを思い出した。気がつくとベッドに寝せられており、気付けの太い注射を打たれて痛かった。採用試験の出願書類にあった健康診断書を取るためだった。そのことが記憶にあって、以来毎年この採血の時には必ず身構えてしまうのだった。

 こうやって何十年か過ごしてきたが、もうこんなことをやらなくてもいいのではないかという気もする。人生50年と言われた時代がつい最近まであった。今は人生100年時代などと言われるけれど、僕の感覚はいまだに50年だ。だから、きょうお迎えがくるかもしれないと常に考えている。朝起きると、きょう死ぬかもと考える。毎日である。毎時間である。トイレに入っている時も、車を運転している時も、いつ発作が襲うかと考える。いつ襲われても構わないと思う。どうなってもたぶんこちらは大丈夫である。死のイメージもばっちりできている。これからの毎日、一瞬一瞬が全て余生だ。

 心配なのは残される縁者の方々の気持ちばかりである。死ぬ人は考えないけれど、生きる人はずっと考え続けてしまうということである。学生時代に亡くなった友人の置き土産は大きく膨らんだ。僕は今なら少しは自信を持って彼に会えるかもしれない。

4月23日 月曜日

 考えないようにすることは、ストレスを軽減することにはならない。考えることはストレスのもとだが、考えることでストレスを軽減することもできる。生きていることがそもそもストレスだと、以前の上司が言っていたことを思い出す。ストレスの正体って一体何だ。実態のわからないものについては、考えることはあっても、悩む必要はない。実態を分析すれば、考える糸口が見つかるから、考えることは増える。しかし、悩みは雲散霧消する。生きている限り考える。たとえそれが何も生み出すことがないとしても。

4月22日 日曜日

 晴れて気怠い日曜の午後を、自転車に乗って出かけた。少しばかりではあったが爽やかなひと時であった。駅前の蕎麦屋で冷やしたぬきそばを食べた。産直と和菓子屋で買い物をした。たったそれだけだったが、気分転換にはなった。

4月21日 土曜日

 早朝から出勤。午前中思い切り体を動かす。気温が高くなったこともあり、これまでより消耗の仕方が激しかった。午後は早めに仕事場を後にし、蕎麦屋で天ざるを食べた。帰宅後は風呂に入り洗濯をし、2時間ほど昼寝をした。窓を開けて風を入れると心地よかった。爽やかな1日を過ごすことができた。

4月20日 金曜日

 東京出張もきょうまで。墨田区と台東区あたりを見学し、吾妻橋のたもとのビルで昼食を取り、上野駅から団体専用の新幹線に乗って岩手まで戻る。それにしても、見学地では多くの元同僚たちに会った。懐かしい方々。名前が思い出せない方々。見覚えはあるけれど多分接点がない方々。みんなこぞってこういうところに来る。このような状況に耐えられないなどとは思わないが、因果な商売だ、悪の商人のようなものだという気持ちは、心の底流にずっと溜まっている。

4月19日 木曜日

 二日目は、江東区の某施設を訪問した。ショッピンモールの一角が街のようになっており、多種多様な職業について学べるものであった。同名の施設が世界中にある。噂には聞いていたが、訪ねるのは初めてだった。資本主義というのは突き進むと世界中どこも同じようなものにしてしまうのだろうと思った。それは、午後から訪れた千葉県の施設でも感じたことだった。どこの国からきたのだろうかと思えるような異質ないでたちの団体が多かった。それで耳をそばだててみると日本語を話しているので驚いた。前に来た時とはまた雰囲気が変わっている。昭和末期から平成のすべての時期をかけて、世界は変質を極めてきた。夢の国に出かける人々はまた現実に戻っていかなければならない。きっと現実の国の中にこそ夢があり、はかない夢を見るからこそ現実が輝くのだ。そこのところ、順番を間違ってはいけない。

4月18日 水曜日

 この日から東京出張。企画には1パーセントも参加していない。僕の仕事は何なのか。手探りのまま入り、一日目は少し不安定だったが、その後は全うしようと努力した。結局のところ、出張中に考えるべきことも、普段やっているメインの仕事と同じだ。概ね順調で効果的なものになったと信じたい。尤も、成果を出せるかどうかは事後の取り組み如何なのだが。あと1年かけて作るならこうしようああしようと、あれこれ夢を描いていたのが3月。その時点ではまさかこうなるとは思わなかった。

 早朝出勤し、仕事場を経由して一関駅から新幹線で上野に向かう。台東区はかなりの大雨で、昼時はひどかった。バスで移動中に天候回復。文京区を通過して千代田区の施設を見学。先週末のデモの写真は見ていたが、この日は誰一人立っている人は見なかった。そして、渋谷区神南の施設を見学。完全なコースになっており、そこに2時間弱閉じ込められる。この日は朝から眠かった。前日までの疲れが溜まっていたのだろう。夜には観劇というのがついていた。アメリカンな演出と色彩と曲調で表現するとどの国の話もアメリカの物語になる。まだオペラを楽しむ自信はないけれど、ミュージカルを手放しで楽しめるほどもう若くもないと感じた。

4月17日 火曜日

 ぎゅうぎゅう詰めに詰められて、日中は余裕のない時間を過ごした。早めに帰宅したものの落ち着く暇もなく、出張準備をしたつもりで就寝したが、大切なものを忘れたばかりに毎晩ホテルの部屋で苦労することになった。この手の出張で一人部屋を与えられたのは初めてだったが、それは非常にありがたいことだった。こうでなければもうこの仕事は務まらないとさえ言えるほどだ。

4月16日 月曜日

 週の初めから連続でこれでもかというほどの勢いでやらなければならないことが襲ってきた。何をやっても面白く思わない輩というのがいて、いつも心のどこかにそれが小骨のように刺さっているのだが、考え方によってはその小骨のあるおかげで消化剤が分泌されたり機能が活性化したりするわけだから、喜ばしいことなのかもしれない。この調子でスケジュールを逆算していくと、もうあっという間に1年が過ぎてしまうということになりそうだ。

4月15日 日曜日

 家で一日過ごしたように思う。朝には携帯電話のワンセグ放送で、関口宏のテレビを見た。机に向かって文書を作成した。多くの人々の納得を引き出すために説得力を持った言説をせっせと紡ぎ出していく。まるで蚕にでもなったような気分である。昭和時代にはこんなことはなかったであろう。平成時代にもこんなことはなかった。今やっているのは、次の時代のスタンダードとなることだ。これを一年かけてやっていく。先手先手で、実は後追い後追いで、それらを誰もが意識できぬように、生活を網羅する。

4月14日 土曜日

 いつものように仕事場へ向かう。朝のうちは穏やかに晴れていて、山の花も咲いていて、気分良く出かけることができた。仕事も最初の3時間くらいは明るく元気良く取り組んだ。後半は何をどうすれば良いのかわからず、かといって暗い表情をするのは良くないと思ったので、終始口角を上げてかすかに笑いながら続けた。それが良くなかったかはわからないが、様々な価値観の間に挟まれて、置かれた場所はあまり良い状況ではないことを感じさせられた。

 今年度から新しく引き受けることになった町内の副班長には、環境委員という役職もついてくるのだということを、昨日の回覧板で初めて知った。今日班長さんから電話をもらい、明日の朝6時からは環境整備作業があること、係なので雨が降っても集合すること、アパートの周りの側溝に撒くための消石灰を班長さんが預かっていること、撒く作業を後日班長さんと一緒に行うことを確認した。仕事は広報を配布するだけかと思ったら、意外とやることが多いことがわかった。

4月13日 金曜日

 少し気の抜けた金曜日。夕方ともなると、あっという間の一週間だったようにも感じられるようになっていた。その前までは恐ろしく長く感じていたにもかかわらず。一番最初のこの一週間は、毎日が戦いだった。これまで刺激したことのない部位を、これでもかと叩きのめされたような感覚がある。そして、それによって新しい神経が、高速で張り巡らされたような感覚もある。これほどまでに多方面からの仕事が一つのところに集中することもあるのか。途中で倒れるのではないかと多くの人が声をかけてくれるが、それほどまでに情けない姿をしているのだろうか。たとえ倒れても、まあいいか。やるべきことをやっていて倒れるのなら本望だ。やるべきことをやらずして先送りし、ただ遊んでいるような真似はしたくない。

4月12日 木曜日

 朝から幾つかの問題が噴出し、その処理に追われた。隙間の時間の中でこの日の夕方に話す原稿らしきものを書き上げた。昨夜寝ながらウンウン唸りながら、頭の中で脳細胞たちがせっせと組み立ててくれたのだろうこの言葉たちを、情熱のリズムに乗せながら歌い上げることができた。それが真実かどうかは関係がない。誠意が誠意だと受け取られた場合にだけ、それが信頼を取り付けることになるのだ。夜にはまた一つ話し合いが持たれた。僕の中では完全に終わっていることが、何度も蒸し返される。本当にやるべき人がやるべきことをしていたら、こうはなっていない。だが、そのような状況が至る所に存在し、僕はそのすべての事例で、不思議と、本当にやるべきだった人の方ではなく、本当にやるべき人が去った後になぜかやることになってしまった人になっている。これから毎年、こんな感じで推移していくのだろうか。

4月11日 水曜日

 4月は例外なくどこでも忙しく働かなくてはならない。それがわかっているので焦らない。帰宅が遅くなるし、睡眠不足にもなる。食事もいい加減になり、胃腸の調子もいまひとつだ。とはいえここは勝負どきなので、息を抜きながら手は抜かない。ここを乗り切るとあとが楽になる。逆を言えば、ここを楽して過ごすと後でその何倍も苦労することになる。これは1年単位でも言えることだが、3年単位でも同じことだ。1年目に楽な状況にあぐらをかいていると、必ず3年目あたりにしっぺ返しを食らう。尤も僕の場合昨年度は手を抜かなかったはずなのだが。不思議なこともあるものである。人事というのはそういうものである。

 頑張れということである。自分に対して、偽らずに全力を出せということである。

4月10日 火曜日

 出会いの場面まではいつも疑心暗鬼。しかし、通り過ぎると先ほどまでの不安は何処へやら飛んでいって、根拠はないけれど大丈夫かななどと何とかうまくいきそうだという手応えを感じることができた。初心忘るべからず。お互いが初心を忘れなければきっとうまくいくだろう。いつでもすぐに思い出せるようなシステムを構築する必要がある。

4月 9日 月曜日

 新しき試みは成功した。落ち着きのない場面は完全に排除され、終始整然とした時間にすることができた。ハンドアウトの作成も奏功した。これで次年度からも、何の心配もなく担当者が取り組むことができるだろう。いつも思っていることだが、新年度の慌しい中で作る計画はかなり杜撰で、喉元過ぎて熱さ忘れる例が多すぎだ。どうして毎年どこでも同じことをするのに、こうも資料が残っていないのだろうと不思議に思う。

4月 8日 日曜日

 午後から花泉の神社に出かけ、新しい車のお祓いに付き合う。眠気を感じる昼下がりのドライブは、助手席にいる分緊張感が強く、残念ながらそれほど安らいだものにはならなかった。僕の場合車は神の領域ではなく人間の領域なので、お祓いはしないし、お守りも付けない。安全は100パーセント運転者の判断と操作にかかっていると思っている。それを誤った時には人が死ぬということである。

4月 7日 土曜日

 平日と同様に出勤する。午前中立ちっぱなしの仕事を終えて、14時半頃まで机の上での仕事をした。昼食は帰りのコンビニで買って、北上川の流れを見ながら食べた。梅も桜も連翹も辛夷も咲き始めた。水仙やクロッカスもいつの間にか咲いて、河川敷の柳は緑の芽を吹いていた。また新しい春がきた。車の中で人生の春ということを考えた。一生を一年にたとえ四季にたとえることができる。しかし、それだといつも人の最後は冬ということになる。そういうものでもないだろうと思う。何より、長い冬の後の春の訪れほど、喜ばしいことはない。青春と呼ばれる時代が、人の一生のはじめに終わってしまうという括りに縛られる必要はないだろう。人の一生は一度きりだが、その中に無数の季節が繰り返される。春もあれば冬もあり、冬を越えるとまた春が来る。その自覚が、幸福感の根元ではないだろうか。

4月 6日 金曜日

 1日にいくつものイベントが重なる日。3月に一工夫したことがあって、これで楽になると悦に入っていたのだが、その気分が一蹴された。人が変わると何もかもが変わる。誰に対してもどこにおいても言えることだから、自分に返ってくる言葉ではある。人が変われば何もかもが変わる。それならどうすれば良いかを考えることだ。

4月 5日 木曜日

 毎日が出会いの日々である。今日も多くの出会いがあった。一人の人の姿からプロの気概を知ることができた。それとともに、現場のことを何も考えていない機関の存在を思い、憂鬱な気分になった。

4月 4日 水曜日

 歓迎会があったので早めに帰宅しようとした。駐車場に見知らぬ車が停まっていたので、降りてみると太ったお兄さんがまさに腹を出して眠っていた。漫画のようだった。ガラスを叩いて、ここは俺の駐車場所だと手振りで主張すると、お兄さんはすぐに車を動かして、どこかに走り去った。歓迎会は終始やわらかい雰囲気で進んだ。二次会まで行ったのは眠かったが、皆良い人なのだと思った。悪い人など一人もいない。皆善人なのだが、善人そのものに悪が潜んでいるというのもまた事実と言えるだろう。

4月 3日 火曜日

 慣れることは大切だが、自分を曲げてまで違うことをする必要はない。どう整合性をつけるか。提案までの段取りとか、根回しとかの方法を考える。何をどうしゃべるか、朝洗面台に向かっている時に思いつくことが多い。あの何分かで考えたことが、重要局面の流れを形作っていることが多いようだ。

4月 2日 月曜日

 いよいよ始まった。会議会議の連続。よくわからないことが次々と発生する。その都度確認を図るが、わからないままのこともある。判断すべきところが判断することの必要性。決めるべきところが決めることの大切さ。

 

4月 1日 日曜日

 車を取りに新幹線で古川まで。店での説明や手続きがほぼ午前中いっぱいかかり、その後国道4号線を北上した。途中から東に入り、買い物を済ませながら通勤路となるところを走行して帰宅すると夕方だった。気力と体力は温存し、明日からの新年度に備えた。