2018年8月  August 2018

8月31日 金曜日

 今月も今日で終わり。ただでさえ人手が足りない職場なのに、毎日多くの出張が入り、人が足りなくなる。特に、先週から今週にかけては顕著だった。そのため自分の出張の日以外は他の人の出張で欠けたところの補充に入らねばならなかった。このような場合それなりに労力が要るのだが、それもまた研修と思えば楽しくできないこともない。しかし、体力気力が充実しないので、やるべきことを片付けられないままに眠りに就いてしまうのである。

8月30日 木曜日

 昼前から出張だった。五月あたりから動いてきたプロジェクトがやっと終わった。七月の初めまでは応えてくれる者がなく、活動が全く進まない状態が続いた。焦るは自分ばかり。七月に入ってからは、他のスタッフの力を借りるも事態は好転せず。そこでこれまでは考えたこともなかった非常手段をとることにした。時間が思うように確保できずに、個人の力に頼る部分が大きかったのだが、こちらとしては方針が決まってからはできることを最大限にやってきた。結果的にはそれが功を奏した形となった。今回は人の素直さをまざまざと見せつけられた気がした。相手を思いやることを実践して着実に伸びを見せる人に出会えたことをありがたいと思った。

 十六時半頃には戻り十八時頃までは机で仕事をした。その後は組合の会議に出かけ、それが二十時までかかった。

8月29日 水曜日

 自分の職務について総合的に捉えて話をする機会があった。その準備として昨晩簡単なレジュメを作成した。とは言っても、ある書籍の目次をそのまま並べて幾つかの項目に補足を付しただけのものである。対面で一時間では足りな過ぎるくらいだった。年を重ねてもわからないことはまだまだたくさんある。毎日取り組んでいるうちに、ある程度話せるくらいにはなる。しかし、それが確固たる哲学に基づいて行われているものかどうかはわからない。言葉にしてみて初めて自分の至らなさに気づくということがあるだろう。このように自分の考えを伝える機会を与えられたことはありがたかった。

8月28日 火曜日

 昼前から出張だった。食事をする暇もなかったので、コンビニでおにぎりを買って車内で食べた。研修会ということだったが、四人ほどの講師が順番に話をして、それらを聞くというものだった。話の内容は素晴らしいし、何よりそれを話す講師陣の経験の豊かさにはこちらがどう転んでも太刀打ちできないほどである。しかし、雨の日の午後、そして疲れもたまっており、ひどく眠い時間になってしまった。

8月27日 月曜日

 土日にしたかったことはほとんどできぬまままた週が明けた。多忙感というのはこの場合、次から次にやらなければならないことが増えて積み重なっていく、この焦りである。出張が多いために夕方には会議も何も入らなかった。しかし、こういう時に限って日番だったりするのだった。いつもよりも早く帰ったものの、だらだらと時間を費やしてしまった。

8月26日 日曜日

 朝から晩まで仕事だった。湿度が高いために汗がとめどなく吹き出し、喉も渇いた。少し頭痛もあった。やらなければならないことははっきりしていた。だから迷うことはなかった。一日をかれらのために捧げると思えば、何の憂いも後悔もない。ただ、失われた時間は戻ってはこない。要は失われても構わないと言えるだけの時間の使い方をしているかということだ。

8月25日 土曜日

 久しぶりに朝から体を動かして働く。十二時までと思い、元気を出して声を出す。意外と足取りが軽く、腕もよく回る。気温は異常な上昇を示し、室温は四十度近くまでになった。タオルと水筒が手放せなかった。終わってからは早々に引き上げ、部屋で昼食を作る。蕎麦を茹でて、大根をおろして、おろしそばにして食べたら、辛くて味わえたものではなかった。残念であった。

 夜にはまた蕎麦を茹でた。卯月製麺の「山形の冷たい肉そば」というパッケージを開けた。付属の鶏だしのスープは水で薄めるだけという簡単さで、鶏肉を入れなくても良い風味が出ていた。蕎麦があるって、幸せだなあ。明日も朝から仕事である。休み気分がなかなか抜けないけれど、焦らずやっていこう。

8月24日 金曜日

 三日ぶりの仕事である。病院での快適な気温とは打って変わって、蒸し暑い環境での仕事は体に堪えて、今にも逃げ出したいくらいだった。同僚たちには言えないけれど。夕方もう少し別のことをしようとは思っていたのだがそんな余裕はなかった。週末は二日間とも仕事だし、少し早めに退勤しても罰は当たるまい。といっても帰宅したのは十九時半を回っていた。

8月23日 木曜日

 四時に目覚めて採尿と血圧測定を済ませた。その後はそのまま起床して仕事を続けた。だが集中はあまり続かないので、持参したものの三分の二までやって終わりにした。二、三ヶ月前にバリウムを飲んでいたので、今回は胃の透視検査はしなくてよろしいということになった。これも幸いだった。予想より早く退院でき、時間ができた。

 寒河江まで北上し、慈恩寺という寺を参観した。市の職員の方の説明とお寺の方のお話を聞きながら、じっくりと仏像を拝見することができた。全国でもここにしかない配列、ここにしかないスタイルの仏像がいくつもあった。パターンが確立する以前のものがここに残されているということに大きな価値があると感じた。来月には秘仏のご開帳があるという。また来ることができるだろうか。

 道の駅で土産や蕎麦を購入し、寒河江の吉亭という蕎麦屋で肉そばを食べた。暑い日には冷たいそばの口当たりが爽快だ。出汁の効いたおつゆもまた良い。河北町谷地を中心としたこの一帯には冷たい肉そばを食べさせる蕎麦屋がたくさんある。去年あたりからこのそばにはまって、出かけた時には決まって食すようになった。あるいは、それを食べるために出かけるようになったと言ってもいいくらいである。帰りは何箇所かで乾し蕎麦等を仕入れながら帰った。

8月22日 水曜日

 百回続いたらやめてしまえばいい。人生百年時代の到来だという。百年経ったら人生も終わるのだ。これよりふさわしい節目はない。当たり前のように続いていることに対して疑ってみる。自分が今関わっている仕事のすべて。ない方がいいこと、あり方を根本から変えた方がいいことばかりではないかという疑いが大きく膨らんでくる。

 人間ドックで山形まで。朝から夏らしい天気の中、車を走らせる。途中のサービスエリアでは、南から来た夏休み中の何組もの家族たちが休憩しているのを見た。山形も今年一番の高温になったようだが、病院内は冷房が効いていて快適だった。今回ありがたかったのは、二人用の部屋に一人だけだったことだ。医師の都合により健康講話が省略されたのも、時間ができたという意味でよかった。仕事の文書を大量に持ち込み、空いた時間で目を通した。夜も寝苦しい思いをせずに深く眠ることができた。

8月21日 火曜日

 通常通りの勤務になった。昼頃から蒸し暑くなり、その後は一日中ひどかった。一か月ぶりくらいに牛乳を飲んだら、腸の調子がおかしくなった。以前から疑っていたのだが、牛乳は自分の体には合わないようだ。夕方の会議では思いの外意見がたくさん出たので見込みよりも一時間くらい押してしまった。それから必要な業務をこなしていると二十一時になった。仕方ない。なぜなら明日から一泊二日で人間ドックに行くのだから。抽選とはいえタイミングの悪い日に当たってしまったものだ。だが、このおかげで自分自身はまだどこか夏休みのような気分を引きずっている。そしてそれが、生きる力のように感じられる。

8月20日 月曜日

 通常よりも若干遅い出勤。本当はどこかの代休で一日休みだということを思い出したが、結局のところ十四時まで勤務した。当面の準備をして、来客の対応をして、文書を仕上げたり、コピーしたりした。退勤後はホームセンターに寄って押入れの収納ケースを買った。押入れや部屋の気になるところを片付けた。夜には野菜炒めを作り、妻の煮たラーメンと合わせて食べた。麺は半人前だが、野菜は二人前くらいになった。

8月19日 日曜日

 昨日は長い一日だった。仕事で時間を使った分取り戻して平衡を保ちたいと思うのだろうか、特段用事もないのに午後から車で近郊を走ってきた。産直に何軒か寄っては野菜や果物などを購入してきた。早稲の林檎が出ていたので買ってみた。ナイフを入れた途端に甘酸っぱい香りが広がった。明日は準備の一日で、明後日から本格的に始動する。

8月18日 土曜日

 四時起床で五時に家を出た。職場を経由して沿岸の町まで車で向かい、きょうはそこで一日仕事だった。空は快晴で湿度が低く爽やかだった。朝の気温はかなり下がったので半袖ではもう寒いほどだったが、これまでの蒸し暑さと比べると秋らしくなった気候が非常に嬉しかった。数台の車で列をなして目的地まで向かった。海も綺麗に見えて、半ばドライブの気分で移動できた。

 終わったのは十八時頃だった。実に十時間以上もそこで過ごしていたことになる。途中には実に多様な人間模様が描かれた。結果的に不満はあまり残らないものとなったので、自分としてはほっとした。現地で解散となり気持ちはそこで解放された。高校野球で秋田の金足農業高校がベスト4に進んだことをラジオで知った。明日は試合がないので、もうテレビ観戦はできない。毎年のことだが、準決勝以降はどうしても見ることができないというのは残念だ。

 そこから自宅までは約二時間かかった。帰宅するともう二十時近く。夕飯を冷凍食品で済ませ、ビールなどを飲んで少しゆっくりするともう寝るしかなかった。

 昨年の五月に車を買ってから、きょうでちょうど三万キロを超えた。随分速いペースで距離を稼いでいるのは、通勤距離が長いということに尽きる。多くの人にとってこの距離は負担以外の何ものでもないだろうから、この状態が早く解消されることを願うのかもしれない。だが、この一見無駄に見える移動時間が思考を整理する貴重な時間になっていることは無視できない。このことが仕事の質の向上に役立っていると自分には思えるのだがどうだろうか。もちろん通勤時間が短くても、朝にそれ相当の時間を充てることができればいい。肝心なのは、朝の時間の使い方である。

8月17日 金曜日

 十時、市内の写真館に出かけて証明写真を撮ってもらった。久しぶりに背広に袖を通し、ネクタイを締めたままで、いくつか買い物を済ませた。天気が良かったはずが、スーパーから出ると強い雨が降り出していた。大雨警報が出ていて不思議に思っていたのだが、警報通りの天気になった。昼食の後に眠気が襲ってきた。しばらく横になっているうちに出かける時間になった。この日は夕方から職場に出て、瑣末な用事を足し、その後二十時まで仕事をした。少し気にかけていたことを片付けることができたからよしとしよう。帰宅後はすぐに就寝した。

8月16日 木曜日

 一日中天気が悪くて不快だった。お盆の休みも終わりなので、最後に一日出かけてこようと思っていたのだった。仕方がないので車で二時間弱周辺を回ってきた。行く当てもなく車を走らせているだけでなんだかスッとするというのはおかしなものだ。

 来週の水曜日から、一泊二日で山形に人間ドックに行くことになっている。人間ドック自体は面白くもなんともない。だが、山形に行った時には、そばをたくさん買ってこようと思っている。また、季節が合えば、そばの花の咲く風景を見てみたいと思っている。

8月15日 水曜日

 昨日にもまして暑さを感じた一日。最高気温は三十五度を超えたらしい。ネットで確かめた体感温度は四十一度だった。朝に新聞を買ってきたのと、夕方に車まで傘を取りに行ったのと、外に出たのはその二回だけだった。おとといあたりからやろうと思っていたのは、提出書類の文章部分だった。明るいうちはそれを気にしながら高校野球を見ていた。暗くなってから覚悟を決めて書き出した。一通りは終わったが、あとは明日見直して清書をしよう。

8月14日 火曜日

 朝から蒸し暑い。昨日から熱中症気味なのか体調が優れない。喉は渇かず汗が出るわけでもない。吐き気とまではいかないが、胃の奥が少し気持ち悪い。一晩寝たら、寝違えたように左の肩から後頭部までが痛くて首が回らない。目の使い過ぎなのか老眼が進んできたのか、視力がかなり落ちてきた。きょうは本当なら妻の実家に墓参に行くところだが、こちらの体調とは別の理由で行かないことになった。その浮いた時間にやっておきたいことがあったけれど、すっかり後回しにしてだらだらと過ごしているうちに午後になった。気温は三十度台前半だったが、体感気温となるとそれよりも五度ほど高かった。休むということでいえば、これでいいのかもしれない。時節柄、戦争のこととか沖縄のこととかを考えるが、同時に自己の存在の小ささに向き合わなければならないのが苦しい。この小さな脳みその中に、考えても仕方のないことばかりが駆け巡る。

8月13日 月曜日 

 お盆となったので、実家に墓参に出かける。朝から好天で蒸し暑い日。菩提寺での法要をしてから、墓地まで移動し、墓参りが終わったのがだいたい正午。その後昼食を食べようとするが、どこも混んでいて並ばなくてはならないほどだった。花巻空港のレストランを思ったが、駐車場が満車状態で入ることもできなかった。嘉冶屋ではちょうど車が出たところに運良く入れた。十五分ほど待って蕎麦にありつけた。毎年のことながら、この時期に休みが集中するのでどこも人だらけになる。これが日本らしいといえば日本らしい。この慣習はいつまでも変わらないのだろう。

8月12日 日曜日

 早朝からの出勤。その前に、昨夜玄関先に届けられていた十五日号の広報の配達。今回は広報の他に県のグラフと議会だよりがあったので、まず部屋で三種を一つにまとめてから、アパートの三十二軒分の郵便受けに入れてきた。きょうの仕事は外が主で、七時半から十二時頃まで続いた。様々な考えが浮かんでは消えたが、では自分がどのように動けば良いのかということについては具体的に考えることはできなかった。大きな問題をはらんではいるが、一事業所の問題というわけではないから他のいくつもの機関と連携を取る必要もあるわけだし、その問題の解決に労力を費やすよりも、その年その年で場当たり的に対処する方が楽で、他の仕事に影響が及ばないだけ安全であるという気もする。長くいるから余裕を持って見ていられるのか、それとも二十年以上も前の経験がここに生かされているからか、この取り組みが決して不合理ではなくて、地域にとってとても大切な役割を担っているということを自分は理解できる。このことは、自分の精神にとってはありがたいことである。

8月11日 土曜日

 朝の時間を使って今週のことを振り返る。頭の中の整理という意味もあるが、文章を速く打ち込む練習というつもりで打ち込んだ。十時過ぎに出勤。職場の机の上にはバインダーやファイルが積み上がり、最初の一時間はその片付けからだった。メールやファックスの処理をして、会議の文書を二つ作った。緊急の連絡というものもあり、全員集合したところでその概略を聞いた。少し拍子抜けする内容だった。来週には現実になる状況については理解できたが、それに対処するにはいつ誰が何をどのように行うのかの見通しは全く伝わってこなかった。こちらにお鉢が回ってこないことを祈る。

 午後からは外に出ての作業となった。作業とはいうが、することはそれほどない。時間を食べながら夜まで過ごす。十四時から二十一時過ぎまで外にいた。途中で多くの懐かしい顔に会った。何人かとは一言二言言葉を交わした。途中三年間抜けていたとはいえ、八年もいると知り合いが否応なく増えていく。安住しているのは手前ではないかという声が聞こえる。安住のつもりはなかったが結果的にそうなっているだろうか。

8月10日 金曜日

 いつもと同じく四時前に目覚めた。午前中に仕事が入っていたので、朝食後は早めに出なければならなかった。風呂に入って身支度を整えてから、朝食時間までは長かった。朝食会場が開く七時に合わせて移動すると、料理の皿が置かれたテーブルに、待ち構えていた宿泊客が一斉に押し寄せており、どの料理を取るのにも少し待った。いつものことだが気持ちが落ち着かず、何を食べても味わえない。早々に食事を済ませて、宿を出た。

 外での仕事は実質二時間ほどだったが、暑くなってきて喉が渇いた。おまけに移動の時などに少し走ったので息が切れて、足が疲れた。昼前に終わったので、買い物をして帰宅。入浴し、洗濯し、買ってきた物を食べた。午後には少し昼寝をした。

8月 9日 木曜日

 雨の予報が出ていたが、午前中はまだ晴れていた。きょうは遠野に行くというので、天気を気にしながら出かけた。結果的に午前中はかなりの青空の下で過ごすことができた。宮守の稲荷穴に立ち寄った。途中には田畑や渓流のある風景やワサビ田のビニールハウスなど、田舎らしい景色が広がっていた。外はきょうも暑かったが、小さな鍾乳洞の入り口からは冷気が漂ってきて涼しかった。冷たい水で手を洗うと手がすべすべすると言って姪や義妹が喜んでいた。遠野ではカッパ淵と伝承園を見学した。カッパ淵に行く道すがらで大きなヘビに遭遇した。我々が近づいても逃げる様子もなくしばらく行く手を塞いでいた。そのおかげでゆっくりと観察することができた。写真を撮って後でネットで調べたら、アオダイショウの特徴と合致していた。カッパ淵には観光客がたくさん来ており、二、三人の子供がキュウリを付けた釣り糸を垂らしてカッパを釣ろうとしていた。伝承園では、南部曲がり屋が公開されており、養蚕の様子を伝える写真や実際に繭から糸を取り出す器具などが展示されていた。また、奥にはおしら様を祀る部屋があり、独特の雰囲気が醸し出されていた。別の棟では、土淵のお年寄りが作ったという民芸品などが展示され、そこにいたおばさんが、遠野に伝わる昔話を短い時間で語ってくれた。伝承園を一周して回ると皆満足げだった。高速道路で花巻まで行って、マルカンデパートの大食堂で昼食を食べた。お盆前なので空いているかと思ったが、行列ができるほどの大繁盛だった。少し早い時間ではあったが、雨が強くなってきたのでこの日宿泊する予定の大沢温泉まで移動した。その後は風呂に入り、部屋でしばしのんびりと過ごし、夕方には母や伯母や妻とも合流して、座敷で楽しい夕食のひと時を過ごした。

8月 8日 水曜日

 弟の家族が実家に来ているので、この二日間はかれらを連れてドライブに行くことにしていた。台風が近づいており、天気予報はあまり芳しくなかった。しかし、朝のうちは雲が広がっていた空が、少しずつ雲が切れて青空の範囲が広がっているように感じられた。朝食を食べてから実家に向かう。高速道路から眺める空は、北の雲を押し出して、ほとんど雲のない快晴に変わっていった。実家でかれらと合流し、北に進路をとった。午前中は安比高原で姪が幾つかのアトラクションに乗って楽しむのを見た。下界はすっかり晴れていたが、高原はさすがに霧で真っ白で、気温も低く肌寒かった。昼食は途中の店で洋食を食べた。次に向かったのは焼走り溶岩流だった。快晴で気温も高く、岩手山の山頂まで綺麗に見えていた。溶岩流の中の遊歩道を歩き、高いところまで行ってまた戻った。姪にとっては不思議な原風景の一つになるのかもしれないと思った。その後は国道をひたはしり、夕方に実家に帰った。

8月 7日 火曜日

 朝には何をしていたか。少し本を読んでいたかもしれない。午後から仕事が入ると気持ちは休まらない。昼から歩いて研修の会場に出かけた。小雨が降っていたので傘をさした。ある有名企業の社長経験者の講演を聴くという研修だった。民間企業と自分たちとは業種も違うし立場も違うのだが、話されていることには多くの共通点があると感じた。どちらにせよ複数の人間か関わるとうまくいかないことが出てくる。上司をコントロールすることは簡単だが、部下をコントロールすることは難しいという話があった。価値観の異なる者を動かすことの難しさはどこでも同じなのかもしれないと思った。

8月 6日 月曜日

 雨は収まり、曇り空の涼しい日だった。早朝に新聞を買いに出た以外はずっと家の中にいた。職場からの電話が二回あったが、いずれも心配するような問題にはならなかった。広島の日だった。七十三年なんて大した時間ではない。この先どうなるかなんてわからない。

 土日のことを振り返り、あちこちのサイトを調べながら記録した。おもしろい人物は、貧しい土地、極端な辺境から生まれる。貧しい土地に生きながら、自分自身の生活には余裕があるということがポイントだ。

 米軍基地と隣り合わせの生活というのも尋常でない環境だ。鉄柵の向こうは治外法権という場所で生きる人間の平衡感覚はそうでない人間とは全く違うだろう。三沢とは規模が違う沖縄ならなおさらだ。

 実はそういう土地と地続きのここに生きる自分も少なからず影響を受けている。合衆国の五十一番目の州であるというのは冗談でも比喩でもなく、紛れもない事実だと言っていい。

 夕方からはインターネットとテレビをつないで高校野球を見ていた。百回の記念大会か。百回続いたら、百一回目も当然行われるのだろう、何の疑問もなく。本当はやらないのがいい。インターハイも、全中も、全然要らない。子供達のスポーツが、真にかれらの教育ということを目指しているのであれば。

8月 5日 日曜日

 外は強い雨が降っていたが、当初の予定通りと思い、六時前のバスに乗って館鼻岸壁朝市に出かけた。日本一の規模ということだったが、この日は雨だったためか店の数も人出も少なかった。風も強く、猛暑で暑い暑いと言っていた先日までの気候とは全く異なっていた。雨は幸い小降りとなり、傘もいらないほどになった。名物らしい手羽塩やおにぎり、味噌田楽などを買って朝食にした。バスで戻り、「まちにわ」のデッキでカフェラテを飲んでゆっくりした。

 三沢の寺山修司記念館に到着したのが、9時20分頃だった。夏のフェスティバルが開かれる一日ということだったが、あいにく雨風が強く吹き荒れ、外の屋台や子供向けの遊び場などは気の毒な状態だった。記念館では展示物をかなり入念に見て回った。展示のメインは暗いフロアに置かれた11個の机であり、引き出しを開けると中に展示物が入っているのだった。机に置かれた懐中電灯で、引き出しの中を照らし、見たり読んだりする仕掛けであった。また、机の上にスライドや映像が映し出されたり、頭上の伝声管から声や音楽が聞こえてきたりするのだった。11時からホールで行われた講演を聴いた。東京大学の堀江秀史特任助教という方が、「想像力の伝播 蔵書などから読む寺山修司の読書経験」と題して話をされた。大学の講義を聴いているような気分になった。前日から始まった企画展「寺山修司 不思議図書館」に関連する内容で、寺山がどんな本を読み、その影響がどの作品に見られるかということについて、いくつもの事例を示して説明していた。寺山の作品には引用のルールを踏み外して別の作家の作品を自作に取り込んでいるものがあること、作品を読み解くには執筆された時代の文化的な背景を詳しく見るのが大切であることを感じた。講演が終わった後には、企画展の方を見た。寺山の4000冊の蔵書がこれだけ大規模に公開されたのは、死後35年で初めてだという。

 個人的には、天井桟敷の舞台がヨーロッパでいくつも上演されていたことがおもしろかった。特に、展示物の中に、アムステルダムの「メクリシアター」というのがいくつも出てきたのだが、それがどこなのか、日本語のサイトではよくわからなかった。そこで英語のサイトを調べてみたら、The Mickry Theatreだということと、現在はRozen Theatreという名前になっていることもわかった。地図で調べると、そのあたりの風景が脳裏に蘇ってきた。寺山の舞台は日本だけでなく西欧でも受け入れられたのだろうか。あるいは、言葉がない分、西欧の方が抵抗なく受け止められたのだろうか。

 三沢の米空軍のゲート側にある、スカイプラザで遅い昼食にピザを食べた。その後、少し食材を買って帰途に着いた。帰ってから、YouTubeで「田園に死す」を見て寝たら夜中に変な夢を見た。

 これで今年の我々の個人的な夏休みは終わりという感じだ。あとは、お盆にまつわる実家や兄弟たちとの交流が残されている。

8月 4日 土曜日

 車で一泊の短い旅行に出た。七年ぶりに久慈に行き、いつも通っていた幸寿司を訪ねた。ご主人も奥様も元気そうで、顔を覚えてくれていたらしい。寿司を食べながらこの七年間の流れを振り返り感慨に耽った。幾つかの異動があり、その度に新しい人々と出会い別れた。あの年にはまるで想像もしないような展開があり、ここに至っている。これから七年先までどんなことが起こるかは当然思いもよらないが、今までよりもより強く意識しなければならないのは死だ。いつでもそう考えてはいるが、さらにこれまでよりも強くということだ。自分の七年先など、存在しない可能性がある、だとしてもうろたえない。慌てない。嘆かないようでありたい。

 久慈から北上、種差海岸を経由して八戸に向かった。宿の隣の駐車場に入れて、中心部を歩く。安藤昌益資料館という、「八鶴」という酒造会社の古い建物の二階に設けられた部屋で、係の女性からの説明を聞いた後、テレビでNHKの「歴史誕生〜元禄の世に革命思想あり 追跡 安藤昌益」(1990年7月9日放送)のビデオをすべて視聴した。若き日の井上ひさしも登場して、大館出身で、八戸で長く町医者として活動していた安藤昌益の思想の価値について語っていた。その著書「自然真営道」から、反体制の自然主義者、世界初のエコロジストという側面が読み取れるらしい。評価は様々なようだが、面白い人物だと思った。資料館を出た後は、「八鶴」の今でも使われている工場を見学させてもらった。

 街の真ん中にある三つの施設が目を引いた。八戸ポータルミュージアム「はっち」には、八戸の魅力を紹介するいくつものブースと八戸由来のしゃれた土産物の販売コーナー等があった。そこで目にした「八戸キャニオン」と呼ばれる露天掘りの石灰石の鉱山は、海抜マイナス170メートルで、国内で最も空が遠い場所と言われているそうだ。

 八戸ブックセンターは2016年12月に開かれた、全国でも珍しい公営の書店出そうだ。「売れ筋ではないが、良質な本」を置くことをコンセプトとしており、新刊本を中心とした本屋とは一線を画す雰囲気があった。カフェも併設されており、居心地の良い素敵な空間だった。

 「はっち」とブックセンターの間にあったのが「八戸まちなか広場マチニワ」という二階建ての建造物だった。白木と鉄筋が組み合わさってできた、なんとなく既視感のある建物であったが、実は先月できたばかりだったらしい。一階部分には三社大祭の山車と、水色のオブジェがあった。ベンチがたくさん置いてあり気分良くくつろげる空間だった。

 三社大祭の最終日ということで、通りには多くの人が出て混雑していた。屋台村の小さな店店も人で埋まっていた。少し外れた適当な店に入りビール、そしてせんべい汁と焼き魚と焼き鳥の夕食をとって宿に帰った。

8月 3日 金曜日

 朝は書類の整理と作成の時間になった。エクストラの仕事の方は来週もしかするとエクストラの出勤があるかもしれない。本当は来たくないし、来なくてもさして影響はない。とはいえこれも関係性の問題をはらむので、様子を絶えず窺う必要がある。

 今日のもう一つの業務は特殊な会合に参加することだった。空を広く覆う黒雲の下にいることは理解できるのだけれども、直接雷が落ちるということはないので、案外と気楽でいられるものである。それが四月から度々落とされた立場の方々からすれば、今日か明日かと戦々恐々とする気持ちはよくわかる。結果的に今日は終始穏やかな雰囲気であり、心配されていたことはほとんどなかったと言って良い。自分の参加とは全く関係はないけれど。

8月 2日 木曜日

 昨日は当番に当たっていたこともあり、朝から晩までほとんど休むことなく動き回っていた。この暑さのために昨日の途中から幾つかの活動を中止せざるを得ない状況となった。それで今日は一日静かだった。午前中のうちに仕事を済ませて、しかもあわよくば翌日は休もうと目論んでいたのだが、それは無理だということがわかった。明日まではしっかり働いて週末休もう。

8月 1日 水曜日

 職場でストレスについてのアンケートが配布された。この結果によってカウンセリングの要不要が判断されるらしいのだが、設問に答えているうちに気がついたのは、自分は理不尽なことに対する怒りを強く感じるということだ。職場とか家庭とか、身近なところに対しては不平不満があっても深刻なものではなく、それなりに楽しく活動している。しかし、政治や社会情勢のことに目を向けると途端に景色が変わる。毎日毎日激しい怒りの湧くようなニュースばかりが飛び込んでくる。怒り、呆れ、悲しみ、そして、諦め。そんな感情を否応なく引き出すような政治であり、社会だということが、ストレスの根元と言えるかもしれない。