2018年12月  December 2018

12月31日 月曜日

 出発の前に街の北側を散歩。教会やどっぺり坂という坂を抜けて日本海へ。向こうに佐渡が霞んで見えた。十時過ぎの高速バスに乗車。昼はバスセンターで買ったおにぎり。十四時過ぎ、仙台駅到着。駅ビルでトンカツを買い、新幹線で一ノ関まで。十五時半に帰宅。年取りのトンカツのためにキャベツとビールを買いに車を出した。冷蔵庫に入れっぱなしだったカバを開けた。大晦日というのに蕎麦も食べずに就寝。

12月30日 日曜日

 宮内駅で途中下車。摂田屋という醸造所の町。機那サフラン酒製造本舗の土蔵の、鏝(こて)絵と言われる極彩色のレリーフは見事だった。これを見ただけでもこの駅で降りた価値はあった。長岡ではほとんど無かった雪だが、浦佐まで来ると二十センチくらいは積もっており、さらに降り続けていた。駅からタクシーで西福寺開山堂に向かう。運転手さんによると年末年始は休みかもしれないというので、途中でタクシーの本部が確認してくれた。休みでは無いが十時からということで、到着後約三十分雪の中で待った。ビデオを視聴の後、石川雲蝶作の襖絵等を見てからいよいよ開山堂へ。深く細部にまで拘った彫りに魅了。堂には暖房が無く寒かったが、来た甲斐があった。浦佐から越後湯沢経由で新潟へ。上古町から古町商店街を歩く。新潟泊。

12月29日 土曜日

 昨日は昼過ぎに出た。一ノ関駅の構内で蕎麦を食べてから仙台へ。戦災復興記念館の展示室を見学。高速バスで二十一時前に新潟着。雪は無いが、風が強く寒い。道路は凍って滑る。転ぶ酔っ払いがいた。駅近くに宿泊する。

 翌朝は七時から二時間くらいかけて散歩。萬代橋あたりは相当な風。来年の一月一日で開港百五十年を迎えるという。川沿いを通って、味噌蔵や造り酒屋のある、沼垂(ぬったり)という地区へ。白山神社では、しめ縄や幟など参詣客を迎える準備がととのっていた。ローカル線を乗り継いで西へ。途中吉田で藤次郎ナイフギャラリーを見学。工房は休み。弥彦神社を見学。寺泊駅からバスで魚の市場通りへ。屋台でイカやシシャモ、そして番屋汁というアラ汁。雪は無いものの風は物凄く、高台の遊歩道を歩くと恐怖を感じるほどだった。バスの時刻まで寺泊水族博物館を見学。長岡泊。

12月28日 金曜日

 昨夜から雪が降り続けて、朝には10センチ以上積もった。バスの時刻を変えようにも、もう空きの座席が見当たらなくなっている。予定通り夕方のバスで西へ行くことにする。

12月27日 木曜日

 一日早めた仕事納め。通常出勤して開錠。おそらくは今年度初めて定時に仕事を終えて帰途についた。28日まで出勤する予定だったが、だいたいめどが立ったので明日は休ませてもらうことにした。明日から短い旅に出るために、少し支度をする。

12月26日 水曜日

 通常通りの出勤。書類の点検に多くの時間が割かれたが、枚数も多くないし、点検箇所も限られているし、大きな仕事とは言えない。この冬の間に済ませておくように言われていることの幾つかに手をつけ、幾つかを終わらせた。この冬の間にというけれどそれは休日返上でということとほとんど意味が変わらない。

12月25日 火曜日

 大きな節目の一日。とにかく一日中何も考えないようにして一生懸命働いた。空き時間は少しも無かった。働くために生きている人たちのための国には、人々が働きやすく変えていくという発想はない。いかに人々をこき使い、消耗させて早く死なせるかということしか考えていない。実直な人ほどその策略にまんまと乗せられ、加担してしまう。その手先になどなってたまるかという思いだけで生きている。自分を生きるために働いているそれ以上でもそれ以下でもない。

12月24日 月曜日

 昼前から少し車を走らせる。少しだけ買い物をしながら、ゆっくりと回って帰宅する。昼時の食堂は混んでいるので入りたくない。仕方がないのでコンビニに寄ろうと思っているうちに家の近くまで来た。またつまらない休日を過ごした。

12月23日 日曜日

 天気は思いの外よくない。洗濯はしたものの、外に干すのはためらわれるくらいだった。この二日間は何もない休みだ。ただ一つ、火曜日に行うことの下準備をしなくてはならなかった。TEDxの映像を幾つか見ながら品定めする。この二年くらい、新しいものを発掘することなどしていなかった。

12月22日 土曜日

 冬至の朝。通常通りの出勤。職場に着いてからは書類の印刷と文書の作成。八時半からは摂氏二度の場所で仕事。途中四十分ほど人に頼んで机まわりの片付けなどを進め、十二時過ぎには退勤。今日の様子を見ていても、上がり調子を感じさせる事柄が幾つかあった。

 国道沿い、清庵という蕎麦屋で天ざるを食べた。夕方から西の方面に車を走らせ、道の駅で林檎を、一関ミートの工場でソーセージを、カワチで生活雑貨を、ユニクロで靴下を、ツタヤで本を買って帰ると十七時を過ぎていた。焼きそばを作って食べた。

12月21日 金曜日

 今週は日曜日に出たために、曜日が一日ずれたような感覚が続いていた。昨夜残念ながらできなかったことを、今日は奇跡的に全員が揃って実行できた。なんとなく彼らを取り巻く環境が整ってきたような感じがする。

 忘年会だったが、日番だったので早めに退勤することはできなかった。車の運転中は眠くて仕方なかった。宴会は話をする間などないほどゲーム等の内容が豊富だった。店は書き入れ時で、替えのグラスも出せないほど混み合っていた。笑いの溢れる職場の宴。終了後は徒歩で帰宅。酩酊状態でコンビニに入り、余計なものを買ってしまった。

12月20日 木曜日

 今日の夜にと連絡を徹底していたのだが、全員は揃わなかった。挙げ句の果てに忘れ物をしてくる者までいて、怒りと呆れの入り混じった気持ちになった。十八時を少し過ぎたあたりで、係りの方と少しだけ打ち合わせをして、あとは任せて引っ込んだ。これまでとは違うリズムで関わっていかなければならない。そして、そのことを意識させるように振舞っていかなければならない。

12月19日 水曜日

 本当は何がしたいのか。したいことはわかっている。そのための時間を捻出するために、試験なども受けることにしたのだ。社会的な責任が増大するのと比例して、ストレスはたまり神経は擦り切れる。頭の中で仮想敵を作っては毎日愚痴を放ってこれでもかこれでもかと打ちのめす。甘美な音楽、そして、まだ見ぬ場所への憧憬。それへの過程で命尽きるなら本望だ。

12月18日 火曜日

 左目の見え方がおかしくなって、どうも飛蚊症になってしまったようだ。黒い点が二個ほど目の前を左右に飛び交う。明るいところに出ると、それらが白い点となって景色が少しぼやけたように見える。これも慣れると気にならなくなるらしいから、あまり気にしない。時間のある時眼科に行って見てもらおうとは思う。

12月17日 月曜日

 三時前に目が覚めたのでそのまま起きてパソコンに向かう。初志の重大さを心得ていたのだろうか、五時過ぎに必要だった文書を書き上げることができた。これで一つはできた。今週は年の終わりなのであと二つ作っておきたいのである。そのアイディアについては、頭の中で案がぐるぐると回り続けている。あとは指先の歯車と噛みあわせれば文書は仕上がるというところまできている。厄介なのは夥しい数の手書きの書類に目を通さなければならないことだ。鉛筆の薄い字で、しかも小さいものだから、目が痛くなる。弱い左目の方がおかしくなっている。

12月16日 日曜日

 朝から仕事だった。早めに出て今週の準備をした。コピーを取っておきたい資料があったので、それをファイルから探した。去年と一昨年のものを取り出し、その前の年のをみようと思ったら、そこだけすっぽり抜けていた。このような犯罪的なことが時々ある。朝から残念な気持ちになった。それから少しだけ移動して、十四時過ぎまで別の仕事で寒い中過ごした。帰宅すると十六時近かった。眠気に襲われ、二時間くらい昼寝した。昨夜は布団を干したので眠りやすいかと思いきや、寝入り端に怖い夢ばかり見てなぜか寝付けなかった。それで、熟睡できなかったのだ。作らなければならない文書はまだできていない。今日はもう何も進める気力はない。休みのことをあれこれ思い浮かべながら寝ようと思っている。

12月15日 土曜日

 翌日は仕事なれど、この日は一日中自分の時間だった。朝には最寄りのローソンまで新聞を買いに行った。蛮行への怒りが渦巻く。一市民として何をしたら良いのか。それは目を背けないでいるということだろうか。この三十年というもの、世の中は悪くなる一方だった。いつかそれが逆の方向に進み出す時がくると信じるということだろうか。洗濯をして、布団を干した。外の空気は冷たかったが、日光が当たると暖かくなった。日中はどこにも出かけずに、昼も蕎麦を茹でて食べて終わりにした。幾つか文書の作成をしなければならなかったが、一つできたのはもう十七時半を過ぎた頃だった。それから車を出して、産直の店でキャベツなどを買い、夜には野菜炒めを作った。

12月14日 金曜日

 些事に追われる日々。些事と些事の隙間の一時に、充実感に似た単なる休息がある。雑談の中には休息はなく、弛緩した感性の渦の中に踏み入れてしまっては自分の感性も摩滅していくばかりである。果たして守るべきものは何なのか。怒りは何に向けられるべきなのか。何にどんな形で抗えば良いのか。真の悪はどこの誰なのか。

 午後には少し腰が痛くなり、一定の姿勢を保つのが困難になった。あまり頭を使わないようにして、一段落終えたら帰ろうと思っていたが、点検しなければならない書類が回ってきて、付箋を貼ったり書き込みをしたりしていたら、優に一時間を超えてしまった。それを終えると少し痛みは和らいだのだが、また別の相談が来て話を聞いているとまた痛み出した。

12月13日 木曜日

 悩みを悩みと自覚して、長い時間それを引き受けて、悩みと付き合い続けるには力が要る。人が、何にどんな悩みを抱いているかは知れるはずもないが、寄り添って話を聞こうと思うこともたまにはある。若さの問題は若いことそれ自体が問題なのだが、頭ごなしにそれを責めても何も変わらない。引き受ける力が無い分、逃げることだけに心を奪われるのだから。

 若さへの妬みではないにしても、若くない自分と引き比べて、至らないことを至らないと言ったところで、きっとわけがわからないのだから、何も解決することはないし、解決すべき問題も見えない。井の中の蛙には、井の中の蛙に外に出よとは言えるべくも無い。それを唾棄できないのは自分の弱さか、はたまた若さということか。

12月12日 水曜日

 どうしても見通しの持てない会合だったから、参加したくはなかった。第三者として、オブザーバーとして、だが、参加するだけで見ている者としての責任が伴う。共犯者ということにされてしまう。回避したかったが、そうはいかなかった。どこかに誤魔化しがある。本当に優先すべきことが見えなくなっている。声なき声がかき消されている。正体が見え隠れするのだが、関わっている暇はない。捧げなければならないのはそれに対してではない。

12月11日 火曜日

 三十年も同じことばかり続けていると、飽きたり面白く無くなったりすることも出てくる。そして、思い浮かぶ大切な事実、この仕事をするために生まれたわけではないということ。就職して、職場で働きながら訓練を受けて、ここまでできるようになってきた。まだまだ十分とは言えないにしても、ある程度のことをこなしながら給料をもらえるくらいにはなった。感謝しなければ罰が当たるだろう。だが、一生を捧げようという気はさらさらないのであった。

 一生一つの仕事を続けることが貴いとされるけれども果たしてそうか。確かにそれも素晴らしい。国はそういう方々に勲章を授けたりして顕彰するけれど、そうでないことも全く否定されるものではない。勲章は要らないし、感謝も要らない。仕事をしながら少しずつ考える頭が作られて、難しい問題が問題だと認識できるようになってきて、世の中には一筋縄ではいかないことばかりがあっていつでもどこでも人々が涙や血を流し続けていることがわかってきて、反対に、体力や気力は落ちてきて、目も耳も弱ってきて、この国でなかったら違っていたのになとか、本分とは思えない瑣末なことにばかり時間を取られたりとか。いずれ、こうやって死ぬのだとはっきりわかってきた今になって、ただ我慢をするようにまた日を暮らす。

12月10日 月曜日

 黒っぽい背広を二着も買った。オランダの頃には買おうとは思わなかった色だし、だいいちこんな色のものは店頭に並んでいなかった。ズボンの太さはもう少し細めに作ってあったし、服の品揃えにもっと遊び心があったように思うのだが。所変われば品変わる。あちゃらでは自由に着られたのにこちらでは着られないというものが多いのだな。

 郷に入れば郷に従えというけれど、仕方がないから従うかという部分と、絶対に従えないという部分がある。

12月 9日 日曜日

 車の定期点検のために、朝八時の高速道路で北上に向かった。気温が下がり、山沿いでは雪が降っているらしかったが、平野には清々しい青空が広がっていた。開店と同時に店に入り、備え付けの新聞や雑誌を読んで待っていると、点検が終わるまではあっという間だった。まだ十時前、西に車を走らせているとパン屋の大型店舗を見つけたので少し買い物をし、いつかはと思っていた「鬼の館」に行って、昼過ぎまでじっくりと見学した。博物館としては前近代的な展示ではあったが、作った方々の理念は十分伝わってきた。二十数年来、来ようと思ってもなかなか来られなかったのは、もし鬼がいたらと怖がっていたからだ。そして、自分の心の中の鬼に向き合うことができなかったからだ。

 ミュージアムをつくるなら、展示物はインタラクティヴでなくてはならないし、大人しか理解できないようなものでは意味がない。展示物自体が子供達の遊びになるものにしなければならないと思った。全てが子供達にも大人達にも楽しめるという発想で、設計しなくてはいけないと思った。

 そこから高速で湯田まで行った。一面の雪景色は平地とは全くの別世界だった。ほっとゆだ駅の前の食堂で熱い天ぷらそばを食べた。カウンターの隣には男女が座っていて、窓の外やスマートフォンの画面を眺めながら話していた。言葉から韓国の来た人たちだとわかった。こういう街から遠い場所にも観光に来るのか、何を見に来たのだろうかと不思議に思った。

12月 8日 土曜日

 昨日は二十四節気にいうところの大雪だった。朝には雪が積もっていた。朝方夢を見ていた。どこかに行くのに間に合わなくて焦る夢だった。夢の間じゅう音楽が繰り返し聞こえていた。いつもの土曜日より少しゆっくり家を出たが、その後は一日の勤務だったので、帰宅したのは十九時近くになっていた。夕方からまた雪が降り出して、山道はところどころ圧雪状態になった。気温も下がり寒くなってきたので、コンビニでコーヒーを買って飲んだ。

12月 7日 金曜日

 悪法が次々と決められていく。どういう形でそれに抗うことができるのか、考えあぐねている。

 十九時過ぎ、いつもより早く帰れると思って職場を出ようとしたところで電話が鳴った。それから四十分ほど話を聞いた。この平成という時代に入ってから形作られてきたある一つの「文化」について、またここでも考えさせられた。

 個人の自由となるべき時間はすべて全体主義に吸い取られ、個々の能力も労力も財産も、大きな収奪システムの中に取り込まれてしまう。そこにすでに片足を突っ込んでいることに気づかない。表情を失い、まるでロボットのように動かずただ上からの指示に従う人々。それがかれらの理想なのか。

 子どもたちを戦場に駆り立てるのは、誰でもないかれらの親だ。こういう人々の住む国だから、こういう政治がまかり通る。自分もその一人であること、そういう人作りに加担してきたことがどうにもいたたまれない。

12月 6日 木曜日

 頭脳労働というけれど、機械に置き換わった方がよっぽど楽かもしれない。人間にしかできないと思われていることでも、案外とすっきり、機械なら片付けてくれるかもしれない。もっと手軽に、もっとシンプルに。こういった発想がもう、人間を機械に近づけていくことだ。

 悩みや苦しみの果てに差し込んでくる一条の光。叫び続ける心の中で不意にどこからか聞こえてくる声。人間を超えた存在を見出せるのが、人間の人間らしさなのではないか。

12月 5日 水曜日

 人の良さは罪。周囲お構い無しの雑談や下品な笑い声を聞いていると反吐が出そう。素知らぬふりで黙っていること自分自身に苛立ちを感じて、ああもうここは自分のいるところではないのかもな、という気持ちに至る。そう思うような人はどこに言ってもそう思うのだろう。だが、少なくとも同じ場所にいる時間が長すぎるのは良いこととは思えない。

 安住するつもりはけしてないが、あえて危険も選ばない。今年度、自分としては思い切った決断をしたのだけれど、そうは問屋がおろさないと突っぱねられた。もっと勉強が必要だよということだ。こうして、次年度もこれまで通りここに居座り続け、他の人々に悪い影響を与え続けるのだろうか。

12月 4日 火曜日

 一日でも休むと次の日には浦島太郎の状態で、ずいぶんと隔たりを感じるものだ。その気分が嫌で今朝は少しばかり早く職場に来て机上を片付けたりしたのだが、思ったほど変化は起きておらず、隔たりというのもあまり感じなかった。幸いそれほどエネルギーを費やす場面はなく、黙って構想を練る時間も確保することができた。淡々と一日を暮らし、夜まで仕事をし続けた。

 しかし、一日働きづめだったためか夕方から身体がだるくなった。これが通常の平日か。そう考えると少々不機嫌になった。

12月 3日 月曜日

 振替休日を取った。朝からぼけっとして過ごしていると、時計はみるみる進んでいった。いい天気だった。洗濯をして、洗濯物を外に干した。日の光を受けて、洗濯物から湯気が立ち上っているのを見た。車が泥だらけだったので、洗車をしに行った。ピカピカに磨いた。そして、丁寧に拭きあげた。多くの人が一週間を始めようという月曜の朝、それとは無関係に休日の気分に浸るのが楽しかった。以前、日曜と月曜が定休だった三年間を思い出して懐かしくなった。

 昼には高速に乗って北上した。水沢あたりで何か食べるつもりだったが、空腹を我慢できず、前沢のサービスエリアでつまらない食事をしてしまった。それで水沢まで行く目的を一つ失ってしまった。

 電気屋に入ったら、店内を掃除している従業員が黒人のおじさんだったので珍しく思った。旅行で来ている外国人は意外とよく目にするのだが、今回のような姿を見たのは岩手ではずいぶん久しぶりである。

 夜中から雨が降った。自分が洗車をするとすぐに雨が降ると言われるが、晴れた日にしか洗車をしないのだから、それはその通りだろう。

12月 2日 日曜日

 いつもと一緒の時間に出勤した。土日連続の出勤にもめげないのは明日が振替休日だからである。午前中はこちらも体を動かした。あまり飛び跳ねないようにはしたが、それ以前にあまり思うように動くことができなかった。昼から場所を移して昼食会となった。先週と同様、今日もこれ以上ない晴天が広がり、県境の高原はすでに冬枯れではあったが外を歩くだけで気分が良かった。会場には他の一般客も多数いたので、騒ぐこともなく、皆マナーよく食事をすることができた。そのあとでまた場所を移してセレモニーを行ったが、それはだらだらとして態度は褒められたものではなかった。

 この件に関して、一つの文化現象という見方をすると、これは家族関係の在り方の問題という気がしている。平成時代の特に後半に顕著に見られるようになった問題だ。根本には互いの時間の使い方と、それらのバランスの取り方の変化があるように思う。午前中に内田良氏の講演会があるというので、行ってみたかったのだが、仕事で叶わなかった。これに関して氏の意見を聞いてみたいと思った。

12月 1日 土曜日

 五時にはまだ暗かった。家を出ると途中から雪が舞いはじめた。風が強くて、車も揺れるほどだった。泥がずいぶん跳ねて、泥で車が汚れた。自宅から職場までは四十分。職場から気仙沼までは四十五分で着く距離だ。昨年の今頃も同じ場所まで出かけた。駐車場が狭くて困った印象があったが、着くとやはり駐車するのに困った。よく見ると奥の広い駐車場は閉鎖されており、おそらくスタッフの車だけが数台停められていたのだった。スタッフが入った時点で開放すれば良いのにと思った。それだけではなく、受付がないとか、何も事前準備ができていないとか、幾つかの問題点が認められたが、きっと誰も問題だと認識していないのだろうと思った。

 明るいうちは建物の中にいて仕事をした。終わると十六時で、日が翳り寒くなってきた。室根の道の駅で野菜を買って帰ると、会場から自宅までは一時間半くらいかかった。