2018年1月  January 2018

1月31日 水曜日

 少し日を置いてから、思い出しながらの日もあったが、今月は久しぶりに毎日何か書いてみた。書く時間は短く、内容も薄い。反省もなければ、哲学もなく、事実かどうかさえわからない叙述ではある。けれど、私だって生きているのであった。

 楽しいことはそれほどないが、夜や朝にあれこれと話ができることはやはりうれしい。鏡というには互いにいびつだが、発信した言葉がまた別のフィルターを通して返ってくるのがおもしろい。対話の妙を噛み締めて生きる。それと同時に、孤独の目で生活を睨む一時も必要である。その場所がここかも知れぬ。

1月30日 火曜日

 業務縮小とはいえ通常と対して変わらない仕事を続ける。時間ができて、その分できることがあるかと期待していたら、そんなことは微塵も感じられず、次から次へとしなければならないことが追加されるのであった。ただ、先週も今週も夜の活動が自粛となったために、その分早く帰宅できる日が増えたことはありがたい。この日は道の駅で林檎一袋と多めの野菜を買ってきた。この産直が途中に存在することが、どれだけ我が家の家計と食生活を支えてきたかわからない。

1月29日 月曜日

 朝から鳴り止まぬ電話。週明けの今日もインフルエンザはおさまる気配もなく、昼からの予定はすべてキャンセルとなり、木曜日までの臨時休業となった。残念なことではあるが、このような状況では致し方あるまい。この三日間で回復してくれることを願う。この日は組合の支部幹事会があったので、1時間の年休を取って退勤した。会議の方は長くて疲れたのだが、それでもたまに定時より1時間早く職場を去れるのは悪くないと思った。

1月28日 日曜日

 机上を片付けて、コンピュータとキーボードをつないで、音を鳴らしてみた。プリセットされたドラムパターンはどれも本物のような響きだが、イメージ通りのものなど見つからないのだった。イメージの中で遊び、イメージの中からはっきりとした形を掘り当てなければならない。ということが大切なのだろう。

1月27日 土曜日

 仕事の予定がなくなった午前中は先週と同様に洗濯をした。そのあと、ワイシャツをクリーニングに出し、コンビニで新聞を買い、帰ってきてコーヒーを飲みながら新聞を読んだ。午後には散髪に行ってすっきりした。夕方には前沢まで車を走らせ、久しぶりにとんかつを食べてきた。インフルエンザが流行しているが、とんかつを食べればそんなのも吹っ飛ぶような気がした。そのあとはいくつか買い物をして帰宅した。そんなようななんでもない休日だった。

1月26日 金曜日

 結局今日まで連続四日間、開錠の役を担うことになった。連日氷点下10度を下回る厳寒の時期にこんな責任ある仕事ができることをありがたく思う。面倒臭い事、嫌な事、できればやらずに済ませたい事こそ、楽しく工夫し挑戦し、片付けたいものだ。と書いたものの、朝早く鍵を開けることがそれほど大儀なこととは思わないけれど。

1月25日 木曜日

 午後から二つの会議が立て続けにあり、一つ目では記録を、二つ目では司会を担当することになった。人は揃わず、内容も予定より減ったのだが、いわゆる夢語りとは程遠く、前半は担当からの一方的な説明で、後半からは言いたい放題の様相を呈し、終われば定時を過ぎていた。直前にいきなり振られたせいにはできないし、もっと綺麗な進行というものがあったのだろうが、うまく制御できず面目なかった。

 どうにかして脱することを考える。変わらないこの状況を。どうにもできないこの環境を。仮にこの場から離れようとも、こちらの意識が変わらないのでは何も変わらない。他人に期待してはならない。今や筋の通った哲学を語る先輩などどこにもいない。誰でもない己自身が、謙虚に声を受け止めつつ、身をもって哲学を示していくほかない。

1月24日 水曜日

 風邪で医者にかかったことは何度かある。咳がひどくて薬を処方してもらったが、あまり効かなかったことがある。インフルエンザの検査をしたけれど陰性で、次の日には回復して通常通り仕事をしたことがある。仕事についてから、体調不良で休んだのは、合わせて3日くらいではないだろうか。その中でインフルエンザでの欠勤は一度もない。学校での集団接種以外には、予防接種を受けたこともないけれど。

 仕方がないのでマスクはする。だが、予防接種をする気はない。そういう人は少なくないだろうが、周囲にはあまり大きな声では言えないような状況がある。

 昨年のことを思い出すと、また今とは別の大変さがあった。この国とは全く常識の異なる社会で、この国と整合性を図るべくルール作りを進めた。マスクなど皆無の社会で、あの門の中だけは日本と同じだった。渦中にいれば永遠にも思えるが、外から眺めれば煩悶する時期など一瞬だ。謙虚に、丁寧に、一つ一つを終わらせて暮らすのがいい。今でも同じ。その中に、自分の命も含まれるのだけれども。

1月23日 火曜日

 7時過ぎに出勤するともう玄関の前で待っている人たちがいる。雪で道が悪くなっているため、職場までの道のりも普段より時間がかかるから、早めに車に乗せられてきてそこで降ろされるのだ。管理職が病床に就いたため、昨夜電話で解錠の役を仰せつかった。こちらも普段より40分くらい早く家を出て、職場にようやく着いたのだ。渋滞に巻き込まれていつもより40分も余計に時間がかかるより、40分早めに出ても所要時間がいつも変わらないというほうが楽だ。だから、それができる環境であることを感謝したい。

1月22日 月曜日

 インフルエンザが猛威を奮った先週に引き続き、週明けの朝もひどい状態で始まった。仕方がないので、何も慌てることもないのだが、大人も子供も大変なことになって、端から見れば大混乱。ここまでひどくなったことがあったろうか。仕方ない。お互い様なので丈夫な人がカバーに回るしかないのだが。

 

1月21日 日曜日

 朝にはパソコンに向かって一週間の見通しをある程度立てた。しかし、インフルエンザのために、その通りにいくかはまったく不透明な状況だ。しかも年度末反省に関する会議がいくつか入っているのも見通しを曇らせている理由の一つだ。などと言っていると、4月以降の人事や地元の親や親戚のことなども気になってくる。深刻に考えるわけではないが、物事は自分の思い通りにならない要素の方が大きいのだから、うまくいったらラッキーというくらいに考えておいたほうがいいかもしれない。

1月20日 土曜日

 冷え込んだ朝。快晴の午前中は洗濯をしたり、少し買い物に出たりした。Huluというサービスを使えばBBCが見られるというので試してみたができなかった。パソコンでは見られるが、それをモニターに映し出すことができなかった。テレビ関連のサービスはどれもこれも自分の思うようにはいかないようにできているみたいだ。テレビ受信機を入れない者には風当たりがきついらしい。

1月19日 金曜日

 一週間が過ぎた。インフルエンザの猛威のために、様々な予定が変更となった。そのため土日は安息の日となった。帰宅は遅く疲れていたが、風呂から上がると目が冴えてなかなか眠れなかった。遠足の前日の子供のようだったかもしれない。

1月18日 木曜日

 どうでもいいことがニュースになる。なぜ取り上げられるのか。意味がわからないことが多い。何かの意図があるのだろうし、それを決定する力がどこかにある。恐ろしく黒い闇に包まれたこの社会。気味が悪くなって、家人に毒づいてしまう毎日。

1月17日 水曜日

 「お茶の時間」そして、「ハンネスがいない」。対話を重視するのなら、自由な発言を保障しなければならぬ。それはこちらの一方的な指導ではなく、すべての成員が何を言っても許容し合えるゆたかさが必要である。上も下もなく等しく平らかな土壌をいかに耕すか。

1月16日 火曜日

 ウルズラ・ヴェルフェルの短編を取り上げるようになって何年か。作品に力があるのだろう、どこでやっても手応えがある。意味というものを軽々しく扱う世界では、意味の意味を問うことが、非常に意味のあることになる。

1月15日 月曜日

 小正月とか女正月とかの話はすっかり時代遅れの様相で、ぽかんとしている者もいるのだけれど、大切なことの大切さを感じ取っている者もいることを期待する。この日が成人の日だった頃はまだ冬休みが長かった。インフルエンザの騒ぎなども、今ほどではなかったような。

1月14日 日曜日

 天気が良かったので朝から洗濯をした。外に干したら一日で乾いた。持ち帰りの仕事は13時には済んで、昼食後は少しだけ車を走らせた。ストレスというほどのストレスはない。ただ、全くの休日にも関わらず仕事をしなければならないというのは考えてみればおかしなことである。そういう生き方を30年もしてきた。

1月13日 土曜日

 今日の仕事は午後からだったので、午前中はゆっくり休むことができた。日記を進めることができたし、産直に行って食材の調達もできた。12時前に出て、帰宅は18時だったが、それでも半日休めたのはありがたい。

1月12日 金曜日

 昨夜は就寝が遅かったせいで、今朝少し起きるのが遅くなった。職場では夕方までほぼノンストップで働く一日。定時て帰宅しようと思っていたが、30分ほど遅れてようやく帰途に就く。相当に寒い。夕食は夫婦共になんの準備もしていなかったので、水戸屋食堂に行ってラーメンを食べた。その後日本酒を開けて少し飲んだら眠くなり、すぐに就寝した。

1月11日 木曜日

 そして、この日から通常業務開始。こんなに早くに始まるなんて考えられないが、県南のこの地区はそうらしい。いきなり夜も20時まで仕事をした。途中めまいもしそうなほどになったが、幸い木曜日である。あと一日で週末の到来。

1月10日 水曜日

 尿の採取と血圧測定は、朝起きてから自分自身で行うことになっていた。いつもと同じように4時半に目覚めてそれらを行ってからまたうとうとした。心電図検査とバリウムを飲んでの胃の透視検査を終えて9時頃に朝食を取った。あとは内科の検診を残すだけとなったところで、帰宅の準備をしてよしという指示が出た。会計まで終えて解放されたのが10時前。予想よりも1時間早く人間ドックが終わり、旅をまた楽しもうという気分が湧いてきた。バスで市役所のあたりまで行き、そこから歩く。この日は「初市」という市が行われており、道は歩行者天国となっていた。色とりどりの屋台が並び、雪の舞う中だったが多くの人々が出ていた。岩手にはないお飾りやどんどん焼きという食べ物などがあり、珍しく感じた。熱々の玉こんにゃくを買って頬張った。

 昼食はバスターミナルの地下の店で肉中華を食べた。その後、バスで仙台まで行き、新幹線の時間まで、駅ビルで土産を買ったり、キリンのバーでビールを飲んだりして時間を潰した。バーで飲んだのは、昨夜のテレビでイギリスの紳士がビールをうまそうに飲んでいるのに触発されたのだった。日本では、日中に堂々と飲める状況というのはなかなか無い。観光客として振る舞える駅ビルというのは、もっとも良い場所かもしれない。

1月9日 火曜日

 ゆっくりと支度をして、昨日米沢まで来るときに使ったつばさ123号に乗って山形に行った。山形駅ではバスまで少し時間を持て余した。早めのバスで病院に着いてからは、全てが早め早めに進み、検査の他は何もすることがないので、のんびりと過ごすことができた。確か前回は病室にパソコンを持ち込んで仕事をしていたのだが、今回はそんなことは最初からさらさらする気は無かった。そんなことはいくら忙しくてもするものではない。

 病室は二人部屋だったが、個々にテレビがあったので、BSの放送などを見てくつろいだ。街歩きの番組はイギリスの特集で、ヨーロッパの雰囲気が懐かしくなった。入浴して早めに就寝。

1月8日 月曜日

 一日中仕事だった昨日の気分から解放され、早朝から一人旅に出た。翌日から一泊二日の人間ドックがあるので、一日早く家を出て遠回りで病院に入ろうと考えた。六年くらい前にも同じことを考えたのだが、その時とほぼ同じ経路を辿っての旅にした。

 福島経由で米沢へ行き、市内を散策した。雪は小康状態で、晴れて山々が青空に映えていた。歩道にはうず高い雪の山ができ、歩きにくかったものの、日中は風もなく穏やかで、ゆっくりゆっくり回ることができた。寺院の多い大町界隈、「東光の酒蔵」で見学ときき酒、旧米沢工業高等学校本館の建物を眺め、近くの「ももたや」という食堂でラーメンの昼食、上杉神社参拝。

 日乃本帆布の店「牛や」では振まわれていた日本酒をご馳走になりながら店内を見て、財布を購入した。ここは前回の人間ドックの時に訪問して、蔵を利用した店内の雰囲気と質の高い製品に魅せられ、またいつか来ようと思っていたところだった。

 その後古い建物を眺めながら付近を散策。そこで見つけた「原始布・古代織参考館」と「出羽の織座・米澤民藝館」の建物は特に魅力的だった。休館中だったが、偶然通りかかった所有者と思しきご婦人に、よかったらどうぞと中に促された。お母様が他界されて間もないということだったが、部屋に綺麗に置かれている古代の織物や装飾品について説明していただいた。建物は、市内の神原という集落に建っていた古民家を、今は亡きお父様である元館長・山村精(まさし)氏が移築したものだそうだ。古くからあるものの良さを発見し、現代に伝える仕事をされている方々を尊敬する。その精神の崇高さが生活の片々に現れるのだろう。

 日乃本帆布・三香堂の工場を見学した。すべての工程を案内してもらい、詳しく説明していただいた。革の品質にもこだわり材料を吟味していること、一つ一つ手作業で丁寧に行われていることがよくわかった。また、職人さんたちの意見を広く取り入れて、いわゆる定番のデザインの製品だけでなく多様な新しい製品を絶えず開発しており、移り変わる消費者の要求にできるだけ応えようとする姿勢が伝わってきた。いいものを作ることを追求するのは当然だとしても、それをいかにアピールするか、人々の希望をどう取り入れて改善するかという視点がなければ人々には受け入れられない。ものづくりとは作って終わりではなく、作ることから始まる仕事なのだということを感じた。

 米沢市図書館の建築を眺めながら休憩、小林餅店であんびんなる大福や豆餅などを買って頬張りながら駅までの道を戻った。住之江橋の欄干に米沢出身の彫刻家・桜井祐一のブロンズ像が立っているのを見た。駅に着いたのが15時半というところ。このまま宿に入るのはもったいないという思いが過ぎり、普通列車で高畠まで行き、高畠ワイナリーを見物した。見学施設はわずかで、土産物の売店のところに試飲できるワインがいくつかあった。係の方から話を聞きながら今度はワインのきき酒をした。何杯か飲むうちに、人間ドック前ということを思い出し、自重した。帰りは雨に打たれながら駅まで戻った。ここと駅とを往復したのは余計な気がした。高畠駅の食堂で夕食を済ませて米沢に帰った。この日の歩数は29,900歩に上った。

 夜に宿のテレビでカズオ・イシグロ原作の映画「私を離さないで」を見たのも、この出会いの多き一日の締めくくりとしてはふさわしかった。

1月7日 日曜日

 早朝から仕事のために出かけた。昨日は12時過ぎには終わったが、今日は帰宅が19時だった。今年初めての日曜日は、全てが仕事のために支えられた。このような人々が特別ではなく、全国の多くの同業者が同じ状況に置かれている。それが、少なくとも30年は続いてきたという事実。それが、改善の方向に全く向かうことがなかったという事実。

1月6日 土曜日

 早朝から仕事のために出かけた。理不尽という言葉で片付けることができないほどの長い歳月を、この仕事に捧げてきた。その事実が重く心にのしかかる。受け止めてきたが、受け入れてきたわけではなかった。しかし、取り返しのつかないことだった。そういうシステムにも自分自身の判断のなさにも失望している。

1月5日 金曜日

 いつもより若干早めに家を出た。午前中は文書を作ることに終始した。年末にやり残していた仕事のいくつかを思い出して、なんとか午前中に片付けた。午後には職場のすぐ近くまで研修のための出張に出た。最初の講演会は大変有意義だった。いつも話していることがすっかりそのまま話題に上っていた。ただ一つ講師と考えが異なっていたのは、東京オリンピックについてだった。

1月4日 木曜日

 良い天気だった。午前中は洗濯をし、産直やらスーパーやらで買い物をした。移動中、子ども電話相談の冬休み版をラジオで聞いた。午後には本やネットを見ているうちに夕方になった。一日中休めるような日は今日が最後だ。なんとも無駄な時間の使い方だった。だが、今年は実家に行く必要がなかったので、落ち着いて過ごす正月だった。実家の母親に電話したら元気だった。年末から叔母と二人で京都に行って楽しんできたようだった。なんと伊勢神宮にも、奈良にも行ってきたということだ。足腰が弱ってきたと言いながら大したものだと感心する。

 さて、明日からいよいよ仕事。土日も仕事。来週は9日から一泊の人間ドックで、それが終わった翌日からすっかり通常の業務形態に戻ってしまう。あまりに早い。

1月3日 水曜日

 朝には昨年暮れに出かけた津軽への旅の収支を付けた。昨夜からまた雪が降り積もっていた。コンビニに新聞を買いに行った帰り、足を滑らせて豪快に転んでしまった。幸い大した怪我はなかったが、右膝の外側を打って大いに痛かった。凍った地面に薄っすらと雪が覆って、滑りやすくなっていたのだった。

 午後には北上まで出かけた。初任地で世話になった年代が男性の42歳の厄除というので、同窓会を開くということだった。懐かしい先生や生徒たちがたくさん来ており嬉しかった。当時やってくれたことは無駄ではなかった。その証拠に、これだけの人たちが集まったのでしょう。そう言ってくれた人があった。何人かから声をかけてもらっただけで、活力が湧くものだと思った。一次会が終わってすぐに帰宅したが、正月明け、再び仕事に戻るにはそれだけで十分かも知れなかった。

1月2日 火曜日

 海の幸を食べるために南三陸町まで車を走らせた。宮城には雪などほとんど残っていなかった。志津川の南三陸さんさん商店街は賑わっていた。だが、目当ての店は開いていなかったので、少し離れた志のやという店で海鮮丼を食べた。料理は文句なくうまかった。話を聞くのが得意の妻は店のご主人に店のことや震災の時の様子を聞き、ご主人はそれらについてあれこれと話をしてくださった。今度はウニの取れる夏にまた来ることにした。帰りは登米に少し入った。もう20年も前のこと、雰囲気のある旅館に泊まって町を歩いたことがあったが、その時どこをどう辿ったかは思い出せなかった。帰宅後は昨夜半分だけ見た映画JFKの続きを見て、元日の新聞の続きを読んだ。

1月1日 月曜日

 何の予定も無い元日。朝には年頭の所感ということで、考えたことを久しぶりに書き出してみた。コンビニで新聞を買い、午前中じっくりと読んでみた。午後からは散歩がてら初詣に行ってきた。どのような年になるのか、期待も不安もさしてない。とにかく国や社会を憂うことは続くのだろう。何も考えずに楽しいだけの毎日なんてまっぴら御免だ。