2018年7月  July 2018 デビューシングル発売中

7月31日 火曜日

 今月もきょうで終わり。寝苦しい夜が続く。暑さも相変わらず続いている。きょうは市内への出張だった。出張先の駐車場の広さに不安があったのでバスで出かけてみようと思った。そこで、またコンビニエンス・ストアに行って、新聞を買うついでに、バスカードが買えるか聞いたら、店員さんが「バ、バ、バスカード…」と言って固まってしまった。コンビニではバスカードは扱っていないのだということがわかった。

 近くの停留所からバスに乗り、駅で乗り換えて目的地に向かった。出張先では特に困るような事態は発生せず、十二時頃にはすべてつつがなく終わった。一つ一つ落着していく。

 軽い気持ちになって帰途に就く。帰りのバスに乗るためには一キロほど歩かなければならなかった。途中の本屋に立ち寄り気になったものを購入した。停留所で立ってバスを待っていたら、中学生と思しき制服の少年がベンチを譲ってくれたが断った。こういうことはこれまでなかったので意外だったが、学生の善意が嬉しかった。バスを途中で降りて歩き、蕎麦屋でざるを食べ、八百屋でトマトとオレンジを買い、自宅に戻ると午後二時を回っていた。午後には冷房の効いた部屋で寛いだ。

7月30日 月曜日

 研修出張の一日。家を出るのが少し遅いので朝には余裕があった。コンビニエンス・ストアから新聞を買ってきて少し目を通した。研修は朝から夕方まで冷房の聞いた部屋の中で行った。内容はほぼ講義を聞くのみだった。午前に二人、午後に二人の講師たちの話は職務上は興味深いものが多かったので学習になった。思いを伝えること、発信することの重要性を感じることができたと同時に、相手の思いを汲み取ること、声なき声を聞くことの重要性について考えることができた。

 昭和四十六年七月三十日、雫石町上空で全日空の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が衝突し、双方ともに墜落、全日空機の乗員乗客百六十二名全員が死亡するという事故が起きた。あの日の夜のことは記憶に刻まれている。暑くて開け放たれた窓の外に夥しい数のヘリコプターが飛んでいた。その赤や白や緑の光の列とエンジンの音が、いつまでも途切れず続いていた。不慮の事故で亡くなる人がいる。病に倒れる人がいる。時代が変わっても何も変わらない。あの夜とこの夜と比べて、どちらのほうが寝苦しかったろう。あの夜とこの夜と、いったい何が違うというのだろう。

7月29日 日曜日

 何もする必要のない日曜日。前日に昼寝をしたのと夜中の気温が高かったのとで、朝方からは眠れなくなった。こういうときにこそじっくり腰を据えて取り組みたいことがあったはずだが、仕事の負荷が消えるとすっかり忘れてしまう。

 昼頃から車を出して、近郊を走る。代わり映えのしない道。万緑の中の山道。県境を超えてあるのかないのかわからぬほどのわずかな差異を感じ取ろうとする。

 アメリカとカナダの国境の上に建てられた図書館があるというのを初めて知った。初めてナイアガラの滝に行ったときはたしかバスだった。停留所を間違えたのか、バスを降りてからしばらく川沿いの道を歩いた。対岸がアメリカで、こちらとあちらとでは住んでいる人々の生活がどんな風に違うのだろうと思ったものだ。ニューブランズウィック州のアケイディアンの村に行ったときは、道路を境に英語地名とフランス語地名が分かれている場所があった。ロンドン・オンタリオのずっと先、ウィンザーでは、対岸のデトロイトを眺めながら、けたたましく鳴り響くパトカーのサイレンを聞いていた。

7月28日 土曜日

 昨日から長期休業に入った。とはいえ出勤はいつもの時間であり、午前中いっぱいは何かと行ったり来たり動き回っていた。未確認ことがあり、慌てて文書を作って相談したり回覧したりした。その間に電話の対応が幾つかあった。すべて順調というわけでもなく、想定内の軽度な混乱があり、頭の中がいくつも分断されたようで嫌な気持ちになった。午後になると落ち着いた。十三時からは休みを取り退勤した。帰り道で初めての蕎麦屋で昼食を食べた。内装が綺麗で、掲示物やテーブルにあった蕎麦の蘊蓄が書かれた紙片を見ると、店主のこだわりを感じた。すずしろ蕎麦という品には、刺身のつまのように細かく切った大根がたっぷりのっていた。おろし蕎麦の例もあり、蕎麦と大根は相性がいい。濃厚な蕎麦湯も悪くなかった。

 長期休業中の土日でも仕事に出かけなければならないときがある。きょうは六時に出て、十二時半頃まで仕事だった。何人もの人間が関わると、それらの関係作りに気を使わなければならないことが多くなる。それは本来の職務とは言えないが、職務遂行のための環境整備という意味では非常に重要な要素である。この日も関係の人々と時間を割いて話し合わなければならないことがあり、気は休まることはなかった。十三時には職場を閉めて帰途に着いた。昨日とは別の蕎麦屋で昼食を食べた。そこは時々利用する店だった。入ると珍しく客は年配の男性一人だけだったが、酒が入っており賑やかだった。店員さんが気を利かせて奥のテーブルを進めてくれた。程なくするとその男性の仲間がもう一人やってきて、ますます賑やかになった。蕎麦を運んできた店員さんが小声で、「法事があったようで、珍しくきょうは賑やかで」と教えてくれた。窓の外の緑を眺めながら、ゆったりとした気分で蕎麦をすすっていると、酔っ払った親父たちのたわいもない会話も微笑ましく感じられる。明日は休みで、何を考える必要もないのだから。家に帰って風呂に入り、選択をすると、眠くなった。久しぶりに二時間弱昼寝して、頭がすっきりした。起き上がった途端に両足の太ももが吊ってしばらく痛かった。

7月27日 金曜日

 アムステルダムのきょうの最高気温が三十四度と出ていた。考えられないことだ。滞在中は、半袖シャツを着たことは一回くらいしかなかった。欧州でも異常な高温が続いており、先日は最も高かった最低気温が更新されたらしい。

iTunesがおかしくなって、大瀧詠一の曲が誰かの知らない曲に入れ替わっていた。気持ちが悪い。少し気持ちに余裕ができて、夜風を窓から入れながら音楽を聴いた。ニック・ヘイワードのカフェ・カナダ。FMから流れてくるこの曲を聴いて胸をときめかせたのは高校生の時だったか。それから二十年後にカナダに行くことになるとは夢にも思わなかった。そしてその十一年後にはオランダに。山形にオランダせんべいというのがあって、冬に秋田のローカル線の車内でそれを買って食べた。何がどうなるかわからない。全てが偶然だとしても求めなければその偶然が手に入ることはなかっただろう。また、全てが偶然だとしたら自分にその偶然が降りかかってきたのには何か理由があるのではなかろうか。

7月26日 木曜日

 節目の一日は充実していたと言ったら嘘か。多くのことをしなければならなかったが、後味は決して良いとは言えなかった。その理由を追求しても気分はよくならない。協力か、力を合わせるか、そうしたことで何かが成せたことがあったろうか。一人の力は微々たるもので、それらをいくら持ち寄っても1が1にしかならないときが意外と多いように思う。

7月25日 水曜日

 朝早くから出かけた。特にこれといって努力したことはない。朝の二時間は意外と涼しかったが、それ以降は徐々に気温が高くなり不快になった。しかし外に出ると、蒸し暑かった先週までとは変わって、風は心地よく、まるで秋のようだった。このまま秋になるとしたら寂しいが、また暑さがぶり返すのもいやだ。

 何かを一つ終わらせるということはエネルギーが要ることだ。手続きを経ないで勝手に止めた場合、納得を得ないで中止した場合、その後にかかるエネルギーも相当なものだ。だから、事前に力を入れる必要があるのだ。五年前に僕の中では終わっていたことが、五年経って蓋を開けてみてまだ終わっていなかったことに衝撃を受けた。去年はどうして誰も手をつけなかったのかと腹立たしく思ったものだ。それが、ちょっと前まで続いていた。この四月から七月の取り組みの中で、唯一の成果といえばきょうのことだったと言えるかもしれない。

7月24日 火曜日

 難しい小説は自分の理解力がないから難しいと感じられるだけなのだ。理解力を高める努力が必要ということか。本当は言葉などどうでも良い。そんな気持ちがまた過る。頭の中に湧いて出てくる音楽がここでない場所に連れて行ってくれる。

7月23日 月曜日

 気力の湧かない月曜日。気温は下がり、半袖だと肌寒いほどだったが、その分やる気が出るかというと逆だった。余計なことに力をかけたくない、厄介なことからは避けたいと、そんな消極的な気持ちで全てをやり過ごした。同じ場所に長くいて良いことは何もない。日替わりで今後のことについての考えが行ったり来たりする。

7月22日 日曜日

 朝には新聞を買ってきて、あまり時間をかけずにさらっと目を通した。曇り空ではあったが、昨日よりも気温が高めに推移しているように感じた。午前のうちは久しぶりに勉強らしいことをしてみた。こんなことで何かが身につくなら簡単だ。しかし、これでは身につくことは無いだろう。それだけ何かを習得するというのは難しい。

 昼過ぎからまたいつも皀筴庵(さかちあん)にておろし蕎麦を食べた。そのあと束稲山まで車を飛ばした。車の気温計によると下界では三十二度あった気温が山の上に来ると二十七度まで下がった。で、また降ると三十二度に戻った。西行の石碑というのを見たが、その石碑自体にはあまり価値は無いのではと思った。その付近に平泉荘という国民宿舎があったことを示す小さな碑があった。桜を植える運動が行われているという看板があったが、桜の木はよくわからなかった。

7月21日 土曜日

 朝に新聞を買ってきて、二時間かけてゆっくりと目を通した。部屋にいて、仕事のことは何も考えずに過ごした。このような土曜日は実に稀である。なぜなら、多くの場合は仕事が入るからだ。この、仕事に関して何もしない、何も考えないひと時がもてるかどうかが、仕事の効率に関わってくる。つまり、ゆっくり休むことが、良い仕事を続けるには大切なことなのだ。それを、世界の多くの人々は知っているし、実践している。なぜか日本ではそれが理解されないし、実践しようとする機運も広がらないのはとても残念なことだ。

 午後から電気屋に行った。実家の壊れたエアコンを新しくしてお盆前の帰省に間に合わせようと思ったのだが、お店の人に聞くと一ヶ月待ちだという。思いつくのが遅かった。これだけ暑い年が続いているからエアコン需要も頭打ちだろうと思っていたら、まだまだそんな状況では無いようだった。それでエアコンは諦めた。アマゾンのエコー・ドットというスマートスピーカーを買ってみた。先日職場の隣席の方からお話を聞いて面白そうだと思ったのだった。声に反応して、様々なことを教えてくれたり、やってくれたりする。ラジオとかタイマーとか、喋るだけで簡単に操作ができるし、これから機能が増えてもっと使えるようになりそうだ。未来的なイメージだったが、導入してみるとこれは未来ではなく、もはやあって当たり前の現実的デバイスだった。

7月20日 金曜日

 きのうにも増して暑さがひどくなる予報が出た。ラジオでは原則運動は禁止という言葉まで流れ出した。それで昼からの計画はほとんどが中止となり、土曜日の予定もぽっかり空いた。残念がっている人たちも多いだろうが、疲れが蓄積している者にとってはありがたい休息時間が得られた。総じていろいろなことで予定を埋めがちな社会なので、カレンダーに穴が開くと不安になる輩がいるかもしれない。我々はこれまで無理をして多くのことを企画しながら何も無い日をなくしてきた。だが、それを見直す良い機会だと捉えるといいのかもしれない。

7月19日 木曜日

 暑さがひどい。きのう休んだ分、きょうは余計につらかった。ラジオでは熱中症予防の呼びかけが飛び交っている。かつてはエアコンなんて必要がなかったから、無いのが当たり前だった。それが、今ではエアコンが無いと生活できないほどに変わってきている。以前岩泉から盛岡のアパートに引っ越した時、アパートにはエアコンを設置してはならないという規則があった。夏になるとどうしようもなく暑かったので、大家さんに手紙を書いてエアコンを認めてもらった。あれは平成九年の夏のことだ。それから二十余年、気候は予想通りに変化してきた。しかしできる限りの対策が進められるわけでなく、やっていることは二十年前と何ら変わっていない。こうやってゆでガエルのように死んでいく様が目に浮かぶ。地球はいずれ金星のようになってしまうだろう。

7月18日 水曜日

 振替の休みを取った。平日にこんな風に休みを入れることは稀である。気温が高くなり、冷房をつけていないと具合が悪くなるほどだった。日中はスーパーマーケットや金融機関に出かけたが、少し歩いただけでクラクラしてくるのだった。実は休みとはいえ、ほとんど部屋に閉じこもって仕事の文書を作成していた。これを翌日使わなければならない。

7月17日 火曜日

 三連休を休めなかった身には暑さの中での労働は苦しかった。朝にはどう見ても自分のせいではない部分で問題が発生し、調整を図らなければならなかった。それぞれの部署が責任をもって一つ一つのことを成し遂げなければならない。確かにその元締めは自分ではあったのだが、よくわからないことに翻弄されて非常に残念な気持ちになった。

 黙っていると雑談が聞こえてくる。大昔のどうでもいい話や地域の話、そしてあろうことかクライアントの悪口や汚い言葉での罵りが聞こえてきたりすると具合が悪くなってくる。その中で真っ当に仕事を進めようとするその心根が、やはり世間とは乖離しているのかと感じられてくる。乖離していたらしていたで自分は構わないが、それなら何のために働くのかということだ。

7月16日 月曜日

 この日まで三日間、良かったのは冷房の効いた屋根の下で日中過ごせたことだ。きのうと同じく、七時半に集合して、解散したのは十六時近くだった。その後、自宅に戻って一時間ほど休むと、今度は別の会場に出かけた。十八時から二十一時までぴったり三時間の会合は、いつもの通り全体的な雰囲気は悪くなく、楽しい話を聞くことができたのでありがたかった。だが、自分の話したこと、自分がこの三日間のうちに考えたり書いたりしたのと同じことを考えている人は、誰もいないようだった。あれだけ語気を強めて話したことが見当違いだったかのように、かれらには届いていなかったのだ。マイノリティは自覚しているけれど、これからもこれまでと同じようにやっていくのには限界を感じる。この社会への参画ということが、果たして自分が生きる上でそれだけ重みのあることなんだろうか。

7月15日 日曜日

 勝利至上主義の黒雲が支配しているために、本来の目的がぼやけてしまっている。きょうはまったく意味のない涙が多くの人々の目から流れ落ちるのを見た。感動なんてそんなに安っぽいものなのか。たいして努力もしていなかったくせに、悔しいなんて言わないでほしい。生まれてたかだか十余年の幼い子供を前に簡単に涙を流さないでほしい。かれらやあなたがたが苦労するのはこれからだ。そう書いた自分が真に苦しむのもこれからだ。情に流されて、理屈がどこかに引っ込んでしまっている。一億総子供社会。大人は大人の役割を知り、大人として振る舞おう。まず自らが与えるべきものをもって子に当たれ、そして子に話を聞かせよう。決して熱くなってはならない。歴史が物語るものに向き合おう。世の中がこれまで培ってきたものは何だったのか。ボールは銃剣、コートは戦場。ユニフォームは軍服に、横断幕は千人針に、簡単にすり替わる。我々の心はそういう政治の下で操られているということを、冷静に見つめ考える必要がある。

7月14日 土曜日

 きょうから三日間は勤務日。今朝は五時半に家を出て、帰宅は二十時近かった。その、時間の長さということはさておき、内容に問題があった。期待していた結果が出なかったのも残念なことだが、それ以外に幾つか気になることがあり、帰宅してからも気分はすぐれなかった。暑い日だったが、暑さの中にいた時間は短かった。冷房の軽くかかった快適な環境の下にいたからだ。

 だが、本当はあんなところからはすぐにでも出て行きたかった。いいことも悪いこともある。矛盾の中で一日一日を生きる。様々な人とすれ違う。その中で、自分は自分ができることをするだけである。きょう最後に思ったことは、一つ所に安住してはならないということだ。

7月13日 金曜日

 人の気持ちを荒立てるのもやる気にさせるのも言葉の為せる技。せっかく言葉をかけるなら前向きな言葉だけを使いたい。とはいえ、この眠気、毎晩机に向かうけれど、何も浮かばず眠ってしまうということが続く。毎日言い訳ばかりして、何も進んでいない。

7月12日 木曜日

 なんだか愉快犯みたいな輩が登場して、そのことで一日中翻弄された。だが、そういうことはいつでも可能性があることだろうと思った。人の心の機微について考える時の心構えとして、言葉の厳密な意味にこだわることが求められる。曖昧な分析からは曖昧な判断しか得られず、曖昧な判断からは何一つ有効な処方はできない。

7月11日 水曜日

 きのうの三分の一の人数に対して、また話をした。きのうあまりに力を入れ過ぎた反動か、今朝は何も用意せず、思いつくままに話した。最近はっきりと自覚していることがある。相手は自分が考えているほどは自分の話を聞かないということだ。それはいつでもどこでも変わらない。たとえ、手応えを感じることがあったとしても、期待に沿うようなことはない。もし百伝えたいことがあったとしたら、だいたい0.1〜0.2ほどしか伝わらない。それは相手の聞く力が育っていないこともあるが、それは問題でない。伝える側に伝える技量が足りないことをより重く受け止めた方がいい。

7月10日 火曜日

 朝から二百人の前に立って話をする機会があった。そのために言葉を選び、間の置き方一つ考えた上で話すことすらこれまでの技能の集大成のつもりでやっているのだが、それが若き同僚たちに伝わったかどうかはわからない。いつも他人事だと捉えていると、変革には繋がらない。要するに、学ばない人間は自己流のやり方で殻に閉じこもってしまい、変わりようがない。

7月 9日 月曜日

 何があったかすでに覚えていない。とにかく空き時間もなくひたすら本業に取り組んでいたのだった。二十五年前に僕が先輩から教わったことは、その地域に向き合い、課題を見定め、そこに焦点を当てるということだった。専門性や技術の大切さはいうまでもないが、それ以前に、人間である、いやむしろ人間になることを要求された。そのためには人権など認められるわけがなかった。今は人でなしが人権を主張して憚らない時代だ。自分が受けてきた教育を、今の時代に同じように進めようとすると、角が立つ、無理が生じる。そこをなんとかしなければならないのだが。

7月 8日 日曜日 

 多くのことが破綻しており、考え出すと気分が悪くなる。国家の上層部が行っていることと、自分の身の回りで起きていることとが、奇妙なまでに相似な関係に見えるのは偶然ではないだろう。よもやこれほどまでに腐敗するとは。それに気づかないのか確信的なのか、人々の気持ちを逆撫でするような事ばかりが行われる。それに加担するではないにしても、あのような人たちの下で働く我々のなんと情けないことか。

7月 7日 土曜日

 朝七時には目的地に着いて鍵を開けていた。仕事が終わったのは十六時半頃だった。その間じゅう多くの事を考えたが、それらは通常の業務とはまた違った色をしていた。出張するいつもとは違って地元での仕事だった。外からの客人を迎えるという事もたまにはあると刺激になる。そしてすべての人はこちらが敷いたレールの上をひたすら前に走っていくだけなのである。誰かが敷いたレールを走るよりもある意味楽ではある。そうすればやがて一日が終了し、爽やかな疲労と充実感の中で眠りにつく事ができるのである。

7月 6日 金曜日

 この一週間は長かった。暑くて体力が消耗したのが主な原因だったが、それ以外にも無理難題を突きつけられ、どうしようもない状況に追い込まれた事による精神的な負担も相当なものだった。同じような事は以前にもあったのだが、立場の違いによって、また捉え方が異なるのだった。当時は自分の目の前しか見えていなかったが、今では全体の中のこの部分という捉えなので、その分冷静ではいられる。しかし、好転する見通しはない。

 今夜は二十一時を過ぎ、誰もいなくなった職場で、今日締め切りの文書を作るためにパソコンを叩いていた。一応は終える事ができたが、来週見直しが必要かもしれない。帰り道の途中、コンビニでおにぎりを買って食べる。帰宅して少しゆっくりしたが、一息つくとまた明日も仕事だった事に気づく。

7月 5日 木曜日

 今週は一つの山であるとはいえ、その山もいくつもの小山から成り立っているのであった。特に一つ、何をどうしても何も決まらないという案件があって、山を越えようがない。打開策が見つからないまま週末を迎えてしまいそうだ。要は、ある程度長い時間をかけて人間関係や信頼を築いていかなければ何も作り上げる事ができないし、何も先に進まないのだ。今となってはもう遅過ぎの話である。今がそれらを作る段階であってはならないのだが、それでも少しずつ積み上げていかなければならない。誰かのやり残した仕事を自分が引き継いでいる。誰でもそうなのかもしれないけれど、考えると気分が悪くなる。

7月 4日 水曜日

 今週は空き時間がほとんどなくて、いつもは空き時間でこなしているような瑣末な仕事さえやる時間が確保できなかった。そういう場合、大概は夕方に時間をとって終わる目処が立つのだが、ここ数日はその時間すら取れない状況が続いている。

 今年は事あるたびに自分が何かを伝えたり受け付けたり受け止めたり整理したり調整したり創造したり決断したり考案したり吟味したり構成したり発表したりする事ばかりだ。これでもかこれでもかと襲ってくる。そのような仕事を与えてくれる事をありがたいと思う反面、かれらは敵ではないかと見まごうばかりにである。自分を伸ばしてくれる機会というものは、必ずしもいい顔をしてくれない。悪魔のような顔をした天使がたくさん飛んでいる。天使のような悪魔もたくさん飛んでいるけれども。中には、悪魔のような顔をした悪魔も潜んでいるような気がして、吐き気がする。

7月 3日 火曜日

 朝には起きてラジオを聞いた。ワールドカップのサッカーはどこか他人事で、小耳を挟むという雰囲気で情報を得るに止まっている。テレビもないから、あまり盛り上がりようがない。もっともテレビがあってもネットで中継が見られても、時間が深夜なので遅くまで起きていることなどできない。職場には、いつもと同じ時間にずいぶん人が多かった。そのうちの多くは朝にテレビを見てそのままの勢いで出勤しているようだった。

7月 2日 月曜日

 午後から体育館でイベントが予定されていた。昨日くらいの高温となり、そこで二時間もじっとしていることは異常なほどの苦行だった。午前のうちに準備をしようと思っていたのだが、そんな時間が全く用意されておらず面食らった。他のスタッフにすっかり厄介になり事なきを得たのだが、こういうところでも荒海に投げ出されたような気分になった。

7月 1日 日曜日

 今日も暑い日だった。体育館の温度計は三十七度を差し、もはや体温をすら超えているのだった。昨日と同様に、昼頃まで仕事をして、余力を残して帰ったつもりだったが、何もできないまま夜になってしまった。