2018年3月  March 2018

3月31日 土曜日

 秋田の地域放送では、2045年の人口予測が大きく取り上げられていた。減少率が全国の都道府県で最も大きく、二人に一人は65歳以上になるという。ある10代女性のインタビュー。こんな県にはいたくない。こんな県にはいたくないか、それはいたしかたないか。横手までの電車の中は誰も何も喋らない。とにかく進んでいく。雪深い地域へと、滑り込んでいく。横手で朝食を食べられるところとして、駅の観光案内所が紹介してくれたのは、歩いて数分のパン屋さんだった。そこでいくつか調理パンを買った。店の奥から出来立てのパンを入れたケースを持って出てきたおじさんは、邪魔だったのかケースのへりで僕の背中を2回ど突いてきた。3度目には邪魔にならないようにと退けたのだが、そうするとおじさんはこちらを睨み、鼻にしわを寄せながらへっと露骨に不快な表情を見せた。パンは悪くなかったが、このおじさんのために一分間いやな気持ちが渦巻いた。その後すぐに忘れた。

 小・中学生は優秀だという。だとしたら、高校生も優秀で、大人になっても優秀であるはずで、なぜ故郷から離れていく人を食い止めることができないか。この偏りがますます激しくなるとしたら。これまでなかった新しい考え方に基づいて、新しいものを作り出すことが必要なのだと思った。それが何かはまだわからないけれども。

3月30日 金曜日

 一人でふらっと旅に出る。意味はないと言いながら、節目の時には仕事のことを何も考えない日が必要なのだ。そういう日があるからこそ、後で集中して考えることができる。秋田県に行った。角館から秋田内陸縦貫鉄道を北上し、鷹巣と大館を回って秋田に泊まった。列車に揺られながら窓外の景色を見ていると、日常から離脱することができる。考えているというほど、頭の中に言葉はない。だから、何もまとまらず、言葉になるものはない。でも、そういう時間があるからこそ、言葉が研ぎ澄まされていくのではないか。新しい年度の構想として、また新しい言葉を紡ぎだしていくのである。これは新しいと言うけれど、本当は毎年のことなのだった。

3月29日 木曜日

 あらかじめ年休を取っていたが普通出勤。午前中で終わりにして昼には帰ろうと思っていたが、そう簡単にはいかなかった。たいていの場合、簡単にはいかない。10分で終わると思っていたことが、1時間かかってしまうことなどいつものことだ。帰りはとうとう14時を回る頃になった。

 帰り道でうまいそばを食べた。窓の外に広がる山と田んぼの景色を見ているうちに、今年度も終わりかという気持ちになった。そば湯まで頂いて、今年度の仕事が目出度く終了した。

3月28日 水曜日

 仕事場の部屋の配置換えが行われた。変わる前と後とでは気分が異なる。変わると、また新しいところで頑張ろうという気持ちが起きる。どの職場も同じだろうが、いろいろな人たちがいる。自分の考えと正反対という人も珍しくなかったりするわけで、僕から見てめちゃくちゃやっている人をみるともう腹立たしくて仕方ない、ということが日常茶飯事である。しかし、自分のそういう態度こそが忌み嫌われるべき態度なのかもしれないなどとちょっと疑ってみる。

3月27日 火曜日

 何も覚えていない。年度末はいつもそうかもしれないが、時間が飛ぶように過ぎていき、振り返ることができない。今年度は、今のような3月末の準備作業が一つもできなかった。他の人が調えてくれているものだろうと思っていた。ところが4月1日に感じた衝撃は大きなものだった。コンピュータの発達に連れて、仕事場のコンピュータまわりも改善されてくることだろうと思っていたが、帰ってきて蓋を開けてみたら、なんと全く野放しの荒れ放題と言う姿に落ち込んだ。これまで3年間取り組んできたことは、その前の3年間からの続きになるのかもしれないと思った。

3月26日 月曜日

 仕事が捗るというわけでもなく、ほとんど一日中座り仕事をした。夜も予想より遅くなった。帰りには洋服屋に寄った。背広を3着くらい新調しようと思っていた。店に行って試着させてもらっているうちに、サイズがうまく合わないものがとても多いことがわかってきた。上が合っているのに下が合わない。下に合わせると、上が大きくなる。そういう店なのか、それとも店員さんがわからないのかわからないが、以前にも何度かそういうことがあって、僕は洋服を買うのが嫌いになった。必要に迫られなければ買い物などしないが、必要に迫られたからといって必要なくらいまともに購入できるとは限らない。最終的に1着だけを選んで店を後にした。

3月25日 日曜日

 この日も何があったかは覚えていない。確か前日と同様に朝には運転の練習に付き合った。仕事のことを考える必要がないと書いたが、新年度のことを考えるとどうしても考えないわけにはいかない状況に追い込まれていることは否めない。年をとると、責任は増すばかりである。それが、年をとるとという条件で良いのかどうかは大いに疑問だが、現状はそうなのだった。ロウガイという言葉がある。自分はそうは言われたくないと強く願う。

3月24日 土曜日

 残りの仕事はほぼ新年度の準備という段階に入り、この週末は仕事のことを考えずゆっくりと過ごすことができる。朝には運転の練習に付き合い、洗濯などするとあっという間に昼になった。宮城県北に車を走らせてラーメン屋で昼食を取った。その後は洒落たパン屋を見つけて少し買い物をした。緊張から解き放たれると眠気が襲ってくる。休みにやろうと思っていたことの半分も、終わらせることはできなかった。

3月23日 金曜日

 昨夜に続いてこの日も夕方から職場の送別会があった。自宅から歩いて行ける場所なので、久しぶりにビールを飲んだ。三月の景色は別れに彩られており、情感は豊かだがあまり好きではない。楽しく話もしたけれど、今回は、四月からの覚悟を決めるという意味合いもあったように思う。悪い人など一人もいない。皆がそれぞれそれぞれの方法で頑張っている。自分もその一人。どういう表情で、どういう言葉で、かれらに接していけば良いのかが、常に試されているのだろう。

3月22日 木曜日

 一日の休みを置いて、また仕事に出かけた。ちょっと疲れている。このところ夕方になると心臓がとかとかする。そこで何か食べてしばらくすると落ち着いてくる。昼食がコンビニのおにぎりだけというのが続いているからかもしれない。昨日の昼はしっかり食べたのでそういう症状は出なかったが、遠出をした疲れが出た。早めに風呂に入って休みたかったが、文書をあれこれ手直ししていると結局就寝は普段通りの時刻になった。この日は職場の近くで送別会。いつも職務の一つとして重要だと思って参加している。送られる側ではないので何をすることもなく気楽なものだが、いるということが重要なのである。

3月21日 水曜日

 春分の日。彼岸の中日。祖母の命日。実家に行き、墓参をした。お墓の周りを少し掃除した。蜂が一匹どこからか飛んできて、蝋燭の根元にとまった。寒々とした曇りの日だったので、暖かさを求めて飛んできたのだろうか。追い払おうとして手で風を送ると火が消えた。熱源がなくなったので、むしろ居心地がよくなったのか、いつまでもそこを離れなかった。雪が解けて蜂がもう孵化したのか、それとも冬蜂の生き残りなのかわからなかったが、祖母の化身かもしれないと思われた。こういうことは、たまにあると思った。死んだ人の魂が、何か他のものに乗り移って現れるというのは、とても自然な発想だ。ほんとうのことかそうでないことかとは関係なく、事実と寸分違わない現実と言ってもいい。

3月20日 火曜日

 これまで話す必要の無かった人たちとのコミュニケーションに迫られる。それが必要になったのなら、周りに聞こえよがしに自分のありようが伝わるような声で話しかける。自分の主義主張、生き方や人生観が伝わるように、シンとした一瞬を見計らって声を出す。誰の耳にも届くような、できるだけ重みのある発声で。

 かのベイシーで、「色川武人 阿佐田哲也を語る会」というイベントに参加した。参加といっても、店のマスターの菅原正二さんと、作家の木村紅美さんの対談を聴くというものだった。色川武大との交流について、菅原さんの話をふんだんに聴くことができた。菅原さんの人生経験を踏まえた深みのある洞察にうなる場面がたびたびあって、色川さんのことよりもむしろ菅原さんの人としての面白さを強く感じさせられた。また、ジャズは聞けなかったが、店内をゆっくりと眺め回してその雰囲気を堪能することができたのもよかった。これはまさにオランダでブラウンバーと呼ばれるような古いカフェの雰囲気にそっくりだと思った。十八時半から始まったイベントは約二時間続いた。今度はあの店にジャズの音を聴きに行こう。

3月19日 月曜日

 必要もないのにいつもと同じ時刻に出勤する。必要かそうでないかにはかかわらず、同じリズムでというのが大切だから、いつも通りに出るのである。どうせならゆっくりすれば良いという声も聞こえてくるが、思考の枠組みが全く違っているのである。

 苦手な人こそ、自分を変えてくれる、育ててくれるありがたい存在だ。そのことがまぎれもない真実だと気づいてから、周りには苦手な人がいなくなった。とは言っても一人になりたい時はあるし、むしろ仕事場では常に誰とも話したくないのだけれど。

3月18日 日曜日

 朝にはまた隣町まで助手席に同乗した。天気は良かったが、気分はあまりよくなかった。安全ということについて考えた。

 午後から少し出て、街中の本屋を物色した。その後、なのはなプラザで行われている「色川武大と阿佐田哲也の世界展」を見学した。色川武大は面白い人だったということが伝わった。1989年の3月に東京から一関に越してきて、翌月には心臓の病気で亡くなった。「ベイシー」の縁で来たということだったが、これも縁、自分もまたあの店に足を運んでみようかと思った。

3月17日 土曜日

 セントパトリックデイの様相は日本では四、五年前とたいして変わりなかった。バレンタインデーのように商業主義に食いつぶされてしまってはいけないので、このままあまり騒がないでおいてほしい。今日もまた早朝から車の稽古で助手席に座った。途中の山道では少し手に汗にぎる場面もあったが概ね順調だった。東山から前沢を通って平泉へ。道の駅の五百円の朝食を食べて帰宅。午前中は会計処理と一週間分の振り返りを行う。午後からはだらだらとした時間の使い方をし、夕方二時間ばかり眠った。少し暗くなってきた頃に散歩がてら街に出て、ふじせいという店で餅料理を食べた。

3月16日 金曜日

 平昌では、オリンピックに続いてパラリンピック大会が行われている。いつも不思議に思うことだが、オリンピックとは別に障害者の大会としてパラリンピックが行われているのはなぜなのだろう。別々の大会にする意味がわからない。全てがオリンピックの種目になるというのではいけないのか。健常者と障害者なんていう分類を残しているのは差別では無いのか。

3月15日 木曜日

 四月からのことについてはあれこれと想像するばかりだったが、今日具体的な打診があった。想像とはだいぶ異なる案で正直面食らったが納得する内容だった。想像というのは、あくまでも想像に過ぎず、こちらが無意識に望んでいることの投影でしかないのかということを考えた。大所高所から見た判断というものは、それとは全くの別物なのだ。力量の有無ということではなく、年齢に関わることなのだろうから仕方ない。それについて、さしたる嫌悪も拒否感情も無い。ただ、自分がどのように行うかということに尽きる。

3月14日 水曜日

 穏やかな天候に恵まれ、昨日までの準備が奏功して、概ね良好に一日の予定をつつがなく終えることができた。それはそれでホッとする出来事ではあった。欲を言えばもう少し感激や感動があってもよかった。とはいえそれは、この日ばかりに求めても仕方のないことであり、これまでの数年かけて醸成されなければならなかった類のものであるから、言っても仕方がない。

 思うのは、いつの年でもどこでどのように関わるにせよ、求めなければならないのはその一点であるということだ。それを、私たちは肝に銘じなくてはなるまい。

3月13日 火曜日

 ひとつの練習。ひとつのリハーサル。たとえ時間が短くても調整することはできる。ただし段取りが必要だ。夢も理想も語られず計画も示されないとしたら、その先を考えることは難しい。段取りのないところでやれと言われても困ると、文句をつけたくなるところだが、いつまでもそうは言っていられない状況もまた到来するのであった。

 この日僕はある集会で、以前新聞で見た「就職活動の『かきくけこ』」という記事を拝借して、「未来を切り開くための『かきくけこ』」というふうに変えて紹介した。「か」は「感謝」、「き」は「気配り」、「く」は「工夫」、「け」は「謙虚」、「こ」は「向上心」という五つである。どれも大切な概念だが、もっとも大切なのはそれらが相手の心に届くということだった。年度の最後の話だったが、結果的に彼らに対する最後の話になるかもしれない。

3月12日 月曜日

 通常業務と異なるためか、何かと苛立ちや不満が頭を擡げる。思えばそういうことばかりが続いている。本質への道を歩まない者にとっては道自体がないのと同様であり、歩む者にとっては歩むことがすなわち本質である。求道すでに道であるということか。三年という時間をかけて我々が本分を全うしようとするときに、なぜこれほどまでに押し付けがましく対象に迫らなければならないのだろう。日々の関わりの中で互いの信頼を醸成するのが大前提である。その上で自らが欲するのを黙って待つことはできないのだろうか。

3月11日 日曜日

 早朝自分の車の助手席に乗って運転の練習に付き合った。車が少なかったので走りやすかったことと、道が単純だったことで、不安は小さくなった。自由を実現するにはリスクをともなう。だとしたら、そのリスクを軽減すれば良いだけだ。そのために最適の車を購入することになった。昼前から国道を南下して車屋に行き、試乗や契約関係の手続きをすると二時間ほどが経過した。神室という場所でちょうど黙祷の時刻になった。

3月10日 土曜日

 春の嵐は過ぎ去って、外は一日穏やかに晴れた。あいにく朝から仕事で、例によって六時間くらい立ちっぱなしだったが、それなりに成果のある一日になったように思う。帰ってきてからは、小動物たちのように陽気のために走り回る者たちの姿を見た。人間も、鹿も、犬や猫も、同じようなものかと思った。

3月 9日 金曜日

 春の大風と大雨で川が増水し、田んぼが海のようになっていた。気温が異常なほどに上昇し、職場は結露が酷かった。そんな中で避難訓練を行い、黙祷も行った。さまざまな言葉が飛び交う一日だった。そしてそれらの一言一言が、その人の底を見せつけるに値する言葉だと感じることの多かった日だった。

3月 8日 木曜日

 年が離れてしまったからか、対象との乖離を感じることが増えた。これから定年が延長されるらしい。年を取っても、リタイヤなんて言っていられない。もっと働けということになってくる。社会に貢献といえば体がいいが、もっと自分自身を最優先に大切にできる人生があってもいい。公僕として死ぬる覚悟は僕にはないといいながら、実際のところ死ぬこと以外に道はないようだ。

3月 7日 水曜日

 お気楽な出張があったものだ。会場までの道のりは一時間ほどだった。十五時二十分から始まった会議は十六時には終了した。そこから職場に戻ると勤務時間を過ぎるので、そのまま直帰した。洗濯ができたり、夕食の準備ができたり、少し余裕を持って過ごすことができたが、すぐに眠くなった。

 

3月 6日 火曜日

 ネット機器の使い方について講義を聞く機会があった。様々なことが話されたが、要は相手の話をしっかり受け止めるということだと思った。受け止める力がなければ、発信することもできないのだ。

 来週までの見通しをつけようと思い、パソコンに向かってあれこれと考えていたら時間が過ぎてしまった。時間はかかったが、あと一週間はなんとか進みそうかなというところまで進めることができてよかった。

3月 5日 月曜日

 夕方からの会議は、たいして面白くもない内容だった。それは普通のことである。期待も正直なところあったが、期待した通りにはならなかった。何も手がつかない状態になったので、早々に失礼した。この四月からは生活の状況が変わりそうだ。今まで安穏と暮らしてきた部分があるが、そうも言っていられない。責任を上手に配分する必要がある。

3月 4日 日曜日

 穏やかな日。そばを食べに平泉に行く。皀莢庵のおろしそばは絶品だ。昨年の後半あたりから時々食べたくなって出かける。その後はホームセンターとスーパーに寄って暮らしに必要な物を購入して帰った。

3月 3日 土曜日

 早朝からの仕事も昼には終わったので気持ちは軽かった。支払いがあったので千厩の町まで車を走らせた。町屋のひな祭りのイベントが行われており、観光客らしき人々が通りを歩いていた。店先には色とりどりの吊るし雛が見えて、車で通るだけでも華やかな雰囲気が感じられた。支払い先の判子屋に行くと、三畳ほどの狭い店内に若い外国人たちが八人くらいいて並んでいた。判子の注文で来ていたようだ。一見してアジア人とわかる男性たちは、僕が入ると目でにこやかに挨拶した。どこからと聞くと、インドネシアから来たと。近くで働いているそうである。おそらく、雇用の関係で印鑑が必要なのだろう。主人にカタカナの名前を伝えていたので、カタカナの印鑑ができあがるのだろうが、日本的な習慣が彼らのような人々にも求められることがわかった。その後は山を越える初めての道を通った。峠にはまだ雪が残っていた。

3月 2日 金曜日

 金曜日の夜なのでとにかく早く帰りたいと思った。そういう時に限って十七時過ぎの職場は賑やかになり、雑談が飛び交ったりもするものだ。雑談するくらいなら早く帰りたいものだ。働き方改革という言葉が聞かれるが、それは働く者たちの意識改革のことである。あれこれこなすには時間をかけなければという声があるが、時間をかけただけでは到底なしえない仕事もある。五分とか十分といった細切れの時間に脳内で何をするかが大きな決め手となる。また、重層的に複数のことを同時進行で思考し続ける技も必要だ。そして、休日に仕事のことを何も考えない時間を意図して作らないと、仕事の質は下がる。時間さえかければ学力が上がると思い込んでいるどこかの国の省庁のレベルでは、いい仕事などできるわけがない。

3月 1日 木曜日

 弥生に入った。何事も後回しにしていたつもりはないが、今日まで手付かずにしていたものも多い。この先のことは何もわからないが、月末までの予定を確認するために夜遅くまで残った。今年一年かけて整備してきたことは、来年度からも生かすことができるだろう。損して得とれという言葉がまた頭の中に響くのだが、自分が得するかどうかは別にして、後々の得にはなるだろう。