2018年5月  May 2018

5月31日 木曜日

 つごもり。みそか。皐月が終わって明日から水無月。太陰暦、太陽暦、月の動き。三日月、十五夜、そして十六夜。教わったことは無いと思っていたが、こんなに大切な真実を学校で教えないわけが無かろう。おそらく僕は学校時代、先生の話をちゃんと聞いていなかったのだ。聞いていれば、こんな風にはなっていなかっただろう。

5月30日 水曜日

 真夜中に太股が吊って痛かった。大して運動をしていないのに、疲れているときまって夜中に足が吊る。

 朝起きてから五年前の実践を引っ張り出して資料を印刷する。今日は一時間通常業務をしたのち出張で夕方まで会議に参加しなければならなかった。話の内容は面白みのない、むしろ聞けば聞くほど暗い気持ちになってしまう類のものだったが、終了時刻が早かったのが救いだった。職場に戻るつもりもなく、電話を入れて直帰した。買い物をして帰宅すると、それでも六時を回っていた。広報が届けられていたので、夕食後に各戸を回って郵便受けに入れてきた。

5月29日 火曜日

 休む時間などなく夕方になった。夕方からはまた仕事が午後八時まで続いた。体力を使うというほど運動するわけではないのだが、終わって家に帰るともう体が思うように動かなくなっている。風呂に入って少し休んでいると眠くなる。翌日目覚めると疲れは取れて、また元気に一日を始められる。不思議なものだ。

5月28日 月曜日

 一つのことを十年続けるとそれで生計を立てられるようになるという。もちろん就職してその道で食べてきたのだから、生計を立てられるようにはなっている。十年どころかその三倍も、この道で食べているのだから、たいていのことは経験しているし、何も恐れることはない、と他人は思うのかもしれない。だが、まったくそんなことはないのだから我ながら驚く。何も経験していないし、毎日恐れることばかり。毎日毎日本当に自信を持てないままに仕事をしている。これは良い悪いではなくて、そういう現実だということだ。

 十年続けているかどうかは知らないが、妙に自信家だったり、対象に対して不遜な言葉遣いだったりする人を見かける。そういう人はどうしてそういうことになっているのか、僕にはよくわからない。自分自身についての認識はどうなっているのだろう、などと不思議に思うこともある。

5月27日 日曜日

 朝は早く起きて、少し散歩がてら新聞を買いに行った。その後は洗濯をしたり、仕事を進めたり、気ままに時間を過ごした。天気が良かったので、本当はどこか遠くに行きたかった。いつもどこか遠くへ行きたい。知らない街を歩いてみたい。それは逃避なのだろうか。逃避したくなるような現実。勤めている間は、そこから逃げることはできないし、この国に住む以上、この苦しみから解放されることはないだろう。

5月26日 土曜日

 遠野まで遠征した。六時に家を出て、七時半頃に着いた。朝から晴れ渡り、最高のドライブ日和であった。江刺あたりの山道は眺めが良く、遠くの山脈までくっきりと見えていた。日中はずっと日陰のところにいた。これまでと同様にはいかないと、難しさを感じた。では次にはどう出れば良いのだろう。考えると行き詰まった。帰宅すると午後六時だった。夕食後に妻と仕事の話をしていたら三時間が経った。風呂に入って就寝した。

5月25日 金曜日

 一日休みを取って、組合の会合に参加した。朝はいつもよりも余裕があったので、片付けをしたり、洗濯をしたり、ご飯を炊いたりすることができた。盛岡までは往復新幹線を使った。車を運転するよりも速いし、疲れないから良い。あわよくばビールの一杯でもと目論んでいたのだが、翌日早いことを考えるとそこまでの心のゆとりはなかった。

 元同僚たち何人かと久しぶりに会って挨拶を交わした。ほぼ二十年ぶりに会った方からは、お互いに年をとったなと言われて肩を叩かれた。知っている顔は皆それ相応に老けているように感じた。皆年をとった。しかし、相変わらず元気に、というか以前聞いた調子で発言される姿もあって、変わっていない。何も進んではいないと思った。こんな感じで戦後七十年はあっという間に経過したのだ。

 僕はいわゆる組合人の気骨ある生き様というのを幼い頃から垣間見て生きてきたような感覚がある。報道に携わっていた父は、仕事から帰ってきて再び夜から赤い腕章を持ってどこかに出かけるということがたまにあった。長い間国労にいた伯父から、酔った勢いからかマスコミに対する批判を聞かされたことがあった。いつか行った連合関係の会合には、労働運動について熱く語る魅力的な親父たちの顔があった。

 建物がすっかり建て替わって、記憶の中にあった重厚なホールは見る影もなくなった。歌を歌っている間に窓を覆っていたひさしが開け放たれて、外の眩い光が目に飛び込んできた。あの建物は古くて座席のクッションなどはどうしようもないほどくたびれていたが、皆が集う場としてはふさわしいほど重みがあった。それに比べると、新しい建物は全てが軽々しく、安く、薄っぺらな感じで、まるで世界チェーンの家具屋の製品みたいに、見れば見るほど本物とは縁遠い、まがい物にしか見えなくなった。あの建物が刻んできた歴史ほど、新築の建物は保たないだろうということを感じた。

 盛岡は数か月ぶりだったが、嬉しい気持ちなどわかなかった。駅の荒廃ぶり、というか商業化はひどいもので、もはやどこの駅なのかわからなくなっていた。JRは公共交通機関ではなくただの営利企業に過ぎない。それに乗せられて街が飾られ、人が流されている。少なくとも、住民たちのためにあるのではなく、東京などの大都会からの客の方を向いた発想に貫かれている。それに、駅前通りはご多聞にもれず中央資本の商店が軒を連ね、地域の老舗などわずかしか残っていない。こんどは「東北きずな祭」だという。「お早めにご予約を」とスピーカーの声が煽る。新幹線に乗って都会からお客様がわんさかやってくる。JRに金を払っては、季節外れで場所も異なる地でのねぶたとか竿頭とかをありがたがって見に来る。そうして大手ばかりが利益を吸い上げ、住民たちにはなんの還元もない。今思うとあの直後からすでに東北の地は食い物にされようとしていたのだ。魂の復興とはいったいなんなのか。中央や一握りの金持ちに利用されているだけではないか。駅までの道のり、暑さの中を歩いたせいか少し動悸がした。カバンにあったビスケットを食べるとちょっとよくなった。

 面白くない気分でそそくさと帰りの新幹線に乗った。かれらが、僕等が戦おうとしてきたのはいったいなんだったのかと思う。世の中をつくる主体であったはずのわたしは、いったい何をしてきたのだろう。同じことをくりかえしてはならない。違ったやり方で、近づいていかなければならない。これからどんな形で、傍観者でもお客さんでもない、世の中に直結した自己の生命をまっとうすることができるだろう。などとやり場のない気持ちが吹き出した一日であった。

5月24日 木曜日

 金曜には休みを取ることになっている。だからというわけではないのだが、この日は一日じゅう休みなく頭と指先を動かさなければならなかった。いくつもの文書を作ったが、それらは風に吹かれてどこかに飛んで行ってしまった。白い紙に黒い文字を打ち付けては風に飛ばしていく日々。そうやって一日が過ぎていくとしたら、僕の頭の中には何が残るのだろう。僕の亡骸が焼き場で焼かれた後に、何が残るのだろう。

5月23日 水曜日

 目が回る日々。去年は去年で目が回っていたのだけれど、今と比較はできない。その前の年は前の年で確かに目が回っていた。でも、同じように比較するわけにはいかない。このように遡っていっても、楽だった年などないし、これから先も、今より楽になることはないだろう。それは感じ方の問題であり、今生きていることの証でもあるだろう。自分と誰かを、今といつかを、比較してしまうのは人間の性分だが、比較したって仕方ない。楽しいと感じることも、苦しいと感じることも、自分が消えれば全て消えてしまう。それまでのひと時をあなたはどう過ごしますかという、その一事に尽きる。

5月22日 火曜日

 昨日の貴重な平日休みにすべきであったことをすっかり忘れていた。この一年間の給食費を金融機関に払い込もうと思っていたのだ。このご時世にもかかわらず、ネットでの振り込みなどは全くできないシステムであったから、窓口に行かなければならなかった。仕方なく、職場を離席して近くの農協の窓口に行った。まるで30年も遡ったような空間に、30年前のようなゆったりした時間が流れていた。しばしタイムスリップしたような感覚を覚えた。そしてまた未来の世界に戻った。コンピュータに毒されている時代を思った。だが、このインターネットの登場の前後にまたいで生きるこの稀有な人生を、自分はありがたかったと感じている。

5月21日 月曜日

 昨日の振り替え休日だった。車の定期点検のために、北上まで車を走らせた。車を預けている時間に、近くの喫茶店で昼食を食べた。平日の昼間にこういう店でゆっくりできるのはありがたかった。その後本屋に寄った。朝のうちに、これは買おうと決めていた本を探そうとして書棚の前に立ったが、その著者名も書名も思い出せず愕然とした。唯一文春文庫ということだけ記憶にあったので、目録を探してみたが、その本は書棚になかった。少しのことでもメモを取ることの重要性は年々増している。

5月20日 日曜日

 朝から晴天で風が涼しく爽やかで、外で行われる行事にはこれ以上ない天候となった。しかし、6時前には出勤し、地面にたまった水を、スポンジや雑巾などで吸い取らなければならなかった。その作業を1時間半ほど続けたら、足腰が痛くなった。懸念しているような問題は何もなく、無事今年のこの行事も終えることができた。様々なことがあるが、深く考えると頭が痛くなるのでここには書かないけれど、簡単に解決するような問題はほとんどない。夜には反省会があり、短時間ではあったが、うまいビールを飲むことができたことはよかった。

5月19日 土曜日

 この日行われる予定だった行事は雨の心配があったため順延となり、一日何もない休みとなった。翌日のことを考えるとあまりのんびりできる気分ではなかったが、当面の仕事は片付けてきたので、わりとゆっくり過ごすことができた。前日から未明にかけては雨だったものの、日中はほとんど雨が降らなかった。それでも延期の判断が下ったのは当然といえば当然だった。

5月18日 金曜日

 昨日のいくつか、正確には2つの事案について、寝ながら頭を悩ました。その結果を早朝にパソコンにはじき出して、自分宛のメールとして送信した。給料泥棒という言葉がこの頃頭の片隅に浮かんできては消える。忌まわしいその言葉を言われ続けた頃と同じ気持ちが渦巻く。なんら変わっていない。職場に着いてから懇切丁寧な指導を仰ぎ、表現するところまで漕ぎ付ける。この口から、ドロドロと吐き出される言葉。茶色でドロドロとしたものあるいは虹色の綺麗な帯が空間にまるでリボンのように解き放たれるもの、自分の吐き出す言葉の本当の色が、当の僕にはわからない。

5月17日 木曜日

 昨日とは打って変わって、朝から強い雨が降っていた。落ち着いた一日ではあった。反省することは多かった。思慮の浅さをつくづく感じさせられることばかりだった。楽しさというのはとてもパーソナルなもので、いつもそれを感じる時は閉じられた空間と時間の中だけだ。大きな組織の中でそれを得ようと思ってもなかなか得られない。小川がちょろちょろ流れているだけのところで泳ぎまわる感じと、大河が海に落ち入るところで濁流に飲み込まれる感じの違い。これはずっと昔からの感覚だけど、荒海に投げ出されるような感じを毎日覚える。この先大海を自由に泳ぎまわることができるようになるのであればいいのだけれど。

5月16日 水曜日

 週末の天候を考慮して、予定を一日前倒しにして今日は朝から夕方まで外での活動となった。真夏日になるかもしれないという晴天のもとで、十分な準備を進めることができたと言えるだろう。それにしても、様々な活動が、こんなに単純なものだったかなと思うことが多い。それだけことの本質を単純明快に把握できているということだろうか。いやいやそんなことはない。自分が直接の担当ではないことと、担当としてやらなければならないことをまだ十分やっていないということではないだろうか。毎日とにかく気分がすっきりしない。

5月15日 火曜日

 生活経験ということでいえば、世間一般のこの世代に比べればかなり貧しい方だろう。必要に迫られることがない分、知らないで済ませていることも多い。衣食住についてそれほど深刻な悩みを抱えることもないし、親の介護や親類縁者との確執などとも今のところ無縁である。幸せであるがゆえに不幸せ、不幸せであるがゆえに幸せということがある。

5月14日 月曜日

 大きな行事の前には特にいくつもの会議や締め切りが錯綜する。多くの業種について、現場ではそうなのだろう。ただ自分の場合には一つしか知らない。多くの人にとっても、そうなのだろう。自分の携わる仕事以外のことを想像するのは簡単なことではない。その中で「学校」という現場は、自分が通っていた時の印象があるため比較的想像しやすいのだろう。だからこそ、勝手なことを言いやすいとも言える。言い換えると、教員は勝手なことを言われやすい職業だというふうにも言えるだろう。

 この日も朝からいくつかのことを並行して考えなければならなかった。帰宅するとなぜか身体中が痛かった。

5月13日 日曜日

 朝のひと時、一週間を振り返ってこの日記を書いた。仕事の話ばかりになったのは、週報を見て書いたからである。日々様々なことを考えるのだが、それをその日のうちに記録することは難しくなった。体力的なことも大きい。今や書くことよりも話すことの方が大切になったとも言える。いずれ、言語化してメタ認知という道筋は、どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、日々継続していかなければならない。今日はこの後、一週間先までの見通しを立てようと思う。そして、明日任されている一時間の流し方を考えよう。昼にはまた蕎麦を食べたい。

5月12日 土曜日

 午前中は仕事であった。体を動かし汗をかいた。悪い汗ではなかった。だが少し不安な話を聞いた。頭の中に言葉が渦巻いた。13時過ぎまで職場にいて、少しずつ仕事を進めた。夜にはまた会合があったので、それまで仕事をしようと思っていたのだが、眠くて仕事のできる状態ではなくなった。会合が始まる時間まで6時間もあったので、食事をし、一旦家に戻り、風呂に入って洗濯をし、また職場に戻って、パソコンに向かった。会合の席で挨拶として話す台詞を打ち込みながら考えた。場所を移し、会合の冒頭でそれを話した。最初の顔見せの意味があったから、多少長くとも自分の言葉で伝える必要があった。席では昨年度から世話になっている何人かの方と話をした。新しい方々とは話せなかった。毎年のことではあるが、責任の重さを痛感するひと時であった。今年は全部一人でやらなければならないのでなおさらだ。途中から腹が痛くなってたいへんだった。

5月11日 金曜日

 夜に一つ会議があって、あまり意味がないかもしれないと思いながら、立場上必要なことを発言した。相手と寄り添ったり、思いやったり、あるいは相互の信頼関係を醸成することを大切にしたり、そんなことは大きな組織でやっていくには生ぬるいと言われることかもしれない。権威の名の下に圧力をかけることが必要なのかもしれない。しかし、もう少し和やかな、笑顔のある話し合いにならないものかと思う。

5月10日 木曜日

 他の事業所に電話を入れ、6月半ばまでの週末の予定を取り付けなければならなかった。空き時間に電話を入れるのだが、なかなか相手とうまく時間が合わず一度で交渉が成立するということがない。どうにかならないものかといつも思うのだけれど変わらない。今回はどうにか十分だろうというくらいには予定を入れることができた。詳細は後日相手方から入ることになっている。こんなことにあくせくしなければならないなんて、つくづく変な仕事だと思う。

5月 9日 水曜日

 朝に胃検診でバリウムを飲まなければならなかったので、昨夕は18時前に夕飯を食べた。職場を抜け出して、近くの農協の店でおにぎりを買って、休憩室で詰め込んだ。そして20時まで体を動かして働いた。この晩は消耗が激しかったので、もしも食べなかったらと考えると恐ろしい。

 5時半に家を出た。検診の会場には世話役の職員が1名いた他は誰もいなかった。部屋にはテレビがついていた。待ち時間用の新書を持って行ったが、珍しかったのでテレビのニュースを見ていた。開始時刻の少し前に始まり、あっという間に終わった。いつもより1時間早く職場に着いた。その1時間で一つ、急がなければならない文書を作成することができた。値千金の時間であった。

5月 8日 火曜日

 昨日は一部、今日はまた別のものを一部、いわゆる通信類を発行した。自分の持ち味を追求するとこれにいきあたる。持ち味というのを端的にいえば、この日記で書くことを続けてきたことで身につけた力だ。

 振り返ると、カナダでは3年に渡って毎週2〜3部の通信を手がけた。その中に詩を一編掲載することを課してきた。帰国後しばらくはできなかったが、盛岡の最後の年には進路通信という形で作ることができた。続けて一関に移ってからの3年間、そしてオランダでの3年間、さらに帰国して昨年度と今年度。対象や形式は違っても、週一回あるいは隔週に一回の通信の発行を継続している。

 詩はもちろん自作ということではなく、詩人たちが書いた現代詩の作品をということである。初めは思いつきに過ぎなかったのだが、結果的には現在の通信にまで一貫して続けている重要な要素となった。今となれば、このアイディアを得たことは自分の職業生活にとって本当に幸運なことだった。

 いい詩が見つかると嬉しい。通信の内容と詩の内容を結びつけることの楽しみというのもある。書いたことが詩に収斂される瞬間はたまらない。文章の内容と詩のテーマの価値が、それぞれ相乗的に高まるような感じる時は大いなる喜びである。

5月 7日 月曜日

 仕上げたかった書類の一つはできないままだった。他のスタッフに甘えた形、つまり、自分の中では大きな誤魔化しであった。 そうしなければならなかったのは、午前中に一つ、自分の主宰する会議が入っていたからである。年度の初めだったので、まずハンドアウトを作成しなければと思った。前年度はこれがなかったために、限られた時間に会議が終わらず、皆が消化不良になって、自分などはこんな会議なんて意味があるのかと思ってしまうほどだった。あんなことは繰り返したくなかった。

 会議一つとっても、一手間をかけるかどうかで全体の意味付けや重要度が変わってくる。これは料理と同じで、舌触りや味わいに深みが出てくる。これを繰り返して毎日食べ続けるか、手間をかけない食事を続けるかで、健康度も生活の質も変わってくる。

 会議自体は駆け足だったけれど、予定通りに終了できた。こうやればいいのかというのがわかったので、次回からはそれほど悩むことはないだろう。

5月 6日 日曜日

 連休の最終日。音楽を聴きながら仕事を進めた。昼からまた車を出して、東の方の産直を二軒はしごして野菜等を購入した。また、おにぎりや漬物を買って、眺めのいい峠で食べた。夕方に戻ると何もしたくなくなった。今年の大型連休も終わった。

5月 5日 土曜日

 乾蕎麦を買いに山形まで車を走らせる。休日の道楽である。途中でふと銀山温泉に寄り道しようと国道から外れて進むと観光用の施設に着いた。ここから先、宿泊客以外の車は温泉街の近くまでは乗り入れできず、シャトルバスでしか行けないようになっていた。そこで駐車場に車を停めてバスに乗った。一時間ほど散策してまた戻った。以前来た時よりも整備され、きれいになっていた。風呂には入らなかったが、きれいな建物を眺めて歩くのは楽しかった。

 目指すは河北町谷地。昼食に冷たい肉そばを食べる。少ししょっぱめのつゆだが、これはクセになる。以前年に二、三回仕事で通った町だ。気にはなっていたが、その頃は食べる機会などなかった。それが、昨年初めて食べてから、時々食べたくなるのであった。今年の一月には、人間ドックの帰りに山形市で冷たい肉中華というのを食べたが、それもうまかった。

 蕎麦を道の駅の売店で買うつもりが売店自体が閉じられていた。今田製麺所を探し、そこで麺とつゆを買った。店の主人との話は面白かった。ついさっきも、岩手からの客が来たということだった。寒河江の道の駅のトルコの店で、ドネルケバブを買って河原で食べた。これは小ぶりながら欧州で食べたものと同じ懐かしい味なので、やはり食べたくなるのだった。そこからは十三号線を北上し、新庄から鳴子を抜けて一関に戻った。食べることと運転することばかりの一日であった。

5月 4日 金曜日

 午前中はだらだらと過ごす。昼前に車を出して、平泉の皀筴庵で手打ちおろし蕎麦を食べた。うまい蕎麦を食べることができるのは、日本に住む者の幸福と言ってよい。その後はスーパーマーケットで食材を調達して帰宅。薄暗くなるまで昼寝。それから夜中の二時までかけて仕事の文書を二編仕上げた。

5月 3日 木曜日

 朝7時前に職場に着き、7時15分に出発。8時に会場に到着して16時まで仕事。その後は現地で失礼したので16時半頃には帰宅できた。休日の仕事だから気楽にできるかといえばそうもいかず、例えば20年前と異なるのは、そこに多くの人たちが出入りしていることによる。様々な人々に囲まれて私たちの仕事が成り立っている。それは心強いことではあるけれども、常に衆人環視の的になっているということでもある。それは現代の労働環境の困難さの要因でもある。

5月 2日 水曜日

 連休に挟まれた1日。午前中は通常勤務だったが、午後は自宅近くで研修だったので、車を置いて徒歩で会場に向かった。息を潜めてじっと座って話を聞いていた。時間がきたら終了したので帰宅した。午前には突然頼まれた仕事のためにそれなりに神経をすり減らして2時間を費やした。それにしてもその日の朝に頼む方も頼む方だが、自分の頼まれて嫌と言えない性質も性質だ。頼みにくい人もいるし、頼みやすい人もいる。聞いてくれる人もいるし、聞いてくれない人もいる。自分は頼まれれば可能なかぎり受け入れるし、自分を頼ってくれる人のためには最善を尽くすことが大切だと考えているから、時々は頼む人もいるのだろう。

5月 1日 火曜日

 土曜日勤務の振替のため、1日休みだった。夏タイヤを預けていた実家に行き、タイヤと少しの必要なものを取って車屋に向かう。ETCの車載器を選び、取り付けも頼むと2時間かかるという。店の周辺を散歩しながら、食事の時間を含めてゆっくり2時間を使って戻った。それからまた実家にタイヤを置きに戻り、一関を目指した。天気は良好。いつもならあちこち寄り道して帰るところだったが、この日は疲れて、寄り道などはできない状況であった。