2018年9月  September 2018

9月30日 日曜日

 朝から小雨が降っていた。昨夜のうちに中止が知らされていたので、いつもよりゆっくり起床した。朝から昼食を挟んで割と長い時間机に向かって書類を調べたりノートに言葉を書き込んだりした。勉強というほど勉強したわけでないし、全く不十分もいいところだ。今度の台風はずいぶん威力が大きいらしく、夕方から市民の広報のスピーカーから避難情報などが流れてきている。だが、本格的に風雨が強まるのは明日未明かららしい。二十三時前、ようやく雨脚が音を立てるほどに強くなりだした。これからひどくなるのだろうか。今日は父親の命日。二十年はあっという間だったが、これまでの精神の変遷というものは、父との対話によってなされてきた気がする。人は死んでからも人と対話することができるし、後に残るものに何かを残すことができるものだ。沖縄の知事選挙は政権側の候補がどんな姑息な手段によってでも勝ちそうな気がして、あえて情報に触れたくない気持ちもあった。二十一時を過ぎてからようやく玉城候補の当選が報じられて、踊る陣営の様子がネットで見られて、じわじわと喜びが湧いた。今回の沖縄の人々の選択がきっかけとなって、日本が良き方向に変わり始めることを切に願う。

9月29日 土曜日

 平日と同じ時刻に出発して、職場近くの会場で午後三時過ぎまで仕事であった。昼休みには中抜けして、農協でおにぎりを買って職場の部屋で食べ、机周りの整理をして、また仕事に戻った。午後には結構なくらい体を動かして汗をかいた。帰りの車から眺めると、今にも雨が降り出しそうな暗い空が続いていた。翌日は早朝からのイベントが予定されていたのだが、日が暮れてから、中止の連絡が入った。台風が近づいているので、未明から雨になるということだった。順延もなしということになりそうなので、準備は念入りにしていたとはいえ、どこかほっとして力が抜けた。

9月28日 金曜日

 前の日一日休んで仕事を進めたおかげで、この日でそれに関する仕事に区切りをつけることができた。締め切りの近づいていた二つの文書を発送することができた。他のことは何も進んでいないけれど、区切りをつけたことは意義深い。

 今年度もちょうど半分が過ぎ、来週からは後半である。この節目をねらってかどうかはわからないが、夜には関係する人々との懇親会が行われた。参加者も総勢二十五名ほどになり、予想以上に賑やかなものになった。もっと様々な話ができるとよかったのかもしれないが、控えめなくらいでちょうどよかったかなとも思う。皆にとって、良い節目になったのであれば幸いである。

9月27日 木曜日

 休みだった。一日中雨が降っていた。朝から仕事をした。昼を過ぎたあたりでちょうど半分。少し外に出て昼食を食べた。戻ると眠気に襲われたが、眠らなかった。だが、仕事は遅々として進まず、そのうちに終業時刻となった。ほんとうは午前中に済ませてしまって、午後には別のことをするつもりだったが、そうはならなかった。もしも休みでなかったら、これすらできなかっただろうから、できただけでよしとしなければならないだろう。休めたことに感謝しつつ、また明日からを生きよう。

9月26日 水曜日

 一日穏やかな気持ちで過ごすことができた。なぜなら翌日は休みを取ったからだ。夏季休暇というものを取れずにみすみす逃してしまうことがこれまで幾度となくあったが、今回は晴れて権利を行使できる見込みになった。明日は明日で仕事上は部署の予定があり、進めておいてほしいこともあるのだが、それはそれでお願いすればいいことだ。互いが譲り合って休みを取りやすい環境を作ることは大切だ。だから明日は大手を振って休みたい。

 仕事をしていれば、おそらくどの職種でも同じだろうが、うまくいかないことを誰か自分以外のせいにしてしまうことはありがちだろう。文句や当て付けの一つも口汚く発してしまいたくなることもある。しかし、それが飛び交う職場だとしたら、あまりにおぞましく、その場に居たくないと思うことだろう。うまくいかないことは、すべて自分に非があり、それを追及しないことには改善が進まないと考えれば、謙虚に我が振る舞いを見直し、より良い言葉や行動を模索することができるだろう。そうすれば、少しずつうまくいくことが増えるのではないだろうか。書いていて当たり前だと思うけれど、その当たり前が難しい。

9月25日 火曜日

 三日ぶりの出勤日。朝は調子良かったが、だんだんに眠気が増し、欠伸が出て仕方なくなった。翌日の準備は済ませておいたから、早めに退勤できた。今年度も半分が経とうとしている。後半をどう過ごすか、考えをまとめなければならない。などと真面目に考える一方で、ひと月先の連休にはどこに行こうかとか、旅のことばかり考えてしまう。イオンに入っている本屋に寄って、小型の時刻表と新書本を購入した。自分が本当にしたいこととはいったい何だろう。仕事にかける人生というのももちろんいいし、この三十年僕はそれなりに仕事に真摯に取り組んできた。ではこれからどうするか。本当にしたいことが仕事ではないのは明らかだ。仕事など仕事としてやればいいのだから、それ以外に自分個人の生きる意味を追求していかなければならない。大kが、自分だけの楽しみ。自分の楽しみだけの時間がどれほど作れるか、怪しいものである。

9月24日 月曜日

 ひとつのことの準備に取り掛かる。午後にはヤマトに出かけて冷麺と少しの肉を食べた。冷麺まつりというのがあると客の入りが違うようで、かなりの頻度でこの冷麺まつりが行われている。今回もそうだとは着くまで知らなかったが、並んでいたので十組ほど待った。考えてみると、我が家で肉を食べることはほとんどない。魚を食べることもほとんどない。たまに思い出したように食べるという程度であり、普段は菜食中心である。とはいえ、職場ではいつも栄養のバランスのとれた食事が提供されるので、何も困らない。肉料理がもてはやされることが多いが、身近なところに痛風の例などをみると、これくらいでちょうどいいのではないかと思う。食事の後にはホーマックとやまやに寄って少し買い物をした。

9月23日 日曜日

 彼岸ではあったが墓参には行かなかった。好天の秋分の日。午後から少し出かけて、産直で野菜などを買ってくる程度だった。先日行った骨寺村を通って、衣川方面を走った。途中で三滝という表示があったので、車を停めて見に行った。先日は薬莱山の麓で滝を見た。水の流れによって風が起こるためか、滝にはマイナスイオンとか霊気とかが漂っている感じが確かにある。この間はカメラを構えている人もいた。魅了される人は多いのだろう。ただ、自分が写した写真を後から見ても、その時の様子はあまり伝わってこない。うまく写真に収めるには相当な技術が要ると思われる。

9月22日 土曜日

 出勤前に文書を一つ。昼までのいつもの仕事のあとで、印刷と帳合いを終えると午後二時近くになった。水曜日に必要なものを準備できたので一安心である。そして九月ももう終盤である。

 朝のうち残っていた雨は上がり、青空が出てきた。川崎あたりの田んぼではすでに稲刈りの済んだところがある。蕎麦屋に入ろうかと思ったが、湘南ナンバーの車が二台停まっていたのを見るとなぜか入る気が失せた。コンビニでパンを買って車の中で食べたのが昼食となった。帰ってから、ラジオでぼやき川柳アワーを聞いて笑った。武器も持たない、金もない、権力も持たない、庶民の唯一の抵抗手段は、ぼやくこと。大阪の庶民感覚に魂が救われるということがある。

9月21日 金曜日

 昨夜の栗ご飯が美味しく出来上がり、秋の朝食は少し豊かだった。酒を少し入れるだけでご飯がうまくなることに驚いた。余った剥き栗はまだ冷凍してあるから、あと一、二回は栗ご飯が炊けるだろう。

 交通安全週間だというので、朝、黄色い旗を持って、地元のご婦人たちと一緒に、二十分ばかり辻に立った。婦人会の行事では春と秋に日帰りのバス旅行が行われるという。紅葉狩りにどこかいいところないですかと聞くので、花巻温泉とか薬莱山とか思いつくところを挙げたが、すべて行ったことがあるという。だいたい日帰りで行けるところは行き尽くしたと言っていた。どこに行っても目的は達成できるのだろうから、以前出かけたところの一覧を作って、そこから探すといいのではと思った。

 パッとしない天気の一日で、仕事場では気を抜くと眠気が襲い、欠伸ばかりが出て困った。

9月20日 木曜日

 三日ぶりに仕事に戻る。朝から短い時間を利用して、先日申し合わせをした通りにとあるイベントへの参加について三つの関係諸機関に電話で依頼、都合を確認した。何度か不在のところもあったが、昼までには三か所とも参加を取り付けることができた。しかしその後メールが入り、先日の申し合わせた内容が間違いであり、電話をかけるのは一か所だけだったことを知って愕然とする。どこで誰が間違ったのか、振り返ると想像がついたが、急いで進めた自分にも非があると反省した。その後は丁重に断りの電話を入れなければならなかった。こういう無駄な動きというのはたまにある。実に後味が悪い。

 帰宅後には昨日拾ってきて水に漬けておいた栗の皮を一心に剥いた。何も考えずに一時間、ただ黙って剥き続けた。米と、少量の酒と醤油と塩、そして十分ほど水にさらした剥き栗を炊飯器に入れ、タイマーをセットして就寝。

9月19日 水曜日

 振替休日の二日目。朝には昨日にも増して抜けるような青空。午後、何かに誘われるように車を西に走らせる。田んぼには、もうじき刈り取りが始まりそうなくらい黄金色になった水稲が海のように広がっている。国道から少し横道に入ったところに古そうな神社があって、その辺りから見る景色の美しさに目を奪われた。車を止めて少し歩いてみる。神社の境内には栗の木があって、今落ちたばかりとみえるきれいな栗の実がいくつも落ちていたので、思わずポケットにいっぱいになるほど拾って回った。

 看板を見ると、そこがかつて骨寺村と呼ばれていたところだということがわかった。中尊寺の荘園は現在でも平安時代とほぼ変わらぬ形で広がっていた。骨寺村荘園交流館というところに立ち寄ると、展示施設があって、そこで小一時間を過ごした。地元に住む案内人の方が詳しく説明してくれて、その言葉の端々から地元への愛着が感じられた。十五分ほどの解説ビデオを大画面で見ることができた。骨寺村の全景をグライダーで低空から撮影した映像は美しかった。施設を出てからもう一度田園に戻り、須川岳に日が傾いた風景を眺めた。蜻蛉の群れ、雀の群れがさっきより増えた。未知だった土地にぐっと愛着が湧いた日だった。

9月18日 火曜日

 振替休日の一日目。朝の時間に仕事を片付けた。電気屋に寄って実家のエアコンの代金を支払ってから、加美町にある薬萊山に出かけた。薬莱山は以前から行ってみたかった場所だが、今がちょうど花畑の見頃だという情報を聞きつけ、天気も良さそうなので訪れることにした。やくらいガーデンでは、好天の下で多種多様の花が鮮やかに咲いていた。広大な敷地をゆっくりゆっくり歩くと、一時間では回りきれなかった。その後は、蕎麦屋で昼食を取り、産直を何箇所かはしごして戻ってきた。気分転換。

9月17日 月曜日

 敬老の日。どうにかして来週必要な文書を早めに作っておきたかった。朝に近くのコンビニに新聞を買いに行った以外は、夜まで家の中にいた。雨が降っていたし、仕事もかなり進んだのでよしとしよう。昨日まで休みなく動いていたので、身体を休めながら頭を働かせてワープロと向かい合っていた。

9月16日 日曜日

 六時半頃に出勤してからは、正午を過ぎるまで別の場所での仕事だった。職場に戻ってから六時間ほど机に向かい、十八時からはまた別の場所での宴に参加した。この時期のこの動き方は毎度のことなので、以前はあった面倒な感じや嫌な感じは薄れて、それなりにその場に加わりながら、大人たちの話に耳を傾けることができるようになった。とはいえ、それは慣れたというだけであり、認めるようになったというわけではない。

9月15日 土曜日

 六時半前には出勤した。この土日は大東町での業務である。バスで移動してから十五時過ぎまで、緊張の中で過ごさなければならなかった。今回はどうしても結果を出さないことにはどうしようもなかった。そうでなければ、自分がここに所属する意味をなさないのである。力を発揮するという意味ではない。本分の一つとしての自覚である。とはいえ、本来の業務ではないことにここまで労力をつぎ込まなければならないのか、いつになってもわからないままである。

9月14日 金曜日

 明日からの仕事の準備会があり、早めに職場を後にした。準備会の方もそれほど大きなことはなく、十七時前にはもう終わってしまった。何よりもいいのは、この金曜日は早めに帰宅できるということだ。安心して家でのんびりしていると、一本の電話が鳴った。故障が発生したという。あれほど気をつけるように言ったのにやってしまうとは残念だ。しかし、それも実力のうち。できる範囲でできるだけのことをやるしかない。それはいつでも同じこと。

9月13日 木曜日

 延期された会議は昼休みに行った。昼休みなので正味十五分しかかけることができない。したがって余計なことは話しようがない。これではじっくりと話し合うことなどできないのだが、そもそも誰もがそんなことに時間を割きたくないのだから、お互いに都合がよろしい。忙しい時にはこの手も悪くないと感じた。

9月12日 水曜日

 きょう開く予定だった会議を明日に延期した。夕方の活動を円滑に行うために必要な措置だった。こちらも二つ以上のことを同時に考えるのは負担だし、夕方からの会議だと終わりが見えなくなりそうだった。皆息つく暇もないくらいにいっぱいいっぱいで頑張っている。おまけに人が少なくて、あったはずの時間がどこかに吸い取られ消えていく。こんな時の会議では、必要なことを話し合うのではなく、普段溜まっている不満とか今言っても変えようのないこととかで止まらなくなってしまうのがオチである。そんなことを駄弁る機会など不要なのである。

9月11日 火曜日

 朝の段階で、きのうの打ち合わせで確認できた事柄について説明しなければならなくなった。その説明がどうだったかはわからずじまいだったが、説明責任を果たすことが最も大切だったのかもしれない。だがそれはそれで大した意味のない事実であった。多くの事案は一筋縄ではいかない。一朝一夕で解決するものなどない。長期に渡ってそれらと付き合っていくかどうかの覚悟を決めることが必要だ。一喝して済ませようとか、力に訴えようとかいう輩も時々現れるが、時代錯誤も甚だしい。自分の道を堂々と歩けば良いことだ。一抹の不安もいつの間にか消え去り、何ということもなく昼になり、夕方になった。

 夜には先週台風で延期になっていた会議が開かれた。全体会の場では自分なりの見通しを示す好機と考えて、戦略的に持ち時間を若干上回るほどの話をした。分科会に分かれてからの様子をうかがっていたが、きょうは自分の目からするとそれほどの波風は立たなかったように思う。しかし、別の目から見ると、また事が荒立てられたと感じられたらしい。

9月10日

 月曜日きのう作成した書類を朝一番で上司に見せると、これらについてもっと多くの人が共通の認識をもつ必要があるということになった。朝にそれぞれの部署の担当が集まり、読み合わせのようなことをした。それでも足りずに、午前中の一時間をそれに充てることになった。そして、定まった方針について、別のスタッフに説明したり、次の動きを要請したりした。

 金曜日の段階で、東の方向に行こうと言っていたのであったが、ふたを開けるとやっぱり西に行きましょうということになったので、自分としては狐につままれたような気分になった。どこか上の判断が心もとない感じがして仕方ない。

 声の大きな人がいて、それが黒だといえば黒、白だといえば白と決まってしまうようなところがあって、以前から実に不愉快に感じていたのだが、これに関しては、あまり真面目に受け取ったらダメだなという気がしてきた。よく考えて返答すべき場合と、適当にあしらって構わない場合とがありそうだ。

9月 9日 日曜日

 雨が降って暗い日曜日だった。朝のテレビ番組がネットで配信されていた。しばらくそれを見ていたが、腹の立つことばかりだった。この国は一体どうなってしまったのか、本当に頭のおかしい奴らに牛耳られてしまった。怒りがおさまらない。

 先週の金曜日にあった出来事について書き出してみた。そして、今後どういう方向にもっていけばいいのか、その原案について考えてまとめた。こういう方向性で良いのか、こういう段取りで良いのか、とりあえずはできた。

 午後から雨の中を車で前沢の店に出かけた。ネットで見当をつけて訪れたところは、昔ながらの洋食屋という感じだった。エビフライの定食も悪くないと思って食べた。食後は珍しくどこにも寄らずに帰宅した。まだ三時前だというのに、空が夕方のように暗かった。

 三浦哲郎の「盆土産」には、エビフライの味の描写が出てくる。それを確かめてみたかった。昔盛岡のサンビルの何階かにある洋食屋に父に連れられ、そこでエビフライを食べたことを思い出した。その頃にはタルタルソースなんてものはなく、塩を振って食べた記憶がある。サンビルには大食堂もあったが、あれは別のこぢんまりとしたレストランだった。遠い昔の話。

9月 8日 土曜日

 白露とはいえまだ秋の清々しい気分は感じられない。気温は確かに下がったが、雨交じりの曇天で湿度が高く、爽やかさとは程遠い。いつものように、休日なのに通常出勤。午前中は三十分の頭脳労働と三時間の身体活動と、終わるとすぐに退勤した。

 どちらの活動も声が重要である。意味こそが大事ではないかと先日上司から指摘いただいたが、その意味を乗せる「声」の重要性というのもまた見落としてはならない。自分が言いたかったのはそのいわば基本を見直すということだった。そこに噛みつかれるとは予想外だった。和蘭陀で気づいた「常識」が、ここでは全く通らない。

 夜には仕事場の有志での宴会があった。部屋が狭くて畳だったので足腰が苦しかった。料理はそこそこで酒も悪くなかったが、土曜日の夜には疲れて動きたくなくなったので一次会で失礼した。

9月 7日 金曜日

 様々な問題がにわかに浮上して整理がつかなくなった。時間のことを考えて忌々しい気持ちが頭をもたげてきた。金曜の午後にはさて何時に帰れるかなどと考えていた矢先だった。結局そんなに早く帰れるわけはなく、多方面と連絡調整しながら、仕事を片付けなければならなくなった。帰ることばかり考えているような中途半端な姿勢こそがこの混乱を招いたのかもしれない、などと反省してみる。

9月 6日 木曜日

 早朝北海道で強い地震があった。こちらも長くて振り幅の大きな揺れを感じて目を覚まし、そのまま眠れなくなった。北海道ではこれまででもっとも大きな地震だったとラジオで言っている。台風といい、地震といい、これまでとは違う規模で襲ってくる。備えあれば憂いなしというけれど、どんな備えをすれば憂いが消えるというのだろう。

 午後から出張で、おかげで帰宅が早かった。帰り道に電気屋に寄った。壊れたままだった実家の部屋のエアコンを入れ替えようと思った。今年の夏には間に合わなかったが、この時期だと工事も早くできるようだ。気がかりだったことを一つ片付けた。これも備えの一つと言えるだろうか。停電になったら使えないけれど。

9月 5日 水曜日

 自由になる時間をわずか五分ほども取ることができなかった。頭の中で考えることはそれほど複雑ではなかった。しかし実行に移すには時間が必要だった。時間は作り出すものというけれど、それは必要な何かを進める場合の話だ。

 今日の予定の中で、あらゆる仕事に優先順位をつけると、時間を割かなければならないとは到底思えないほどどうでもいいことが一つあった。だからそれはしなかった。しても何も進まないと思ったからだ。何が悪いことがあるだろう。全部全部杓子定規にやらなければならないという考えを、多くの方々が持っているようで居心地が悪い。

9月 4日 火曜日

 台風の影響で、この夜に開かれる予定だった会合が一週間延期になった。本当なら済ませてしまいたかったものだが、状況が許さず、延期という選択肢しかないような雰囲気になった。驚いたことに、一旦先延ばしにするとなぜだか周辺には安心感が広がるらしい。笑顔とか冗談とかが頭の上あたりで飛び交っているのを聞く。大局観の無さ、あるいは物事を考えるスパンのあまりの短さに首をひねる。

 本格的に荒れだしたのは夜半過ぎからで、それまでは通常の夜間の活動も問題なく実施できた。そのため自分も汗をかき、帰宅も遅くなったけれども、かれらの安穏とした雰囲気から距離を置いていられることは幸せだと思う。

 帰宅の頃には風が強まり、時折雨も混じり始めた。風呂に入っている最中に電気が止まり、途端にシャワーのお湯が冷たくなった。上がりかけでほとんど影響はなかったが、その後はろうそくの火の元で食事することになった。電気が使えなかったのはせいぜい三十分程度だったから、それほど困ることはなかったが、復旧した時には電気のありがたさを強く感じた。

9月 3日 月曜日

 通常業務でほとんどが埋められて、その合間に会議が三つ詰め込まれていた。ここで活用すべきは出勤後の時間、十分の休憩時間、昼休み。それら細切れの時間をつなぎ合わせると、一時間かかる仕事も済ませることができる。しかし、休憩の時間は返上しなければならないので疲れる。これではたまったものではないと感じる。どこに行ってもそうだとしても、ここで漫然と続ける理由など一つもないのではないか。帰宅予定が大幅に遅れて、やろうと思っていたことは一つもできなかった。

9月 2日 日曜日

 朝から文書を作っていた。昨夜のうちに一本仕上げていたので、もう一本は午前中で終わる見通しだった。調子よく進み、正午前に終わり、印刷をかけて保存をしたつもりだった。しかし、パソコンのどこにも文書が見当たらない。しかも、プリンターから出てきたのは裏表一枚の文書のうち、表側だけだった。保存したつもりが保存していなかったのだ。昼は平泉の蕎麦屋に出かけて小休止。帰宅後また初めから文書を打ち直した。表はそのまま打ち直すだけで済んだが、裏面はまた記憶を辿りながらやり直さなければならなかった。たまにこういうことがある。慎重さに欠けるところがあるのだ。

9月 1日 土曜日

 朝にはいつも通りに起きていつも通りに職場に向かった。午前中いっぱい仕事をして、終わった後はさっさと職場を後にした。途中でどこにも寄らず、昼は自宅で蕎麦を茹でて食べた。午後には少しうとうとしたが、夕方から仕事に取りかかった。今週末は文書を二本作らなければならなかった。三、四年前に作ったものを参照したら、予想以上に早くまとめることができた。