二〇一二年八月

 十三日に休んでからきょうまで一日も休まずに働いた。さすがに身体的に疲れてきた。きょうはいつかの土曜か日曜かの振替を貰った。本を読んだりネットを見たりしながら仕事のことを考えずただ休んでいた。三時間くらい昼寝もした。

 県外出張に出かけたのはもう二週間近くも前のことだ。あの時はいくつかのトラブルに見舞われたために、日程まで伸びてしまったのだった。一区切りついたのはよいが、最終的にはただ疲れが残った。

 以前とはまったく異なるこの暑さのためか、八月後半はだれ切った雰囲気に満ちている。夏休みを迎える間もなく終わってしまったからか、自分が何に対しても無気力になっているのかもしれない。

(八月二十九日水曜日)

 

 十三日は天気がよくなかった。早朝実家まで行き、朝食を食べ、家族を乗せて墓参。その後は小岩井農場と手づくり村を訪れ、夜には再び盛岡へ。寿司屋で親戚たちと会食し、二次会ではいつもの店でカクテルなどを飲んだ。前の晩飲み過ぎたせいか、この日も酒は進まなかった。

 翌朝盛岡から実家経由で自宅に戻り、素麺を食べて昼から職場に出かけた。様々なところの配慮をいただいていろいろと金回りがよくなったので、会う人々はご機嫌だった。夕方になると業者からたくさんの品物が届いた。するとますます人々の表情がよくなった。お蔭で一日穏やかでいられた。

 無理難題に攻められる日々が続いてきた。ここに来る前からそうだった。今思うとどこも厳しかった。これでもかこれでもかと課題を突きつけられてばかり。だが、仕事の本質は少しずつ高くなるハードルを越えていくようなものだと思っているので、受け入れながらなんとか自分なりに努力してきた。それもあと一週間で大きな区切りがつく。本分とはかけ離れたところでの努力だが、頭を使いながら取り組んだことは変わらない。学ばせてもらう点は少なからずある。この調子で詰めをしっかりしたい。

 働き過ぎで身体を壊すこともあるだろうし、それはあってはならないことというのも理解できる。もちろん自分も犠牲にはなりたくないし、家族に迷惑をかけてはいられないとは思う。だが、それと裏腹に、仕事のために死ぬのならそれはそれで構わないのではないかという気持ちがあるのも事実である。働いていれば「これは死んでもやらなければならない」とまで腹をくくる場面というのは意外と多い。いくら調子が悪かろうと、寝不足だろうと、そんなことは関係ないのである。だからといって当然死んでしまっては元も子もないし、お仕事と心中する気などさらさらないのだけれど、それでもそれだけの覚悟でやっている。矛盾をはらんだ思い。その中でずっと生きてきた。職業人というのは多かれ少なかれそうなのではないかという気持ち。それが全然伝わらない。

 (八月十六日木曜日)

 十二日の晩には以前世話になった人たちと十五年ぶりに会った。かれらは三十歳になっていたが、顔も声も変わっていなかった。話し方や表情の微妙な癖ですら何年経っても変わらない、子供の頃からそれらは多分一生変わらない。人の在り方にはその人固有のかたちというのがあることにいつも驚く。

 いくら学問を身に付けても世間に揉まれても、根っこの部分は変わらないとしたら、人の成長とは何だろう。目に見えない部分にそれらがある。身近に暮らす人間でさえそれを認めるのは困難なのに、まして十五年ぶりに会って数時間過ごしただけで互いの成長を認め合うことなど不可能だ。ただ、久しぶりに元気な顔を見せ合えたことでこれまでの道のりを肯定的にとらえることができるかもしれない。ともに過ごした時期が間違いではなかったという一つの証明が、集合したという事実といえなくもない。

 しかし、もちろん事実はそう単純ではない。誰もが互いに知らないところで多くの困難を抱えて生きている。生きているということだけが互いに共有する唯一の事実といってもいいほど、それぞれが異なる道を歩んでいる。ただ歩むことのみが成長を担保する。いまある道を歩むことが時代を超えてその人の生きる意味であると感じる。そのことに思いを至らせれば至らせるほど、人間とは孤独でなおかつ愛しいものである。

(八月十五日水曜日)

 

 何のための仕事。もともと遊びと仕事の境界線なんてはっきりとは引かれていなかったのではないか。いつでも自由に行ったり来たりできるものどうしだったのではないか。自分自身はそうでありたいと思ってきたし、今もできるだけそう動いているつもりなのだが、以前よりそれが難しいと感じるようになった。もちろん遊びと仕事は上手に切り替えるし、仕事のことを考えない時間をつくるようにしているし、休みだってしっかり取るようにしている。遊びによって発想が豊かになり仕事に生かされるとか、仕事で得たものの見方が遊びの幅を広げてくれたりする。そんな意味で、遊びと仕事は一人の中でもっと有機的に絡まっていた。それが、今では仕事は仕事でこなすにしても、それが自分の糧になるのかわからないことが多くなった。お金だけが目的なら、働く意味なんてどこにあるというのか。

 若い人の中にはこれが当たり前と思って一生懸命働いている人もいるが、意外と簡単に息切れする人も少なくない。かれらに対して、当たり前ではなく異常なことなのです、抵抗して反発してきたけどそれでようやくこうなのですというのは何の説得力ももたず、真意は伝わらない。たたかいの果てに古い人は擦り減り消え行く。しかし、若い人は力をつけて生き伸びる。希望はそこにある。

 オリンピックはきょうで終わりだという。28年前に受験勉強の合間にラジオにかじりついていたのはロサンゼルスだった。あの夏は暑くて寝苦しくて、真夜中三畳の勉強部屋で団扇で扇ぎながら横になっていたのを思い出した。バレーボールがあれ以来のメダルを取ったという。今回もほとんどテレビを見ることはなかった。そんなに熱中して見る余裕はなかったし、勝敗のある種目に偏った現在のスポーツ文化に辟易しているのもその理由だ。瞑想とか、呼吸法とか。ほんとうに大切なことを忘れて、勝つことに何の意義があるだろう。柔道の変質はその象徴的な例だろう。例えばヨガや合気道でメダルを争うようなもので、金メダルを争う柔道なんて自己矛盾である。いったい中体連や高体連は何を目指しているのだろう。とても安易な方向性。結局あれこれ知力を求めるよりも大衆をコントロールしやすいのだ。もしかしたらまた戦争がしたいのではないのだろうか。したい人などいないだろうが、あれよあれよという間にころっといきそうな怖さも感じ取れる。原発事故がいい例だ。

 28年なんてあっという間。社会の在り方は激変したけれど、人の性質など何一つ変わっていない。コンピュータもインターネットもなかった時代にはもう戻れない。当時から何も成長していない人間たちが、このような高度な道具を扱うことは至難の業だ。知性と論理の力を磨くこと無しに、次の時代は開けない。

(八月十二日日曜日)

 精密検査で異常が見つかり、手術をしなければならなくなった。幸い早期に発見できたので、手術は簡単で一泊二日の入院で済むということだった。予想外といえば予想外だが、その予想には何の根拠もなかった。頭の中で考えているだけのことと、実際に具体的に動くこととの差は大きいということを身をもって知った。一つ一つの判断が命をも左右する。これが別の病院であれば発見されなかったかもしれないし、忙しさにかまけて後回しにしていれば、手遅れになったかもしれないのだ。そう考えると、すべてが自分にとってよい方向に働いていると思えなくもない。ありがたいことである。

(八月十一日土曜日)

 八月に入ってから休むことなど考えることすらできなかった。気がつけばもう一週間が過ぎていた。きょうは明日の検査のために、一日自宅で過ごしている。朝も昼も粥ばかりの食事だったから物足りない。夕食はスープのみ。それ以降明日の午後までは何も食べることができない。この制限が厄介なだけで、検査自体に不安はない。きょうも何度も電話でやりとりをしなければならなかった。

 きょうは立秋だ。たしかに風がひところよりも涼しく感じられる。もう夏も終わりである。

(八月七日火曜日)