二〇一二年十二月

 

 初めて人間ドックというものに入った。平日の13時に病院に入り翌日の午前には会計も含めて終了だから、余裕のある日程だった。山形だったので、休みである前日から出かけて密かに小旅行を兼ねての二泊三日とした。振り返ってみると、今年ほど山形県に足を運んだ年はなかった。

 最初は福島回りで米沢へ。福島駅には雪が全くなかったが、5分も走ると外は真っ白になった。県境で緊急停車。カモシカが電車にぶつかったかもしれないので車掌が降りて点検しますとのアナウンス。窓の外、白銀の世界をカモシカが飛び跳ねて向こうに遠ざかるのが見えた。あの様子ではぶつかったわけではないらしい。車両はほどなくして発車した。

 米沢でラーメンを食べてから、米坂線に乗り換え羽前小松駅で降りる。井上ひさしの故郷、川西町である。まず駅裏側の川西町フレンドリープラザに向かう。ここには井上の寄贈した蔵書によってつくられたという図書館、遅筆堂文庫がある。コンクリートの大きな建物で、内部には木のぬくもりが感じられる居心地のよさそうな空間があった。ロビーでは女生徒たちが三人、編み物をしながらお喋りしていた。知らなかったがこの建物はスウィングガールズという映画のロケ地だったそうだ。

 ところでこの遅筆堂文庫。入り口のガラスには、「遅筆堂文庫堂則」の原稿が大きく刷り込まれていた。宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」を思い出した。中に入ってすぐの一角には井上ひさし展示室が設けられており、年譜や自筆原稿などが展示されていた。地図と井上ひさしという特集が組まれており、吉里吉里国や藤沢周平作品に登場する海坂藩の、井上の手による地図が貼られていた。また、小説「四千万歩の男」や「一分の一」の紹介があった。図書館の中央には「本の樹」と名付けられた大樹のような形の書棚があり、井上ひさしの著作本が高くまで置かれていた。資料室に入ると、本人が付けた付箋や栞がそのまま付いているのではと思われるような本が並んでおり、彼の息づかいを感じるようだった。どれも彼の蔵書かと思うと、手に取る本の重みが違った。また、そこに自分が読んだ本を見つけると心が騒いだ。執筆する上で便利なようにと特別な分類で並べられているということで、まるでそこに彼の脳みその中身が切り開かれて公開されているという感じがした。そして、まさに人類の知とは、樹木のごとく体系化されているものなのだと思った。

 帰りの電車に間に合うようにと急いで雪を漕いで駅に戻ると、酷い雪のため列車が1時間半も遅れるという。もうすこしゆっくりして行けということかと思い、また町を歩き始めた。井上の母校の小松小学校は工事中だった。幼少の頃通ったという映画館、小松座を探した。寺の外にいた男性に尋ねた。看板も何も出ていないけど、と指を指して教えてくれたその場所には、歯医者の建物が建っていた。来る人は多いですかと聞いたら、小松座を探して来る人はいないねと言っていた。近くには老舗らしい茅葺き屋根の和菓子屋があったので飛び込んだら、店のおかみさんが、寒いでしょうと熱いそば茶を入れてくれた。饅頭を適当に三つ選んで買い、そのうちの一つを歩きながら食べた。

 脇道を選んで歩いているうちに川に出た。川の名は知らぬがおそらく最上川の支流だろう。日も暮れかかり、山と川と枯れた木々の雪景色がまるで水墨画のように見えた。駅を目指して歩いているつもりが、人里離れたところに来たので少し焦る。さすがに不安になって通行人に駅を尋ねると、全然違う方向だという。思いがけず道に迷ってしまった。子供の頃の気持ちにかえって迷子の孤独感を味わった。こまつ座の名は井上ひさしの故郷のこの町が由来だった。何の変哲もない町だが、ダリアで有名な公園があるという。夏場に来ることがあれば立ち寄りたい。

 米沢のホテルに入った頃はもう夜だった。雪が盛んと降り続けており、頭も身体も冷えきっていたから、個人用の貸し出し風呂が嬉しかった。ゆっくりと温まってから休んだ。翌朝は早起きして、パソコンを開き、この三日間で仕上げなければならないことを進めたが、予想以上に捗った。

 電車の時間までは間があったので、上杉神社を見学した。神社を取り囲む堀の水は凍り付き、参道の両脇に立ついくつもの銅像たちは、雪の帽子をかぶっていた。ひときわ大きなものは上杉鷹山だった。「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」で有名な上杉鷹山については知識はなかったが、米沢藩の藩政改革を推し進めた中興の祖としていまも市民から尊敬されていることがうかがえた。鷹山公にはもうひとつ、伝国の辞というものがある。

 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候 

 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候 

 一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

鷹山公が家督を譲るに当り、藩主の心得として伝授したものだという。これらは時代を問わず洋の東西を問わず、政治を行う者にとって忘れてはならない言葉だろう。

 駅に戻るバスを待つ間、近くにあった牛やという店をのぞいてみた。なかなかしっかりしたつくりの鞄や財布が並んでいた。日乃本帆布というのはどこかで聞いたことがあったが、米沢とは結びつかなかった。店員さんに少しだけ話を聞いた。昔は牛革製品が中心だったそうだが、今では主に帆布を使っているそうだ。米沢牛のお肉を取った後の皮を使ったのかなと言ったら笑われた。

 雪でダイヤが乱れたか、結局バスはいくら待っても来ず、タクシーを使った。タクシーの運転手さんとは雪の多さをあれこれ話した。米沢あたりは山形県の中でもとりわけ雪が深いところなのだそうだ。山形市なんてこっちに比べれば少ない方だと言う口ぶりが、張り合っているようで可笑しかった。でもこれくらいはまだ序の口。本格的に降るのはこれからですよと言っていた。

 小一時間列車に揺られて本を読んだ。以前買って読まずにいた井上ひさしの戯曲「黙阿弥オペラ」である。「闇に咲く花」「父と暮せば」と芝居や戯曲に触れてきた。今度は「組曲虐殺」を観る予定だ。

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」

 この言葉の通り、ふんだんに盛り込まれているユーモアに接することは楽しいし、何かを学ばせてくれることである。井上ひさしの人物評はいろいろあるが、それよりも作品をしっかり読みたい。圧倒的にボリュームのある作品群の一つ一つを読むには時間がかかりそうだ。しかし、随所にちりばめられている人間の本質を、これから掘り起こしていけると思うと楽しみだ。

 気がつくと山形駅。検査が終わるまでは絶食なので、昼食は抜きである。バス停でしばらく待つ。空気は冷たいが、日の光は暖かい。雪もたしかに米沢ほど深くない。病院に入ると後は言われるがままなすがままであった。14時過ぎ、いくつか検査をした後で、食堂で食べたきつねそばがうまかった。ひとつ終わって病室に戻ると、パソコンで仕事をした。少し軌道に乗ったところですぐに呼び出しがあり、次の検査に連れて行かれる。それを繰り返しているうちに夜になった。食堂に集合して、血液検査の結果を見ながら医師が30分ほどユーモアを織り交ぜての講義をしたが、朝早かったため眠かった。

 夕食後、消灯までは時間があった。そして翌朝も。仕事は捗り、目処が立った。朝には尿採取と血圧測定を自分で行い、心電図検査をしてから朝食をとった。バリウムの胃検診は、3か月前に胃カメラを飲んだと言ったら、今回は省略しましょうということになり、あの飲みにくい液体を飲まずに済んで幸いだった。会計を済ませてもまだ10時。普段に比べゆったりと過ごせたことがありがたかった。

 バスを市役所前で降り、「文翔館」という施設を見学した。これは国の重要文化財に指定されている旧県庁舎と旧県会議事堂のことであり、予想以上に見応えのあるものだった。中央階段、貴賓室、知事室、議場等は大正時代の気品を感じさせる見事さだった。また、最上川を軸として地域ごとの文化や文学を紹介する展示室もおもしろかった。途中で小学生の社会見学と遭遇したが、館員の方の説明を一緒に聞けたことも勉強になった。明治の黎明期の写真や事物の展示は、ちょうど「黙阿弥オペラ」の時代背景と重なって興味深かった。このような建物がきれいに保存されていることに関心した。土門拳、斎藤茂吉、井上ひさし。それに吉野弘や佐高信も山形。山形人の気骨ということについて考えた。文翔館を一通り見て回ると11時半であった。

 そこからはバスの乗り場まで歩いた。途中で土産を買い、蕎麦屋でざる蕎麦を食べ、高速バスで仙台まで。文具屋と本屋をのぞいてから新幹線に乗った。

(十二月十四日金曜日)

 師走最初の月曜日は腰の辺りがぴりぴりとしびれた感じだった。おそらくこの土日の疲れが出たのであろう。一日には聖ウルスラ学院の公開研究会に参加してきた。これからの日本の教育はこうなるというモデルを、示しているのがここである。巷でよくあるやればいいだけの研究会とはわけが違う。僕の目には、こうならなければ日本は生き残ることができないという、唯一のモデルのように映る。

(十二月三日月曜日)