2012年2月

 閏日のきょうは朝から何を話そうか考えていた。ラジオでは主婦の投書が紹介されていて、2月29日生まれの主人が、まだ19歳と宣うとのこと。4年に1度しか歳をとらないとしたら神秘だが、実際には誰もが1年で1つ歳をとる。地球が太陽を1周するのにかかる時間が1年である。

 ところで、平均寿命が世界一は日本で82歳。では世界一短いのは。アフガニスタンなのだそうだ。男女共43歳という短さ。日本人の半分ほど。それに続いてアフリカの国々が続く。日本で生まれたのも偶然なら、アフリカで生まれたのも偶然。自分とかれらの何が違うのか。そんなことを話した。

 去年の2月に100キロ近くあった体重が、1年で80キロになった。まさかこれほど減少するとは思ってもみなかった。原因は何かと問われれば、食生活が変わったということになろう。一人暮らしが続いていたら、叶わなかったことだと思う。協力者には心から感謝している。

 きょう、気まぐれに懸垂をしてみたら、5回もできて驚いた。こんなにできたのは生まれて初めてである。それほどまでに身体が軽くなっていることに気づかなかった。この先どのような変化が待っているのか想像もつかないが、いい変化ならばいつでも大歓迎である。

(二月二十九日水曜日)

 電話のやりとりも、面と向かっての相談ごとも、一つ終われば終わりというものではない。その日の休息は束の間で、目覚めるとまたその日の対峙が待つ。まるでそれは勝負事かなにかのようにいつも熾烈だ。日々散る火花に火傷の跡はいつになっても消えない。それを年単位で引き摺っていかなければならないから、難しい。だが、その時間の長さを逆手にとれば、難しさを面白さに変えることもきっと可能だろう。おそらく僕たちはもうその面白さの中に入り込んでいる、まだ気がついていないだけで。

 声や表情からその心をみとるときの緊迫感は、命の有限性に裏打ちされている。いまここでしか接することの出来ない愛おしい人々との交渉。目を閉じてしまったら、二度と触れることの出来ないもの。ほんとうの値打ちをもつものには名前がない。苦しみとか、悲しみとか、皆嘘っぱちのタグ。

 久しぶりに、リアルな父が登場する夢を見た。何か言うぞ言うぞと待っていたら、何か言った。何を言ったのか忘れてしまったが、その言葉は僕のためだけに夢の中で響き、僕はその言葉をかみしめた。僕はそのとき、父が僕に会いに来てくれたのだということを感じた。そして、懐かしい気分に浸った。彼はいまの僕に比べてもまだ若く、声質は僕に似ており、ぼそっぼそっという話し方からは、そのときの心情が僕にははっきりとわかった。声を押し殺したようなくしゃみも、少し腰の痛そうな歩き方も、おもむろに口を開くときの決断も、いまの僕のやり方は彼を真似ているとしか思えない。

 夢の中の声がこんなに心に伝わってくるというのに、僕の現実の声はなぜに誰にも伝わらず風に吹き飛ばされてしまうのだろう。夢の中の父はあんなにリアルに微笑んでいたのに、僕の現実の笑顔はなぜにこうもいびつで虚無的なのだろう。教えてくれる人は、もうこの世にはいない。

(二月二十八日火曜日)

 春のどか雪というが気温はまだ寒く、とりわけ朝晩つるつるの道路を走るのには辟易する。昨朝は下り坂のガードレールが十メートルほどに渡って奇怪にひん曲がっており、その傍らに凸凹に変形した白の軽自動車があらぬ方角を向いて鎮座しているのを見た。車の死骸だ。その先を行くと、今ぶつかったばかりと思われる車とトラックが片目を失って踞っていた。僕の前を走っていた警察車両は、それに気づかなかったのだろうか。現場のすぐ手前の道を折れて、逃げるようにどこかに消えた。

 昨夜はやはり遅くなって、帰宅は午前零時を過ぎていた。楽しいだけの会合ならばただ楽しめば良いし、暇なだけの会ならば時間をどうにか喰っていれば良い。そう単純ではなかったことは、その場にいた人間ならば大人でも子どもでも理解できる。外部の者にとやかく言われるほど腹の立つことはない。

 どの場所にいてもすべての人から無理難題を吹っ掛けられるこの状況をどう捉えれば良いのか。答えを求めようとすれば失われる。答えはひとつではないというが、同時に、たったひとつしかないという。

 誰の所為とか、運が悪いとか、そんなことは微塵も思っていない。責任は、関わる者の一人一人が負っており、十字架は重みをさらに増すばかりで楽になることは永久にない。そうしていまはそれぞれが次の道へ踏み出すために、気持ちを改める時期なのだ。傍観できる者はなく、皆が足掻き苦しみ血反吐を吐かねばならぬのだ。誰か他人の話ではない。いまこれを読むあなた自身の、そして僕自身の話だ。

 禅問答がどのようなものかはわからぬ。しかし、答えのない問いを求め続けることで何かを得られるとしたら、何も得られぬよりましかもしれぬ。中にはそれを問いとすら感じられぬ者もいるし、己れが答える必要はないと後ろにやり過ごして平気な者もいる。端から関わらぬ者も、逃げる者もいる。

 ここに足を踏み入れてしまった者、楽しみも安らぎも最後まで手には入らない。言葉で暮らしながら、どうにかこの身体と生きていく。その果てにようやく、いまここにないものが得られるのかもしれぬし、やはり得られないのかもしれぬ。

 (二月二十六日日曜日)

 言葉で暮らす。動詞の活用表を書きながら、これらの文法はすでに我々の脳に整理されているのだと話すと、子どもたちは不思議な顔になる。言葉で暮らす、か。脳と付き合うのは意外と骨が折れる。言葉を駆使しているようにみえて、その実は言葉の操作に翻弄されている。整理されているのは脳の中であって、それを制御するほどには生身の人間は賢くない。自分の身体だというのに自由に扱えない。

 先週から今週にかけて、多くのことが流れていった。東京に出張したのも一週間前。とにかくあのあたりは頭がくるくる回転して、おもしろかった。いろいろなことを学べた気になった。

 月曜火曜と疲れもあって、おもしろくない仕事も重なって、朝から気分が晴れなかった。そして水曜は振替休日で、午前中は仕事に費やされ、午後からは免許更新に出かけ、夜からは親戚との飲み会に出かけた。翌朝帰宅しまたすぐ仕事に出た。一日抜けているうちにいくつものことを押しつけられることになった。電話でのやり取りをせねばならなくなり、夜も遅くなった。帰途、車のヘッドライトが片方切れているのに気づいた。常時ハイビームにするのはいくら何でも憚られるので、フォグランプを点けてごまかした。少し遠回りしてガソリンスタンドに二軒寄ったが、対応はしてくれなかった。

 そしてきょう。職場を出て、近くの修理工場で電球を交換してもらった。店も客も知っている人々で、談笑しながら待った。職場の飲み会があった。なぜか自分が司会をすることになっていた。酒も飲まず、司会という立場では楽しめるわけもなく。帰宅するとすでに21時を回っている。テレビを少し見て、いま日記を付けている。明日は8時前に出て、帰宅はきょうより遅くなりそうだ。

(二月二十四日金曜日)

 目が冴えて眠れない。運動不足からか、カフェインの摂り過ぎか、布団に入ってから一時間も経つというのに、頭の中で言葉がぐるぐる回っている。それらは空虚なものなのだが、一言で空虚と言って片付けるには非常に心を傷つけるような言葉たちだ。ときどき思いっきり大きな声でぎゃーっと叫びたくなるくらいに、心の何かがおかしくなったように感じられる。

 言葉で鬱が治せるというのをさっきテレビで見たが、同じく言葉で人を鬱に導くこともできる。そういう言葉たちの世界で生きるのは苦しい。そして、苦しみながらもそういう世界でしか生きられないというのが、愚かしくて情けない。無意識に辿り着くまで、あとどれくらい。

(二月十二日日曜日)

 シエナの街ではリタイアしたおじさん方が、「40年一生懸命働いてきたんだからこれからは楽しまなくちゃ」というようなことを言っていた。アレキパでは昼食をとるため帰宅する女性がバスを待っていた。「昼休みは二時間、その後は昼寝して、職場には戻らないかも…」

 イタリアもペルーもこの余裕はいったい何なのだろう。翻ってこの国のあくせくとして、働けどなおわが暮らし楽にならざりという感覚。カネやモノが揃わないではないとしても、心が縛られ時間が奪われて、魂がかさかさに乾いているような。震災があったから。不景気だから。いやもっと前から。

 たしかにかつてはここにもそんな感じがありふれていた。心の在り方が変わったのか。心の在処が変わったのか。でもあの場所が理想と移り住む気などなく、懐かしい時代に戻りたいというわけでもなく、似ているにしてもまだ誰も行ったことのないところ。今はそこに行く道の途中なのだろう。

 毎日一冊ずつ本を読む人がたくさんいる。そんな時間がどこにあるのか疑問に思う。読むのが特別速い人もいるけれど、そうでもない人もいる。読まない人の中に、時間がなくて読めない人と、時間がないことを理由に読まない人がいるとしたら、自分はきっと後者ではないか。

 時間がないことを理由にしていたら何もできない。現に、今この時よりも時間の多い時はないのだ。なにかに理由をつけて何もしないでいるうち、僕らの持ち時間はほんとうにゼロになってしまう。

 思いもかけず人生の残り時間をゼロにさせられてしまった人たちの運命を考える。かれらが今いる人間に残してくれた言葉を、あるいは残そうとしてくれていた言葉を、しっかりと受け止める努力を、今生きている人間以外の誰が出来るというのか。今度は僕がバトンを受け取る番ではないのか。

 人の暮らしをやっかむ余裕があったら自分の暮らし方を見直せ。メッセージがこの世の中にはありふれている。じっと自分の手を見る時に、そのことをこそ思い出さなければいけない。

(二月十一日土曜日)

 交差点で左折しようとしたが、ブレーキを踏んでもタイヤが滑って曲がれず、ウインカーを点けたまま直進した。昨日の朝は、いつもより15分早く出ていつもと同じ時刻に職場に着いた。それで今朝はいつもより20分早く出たのだが、かかった時間はいつもどおりだったので、とても早い時刻に職場に着いた。何百台という車列とすれ違った。多くの人々が毎朝毎晩こんなふうに時間をかけて、危ない思いをしながら移動しなくてはならないのだ。皆が家の近くで働けたらどんなにいいだろうと思った。

(二月三日木曜日)

 雪かきをしなくてはならないのは苦痛だ。以前ある職場にいたときのこと、出勤したての部下たちが雪かきに出ないことに上司がひどく憤慨して怒鳴り声をあげたことがあった。怒鳴った上司も上司だが、雪が積もっているのに何もしようとしない部下たちも部下たちだ。苦痛とは思っても、普通なら最低限のことはやる。それが健全な職場というものではないか。思い出して、あそこは不健全なところだったのだと思った。しかし、不健全なのには理由があって、それを分析するまでの力が僕らにはなかったのだった。

                  (二月二日木曜日)

 人が死んで何が残るかといえば、その人の言葉が残る。だが、誰かが読もうとしなければ、何も残っていないのと同じこと。読まれなかったそれは価値のないものであり、読まれたのは価値があったからということになる。人生の価値は、一つの価値観によると、それで評価がつけられる。

 骨はお墓に納められるだけ。財産は所詮あぶく銭。どう使おうと、死人の意が汲まれることはない。などというのも一つの価値観に過ぎなくて、死んでしまえば何もなかったのと同じこと。読まれないのは、読ませるだけの力がなかったから。生きている時から、それまでの生き方だったということ。死に様というのは生き様そのものだ。生き様のみが、その人の死に様を決めるのだと思う。

 何が残るのだろう。一個のICチップにまるまる納まり、なおすかすかの隙間をつくるこの記憶よ。電気を失うとともに、すべての存在も失われてしまう。そんなにも果敢なく、何事でもないもの。

 きょうの寒さも、暖かい。雪の冷たさも、血が通うものにしか解らない。こんな日に雪女が現れて命を奪うのは、自然のことのように思える。

(二月一日水曜日)