2012年1月

 今年の冬は寒い。昨日は薮川で氷点下25度を下回ったそうだ。こちらも連日氷点下10度近くまで下がっている。この土地で初めての冬なので、単純な比較はできないが、予想よりも寒い土地だし、雪も多いと感じる。特別今年がそうなのか、毎年こんなものなのか。夏は盛岡より暑いと思ったが、冬は盛岡より暖かい、とはとうてい思えない。

 夏は以前より暑くなり、冬は以前より寒くなる。春と秋のような穏やかな季節は短くなる。地球温暖化が進むとそうなるというのは前に聞いたことがある。そのとおりになっている。冬は夏より好きだが、それより春や秋がいい。一年の半分が春で、残りが秋ならいうことなしだ。

 一月はきょうで終わり。ずいぶんすかすかの日記になった。フェイスブックが熱い。けれど、僕にはそんなに書くことがない。友達の皆さんに向かって、あまり立派なことは書けない。

(一月三十一日火曜日)

 帰宅から就寝までの数時間が瞬く間に過ぎ去る。しかも眠りさえあっという間に覚め、気がつくと出勤の時刻である。このような日々を繰り返しながら、今年もすでに三週目を終えようとしている。限られた時間を有効に使えない日々は、三週間も一生も何ら変わらない。わかっているのであれば、使い方を変えればいい話だ。他人の所為ではない。自分が時間をそのように使っているということだ。

 まるで無限のように思っているけれど、時間は有限である。そして、それは意外と短い。少し考えてみればわかること。だからこそ価値があること。

                       (一月二十六日木曜日)

 この土日もまとまったことはしなかった。昨日の午前中は気侭に過ごした。朝刊に八神純子が出ていたことから、パソコンで彼女の歌を聴いていたら引き込まれてしまった。昼過ぎから出て、金融機関などを回り、それから道の駅でワンタンめんの昼食を食べた。国道を西へ進み、アイスクリーム屋で休憩、そのまま西端の温泉宿に行き、風呂に入った。帰りに酒屋に寄っていくつか調達し、帰ると軽い酒盛りをした。テレビでは、日本のリーダーについての討論が行われていた。リーダーを待ち望むというのでなく、自分がリーダーになる気構えがほしいと、そのようなまとめであった。誰でも、どこかで何かをリードする場面がある。そのとき逃げないこと。誰も肩代わりできないと覚悟することだ。

 日曜日の朝、日曜美術館は、写真家の木村伊兵衛がパリで撮った写真の特集。半世紀以上前のパリの下町が総天然色で記録されていた。それと同じ場所を千住明と緒川たまきが訪ねるのだった。木村の存在は意識したことがなかった。何より彼の報道写真家としての姿勢に感銘を受けた。土門拳と同じだと思った。父親ももしかしたら同じことを考えていたのではないかなどとも思った。

 テレビを見ているうちに昼になる。昼が過ぎると今度はラジオ。震災のことは頭から離れない。池袋発三陸行きの夜行バス物語という番組。そして、松尾堂では野口健が出ていた。読むことも、書くこともしないうちに夜になる。電気屋に行って、カタログ等をもらって情報収集。その足で中華屋に行って、五目焼きそばと五目うまにかけご飯の夕食。

 フェイスブックが賑やかになってきた。この数日で繋がりが増えた。高校関係が多い。恩師ともやり取りがある。そして昨夜は年明け初めて友だちからの連絡があった。実名で書くことにはまだ抵抗がある。しかし、このサイト自体実名を伏せて公開する意味があるのかどうか。OSを新しくしたいが、新しくすると今使っているホームページ作成ソフトが不具合を起こすらしい。ソフトを変えようかと探しているがいいものが見つからない。

(一月二十二日日曜日)

 年が明けて2週間が経過した。仕事は日常生活の一部ではあるが、あくまで一部であり、そのものではない。昨日は18時前には職場を後にした。車の扉を閉じた瞬間に気分は完全に切り替わり、それからの45分がまるで新たな土地への道のりのように感じられるのだった。旅の後に何があるわけではない。旅の最中こそがいちばん楽しい。通勤路でも同じようなことを感じたのは意外だった。

 緊張から解放され、仕事の時には息を潜めていた思考や興味がむくむくと顔を出す。ラジオのニュースを聞きながら、頭の中の音楽の音量を上げる。週末に何かまとまったことをしようということもないのだが、ゆったりとした時間の中で気分転換ができれば、また一週間やっていける。それも旅のようなものだ。きょうは、レシートをまとめただけでそのままになっていた旅行中の支出を計算。それから11月末からの会計も。午前中かけてそれらを済ませると昼になった。金融機関を回りながら、気になる店で昼食を食べ、帰宅するとしばらくテレビを見た。テレビを見ていると暗くなった。それから、年賀状をいただいていた人たちに葉書を書きたかったが、できなかった。

(一月十五日日曜日)

 昨年は、日記が中途半端なまま終了した。毎日記録するつもりだったのが、1週間以上放置することもしばしばだった。当初の志は忘れ去られていた。仕事が忙しかったのも一因だが、もう少し大きな括りでいうと自分に向き合う時間が減ったためだ。転勤して慣れないことに取り組んだり、一人暮らしでなくなったり。それが良い悪いというのではない。とにかく時間の使い方がこれまでとは確実に変わった。現実問題として、時間の使い方が変わったのであればこの日記の在り方も変わらねばなるまい。ではどう変えるか。考えもまとまらぬままに1月も十日を過ぎた。

 昨年末から旅に出ていた。離れてからもう6年近くになる土地と、そこに住む人々に再会するのが大きな目的だった。かれらの懐かしい笑顔にふれることができて、これまでどこかもやもやしていた気持ちが少し落ち着いた。やってきたことは間違いではなかったことを確信できた。仕事についてもこの国の現状についても嘆くことばかり多かったが、それは自分だけがおかしいわけではない、ということも確認した。だから、暗澹としてもけして負けてはいけないのである、とも思った。

 ところで、旅に出る前日に陸前高田から気仙沼までを車で回ってきた。高田松原の松の木がたった一本になっているのを見た。浜の近くの校舎が骨組みだけになって突っ立っているのを見た。何もかもなくなった町が延々と続いているのを見た。時間が止まっている気がした。畠山美由紀の「わが美しき故郷よ」というアルバムは、僕にとっての昨年の最高傑作である。この中で朗読されている詩が頭の中に鳴り響き、涙が嗚咽を伴って沸き出してきそうになった。

 震災、そして原発事故というとてつもない出来事を経て自分自身がどうなったのか。真に向き合ってこなかったのではないか。できることをすればよいというけれど、仕事中心の生活と自分ができることとが乖離している感覚がずっとつきまとっていた。こんなたいへんなときに旅行なんてという心の声もあった。でも、それを強く否定する自分もいた。変わらなければと言っているだけでは始まらない。歩き続けるためには、まず歩き出さなければならない。正しいかどうかなんてこの際どうだっていい。命は短い。行こうと思った時に行って来れたことは、よかったと思う。

 成田からの電車の中、旅の後先で何が変わったかと聞かれて腹が立った。その時は疲れていたのだろうが、考えてみれば当然だ。まだ家に帰り着いてもいないうちに何もわかるわけがない。なぜなら旅の前と比較するべき旅の後の生活がまだ始まっていないからだ。ほんとうに比べてみたいのなら、旅の前のように粛々と日々の生活を進めてみてからにすればいい。旅でなくとも同じ。あのことの後先で何が変わったか。知りたければまず歩き出そう。歩き方次第でそのことの意味が決まるのだ。

(一月十日火曜日)