二〇一二年七月

 仙台の病院で胃の内視鏡検査を受けた。安定剤を打たれてから意識が朦朧として、気がつくとすべて終わっていた。ベッドから降りるとふらふらして歩けなかったので、車いすに乗せられて移動した。ふらふらはしばらくすると治まった。医師によると、心配はないそうだ。ただし、ピロリ菌がいるかもしれないということだった。そこで父親が胃がんで死んでおり心配だからと言って追加で尿の検査をしてもらったが、マイナスと出た。七割の確率でピロリ菌はいない。だから喫緊の問題ではないという診断だった。八時半頃に病院に入り、会計まで済ませると十二時近くだった。

 散歩しながら駅までの道を歩くことにした。空腹だったからとりあえず近くの洋食屋に入り、食事をした。カウンターに座っていたら、従業員たちの動きが見えて面白かった。アルバイトらしき娘が注文を聞き間違えたり反応が鈍かったりして、厨房の女性はそれを一々気にしていらいらしている様子だった。店には頻りに客が出入りしていたから、あれでは使われる側も使う側もたいへんだろう。

 帰宅すると十五時を回っていた。本を読む気力などなかった。安定剤のせいか何度もうとうとしかけたが、深くは眠れなかった。相変わらず暑い日が続く。きょうの検診ための休日は、特別休暇というカテゴリーに属する。一日まったく職場を離れていたのは二週間ぶりだった。また明日からしばらくは仕事が続く。仕事のためにお盆が一日もなかった平成十年の夏を思い出す。

 祖父が亡くなったのは昭和六十三年のことだった。それから十年経った九月の終わりに父親が亡くなった。父は自分の父を送ってから十年で自らも逝ってしまったのだった。まさかそんなに早く逝くつもりはなかっただろうに。あの年僕は病院と職場を車で毎日行ったり来たりしていた。忙しさにかまけて身内のことに深く思いやることなんてなかった。

 僕はあれから十四年も生き続けている。生き続けている限り、命のことを考え続けるのだろう。そして、考えれば考えるほど、そんなに大げさなことではないという思いが強くなってくるのである。たまたまにして生まれた命、それが土に還ることのどうしようもない自然さ。この感情も、肉体の痛みも、心の交感も、ほんの束の間のことだ。人ひとりの人生など、それほど崇高なものではない。

 来週も同じ病院に行く予定である。今度は別の検査を受ける。前日から食事の制限があって、薬剤もかなり飲まなければならず厄介だ。だが終了後には野球を見ることにしたから、そればかり楽しみだ。

(七月三十一日火曜日)

 何もしないうちに七月も終わろうとしている。いつの間にか梅雨が明け、毎日のように暑い日が続いている。昨日もきょうも朝から夕方まで外に立っていた。昨日は暑かったが猛暑日だとまでは思わなかった。そしてきょうは34度。その後、急に黒い雲がわいて激しい雨が降った。

 これまでとは暑さの感じ方も、汗のかき方も変わった。厚い脂身を身体に巻き付けていたようなものだったこれまでに比べれば、身体への負担は激減した。しかし、鏡をのぞくと気味悪い。30年以上も慣れ親しんだ顔とは別人のようになったのだから。

 ところで、オリンピックが始まった。国同士のたたかいとはいっても、もう金メダルの個数を競う時代でもないし、日本選手を応援しましょうとテレビから呼びかけられてもなんだか空々しい感じがする。日本選手を応援する理由は同じ国だからということ以外に何もない。たしかにそれは大きなことだけれど、いまはあまり大きなことに思えない。

 早く8月まで終わってほしい。今年はとても休めるようなスケジュールでないから。昨年も同じことを感じていたけれど、そしてそんな心配をする必要もなくなったのだけれど。今年は違うかもしれない。さかなのアルバムを聴いている。ポコペンの歌声が心に沁みる。日曜日が終わる。明日は朝から病院に行く。病院で苦しい思いをして、さて、何がわかるのか。

                                   (七月二十九日日曜日)

 

 「ハッピーマンデー法」なんて胡散臭いと思っていたが、その感じ方を裏付ける悲しいエピソードを聞く機会があった。今朝、期せずして聞いたある会社員の話の中に生々しい事実がいくつもあった。

 昨日は朝のうち雨だったが、まもなく止んで日中は予定通り外で過ごすことになった。朝の6時半に出て、夕方の6時半に帰宅した。その後食べに行った天ざるはうまかった。少し買い物して帰ると眠くて何もできなかった。今朝は早くから雨が降り出したので、予定を繰り上げて家を5時半に出た。道中何度も電話をして、職場に着く頃にはきょうの予定が全面的に変更になった。ほっとした心持ちで少し仕事をしていると、件の彼が窓越しにコーヒーでもと誘ってくれた。軒下に移動してからはあれこれと止まらぬ話に耳を傾けた。悲哀である。政治の混乱の果てに沈むぼくらの人生である。生活である。

 「国民の生活が第一」というのは、政治を行う者にとって当たり前のことではなかったのか。それがキャッチフレーズだったり、党の名前になったりというのは、あまりに国民を愚弄した話だ。

 「もっと違う時代に生まれれば良かった」と彼はぼそっと呟いた。しかし、どんな時代だろうと、どんな場所だろうと、それと人間の幸福感に関連性はない。たとえば団塊の世代のあの方たちが果たして幸福かどうか。そんな十把一絡げな評価など不可能だし、意味をもたない。また、あの日にたまたまそこにいたことをいくら悔やんだとて何になる。その選択はその人にとって何の落ち度でもなかったはずだ。偶然の中からすべての運命は見いだせる。ぼくらはあたかも土に埋もれている形を掘り出すように生きるのだけれど、それは掘り出してから初めて気づくことであり、掘り出す前には何も存在し得ない。だから、具現化されなかった過去を理想にしてはならない。まだ具現化されてない未来を、時に埋もれたすべての可能性から一個だけ取り出せばそれでよい。それ以上望むものはない。

(七月十五日日曜日)

 

 そして週日もすぐに過ぎ、今週も木曜まで終わった。蒸し暑さの中では何をしても不快でおもしろくない気分が勝ってしまう。ヴィクトール・フランクルについて即席の資料をつくり、読んだ。ここ数日にわかにメディアをにぎわしている悲しい出来事にふれた。そして、「これまでに経験したことのない」という表現について。すべては、身を守ることに繋がる。そのために、やっているともいえる。「お笑い芸人」ということばの哀しみについて、考えた。

(七月十二日木曜日)

 

 休みなどすぐに過ぎる。そして月曜日もすでに深夜となった。昼のこと、あまりおもしろくない雑談が聞こえてきた。ここにはお喋りをしながらでも良い仕事ができる人が多いらしい。僕は僕が予想だにしなかったきょうの人生を、やはりどうしても受け入れざるをえない。好きとか嫌いとかに関わらずできることをできるだけするというのが信条で、その通りにしているつもりだ。

 ところで、子供騙しの音楽をつくって金儲けする人たちがいる。決まってかれらの作品はかれらよりも年下の者ばかりに好まれる。真の芸術家と呼ばれる人たちは、自分たちと同じ世代やそれより上の世代に好まれるものをつくりたいと願っているらしい。翻って僕の生業を思うと、前者ではないかと疑う。それで良しとして自分を騙すことくらい、ばからしいことはない。そうは思わないか。

(七月九日月曜日)

 

 朝から雷雨。梅雨寒という言葉が懐かしいほどの蒸し暑さ。死語というのは言葉の死を表すものではなく、その言葉が表現する状況そのものが死ぬのだ。そして、頭痛がする一日だった。

 人とのコミュニケーションなんて苦手だと思った。もう二十年以上、そんなことばかりやっているにも関わらず、苦手意識は変わらない。いやむしろ増す一方ではないか。

(七月五日木曜日)

 予報通りには気温が上がらなくて、過ごしやすい一日となった。夕方には考えてみれば予報される地域と生活する地域は、同じ市内とはいえまったく異なっており、数値を真に受けるわけにはいかないのだった。どれくらいの差があるのか、どのように目安とすればよいのか、未だに確かめていない。

(七月三日火曜日)