2012年6月

 狡い人間を目の当たりにすれば、あのように狡くはありたくないと思う。我以外皆我教師也。すべてが自分を活かしてくれる大切な存在として現れる。神は力に余る試練を与えないのだそうだ。しかし試練と呼ぶにはあまりに物足りない。何を苦しみと言えるほど苦しんでいるというのか。

 幸いは苦しみとともにある。もしもこの世に苦しみがなければ、幸いを感じることすらできないのだ。だとしたら、苦しみから逃げてばかりの存在には、幸いを感じる力は宿るべくもない。苦しいと思わぬ人間には幸いを実現する力はない。

 いろいろな人が僕の目の前に現れては難題を吹っかけてきたと思っていたのは以前の話。今僕は周囲の人々に難題を吹っかける立場に立っているのかもしれない。

(六月十三日 水曜日)

 気にしていれば一日中胃の辺りが痛い感じがして、しかも下痢と便秘が交互に繰り返しているような気もする。だが心配してもしかたがない。気にしなければ、痛みなどないし、腹の調子だってそんなに悪くない。なにより以前と比べればはるかに健康的な姿に変わっているといっていい。

 いのちのことについては異論があろうが、この国の進んでいる道のりを思うに、大切という価値観など嘘っぱちではないかと訝しく思えてしまう現状がある。原子力発電が再開されるのだそうだ。ばかである。ほんとうに、本心から、この国にはもう住みたくなくなった。

(六月九日 土曜日)

 健康診断の結果についていえば今年は最悪だ。いつもは薄っぺらで中身のない通知ばかりなのだが、今回は分厚い紹介状の入ったものが二通も届いた。精密検査を受けるまでもなく、体重の減り方も見方によっては異常だし、何か悪い病気なのかもしれないという判断は、的を射たものといっていい。

 金星の太陽面通過という現象を見ることができた。観察用の黒いシートを目に当てると、オレンジ色の太陽が意外と小さく見えて、その左上に黒い点があるのがわかった。今世紀最後のことだという。ということは、生涯で最後のことだったのだ。見る者によってその価値は変わる。

 いのちほど、大切という価値観を押しつけられることがらはない。しかし、これまで目にしてきたことがらを総合するに、いのちはそれほどにおおげさなものだろうか。

(六月六日 水曜日)

 一日はあっという間に過ぎて、気がつくと周囲には人がほとんどいなくなっていた。

 日中は暑くなったということだったが、屋内にいる分にはそれほどでもなかった。でも明日は気温がさらに上がるというから覚悟が必要だ。

 帰宅する頃には真っ暗だった。クリーニング屋に寄ろうと思っていたのだが、すでに閉店していたのでできなかった。早く帰れる月曜日のはずだが、帰れないことも多い。

 夜にはトマトとブロッコリーのパスタを作り、食べながら月を見た。部分月食を見たのはいつ以来だろう。年に1、2度はあるということだが、ずいぶん久しぶりに見たような気がする。先日見た日食とは原理が似ているようで異なっている。わかっているつもりでも、それを説明しようとすると難しい。

(六月四日 月曜日)

 朝のうちは曇っていて涼しかった。しかしまもなく雲は消え、昨日のように暑くなった。6時間以上、炎天下に立っていたことになる。それにしては日焼けもそれほどでないし、消耗も少ない。以前だったらもっと汗をかいてへばっていたところだろうが、今はそれほどでもなくなった。体力がついたということではない。おそらく余計なエネルギーを必要としなくなってきたのだろう。

 帰宅が意外と早かったので、風呂にも入って洗濯もした。その後旅の構想などを立てながらうとうとして、それから近くの店で食事をしてきた。

(六月三日 日曜日)

 歪んでいる背骨の矯正のために新幹線で治療院へ。川沿いの遊歩道から眺める夏の日の山は美しかった。駅前で散髪してもらってから、本屋まで歩き、一時間ほど物色して駅に戻ると電車に飛び乗った。昼飯がまだだったので、到着後の駅のホームで立ち食いそばを食べた。帰宅後車で食材の買い物をしてきた。カレーともう一品をつくった。

(六月二日 土曜日)