2012年3月

 

 大きな山場を越えて再び別の上り坂に差しかかる。いまより楽になることはないと思っていれば間違いない。だが、それに対応する力さえつけていれば何も恐れる必要はない。

 子どもがいつまでも子どもであると自らを限定的にみてしまうように、大人も少なからずそんなみかたをしてしまうわけだが、ここは、明日の自分自身にもっと期待を込めていてもよいのではないか。

 変わるための力はもう備えてきているはずで、それを使わないとしたらせっかくの力がもったいない。あとは自分でリミッターを取り外すかどうかというところではないか。

(三月二十四日土曜日)

 毎年知り合いが増え、その人たちの幾人かと離れ、新しい年にはまた別の人と知り合いになる。そうやって何十年もやっていると、どこを向いても知っている人ばかりの状況になる。それが楽と思う人もいれば、そうでない人もいる。自分はどちらかというと後者ではないか。

 安定を求める気持ちは自分にもあって、この不安定な状態から逃れたいといつも考える。だが、不安定から抜け出した安定が、実は不安定な安定だったなどということもあり得るから、それよりは不安定なまましばらく立っているのもひとつの方法だと考えるのは間違っているか。

(三月二十一日水曜日)

 

 3月も半ばを過ぎると、仕事も次の段階に移る。年度末の事務も大詰めとなり、異動などもあって、周囲はにわかに慌ただしくなる。そんな中、先週末には実家に帰り、祖母の一周忌の法要を行った。喪主とはいえ、身近な親戚ばかりの集まる場ではそれほどの緊張感も必要なく、そのため少し間抜けな振る舞いをしたと反省している。

 また今年も誕生日を過ぎた。御蔭様で体調は悪くないのだが、親戚たちからは心配な目で見られていたようだ。たしかにこの一年で見た目はすっかり変わった。しかし、中身はたいして変わっていない。螺旋を描くように向上していればいいが、同じところをぐるぐると回転しているだけでないかと疑ってしまうほどだ。四月からのことを考えると頭が痛くなる。

(三月二十日火曜日)

 考えがまとまらないままに一年が過ぎた。まとまらないならまとまらないなりの書き方があるものだろうが、日記がすかすかのこの状況は精神生活が貧しくなったことを意味しているといっていい。

 去年の三月のことを順を追って思い出してみた。細かいところは記憶が薄れてもう辿れなくなっている。 詳細な記録をつけてきたわけではないから、こうして体験は葬られていくのかもしれない。

 けして忘れないという決意の言葉にいくつもふれた。忘れてはならないことを忘れてはならないこととして心に刻むことは大切だ。しかもそれと同時に、生き残る人に伝えていくことが必要だ。

 書かなければ消えてしまうとしたら、書かないわけにはいかないだろう。たとえ稚拙で貧弱な言葉であっても、何も書かないよりはよほどましだ。これも残り時間にできることの一つだろう。

(三月十一日日曜日)

 何という速さだろう、もう一年が経った。歳を取るにつれて時間の流れが速く感じられる。以前周辺で良く聞いていた年寄りくさい話を、僕もするようになった。そのことを理屈として実感できたのは少し前のことだった。人の人生を数直線にして年の数だけ分割する。十三歳の人間の一年の幅と四十四歳の人間の一年の幅には自ずと差が生じる。その幅が時間の速さの感覚に比例するというわけである。

 この話のポイントは、何歳の人間の人生も同じ長さの数直線で表されるところにある。つまり、寿命や年齢に関わりなく、人間の人生は等価だということが自然に示せるのである。もっというと、十歳で死んだ子どもも、百歳で死んだ老人も、一人の命の価値は変わらない。そこに僕はある種の救いをみた思いがしたのだった。だからこそいまをしっかり生きることが大切だと、いまを生きる人々に話した。

 するとかれらの顔が少し真面目になった、気がした。あれから一年、失ったものの大きさに戸惑いながら成長しようとするかれらの胸に、何かをもたらすことができたのだとしたらありがたいけれど。いや実はもっと辛い体験をした人に向かってありったけの思いを届けたかったというのが発端だった。しかし、たいていの場合それは自己満足である。過信は禁物。注意深く経過をみる必要がある。

 先日ラジオでアニヴァーサリー・リアクション(記念日反応)という言葉を聞いた。記憶が蘇ってパニックに陥ったり、気分が重く沈んだりしてしまう反応。それ自体は当然のことだから、自分も周囲もそれを予めわかっていれば、過度に恐れる必要はないが。それにしても、次々と新しいことが起きて心の整理がつかないまま積み残していることばかり。老いも若きも生き急がされる時代だ。

(三月三日土曜日)