二〇一二年十一月

 三連休にはあまり動かなかった。勤労感謝の日にはほとんど家にいて、昼過ぎあたりから仕事を始めた。そして夕方には目処がついた。全体的にだらだらした一日だった。土曜日の午前中は仕事場と同じ日程にそって仕事を進めた。やらなければならない仕事は概ね終わった。昼からはラジオを聞きながら過ごした。夕方から、歩いて橋の向こうの廉価な床屋に行って帰ってきた。廉価なので、質も低い。店員がいかにもやる気の無さそうな態度だったのでがっかりした。なにしろ廉価なので、サービスに期待してはいけないというものだろう。この町に来てから、床屋が決まらない。ほんとうならもっとちゃんとしたところに行きたいが、残念ながらこの町ではまだ見つけられないでいる。いい床屋では、リラックスできる。

 日曜日の朝にはきのうつくった文書をチェックした。午後からは1時間ほど車で出かけた。電気屋でインクを買って、カメラのカタログをいくつか貰った。本屋では時刻表を買った。電気屋は広いが長居は無用。本屋も本格的な本屋でないからすぐに出る。この町の規模だから、期待するのが野暮というものだろう。

 来月には人間ドックに入ることになっている。「いつでもいい」と書いて申し込んだら、月曜火曜に決まった。これまで3回くらい申し込んだがいずれも抽選に 外れて行けずじまい。それは期日を細かく指定したからだ。いつでもいいと書けば、それだけ当たる確率が高まる、というそれだけの話だった。病院は山形にある。月曜始まりをいいことに、日曜から出かけてみようと考えている。それで、昨夜は時刻表をにらみながら旅程をあれこれと思い描いていた。今度は米沢あたりに行ってみようか。

(十一月二十六日月曜日)

 順番を付けては、誰かより上だった下だったと大騒ぎする。そのくせ、その後に自分がどうしようなどとは考えない。自分が変わらない限り、世の中は何も変わらないという事実を、正視せずに日々をやり過ごす。まるで猿山の猿たちのようなもので、動物園の一角が所詮かれらの世界のすべてなのだ…

 … とだけ書いてから、二週間近く経ってしまった。三連休も終わり。対象を動物園に喩えたくなることはよくあるが、怒りに任せて書くといいことはない。その日何に怒っていたのかすらもう覚えていないのだから。見渡せば、あちこちに猿山があって猿が離合集散を繰り返す恥ずべき状況がここにある。

 ところで、先週の土曜日には家人の用に付き合って山形市に出かけたのだった。午前中時間ができたので、斎藤茂吉記念館を訪れた。二度目だったが一度目のことを詳しくは思い出せなかった。往路は鉄道を使った。今にも雨の降りそうな暗い空だったが、敷地内の紅葉が美しかった。長い和歌の歴史を踏んだ由緒正しい作品群と、それらを生んだ由緒正しい家柄に触れた。ひとりの映写室で20分ほどの幻灯を見た。芸術家の物語がまさに走馬灯のように展開されていた。脚本がすべて体言止めだったのには和歌との関連があったのだろうか。敬体文のほうが親しみがより湧くのにと思った。

 職員の方に帰りの手段を相談したら、まもなくバスが出るとのことだった。絵はがきのセットを一つ求めて館を後にし、バス停まで急いだ。金瓶の集落はもう都市近郊という雰囲気しかなかった。ところどころで柿が立派な実をつけていたのを見た。人にとっての故郷というものについて考えた。見上げるとすでに白く雪 化粧した蔵王が聳えている。弱冠十五で東京に出て以来最後まで、この土地が故郷として彼の心に光を放ち続けていたことに胸を打たれた。それほど故郷というものは人に力を与えるものなのだろうか。それから、ヨーロッパへの留学経験のことは記憶になかったし、精神科医の多い系譜についても認識を新たにした。その人の素地に触れる旅であった。

 翌週は水曜日に大きな動きがあり、その準備のため、月曜、火曜と落ち着かない日々を過ごした。鬼門という言葉は使いたくはないが、これまで満足にできたためしのないポジションに、後期から携わることになった。できるなら遠ざけておきたかったのだが、それは我が儘というものだ。この1年、やらなければならないことならばやって苦手を克服すればいい。と諦めて、挑戦するしかない。

 案の定、過ぎてしまえば大したことはなく、夜こそ遅くまで残ったものの、一つの山を越えたという感じがした。この先の1年で山をいくつ越えなければならないのか。100越えるつもりでいこう。

 木曜日は早朝に集合してバスで盛岡に出かける仕事だった。一日中舞台芸術を鑑賞するというものだった。振り返ると11年前、わけもわからず担当を任されたはいいものの、出先の会議でも訳が分からず、何一つ意欲がわかず、気持ちがおさまらないということがあった。プロジェクトの理念が理解できず、多忙化としか捉えることができなかったのだ。その頃の自分を取り巻く状況が多忙だったからということもあるが、見方を変えると、自分自身の問題として仕事を思うようにコントロールできなかったという能力的な事情がある。その後自分なりの努力も少しはあって、世界が少しずつ変わった。

 その頃生まれたプロジェクトがこのように定着し、年中行事化したことは感慨深い。一緒に鑑賞した若きホープたちにとっても刺激的な体験となったことだろう。そして、僕はこの日これまでお世話になった多くの方々と再会を果たすことができた。恩師の握手からはたぶん一生分の励ましをいただいた。

 しかし、どこか心の片隅で、その在り方についての疑問を感じてしまうのだった。文化というのは、けしてステージ上に現れるものだけを指す言葉ではない。表現とは、形が証拠として残ればそれでよいというものではない。いつの場合でも、準備というのはイベントのための準備であってはいけない。表 現者というのは、哲学、理念、高い精神性の上に日常を生きていなければならない。若者なら、いまそうでなくてもよい。けれど、10年後、20年後にそのような姿に成長していなければ嘘だ。その素地をどのようにつくるのかが作り手であるこちらの勝負である。人づくりも国づくりもそれは同じだ。

 誇り高きたくさんのおじいさんたちが、客席の中央に陣取って満足げにステージをみつめている。この何十年自分たちががんばってつくりあげてきたという自負がその表情からみてとれる。かれらの望んだ理想の若者の姿が果たしてそこにあるといえるだろうか。華やかなかれらの陰に隠された健気な日常の姿がみえるのだろうか。かれらとつながり物心を支えている名もなき民衆の声がきこえるのだろうか。どんな未来をみているのか。何を理想と考えているのか。それがわからない。伝わってこない。

 ビジョンが大切だといわれるが、そのもち方を教わっている人は少ない。教えてきた人も少ない。聖書もなければコーランもない。モデルというものがここにはない。故郷にその素地が、根本があるのだろうか。いったいぼくらはそこでどんな大切なことを教わってきたのだろう。難しい問いだ。

 過去への矢印と未来への矢印が同じ方角を向いている。温故知新とはこんなことを言うのか。おそらくこれからみつけるものの中に、もともとあったものなど一つもない。手垢にまみれたものなどない。だから、この目と耳を信じて多様な世界に触れよう。出会うものすべてが我々に展望を与えてくれる。

(十一月二十五日日曜日)

 比較的融通が利く季節になったので、先週末は仕事場に行かずに済ませることができた。しかし、だからといってすべてが楽になるわけはなく、日曜には部屋に籠って書類を作成しなければならなかった。厄介なことが一つ終わればまた一つ別の厄介なことが始まる。全体的には責任が増して、頭の中のこれまであまり使われなかった部分をかなりの勢いで駆使しなければ対応できない状況になっている。これまで一番の懸案だったことは、積み残したまま全然見ていない。

(十一月十八日月曜日)

 日曜日の夕暮れ時、部屋には上原ひろみのピアノが涙を誘うように鳴り響いている。窓の外には寒々とした曇り空。朝からコーヒーを飲み過ぎているけれど、もっと飲みたいような気もしている。

 この仕事に就いてからというもの、いろいろな場所を渡り歩いてきた。どこもたいしておもしろくはなかったが、かといって嫌いなところがあったわけでもな い。そのときどきで自分の能力もその発揮のされ方も違ったし、時代も生活環境も変わったし、すべてのファクターが揺れ動いているから一概に比べる事は難しい。いろいろといっても振幅の幅はたいして大きくはないのかもしれない。似ているけれど、皆違う。皆違うけれど、同じようなもの。そうは信じてみるけれど、ぬぐい去ることができないのは、近年の異常なほどの「おもしろくなさ」である。こんなことをするために、この仕事に就いたのだろうか。答えは当然否である。ばかにするなと言いたい。

  昨日は朝5時過ぎに出て高速道路で片道3時間半の行程を往復した。帰宅したのは20時半だった。その間には、いても意味のない時間を、いても意味のない空 間で過ごすという無意味な仕事をした。世の中の多くの仕事がそうであるように、その日も自分にしかできない事は一つもなく、すべては誰がやっても構わない ものだった。しかしそれは自分の存在無しでは証明し得なかった。自分以外の誰もがそれを感じられるように、是が非でも行って、自分以外の誰もがそうとわかるようにしたかった。これからはもう無意味な闘争に巻き込まれないために。

 今朝は平日同様に出勤したが、11時を回ると職場を出た。帰り道では林檎を買った。そして昼食後には西の温泉に浸かってきた。アイスクリームも食べた。帰宅するとパソコンに向かいたくなった。

 このようなとりとめもない一日が充実と言えるのか。おそらく言えないだろう。志半ばで果てた数多の人々の前に自分のいい加減な気持ちを晒す事は恥かもしれない。だがそれでも生きて、できるなら自分の生きた証をあの雲の上に刻みつけてやりたい。

(十一月十一日日曜日)

 

 気がつかないうちに月が変わり、秋も深まってきた。十月末には小さな旅に出た。平日休みを利用しての、いつもの酒田行だった。土門拳に会い、カレーを食べるというそれだけの旅だったが、気分転換には十分だった。ところが、その気分をひっくり返すほどに忌わしいことが旅の最後に待ち構えていたのだった。過ぎてしまったことを悔やんでも仕方ない。いついかなるときにもいえることだが、時計は元には戻せない。

  水曜日にはタイヤを新しくした。店はすでにスタッドレスばかりになっていたが、倉庫から普通タイヤを出してもらって取り付けてもらった。少し割高だったがそんなことはどうでもよかった。この際急いだほうがいいと思った。忌まわしき出来事は心の弱さに由来する。だから、すべて改める必要があった。

 昨日は文化の日だった。朝はラジオで文化講演会を聞いた。内橋克人氏の話だった。日本人の特性として、頂点同調と等質化の二つが挙げられていたが、これから新しい時代を開くには、これら二つとの決別が必要だということが印象に残った。

  その後午前中に実家まで走り、冬物の衣料をいくつかとスタッドレスタイヤを積んで戻って来た。母親とは、これからのことを中心に少し言葉を交わした。彼女 にとってもそうだが、自分にとってもそろそろ現実味を帯びてきたのはいわゆる「終活」ということだ。書籍や音楽のソフトなどを取っておきたくなる心理というのは、いってみれば欲なのだ。いつか使うだろうと思ってしまっていたたくさんの物事は、もう使う事はないとしかみえなくなっていた。だが、そうといって欲をなくしたといえるか。

 午後からは姜尚中氏の講演会を聴く機会を得た。淀みのない言葉が次から次にあふれるので、まるでラジオを聞いているような気分になった。最後にはこの十年 がんばりましょうという結論に達した。政治についての失望は、朝の内橋克人氏と共通していた。二人が異なっていると思ったのは、自己開示の量あるいは幅であった。内橋氏の主張は自己の体験と密に結びついているのが理解できたが、姜氏の話からはそれが感じられなかった。時間の都合もあっただろうし、著書を じっくり読んでいたわけではなかったから当然かもしれない。いずれにせよ今後に繋がる出会いとして貴重な機会であった。

(十一月四日日曜日)