国際ワークキャンプ イン カンボジア(2000.8.1〜8.15)

               


 私はこの夏、アンコールワットのあるシェムリアップという町で、2週間のボランティア活動に参加してきました。NICE(国際ワークキャンプ日本事務局)とKYDO(Khmer Youth Develop Organization)との共催という形で行なわれた今回のワークキャンプ、参加スタッフは、日本人が8名、イギリス人2名、フランス人2名、ドイツ人2名、スイス人1名、そしてカンボジア人4名、さらに現地のたくさんの人たちが加わって行われました。
 宿舎は廃校後の校舎を利用した合宿所のようなところでした。教室に木製のかたいベッドが十台くらい並んであり、そこに蚊帳を吊って寝ました。水道はなく、トイレは御存じ手桶つきの水洗(私は紙を使いましたけど)、もちろん風呂もなく、毎日近くの民家の井戸を借りての水浴びだけでした。でも食事は、現地のおばちゃんたちが手作りのおいしいごはんを三食とも作ってくれたのでありがたかったです。米食中心であまり辛くもなく、日本人にはどれも抵抗なく受け入れられました。
 仕事内容はというと、初めの数日間はビニール袋片手に道路や市場のゴミ拾い。そして、市場の人たちに「きれいな町をつくろう」というようなことを説明して回りました。私たちが英語で話して、それをカンボジアのスタッフがクメール語に訳しました。炎天下の作業は予想以上にハードなものでした。それに通りや市場はゴミだらけで、においはするし、みんな奇異な目で見るし、オレはなんでこんなことやってるんだろうと思ったりもしました。ちょうどかち割りのような感じでさとうきびジュースなどの飲み物が売られているのですが、飲み終わった後はそのままポイ捨てするらしく、そこら中ビニル袋とストローだらけでした。
 次の三日間は植林作業でした。野原に穴を掘り、そこに木の苗を植えるのです。これも暑い中でやるのはこたえました。少し歩いただけで疲れて動けなくなってしまうのです。子供達にはずいぶん笑われました。私は途中一度脱水症状におそわれました。その時救ってくれたのは日本の仲間からもらったポカリスエットでした。
 そのほかワークの終わりのほうでは、孤児院を訪問してお菓子やノートをあげたり、髪を洗ってあげたり。また、車で2時間の山村に行き、胃腸薬をあげたりしました。意味不明だったり、だんどりが悪かったり、首を傾げるようなことも正直ありました。とにかくODAの援助と違ってNGOの運営はたいへんなんだということが去年のベトナムとの比較でわかりました。休日にはアンコールワットやバイヨンなどの寺院を見学しました。規模の大きさと歴史の重みを感じ、夕日を見ながらしばし物思いにふけりました。
 また、外国人との生活の中で、さまざまな文化の違いに触れることができたし、外国の友人ができました。英語はまだまだなんですが、使っていくうちになんとかなるもんだと思えるようになったので、次は何に挑戦しようかと考えています。
                 


       
ワークキャンプ日記
 
 
01.Aug.Tue.
12:20バンコク国際空港発。所要時間は約1時間。
空から赤茶けた大地を眺める。
機内で昼食をとる。
シェムリアップに到着。
空港にはカンボジアスタッフのLが出迎えに来てくれていた。バンコクとは違う暑さの中、しばらくタクシーを待つ。
タクシーの窓からアンコールワットが見える。一同感動。
宿舎到着後、わけがわからぬままに再び昼食。せっかく作ってくれたので、がんばって食べる。とにかく暑い。
みんな中庭でぼーっとしている。夕方まで何もせず、めいめい時間をつぶす。ベンチで横になる者あり。子供達と遊ぶ者あり。
犬、牛、ヤギ、人間、みんな痩せてる。
ベッドに蚊帳を取り付ける。風通しが悪くて暑そうだ。
風呂場を見せてくれるというので行ってみると、そこは近くの民家の井戸。竹ざおの先にバケツをくくりつけて土管の中にしずめ水を汲む単純な仕掛け。これで2週間か、ちょっと不安になった。
夕方から食事の支度。食事の世話はカンボジアのおばちゃんたちがやってくれるのだそうだ。少しほっとする。
夕食後、ボランティアが集合して初めてのミーティング。すべて英語。わ、わからない…。食事作りの手伝いの当番を決めた。
02.Aug.Wed 夕べは寝苦しかった。蚊帳を吊って寝たからか、思ったよりは刺されていない。ところどころ痒いところはあるけれども。
いよいよワーク開始。沿道のゴミ拾い。8:00、軍手をはめ、帽子代わりにタオルを頭に巻き、ビニール袋をもって宿舎を出た。初めはすれ違う子供達に"Hello!"とあいさつを交わす余裕もあった。ところが、30分もすると暑さで目が回りそうになった。水が飲みたくてしかたない。炎天下、清冽な清水のほとばしるイメージが頭に浮かんでくる。冷たい水が飲みたい!ただそれだけ…。しばらく行くと、オーストラリアの地雷処理ボランティアのオフィスがあった。トイレを借りにおじゃましたのだが、そこでさまざまな形の地雷の実物の展示を見せてもらった。シェムリアップではいくつか地雷処理のチームが活動していて、今でも国内を回り処理作業をしているそうだ。ここでなんとボトル入りの冷えた飲料水をもらった。早くも水のありがたみを身に滲みて感じた。
橋のところまで来て午前中は終了。店でコーラを買った。1ドル札を出したら、2000リエルお釣が来た。50円くらいというところだろうか。この後も何度かコーラを買ったが、その都度お釣りの値段が違っていたように思う。
橋のたもとからバイクの後ろに2〜3人ずつまたがって宿舎へ帰った。昼食をとり、しばらく休んでからまた橋までバイクタクシーで移動し、そこから先の道路を清掃した。町のいたるところにバイクにまたがったおじさんたちがいて、客を待ち構えていた。バイクタクシーは何度か利用したが、その都度ドライバーと客が交渉して値段を決めるので、安くあげるには技術が必要であった。初めは怖かったが、慣れると気持ちがよかった。走ると風が当たって涼しいのだ。南の人たちは暑さをしのぐためにバイクを走らせるということがあるんだと思った。
暑さの中で考えたこと。日本での生活。コンビニで毎日冷たい物を買う。ジュースも飲みたいだけアイスも食べたいだけ食べられる。そんな生活に浸りきっていた自分。反省、というより懐かしい。帰ったら○○を飲もうとか、そんなことばかり想像していた。
夕食後、Cultural and traditional exchange(文化と伝統の交流)というのがあって、メンバーたちが英語で話し合った。しかし、英語だったため、話し合いはたいして内容が深まらなかった。ゴミ拾いをして感じたことをそれぞれ話し、明日からの方針を決めた。ゴミ拾いでは、子供達など一緒にやってくれる人がいた。ただ拾うだけでなく、一緒にやろうと呼びかければ、みんなやってくれるんじゃないかという意見を出した。
翌日から、人々にもっと呼びかけようということになった。それから、話は変な方向に進んだ。お見合いの風習、e-mailでの恋愛など、ところどころ何を言っているのか見当がつくのだが、英語では言いたいことが言えずにもどかしい思いをした。カンボジアのスタッフが熱くなっていろいろ語っていたが、メンバーの数人は疲れて眠っていた。僕もまぶたが重くて苦しかった。
03.Aug.Thu.  きょうはマーケットの清掃。バイクの後ろにまたがり、昨日の場所よりもずっと向こうへ。大きな市場の前でゴミ拾いをした。暑いし、ほこりっぽいし、臭いしでたいへんだった。ゴミでいちばん多かったのがビニール袋とストロー。それに、キャンディーやガムの包み紙も多い。あたり構わず捨ててしまうらしい。午前の後半から、市場の人々にexplain(説明)を行なった。キャンプリーダーのJさんや僕がこの活動の趣旨を英語で説明し、クメール人女性のBがそれをクメール語に訳して伝える。そして、何人かが手伝ってくれる。でも、中には僕たちのやっていることを奇異な目で見る人も少なくなかった。子供達を中心に啓蒙していくのがいいだろうと思った。カンボジアの子供達はすごくかわいい。屈託のない笑顔。この国の未来への大きな財産である。 バスで移動。今度は橋を渡らずに直進。観光客が多く、午前中の市場よりはしゃれた町並みである。ゴミも比較的少ない。だが、おそらく地雷で片足、両足、腕などを失った人が通っているのを何度となく目にした。これは予想以上に多かった。悲しい歴史を引きずっているのを実感した。観光で来ていた若い日本人女性と話した。友達とはぐれてしまったそうだ。ホテルにはクーラーがあり、冷たい飲み物だって十分飲めるのだそうだ。うらやましい…。ワークはあと12日間続くのか、苦しいな。途中、ずっと子供達がゴミ拾いを手伝ってくれた。突如風が起こり、ものすごい雷と共に雨が降り出した。雨宿りしたシェムリアップ州の環境省の建物で、日本語を勉強しているBさんと会った。ここにはアンコールワットがあるので日本語ガイドの需要が高いのだそうだ。彼もガイドになりたいと言っていた。 夕食後、イギリスのNが何かみんなに言っている。どうやら飲みに行こうぜと誘っているらしい。ザンジーバーというのがあって、みんなでそこに行こうということになったらしい。僕も誘われたが、ボランティアの主旨と外れるよなと思い、行く気になれなかったので断った。ニックと同じイギリスのTも、明朝食事当番で6時起きだし、ちょっと疲れてるからといって宿に残った。それに、カンボジアの夜は危険な感じがするからと言っていた。みんなの評判をきいて、次行くかどうかを決めると話していた。TとNは好対照の二人である。Tは空手を勉強していて、僕に変だったら教えてと言ってその型を見せてくれた。きょうは三日ぶりに石鹸をつけて体を洗った。洗濯もした。雨が降ったせいか、過ごしやすい夜だった。
04.Aug.Fri.
アコモデーションから約10キロ離れた町のマーケットに行き、昨日と同じようにゴミ拾いとexplainを行なった。その後、役場で自治体の偉い方の話を聞いたり、市場の事務所を訪問したりした。帰り途中に西バライ湖に立ち寄って休憩した。この湖は11世紀に作られた人工の湖である。飛行機から見るときれいな長方形をしているのがわかる。湖畔には土産物屋が並んでおり、僕はそこの少年から絵葉書を買った。湖では水浴びをする人もいた。ここの人たちは服を着たまま泳ぐことに抵抗がないみたいだ。

きょうの午後はオフ。いよいよアンコールワットへと向かう。とにかく全部歩き、登ってきた。想像を絶するほどの圧倒的な規模で隅々まで覆われた彫刻。ただただ驚くしかない。13世紀のカンボジアの王の権力の大きさ、宗教が人を引き付ける力の大きさを感じた。日本人のツアー客が大勢来ていた。日本語ガイドが必要だということが納得できた。日本語を勉強しているという若者が案内しますと声をかけてきたので、しばらく一緒に回った。これは後で金を請求されるなと思っていたら案の定。僕は2ドル渡した。
夜の予定は何もなく、夕食後はめいめいにのんびり過ごした。若者たちの中には飲みに行く者もいたが、僕は部屋で横になっていた。カンボジアスタッフの1人Cが、日本の教師の月給はいくらなんだと聞いてきた。だいたい2000ドルくらいかなというと、彼は目をまるくして驚いていた。いつまでも動揺を隠しきれないようだった。彼らは自分の国に生きて、自分の国をよくしようという決意に燃えている。だが貧しさは一朝一夕に改善されるものではない。僕はこの時の彼の目を忘れてはならないと思った。
05.Aug.Sat.  バスで45分ほどのところにあるバコンテンプルへ行く。寺の見学の後、周囲の清掃とexplain。その後帰り道で2か所、沿道の集落でも清掃とexplainを行なった。1か所目はゴミは自分達で片付けているという清潔な感じのする集落だった。2か所目はバスの運転手のPと組んでexplainをした。バコンでは子供達にありとあらゆる指に草でこさえた指輪をはめられ、あれこれ買え買えとか、ワンダラーワンダラーとか言われた。帰りに1000リエルで水を買ったが、それでもしつこくつきまとわれた。この子たちの将来を考えた時に、1ドルを渡すべきか否か。たぶん、渡すべきではないだろう。 15:00、バイヨンへ。アンコールワットのすぐ近く。顔のたくさんある寺だ。曇っていたせいか涼しくて独特の雰囲気のある土地だと思った。ここではコーラが1ドルだった。高い。しかもぬるかった。フランスのMと話をして意気投合した。なぜtravelでなくworkcampを選んだのかと聞いてきた。人々の生活により近付けるからだと答えた。「みんな関係している」と彼女は言った。日蓮上人の本を読んだと言っていた。Tは空手をやっているし、このキャンプの参加者はやはりアジア指向の人が多いのかなと思った。Mと僕は同い年で、今回の最年長であった。彼女は将来国連で働く夢があると言っていた。 土曜の夜だからか。どこからかクメールの音楽が大音量で聞こえてくる。僕らの宿舎の別棟には学校の教員になるための研修をしている若者たちが合宿をしていたのだが、その教室で今夜はEntertainmentがあるという。LやCはずいぶん気持ちが高ぶっていたようだった。
クメールの音楽は、日本の演歌のようでもあり、中国系のようでもあり、コーランのようでもあった。その音楽に合わせてみんなで踊った。Bはさすがに上手でしなやかに腰をくねらせて踊っていた。踊りの合間に各国の遊びをそれぞれ披露した。日本組は「牛たんゲーム」というのをやった。これが意外と受けた。笑った。それにイギリス組も似たようなゲームをやった。これもおもしろかった。クメール人の表情もなんか可笑しかった。Tが持ってきていたビートルズのテープをかけた。クメール人は誰も聴いたことがないようだった。
06.Aug.Sun.  きょうは日曜日。トラックに揺られて2時間ほどの山奥にある滝を見に行ってきた。軽トラをひと回り大きくしたくらいのトラックの荷台に20ほどの人が乗り込み、トラックは風を受けながら走った。赤土のしかもでこぼこの道を通ると、土ぼこりが巻上がり、振動がもろに尻に伝わってきた。着くとそこはいかにも観光地といったにぎわいを見せていた。山なので涼しく、滝も大きいので避暑に来るのだろう。それに、少し登ると奇妙な形をした岩が並んでおり、寺があった。やはり、昔からの聖地なんだろう。 まだ11:00を回ったばかりなのに、着くなり弁当を広げるところは気持ちがわかる。コーラやビールもぬるいまま出された。どうもぬるいビールは気持ち悪くて飲めなかったな。食後は滝の下の流れにしばらく浸かっていた。実に気持ちよかった。帰路、バンテアイ・スレイという寺を見学した。この寺は2年前に観光客に開放されたばかりだ。規模は小さいが、彫刻が細部まで残っていて見ごたえがあった。宿舎に着いた頃には土ぼこりのために白かったTシャツが真っ赤になっていた。夕食前、短時間ながら横になり熟睡した。 食後、カンボジアのボクシングを見に行く。タイのムエタイと同じようにカンボジアにもボクシングがあることは、来てみて初めてわかった。外国人は2ドル。一般の客は3000リエルだった。入場料を払うと、なぜかタバコがひと箱もらえた。だが、徒歩で行ったことと、客席がただ板を渡してあるだけの粗末なつくりなので、疲れたし尻は痛いしで、僕は途中で帰ってきてしまった。宿舎に着く頃、フランスのCとスイスのAがバイクタクシーで帰ってきた。彼女たちはまたバーで飲んできたらしい。ずいぶん御機嫌だった。
07.Aug.Mon. 植林。暑さと疲れと腹痛の中、ひじょうにゆっくりとした速度でしか動くことができなかった。1時間近くワゴンに揺られて林の中へ。車の中で腹痛をもよおした。最初は胃あたりだったのが、だんだん下がってきた。ワークの途中で民家からトイレを借りた。初め水が欲しいのと誤解したらしく、ボトルの水を差し出されたのだ。そうでなくてトイレを借りたいのだとわかってくれたのは、けっこう時間が経ってからだった。

 

引き続き植林。どうもまだ調子が悪い。とにかく喉が乾いてしかたがなかった。暑さは暑いし、林の中で迷ってしまうし、ほんとうに参った。今まで見たことのないくらい大きなアリが、ズボンの裾から中に入って来て、股間やいろんなところをかじるので、パニックに陥ってしまった。うかつに腰を降ろしては危険だということがわかった。 ザックの中に入れてあったボトルの水が漏れて、パスポートやカメラを濡らしてしまった。そのせいでカメラがおかしくなった。これはたいへん。だが、乾いたら元通りになったのでひとまず安心。パスポートのほうはちょっと歪んでしまった。明日も植林か…。憂鬱な気分だった。

 

08.Aug.Tue. 植林の2日目。きょうは食事当番にあたっていた。だから、午前中はずっと現地で昼食用のフランスパンやハムを切るだけの仕事であった。なんてラッキーなんだと内心喜んでいたよ。日陰で過ごしたので疲れなかった。苗木栽培試験場の川上の桟敷きのようなところに場所を移しての昼食となった。

 

午前中の植林で疲れたみんなはしばらく熟睡。僕は氷水を少し飲み過ぎた。午後は苗木を掘り出しては使えるものと使えないものとに選別する作業をした。掘り出した苗を運ぶ作業は、日陰とはいえけっこうきつかった。帰ってから雨。雨上がり、近くの若者たちとバレーボールをした。
 

 

食後のテーブルには二つのグループができて、それぞれに会話をして盛り上がっていた。片方ではクメール・ルージュの話題が繰り広げられた。英語の上手な者しか会話に加わることができなかった。聞いていても1割も理解できなかった。なぜかカンボジアの彼らは僕に向かって"You look so happy."(幸せそうだね)ということが多かった。
09.Aug.Wed. 植林の3日目。子供達がたくさん手伝ってくれた。暑くてはあはあいっている僕を見て、子供達は笑っていた。林の中に大昔の寺の残骸が廃虚となって埋もれていた。ドイツのLはなぜか写真を撮ってばかり。この写真をNGOの写真コンクールに出して、賞をとったら全部寄付するのだと言っていた。

 

きょうは午前でワーク終了。帰りにはまた西バライに寄って少し休む。宿舎に戻って水浴び、そして洗濯をした。その後町へ。小一時間、目抜き通りを一人で散歩した。さとうきびのジュースを飲んだ。子供達の写真を撮った。ドリアンシェイクなんてのも飲んだ。これがうまかった。みんなと合流してから、羽を蹴る遊び(名称不明)をする。
いつのまにかみんな仲良くなっていた。夕食時Kがお好み焼きを作ってくれた。みんなうまいと好評だった。ドイツのBと話した。"Matrix"の話をした。彼はJapanimationのことを聞いてきた。日本のポルノアニメがどれだけインターネットに氾濫してるか知っているか?あれはよくないよと彼は怒っていた。
10.Aug.Thu. 
宿舎からバスで15分ほどのところにある小さな孤児院を訪問した。身寄りのない子供達が小さい子は小学1年生くらいから、大きい子は17、8歳くらいまで。30数名が協同生活していた。持ってきたお菓子を2、3個ずつ手渡してあげ、その後、小さい子たちの髪を洗ってあげた。ここらへんから意味不明なのだ。髪を洗う意味はわかるのだが、ねらいはどうも髪を洗っているところの写真らしいのだ。
 いったん宿舎に帰り、昼食をとった後、また同じ孤児院へ。敷地の回りにコンクリートの塀を作るのだという。僕たちは子供達と一緒になって重い柱を運んだり、庭の草を刈ったりした。カンボジアの子供達はほんとうに働き者だと思った。そのうちにそこの子供達がたくさん話しかけてきたので、お茶を飲みながらその子たちと話をした。そこの先生たちとも少し会話をすることができた。  夜も暑くていつも寝苦しい。だから長く感じられる。うちわを片時も手放せない。蚊帳の中では暑いから外に出る。外のベンチで寝るといくぶん涼しいのだが、そのぶん蚊に刺される。この虫刺されだが、帰国後化膿してひどい目にあった。完治するまでになんと3ヶ月を要したのである。熱帯の蚊を侮るなかれ。
11.Aug.Fri. テレビの撮影があるというので、最初8月3日に行った市場に出かけて、15分くらい撮影用のゴミ拾いやらexplainやらを行なった。我々の活動がカンボジアの全国放送に取り上げられるのだそうだ。LもCもものすごくオシャレしていたのがおもしろかった。その後は、シェムリアップ州の文化省へ行って、役人たちと話し合いをした。話し合いといっても、役人がべらべらとひたすらしゃべるだけ。アンコールワットの入場料は20ドルなのだが、それはどう使われているのか。ホテルなどからの税金はどれくらい入るのかなど最後にいくつか質問をしたが、結局はわからずじまいだった。アンコールワットの一年間の入場者数は去年が1万人。今年が3万人だと言っていた。我々がアンコールワットに行った時には少なく見積もっても1000人はいたはずである。だから3万人なんていう数字はにわかには信じられない。 昼食をその場でとった後、しばらく休憩。暑いし疲れてるしで、もう帰りたかった。腹の調子が悪くてトイレを借りようと思ったが、カギがかかっていた。いちいちカギを開けてもらわなければトイレが使えないなんて。そしてどこに行っても水回りは貧弱だ。続きをやるのかと思っていたら、結局その場は後にして、バスで版画や彫刻、織物などの工芸品を製作している工場を3か所訪ねた。2か所目で気持ちが悪くなり、バスの中で休むことにした。夕方になると少しよくなったので、みんなと一緒にプノン・バケンという山に登り、夕日が沈むのを見た。若い日本人たちがたくさん来ていた。彼らはとにかく感動の言葉を連発していた。大学時代にここに来ていたら、人生は変わっただろうなと、そんなことを考えた。

 

夕食はごはんが喉を通らず、おかずを少し食べただけだった。NやSがポカリスエットを氷水で作ってくれた。それを飲んだら、今まで汗が止まらなかったのがぴたっと止まり、涼しくなって、そのまま眠りに就くことができた。恐るべし、ポカリの威力。ほんとに助かった。
真夜中、Kが部屋の猫が気になって眠れないと言っていた。2匹の猫が入ってにゃあにゃあ鳴いていたようである。
 
 
 

 

12.Aug.Sat.  5時過ぎに起床。井戸で頭を洗った。そして洗濯。きょうはレストランで朝食を食べるそうだ。コーヒーとフランスパンとオレンジジュース。コーヒーには砂糖とミルクがたっぷり。それをスプーンでかき混ぜて飲む。ベトナムのコーヒーの味に似ている。いったん宿舎に戻るのかと思っていたら、そのまま直接きょうの訪問先Cultural Schoolへ。カメラも何も置いてきてしまった。とても残念。Cultural Schoolには子供達が70〜80名おり、農業しながら共同生活を営み、伝統舞踊を学んでいる。ストリートチルドレンだったり、近郊の村から預かったりした子たちで、全てが孤児というわけではないらしい。我々のために、何種類もの踊りを披露してくれた。特に漁師の踊りでは、ココナツの実をこんこん鳴らしながら踊る表情が素晴らしかった。踊りの後は、そこで作っている竹細工を見せてくれた。その中の小さな小物入れを1ドルで買った。 その場で昼食、休憩。踊りの途中で椰子の実にストローを刺したものを出された。ジュースをまるまる一個分飲んだ。なんか甘くないポカリスエットのような味だった。実を割って、内側に着いている白いものが、ココナツのココナツたる部分だということがわかった。食べてみたが、脂っこくて、うまいとは思わなかった。これを乾燥させて細かくして料理に使うのだろう。午後は、授業風景や踊りの練習風景、農作業の風景を短時間で細切れに見せてくれた。僕らも鍬を持って畑を耕したりした。これも写真を撮るためらしい。撮影はやはりドイツのLだった。 自分がカメラを忘れたためか、気分がよくなかったよ。 宮沢賢治の童話集を読んだ。セロひきのゴーシュを読んで涙が出そうになった。やまなしを読んで震えるくらいの恐ろしさを感じた。こんなことは今までなかったな。僕らはどこにいても、どの国に住んでいても、詩を作ることができる。言葉の世界に遊ぶことができる。そして、ほんとうの言葉をもてば、僕らは誰とだって話をすることができる。とそんなことを考えた。NGOや国連の人たちが集まるパーティーがあるというのでその店に行ってみたのだが、それらしい人に会うことはできなかった。ここに来て初めて、バーで酒を飲んだ。僕はビールを2杯とカクテルを飲んで、Bと組んでビリヤードをした。西洋の繁華街の一角を切り取ったようなバーはなじめなかったけれど、カンボジアでこうして遊んでいるドイツ人とイギリス人とフランス人とスイス人とカンボジア人と日本人という取り合わせは、実に不思議な感じがした。
13.Aug.Sun. 
7:00前だというのに、大音響のカーステレオで歌謡曲をかけ、ひとり膝でリズムをとりながら悦にいっているのは、今回のワークキャンプのカンボジア側の主催者KYDO(Khmer Youth Develop Organization)の一番のお偉方だそうだ。きょうはpoor peopleに薬をあげるのだそうだ。バスで悪路を1時間半。それからさらに徒歩で30分のところにある村を訪ねた。貧しさの貧しさたるゆえんは、その空虚な精神にある。KYDOもこれを1つのイベントとしか考えておらず、この村に薬を与えるのは今回が最初で最後なのだそうだ。広場に集まった村人たち一人一人に何種類かの錠剤を「授ける」。まさに授けるという感じだった。与えられる側も なんかよくわからんがもらえるものはもらっとけというような発想なのかもしれない。
 帰りもまた30分歩いて1時間半バスに揺られた。午前の「薬渡し」はもっとどうにかならなかったのかな。誰もがわかるような説明をしたり、掲示やビラを使ったりすれば、健康についての啓蒙もはかれたはずだ。こういうところで教員という職業を生かせなかったのは残念だ。KYDOも結局は補助金欲しさのためのアピールをしたかったのだろう。自分達のNGOの活動に世界各国からボランティアが参加している。どうですか、すごいでしょうといって写真を見せるわけだ。僕もボランティアが村人に薬を渡しているところを写真に撮ってくれるように頼まれた。しかも、バックにはKYDO&NICEのTシャツが写るようにという注文までつけられた。 午後には、町に行き土産物を買った。そして、またドリアンシェイクを飲んだ。ドリアンはにおいがきついということは聞いていたが、それほどとは思わなかった。もしかしたら、あれはドリアンじゃなかったのかも…。夜にはレストランでフェアウェルパーティーがあった。活動に携わっていた人たちがざっと100人くらい来ていた。こんなたくさんの人たちが関わっていたのかと驚いた。屋外のテーブルだったが、途中で雨が降り出してみんな大慌てだった。早い人は明日の朝帰途につく。実質的な仕事はきょうまでで、明日は見送りをしたり、寺を見て回ったりすることになるだろう。ここで寝るのもあと2回だ。相変わらず暑くて寝苦しいが、さすがにここを去ることは寂しく感じられる。
14.Aug.Mon.  けさ早く、Bはプノンペンに帰っていった。僕の撮影したフィルムを持ったまま。Lは、フィルムは後で送ると言っていたが、すぐにということにはならないだろう。Bに続いて、LとCも、そして、Gや飯を作ってくれたおばちゃんたちも帰っていってしまった。カンボジアのスタッフはみんな去ってしまった…。残されたのは我々。うそだろう。宿舎は引き続き泊れるから心配いらないと言っていたが、椅子もテーブルも、浄水器も洗面器もみんな持っていかれた。アンコールワットの前のレストランで、フランスパンとオムレツ、アイスティーの朝食。その後空港に行き、Bを見送った。明日の同じ便で僕はカンボジアを後にする。今、メンバーの半分はフローティングヴィレッジというところに行っている。行かないかと誘われたが、ちょっとゆっくりしたいと思ったので断った。 井戸でおそらくは最後となる洗濯をした。これで帰国までなんとかなる。しばらくベンチに座って空や木々を見ながら思った。我々ボランティアには責任がある。帰ったらどうすべきなのか。いったい何を伝えればいいのか。考えがまったくまとまらない。あまりにもいろんなことがあり過ぎて、まとめることなんかできないと思った。1つわかったこと。憎むべきは貧困である。貧困の解消のために我々は努力すべきである。
昼からKと一緒に町へ出た。ドリアンシェイクのことを話したら、飲みたいと言ったので連れて行ったのだ。しかし、昨日の店の場所がわからず、炎天下彼を振り回してしまった。やっとのことで店を見つけた。そこで焼飯とシェイクの昼食をとった。
午後には空港でMを送り、タ・プロムという寺を見学してから、またアンコールワットに行った。今度は高い塔の上で空と遥かに広がる森を眺めながらしばらく物思いにふけっていた。夕食は今までお世話になった運転手のピロンを招待して、レストランで感謝の会を開こうということになった。レストランに着くとイギリス人の2人がちょっとメールを見に行ってくると言ってバイクタクシーでインターネットカフェに行ってしまった。Pは好き放題にバスを走らされたのが気に入らなかったらしく、怒っていたようだったが、食事をしながら気持ちは落ち着いたようだ。英国人2人は結局そのままレストランには戻ってこなかった。宿舎に戻ってから、険悪なムードで口論があったが、最後には和解したようである。違う国の人々が一緒に生活するというのはたいへんなことなんだなと思った。
15.Aug.Tue.  いよいよカンボジアを去る日が来た。日本人のJとKは、ポイペトルートの陸路国境越えに挑戦するといって、6時発のピックアップトラックに乗るために5時過ぎに宿舎を去っていった。だんだん少なくなっていく仲間たち。僕は素晴らしい世界の若者たちに会えたことをとても感謝した。きのう市場で買っていたランブータンを、井戸のある家のおばあさんにあげてきた。水がどれくらいありがたいものか。身に滲みて感じた旅だった。そして、もっとお金をかけて大規模な井戸を掘れば、もっときれいで豊富な地下水が得られるのに。そうすればここの人たちも、もっと豊かになれるのに。と思った。援助を集中させればできることではないのだろうか。朝食はアイスクリーム売りのおじさんから買った。フランスパンを縦に切って、そこにミルクアイスをはさんでくれる。これがなかなかうまかった。 10:40発のバンコク行き。みんなで市場の喫茶店で飲み物を飲む。注文してからずいぶん待たされた。ここのシェイクにはにんじんが入っている。しかもすごく甘い。コンデンスミルクがたっぷり入っていた。ドイツのLがここは高いからといって1人で別の店に行ったのだが、約束の時間になっても帰ってこない。ここらへんから少し焦り出した。Lが戻ってから、Pが猛スピードで空港まで連れていってくれた。みんなずっと手をふってくれていた。ありがとう、さようなら。飛行機の中、見送りのみんなの顔がうれしくて、しばらく余韻に浸っていた。

 

昼食は機内でとった。バンコクに着くとすぐに空港でホテルを予約し、タクシーで向かった。きれいなホテルでまずバスタブにお湯を張り、2週間ぶりの風呂に入った。頭からつま先まですべての垢を落とした。そして、街へ出て屋台を散策した。帰ってきてからは、ホテルにあったタイ式マッサージで1時間半ほどマッサージをしてもらった。足中心に攻められ、けっこう痛かったのだが、疲れがふっとんだ気がした。ベッドの感触も久しぶりだった。翌朝(16日)の飛行機で成田へ。夜には東京で友人と会い食事。その日のうちに盛岡の自宅に帰っていた。

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