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2016年8月  augustus 2016

donderdag 18 augusutus

 夏休みは今日が最終日。これだけ休める年はもうないかもしれないというくらいの日数を休ませてもらった。日本は、バカンスを一か月も取るイタリアとGDPがほぼ同じだという記事を読んだ。労働生産性に至ってはOECD加盟21か国の中で最低だという。この事実から、何を学べばよいのだろう。できるなら、休暇は十分取って仕事に行った時にはよい働きができるようでありたい。当たり前のことなのだが、日本ではそれが難しい。制度が変わればよくなるという意見には懐疑的だ。労働に対する考え方が根本にあるような気がするからだ。フランス人は生きるために働くが、日本人は働くために生きているようだという声を何度か耳にした。フランス人のところは、他の欧州の国を当てはめることもできる。日本と欧州の人々では労働観が全く違っている。もちろん個人の考え方の相違を、国をひとくくりにして考えることはできないが、同じような考えを持つ人が多ければ、社会のあり方もそれなりに作られていく。例えば、最近話題の部活動の問題は、自分が中学生の時にはすでに問題意識にあったことだった。どうして休日に試合や大会があるのか、それに対してなぜ代休が保障されないのか、疑問で仕方なかった。同時に望む方向に社会は変わるという思いを抱いてきた。それが教育の道に自分を進ませる理由の一つだったかもしれない。だが、それから何十年経って現状を見れば何も変わっていない。変わっていないどころか、悪くなっていることばかりが目についてしまう。教育の問題かという気持ちもある。自分が荷担してきたかもしれないと思うと情けなくなる。だが、そればかりでもあるまい。ここにきて思うのは、人の一人一人の心の有り様が、世の中を作っているということである。一瞬一瞬一つ一つの振る舞いが、隣の人を生かしたり殺したりする、その積み重ねでしかない。ここでの夏休みの3度目でようやく欧州人のそれに倣った考え方で過ごすことができたように思う。休みには仕事のことは考えず、ひたすら何もしない。しかし、いざ仕事となったら気持ちを切り替えて働ける気がする。いずれにせよ、なんのために働くのか、なんのために生きるのかを問い続ける姿勢を持ち続けることができれば、それほど変なことにはならないだろうとは思っている。