6月の日記


3000.6.30
 今年もきょうで半分が終わり。4月から数えると、4分の1の終わり。速いのか遅いのか。これがわからない。一生懸命だったのかそうでなかったのかもわからない。給料のためだけに働いてるわけじゃない。かといって休日さえも仕事に割いて「がんばる」わけじゃない。いわゆる「サラリーマン教師」は敬遠されるが、オレは歴とした一サラリーマンである。自分はこれでも精一杯の情熱をもって働いているという自覚がある。給料袋を渡される時ほどありがたい一瞬はない。だからといってこのオレが「サラリーマン教師」といって否定されてしまう存在だとしたら心外だ。「プロフェッショナル」を目指せといわれるが、プロってどういうことなのか。教師のプロとまっとうな生活者とははたして矛盾するものなのか。子供のために尽くすのがオレたちの仕事。まっとうな仕事のためには寝る時間さえ削れと教わった。給料泥棒になるなと言われ続けた。金をもらうというのはたいへんなことだ。やることをやらないで遊んでいるのは給料泥棒だ。仕事のためには休日さえ休んでいてはいけないのだ。なぜならお前にはまだ力がないのだから。遊ぶ時間なんてありはしないのだ。そう言われ続けたことを思い出す。
 たしかにその通り。オレには力がない。でも、その考えに断固反対する自分もあるのだ。休日も満足に休まないような教師を、よき教師と呼べるか。仕事だからといって生活を疎かにしている人間が胸を張って子供の前に立てるのか。事実子育てに失敗している教師の例は枚挙に遑がない。
 教師の影響力は非常に大きい。3年間も子供の前で何か言っていれば、子供はその教師を受け入れる受け入れないに関わらず、否応無しにその教師の人間性と似た部分をもつようになる。人間性の刷り込み。極端な言い方をすれば、前に立つ人間のコピーができるのだ。そう考えたら、オレたちはいったいどれだけの責任を果たしているといえるだろう。
 自分は生活者としても教師としてもまだまだである。「よき生活者はよき教師なり。よき教師はよき生活者なり」古くから言われているこの言葉の重みをしっかりと噛みしめて生活したいものだ。


3000.6.28
 ある飲み会に出て、帰ろうと思ったら靴がなかった。誰かが間違ってオレの靴を履いて行ったらしい。
いくら酔っているとはいえ、自分の靴を間違えるなんて情けない人間がいるものだ。実に困った。オレはその靴しか持っていないんだから。寿司屋の名前の入ったサンダルで帰るはめになっちまった…。そういうオレも十分情けない人間だ。
 だがいいこともあった。懐かしい人に会った。すぐ近くに転勤していたのだ。少しの間話をして昔の想い出が蘇ってきた。どんなことも時を隔てるとあたたかく感じられる。
 それぞれの時間が流れ、それぞれの歴史が刻まれてゆく。ある者はこの世を去り、ある者は家族をもち、ある者は独りになる…。解釈は後からつけられる。愉しくもあり、哀しくもあるが本当は、愉しくも哀しくもない。そこには事実があるのみ。彼から聞いたオレが去った後の村の様子は、オレをそんな気持ちにした。職場から車で直でかけつけたので今夜は酒は飲んでいない。彼とはまた近いうちに会おうといってわかれた。
 人にはいろいろな立場がある。それぞれに理想も違う。世の中には実にいろいろな人がいる。だが、他人を見てそんなことを思うことの無意味さよ。自分がどんな立場で動くのか。自分がどんな理想を描くのか。そこのところがいちばん大事という気がする。「世のためボクのため」というコピーが気に入った。
「わがまま」ということがいいことか悪いことか、わからなくなった。オレたちははたして、死ぬ前にやりたいことをすべてやりきれるのだろうか。人の迷惑なんか顧みずに、やるべき時やるべきことがあるのではないだろうか。迷惑をかけないことばかり考え過ぎると、あとで後悔しそうだ。自分のためになることは、イコール他人のためにもなるはずだ。そういう意味でオレはわがままに、自分本位で生きていきたい。


3000.6.25
 寺山修司記念館が三沢にあるというので行って来た。朝6時発。高速を北上した。はじめに三沢駅に寄ってみた。十和田電鉄の古くて懐かしい感じのする駅舎があった。ちょうど学生たちを乗せた電車が発車するところだった。()街の真ん中に米軍基地へのゲートがあった。周囲の商店には英語が目立ち、アメリカ人らしき人々がジョギングしたりしていた。隣には三沢空港。待ち合い室には軍人とその家族らしき人々が目立った。東京便や大阪便が数便ずつ。やはり基地の近くで、米軍関係の利用がおおいのだろうか。送迎デッキから基地のほうを臨んだが、よくわからなかった。丸型のレーダーらしきものが遠くに見えた。車で近付いてみたが、側に行くことはできなかった。全くの球形というのが不気味だった。
 記念館の建物の壁面にはグロテスクなシンボル?が付いていた。入口の扉も扉の取っ手も変な感じだった。中では寺山修司と三沢に関するビデオが上映された。約30分という長めのプログラムだったが、今までたいした予備知識を持っていなかったので、大いに参考になった。修司が生まれたのは弘前だが、戦争で焼け出されてから三沢の親戚の所に間借して、小学校4年生から4年間、三沢に住んだのだという。父は戦死。母はやがて米軍基地で働き始め、まもなく米軍将校とともに九州の基地へと去ってしまう。ビデオでは、三沢の小学校時代の同級生たちが出演して、当時の事をいろいろと語っていた。修司はその同級生たちにかなりいじめられていたようだ。
 展示室も変わっていた。薄暗い部屋の中央に十いくつの机が整然と並べられており、その引き出しを開けると中に展示物が入っているというものだった。入館者は銘々に懐中電灯で照らしてその机の中を見るのだった。映像作品のダイジェストも上映されていた。今までほとんど知らない世界だったので、興味が引かれた。(入館券
 さらに恐山へと足を伸ばし、霊場を一周した。以前は宿坊に泊まったが、今回は少々駆け足の巡礼であった。帰路、八戸駅に寄り、名物の駅弁「小唄寿司」を買って帰った。家に着いたのは6時半だった。
 青森はおもしろい。津軽もいいが、下北もなかなかである。見どころも多いが、米軍基地や原子力関連の施設も多い。「辺境」という言葉をあえて使えば、辺境だからこそ人間のある意味で極致が形にあらわれるのだろう。


3000.6.22
  突然友達がやってきた。3か月ぶり。オレのパソコンからインターネットでジーンズの注文をしていった。奥さんの誕生日プレゼントだそうだ。偉いな。少々元気なさそうだったが、相変わらずの笑顔がうれしかった。
 テレビで清志郎が、「起きろよBaby、選挙に行こうぜ」と歌ってる。「誰か違うやつに投票してみないか」と歌ってる。オレはもう密かに投票を済ませた。権利を立派に行使した。どんなもんだい。オレの日曜日は自由。
 火星に水がある証拠が見つかったらしい。地球外生命体は、意外と近くにいるのかもしれない。百年前に人々が想像したとおりの、タコのはっちゃんみたいなやつだったりして。あと百年もたてば、そんなの常識になっているかもしれない。
 急に橋本一子が聴きたくなった。"MILES AWAY"のラストは泣かせる。JAZZの命は流れるような魂の囁き。
ジャズのように生きる。離れていても実は近づいたり遠ざかったりしている。心の距離と魂の距離は全くの別ものだと思う。心は強くとも魂はずたずた。そんな人々の前ではオレたちは何もできない。「癒す」なんて、やっぱり不用意に使える言葉じゃないな。"BLUE IN GREEN"を聴いている間に日付けが変わった。


3000.6.20
 きょうも暑かった。まだ6月というのに、これじゃ日中は8月と変わらない。夕方になると幾分凌ぎやすくはなるけれど、帰宅したときの部屋はまるでサウナのようだった。生協で心太を買ってきて食った。暑い日の心太は最高だ。繊維質は豊富でしかもノンカロリー、糖分もゼロで、適度に腹も満たす。腸の調子もよくなるのだ。こんなさわやかな食い物はほかにない。オレにとっては夏一番の風物詩、である。 
 本屋をのぞいたら、「銀河鉄道999」の総集編が出ていた。懐かしいと思い、手にとってぱらぱらとめくってみた。すると、松本零士のあの重厚な宇宙画が目に飛び込んできた。そして、メーテルが、鉄郎が。ハーロックもいる、クイーンエメラルダスも…。彼等はわが幼き日のヒーロー、ヒロインたちである。思わず買ってきて一気に読んでしまった。なんてカッチョええんだ。未来を、宇宙を、光と時間の彼方を夢見るようになったのは、彼等との出合いがあったからだ。今こうして西暦3000年の世界を旅しているオレも、彼等と同じだ。てなことをまじめに書いたら、笑われるだろうか。


3000.6.18
 きょうは9時過ぎに起床した。こんなことは久しぶりだ。足の踏み場もないほど汚かった部屋を片付けた。天気もよかったので布団を干した。午後2時を過ぎて、遅い昼食をとった。冷凍のラーメン。
 3時から、動員である立候補者の個人演説会に行く。印象に残った話。東京から稚内への1泊2日のツアーが1万9千円。それに対して、稚内の人が東京まで往復するには5万円かかるのだという。恐ろしく不公平だ。さらに、自治体では、東京からの観光客のために5千円を補助してカニを食わせているそうだ。また、地元の人が東京に行くときにも5千円、補助を出しているそうだ。
 帰りには、今までためにためていた牛乳の紙パックや卵のパック、プラスティックトレイを生協の回収箱にどっさり入れてきた。
 今、テレビで世界中の都市の環境を守るための先進的な取り組みが放送されている。リサイクルを中心とした構造を作りあげることが大切らしい。上海では都市の真ん中で堆肥による畑作が進められていて、長距離を輸送する必要がないためコストも抑えられ、環境にもよいのだそうだ。「人類の未来は都市で暮らす人々の生き方にかかっている」という言葉で番組は締めくくられた。

3000.6.17
 知らない間に部屋が汚くなったので、日曜には掃除しよう。布団もできれば干したい。
 生活をおろそかにしていると後でつけが回るのだ。
 コンビニのおにぎりの昼食。家庭科で食品表示を勉強した子供達が僕に忠告する。
「ほら、保存料も着色料も酸化防止剤も入ってる。こんなのばっかり食べてるとガンになるよ」
おかげで食った気がしなかった。うまくもなんともない。発がん物質をただ蓄積するだけの食事。そんなつもりではないのだが。やっぱり食生活を粗末にしているとつけが回るのだろうか。
 こうも言われた。
「60歳までなんて生きれないよ。たぶん長生きできないよ…」
その通りかもしれない。一昔ほど前、41歳寿命説なるものが話題になったが、ここにきて自分の問題という気がしてきた。
 淘汰されべきは我が身なり…か。冗談じゃない。



3000.6.14
 結局きょうもNTTには電話をかけずじまい。きょうは行事でそんな暇はなかった。7時半に学校を出発し、職場に戻ってきたのは5時10分前。その頃にはかける気力もなかったよ。部関係のイヴェントは疲れる。何せ、スポーツというものにはこれまで積極的に親しんだことがなく、勝ち負けや白黒がはっきりした物事が苦手なオレである。指導といっても指導らしきことはできないで、いつも親や地域民の世話になってばかり。審判なんぞやらされた日にはパニックに陥りわけがわからなくなってしまうのだ。明らかに体育会系とよばれる人種とは対極に生きているオレである。いったいどうして「課外」である部活動にこんなに神経を、時間を、使わなければならないのだろうと、素朴でかつ、かなり本質的(と思うんだけど)疑問がまた頭の中に渦巻く。
 たしかにスポーツをやるよさはある。体力的な面だけではなく。今まで何人か尊敬できる指導者に会うことができたが、彼らの言うことはいつもすっと心に滲みるように説得力をもっていた。聞くとスポーツも一つの「道」なのだということを感じた。それは勝利至上主義と似ているようだが実は全く違う生き方である。彼らはみな、生徒の保護者や地域民である。
 現状は、顧問が優れた専門家である部は充実した活動ができ、結果勝利につながる。逆に専門でない人間が顧問になった部は、いい成績がとれないばかりか、親や生徒からも信頼を失うことになる。クラブの指導はたしかに奥が深く、やりがいもあるだろう。専門でない者も努力が必要だというのもわかる。だが、授業一時間満足に準備する時間ももてない状況で、部活まではとても手が回らないというのが本音だ。学校は地域にいるすばらしい人材をもっと活用すべきである。そして、部活はいずれ学校からはなくし、地域の活動にすべきだと思う。
 てね、簡単にいうけれどそれが難しい。話すことさえもタブーっぽくなっているところあるしね。この問題に関しては一人一人意見が大きく異なるようなんだよね。かりに部活動を地域に返すとして、生徒と地域の調整役につとめるというのはなかなかたいへんだ。学校では部活の他にもいろいろな場面で地域民との交流が増えてきた。教師の考え方をいかに変革できるかが成功のカギだと思う。と自分のことを棚に上げて書いてしまった…。


3000.6.13
 きょう届いたNTTの請求書。利用代金が5万5千円?!こりゃ驚きだ。高すぎる。明細を見てますます不審に思った。見るとインターネットの通信料は7千円ほどで、それほど高いわけではない。高すぎるのは通話料のほうだった。4万2千円にもなっている。オレはこちらから電話をかけることは皆無に近い。しかも、市外にかけることはない。そんな自分の通話料が数万円に上るわけがない。どう考えてもこれは何かの間違いである。
 実は3週間くらい前のこと。仕事から帰ると、NTTからの「料金のことで話があるから次の番号に電話してほしい」という声が留守電に入っていた。早速かけてみると、「受付時間は平日午前9時から午後5時までです」というテープの声。かけてくれというからかけたのに時間外だから受け付けられないだと?頭にきたオレはもうこの時点で完全無視を決め込んだのだ。そしたら数日後、今度は文書で「料金が今までと比べて著しく高くなっている。すでに3万円を越えている。説明したいので電話をしてほしい」という知らせがあった。それでもオレは電話しなかった。昼休みでさえ自分の時間がとれないのに、NTTの都合のために時間を割いていられるか。…自分でもひねくれてるとは思うが、ずっと無視し続けていた。
 しかし、請求書が来たからには黙っているわけにもいくまい。明日なんとか時間をみつけて説明を聞くとしよう。誰か他の人と間違えられたのか。請求書の桁が一つ違っているのか。あるいは、オレの留守中に誰かが忍び込んで長電話したのか。何かの犯罪に巻き込まれたのか。いずれにせよ、使っていないものは使っていない。オレにはこんなに高い金を払う義務はない。もし、どうしてもNTT側が5万5千円払えというのなら告訴しよう。今やNTTを使えなくなってもインターネットはできるわけだし、家に据え置きの電話がなくったってオレは何一つ困らない。この件に関しては正々堂々最後までたたかうぞ。

3000.6.12
 週末は親戚たちと過ごした。従兄弟の一人とは十年ぶりぐらいだった。かわいい赤ちゃんを連れてきた。その赤ちゃんが場を和ませてくれた。祖母も叔父叔母も年をとったが、その次の世代も成長しているのだ。そしてそのまた次の世代も生まれている。こうやって代々続いていくんだな。家族的なつながりを全く意識しないこの頃だったが、この土日にはみんなでゆったりと楽しい時間を過ごすことができた。と同時に、どうしようもない孤独も感じたよ。僕らはこいつと一生つきあってゆくしかない。
 一夜明けたら普通の一週間が普通に始まった。きょうも夕方から続けて二つの会議があった。4時半から8時半頃までだった。
 明日が衆院選の公示日だ。投票は必ず行くべきだ。選挙でしか我々は直接に政治に参加する機会がない。その権利を放棄することはどう考えてもできない。この国から逃げ出したい気持ちは強いが、だからといって国を捨てるつもりもまだない。とにかく、棄権は危険だ。棄権はしない。選挙で誰に投票するかは、自分自身の考えで決める。こんなことは当たり前、なんだけどね…。


3000.6.10
 今夜は温泉で一泊。祖母の卒寿のお祝と、叔父の退職のお祝、それから叔母の引っ越し祝い。従兄弟たちはそういう企画をちゃちゃっとこなす。僕とは違って、実に人当たりのいい人たちだ。
 夕べは偶然にある飲み会で、その叔父といっしょに稼いできた人たちと会った。叔父は一本気のあるいい男だと、その人たちは言っていた。釣り好きで、自然を愛する叔父の別の一面を垣間見たような気がした。仕事ぶりを知るのは大事なことだ。そうでなければ、ほんとうにその人を知るということにはならないから。
 「ある信条や理想をもって動くというのはすばらしいことだ。でも、今の自分は違う。立場でやっていることだから。オレたちがやらなきゃ誰もやらない。やらないとオレたちの立場が悪くなる。だからやってるんだ。」というのは、ある仲間の話。それを聞いて、なるほどその通りだなと共感した。やりたくないのにやらなければならないことってのが、あり過ぎる。
 人間を知るには、行動だけ見ていてもしかたないか。何を考えているのかを、知る努力ね。
 休日ではあるがきょうも何かと忙しい。夕方の集合時間まで予定がビッチリだ。暇を持て余しているつもりが、いつの間にかこんなになってしまったよ。今夜は久しぶりにゆったりと楽しく過ごそう。


3000.6.9
 なんでもかんでもやろうとすると無理が生じてしまうのは必定だ。時間は限られているし、体力は落ちているし…。会議もなんにもなかった夕べはただだらだらと過ごして早く寝た。その分早く起きれるかと思ったが、目覚めたら6時だった。もしかしてオレ、なんにもしたくないのかな。
 きょうで今週も終わりだ。あともう少し。「きょうも一日グイッといこう」ってか。これ飲んで元気出せってか。壁にぶつかりながらも頑張れってか。喝を入れろってか。そんなにしてまで、やるべきことってなんだろう。やるべきことといったら、きっと自分のためのことしかないだろう。自分のために生きるってのは究極の人生だな…。

3000.6.7
 またきょうもとある会議に参加した。会議の間中眠くてしかたがなかった。さらに残念なことに、会議で何を話し合っているのかちっとも理解することができなかった。どうして自分がここにいるのかも実はよくわかっていなかった。
 ある年輩の方が大声でのべつまくなしに何か言っていた。だが、僕には意味が全く通じなかった。そればかりか、聞いていてだんだん腹が立ってきた。わからないことをべらべらしゃべるな。言うならもっと簡潔に、わかるように話してくれ!そんなふうに心の中で叫んでいたよ。


3000.6.6
 盛岡でプロ野球のゲームがあった。ダイエー対オリックス。イチローはきょうもファンの期待に応え、何本かヒットを飛ばしたようだ。イチローといえば、忘れられない想い出がある。
 4年前の8月。急にプロ野球が見たくなり、千葉マリンスタジアムまで車を走らせたことがあった。東北自動車道をひたすら南下。郡山から磐越道を経由し、常磐道を直進。日立あたりで高速を下り、海沿いの国道をひた走った。途中、大洗海岸で休憩し、鹿島スタジアムに立ち寄った。Jリーグもいいなと思ったが
あいにく当日券は売り切れだった。スタジアムの食堂で少し遅い昼食をとり、向かった先は犬吠埼。晴れてはいたが、風が強く、海には白い高波が立っていた。その後は、畑作地帯を西に抜け、千葉マリンスタジアムを目指した。
 すでに薄暗くなった千葉シティ。宙づりの新都市交通システムが近未来的な雰囲気を醸し出していた。頭の中でパール兄弟の「トロン岬」が鳴り響いていた。道路標識だけを頼りに、スタジアムに着いたころにはすでにゲームが始まっていた。ロッテ対オリックス。初めて見るプロ野球に興奮し、周りの観客といっしょになって選手たちに声援を送っていた。とりわけ目を引いたのはイチロー。外野間のキャッチボールのコントロールの正確さが、他の選手とは明らかに違っていた。ゆっくりとしてしっかりとしたフォームから投げられるボールは、野手の構えたグラブを少しも動かすことなくぴたりと収まるのだ。また、イチローは守備に着いている間、ずっと体を動かし続けている。これも他の野手とは違う。ロッテが大量得点で勝った試合だったが、僕にはイチローの姿がいちばん印象に残った。「夢の四割なるか」とよく言われるが、彼には本気で期待できるような気がする。
 観戦後は東京湾岸を走り、船橋、浦安、レインボーブリッジなどを通り、上野まで来た。大分遅かったので上野のサウナで一泊することにした。仮眠室でしばらく眠りふと目を覚ますと、は虫類のような顔をした怪しい男が、財布の入っている僕の懐に手を伸ばしているところだった。びっくりして飛び起きると、その男は何も言わずすっと走り去った。そして、安心して眠ろうとすると再びあの男がやってきて、僕の懐に手を伸ばそうとした。僕は全身が凍るような心持ちになり、すぐに荷物をまとめてそのサウナを後にした。その後は一睡もせず、ひたすら国道4号線を北上して、翌日の午後には岩手に帰っていた。財布をフロントにもロッカーにも預けずにいた軽率さを反省した。この一泊(?)二日の旅は、変な後味を残して終わった。
 今考えると、岩手まで逃げ帰ることはなかったろうに。全くほんと小心者なんだから情けない。
 イチローの精悍さ、筋金入りのプロ根性にあやかりたいものである。


3000.6.5
 きょうは一日中太陽の下で過ごした。陸上競技の大会でずっとゴールのところにいて、タイムをとっていた。日に焼けて、額の鉢巻きをしていた部分だけが白く残り、顔のそれ以外の部分は赤くなった。ある生徒に「紅白歌合戦!」とからかわれた。そんなこと言いそうもない子だったので、言われてとてもうれしかった。だが、鉢巻きをしていたのはややまずかった。
 夜には飲み会があった。自転車で行こうと思い、ホームセンターで空気入れを買って、空気を入れてみたが、タイヤからスースー音がする。前輪も後輪も、やっぱり穴があいていたのだった。だから飲み会へは徒歩で向かった。さきほど飲み会は一次会で終わり、9時を過ぎたころに帰宅をしたというわけだ。
 日本の平均寿命は今年もまた世界一だそうだが、ほんとに充実した時間はそれほど多くないのではないかと疑ってしまう。どこかで誰かから聞いたが、以前の日本人の精神年令と現代のそれとは、七掛けしてみるとちょうどいいそうである。つまり、現在33歳の自分は、0.7をかけて約23。昔の23歳の精神年令と同じだというのである。
昔というのがどれほど昔をさすのかよく聞かなかったけれど、ある意味説得力のある数字が算出されるものだと感心した。ということは、現代の日本人は長寿を全うし充実した生を生きているというより、以前より間延びした人生を過ごしているということになるのだろうか。世の中便利にはなっていても、同じ時間でできることや得ることは実際は少なくなっているのだろうか。
 陸上の話から寿命の話にどうして飛んでしまったのかわからないが、とにかくきょうの子供たちはとてもいい顔をしていた。きっと充実した一日を過ごせたのではないだろうか。中学校3年間に限定しても、そういう充実した時間が減っているというのは、なるほど納得できる。と酔った頭で考えたが。


3000.6.3
 夕べは公民館でとある会議があり、その後教員を退職した女性たち三人を車で送った。村の西から東へけっこうな移動距離だったが、車内でそのおばあさん方からさまざまな話を聞いた。退職したとはいえ、元気でぱりぱりした先生方は強いなと思った。駅で降ろしたとき、一人のおばあさんが「これで晩御飯食べて」と言って千円くれた。帰りに蕎麦屋で鴨せいろを食った。
 オレの場合、こういうことはたまにある。おばあさん方には、気に入られる性質らしい。だが、そんな自分を情けないと思う気持ちもある。正直いって空しい気持ちも残る…。                
 アパートに戻ると、新しい「ビアホイ」が届いていた。ベトナムの仲間たち、それぞれに忙しく活躍されているんだなと感じた。そして、自分も励まされたような気がした。オレも仕事、一生懸命やろう。
 去年の夏のことを思い出すと、あったかい気持ちになる。もしベトナムがなかったら、今頃どうなっていたかわからない。それほど自分にとっては重要な経験だった。
 キャンプリーダーから電話があった。航空券は各自で手配してほしいということ、予防接種は義務ではないが、A型とB型の肝炎、破傷風の注射は奨励されているという話だった。現地のグループからの連絡がまだないので、詳細はわからないとのことだった。いよいよ高まる緊張感。とりあえず今日は旅行会社と連絡をとってみよう。


3000.6.2
 きのうは衣替えだったが、なぜかあまり制服姿の学生たちは見かけなかった。自分自身はいつもと変わらぬ時間に出勤したのだが、学生たちは、夏服に変わるというので少し緊張感をもって早めに家を出たり、久しぶりの夏服を入念にチェックしたりして遅くなったりしたのだろうか。などというしょうもない想像をした。
 梅雨の前のこの時期はとてもいい季節だ。空の青と木々の緑がまぶしく感じる。昼間建物の中にいるのがもったいないと思ってしまう。
 八十八夜とか二百十日とか、立春から数えて何日目といった節目など。古来日本の季節感というのは、暦によるところが大きいんだな。6月1日に一斉に衣替えというのも、農耕民族らしい考え方なのかもしれないね。
 でも八十八夜だからといって、全国一斉に種まきが始まるわけではないだろう。その地域に合った地域独自の暦があって、それに合わせて農作業をしてきたはずである。
 そんなことを考えると、ケコイさんの情報のように、東京では6月1日を待たずに衣替えをするところもあるというのは、極めて自然なことだと思う。これは憶測だが、地域の実情を無視して「6月1日にはとにかく右ならえで夏服にするんだ」「6月1日までは夏服を着てはいけないんだ」というふうに、暦への考え方がねじれてしまった歴史があるのではないだろうか。もしかしたらそれは、戦争と関係があるかもしれない。だいたい日本の学生の制服自体、もとは軍服ではなかったか(?)
 地域の実情や人々の実感を大切にした生活をもっと考えていければと思う。