9月の日記


3000.9.29  
 電気剃刀が壊れた。充電ができなくなってしまった。シェーバーは高いのを買った ほうがいいと思っているが、いくら高いのを買っても二、三年でだめになってしまう のだな。しかたがないから剃刀でヒゲを剃ろう。で、ヒゲを剃った。そしたらてもと あやまって、喉を切って少し血が出た。まだ少しヒリヒリする。


3000.9.26  
 What's new? -------Nothing,,,


3000.9.25  
 きょうは午後からとある研究会があった。レポート発表に基づいて意見交換したり、ある校長先生の話を聞いたりした。どうしても生徒を残してやらなければならないことがあったので、一時間ほど遅れて行った。とても気が進まなかったのだが、観 念して会場に向かったのだ。しかも、持参するはずだったレポートも持たずに。で も、行けば行ったでなにかしら勉強になることは多い。狭くなっていた自分に否応無 しに気づかされる。自分もけっこうわけのわからないことをしゃべってしまったが、 正しいかどうかは関係なく、こういう時は何か言ってみたほうがいい。何も言わないよりずっといいと思った帰り道であった。


3000.9.24
 近くのガソリンスタンドに車検を頼んだ。料金が安くしかも一日でできたので、得した気分だった。しかし、直後から異常な振動が発生し、低速運転中にエンジンが止まるというトラブルが発生するようになってしまった。危ないことに踏み切りを横断 中にもエンジンが停止して焦った。車検をしたスタンドで見てもらったら、「エンジンルーム開けました?」と聞かれた。オレは車を引き取ってから一度もエンジンルー ムは開けていない。「プラグに水が溜まってますね。プラグを交換したほうがいいでしょう」という言葉に、オレははてと思った。車検に出した日はひどい雨降りだったなあ…。結局プラグ4本交換。それに、コードもみんな取り替えたほうがいいという ことで、注文してもらうことにした。車検が安く上がったはいいが、これからもいろいろとかかるかもしれないな。
 十年乗ってきたが、あちこちずいぶん修理したものだ。バックしてきた先輩の車に思いきりぶつけられたこともあったし、生徒に膝蹴りを食らってボディをへこましたこともあったっけ。対向車のはねた石が当たってフロントガラスが割れたこともあったし、夏油温泉への山道でガードレールに思いっきり擦ったこともあったなあ。まだこの車には飽きていないし、これを越える魅力的な車に出会っていない。91年式初代プリメーラ。走行距離15万8000km。燃費はリッター11km強だ。イエロイッシュホワイトパールの車体は今でも最高の輝きを放っている。たとえうんこ色とばかにされようが、「どうしてその色にしたの?」と言われようが、この色が一番いいんだよなあ。



3000.9.23
 午前中はクラブ活動。午後は部屋でテレビを見た。夕方から少し横になって目覚め たら9時前だった。楽しみにしていたサッカーの試合を見逃してしまった。外は雨だ。明日まで降り続くらしい。晴れたらコスモスの花を見にどこかへ行きたいと思っていたのに。自分自身を見つめる。自分の価値観を問い直す。見方を広げる。そんなつもりで開いたHPだったけど、それほどの成果もなかったかもしれない。逃げ場をつくった分、逃げるばかりになってしまったかもしれない。
 何かを生み出すには時間がかかる。けれど、それを生み出すためにかける時間はけして無駄ではない。何もしない時間は何もしていないだけではなく、何かを生み出すためには欠かすことのできないかけがえのない時間のはずなのだ。その、何もしない時間を否定してはいけないと思う。どんな人でも一生に一つはいい小説が書けるのだ そうだ。別に小説を書く気はないが、一生に一つでも何かいいものを残せればそれでいい。死ぬ瞬間まで無駄と思われるような空白があっても、僕は全く構わない。
 仕事とか余暇とかそういう範疇ではなく、何かを生み出すための機械として生きる。自分自身の分身を製造できた時に自分の役割は終わる。けしてかっこよくないし、派手でもない。失敗もすれば迷惑もかける。苦しむし、嫌になることもある。で も、ただ一つ。一個の機械として生きる。
 世界には平均寿命が三十そこそこの国がある。そして日本は七、八十。この五十年の差って、どれほどのものなんだろう。命のことを思うと、いつも不思議な気持ちになる。いつ果てるとも知れぬ命。人生は、僕らが思っているほど大袈裟なものじゃな いのかもしれない。きょうは秋分の日、お彼岸の中日だった。



3000.9.20
 赤くて大きい半月がまるで庖丁の刃のように、ビルを断ち割ろうとしていた。巨大ななまはげがあのアパートの陰に隠れているのだ。そして今、モスラの大軍が街を埋め尽くそうとしている。巨大化する日も近いのだ。なまはげは僕にきく。みんななんのために生きているのか?そんなことには答えられないほど僕はばかなのだった。モスラは僕にきく。貴方のいちばん楽しいことってなに?…楽しいことって何だろ。
 今まででいちばん大笑いしたのはいつですか?今まででいちばん感動したのはいつですか?今まででいちばん大泣きしたのはいつですか?生きていてよかったと思ったのはどんなときですか?生まれてきてよかったと思ったのはどんなときですか?君たちは、次々と僕に質問を浴びせては、羽をばたばたとさせた。鱗粉が目に入って困っ た。
 オリンピックの新種目、注目すべきはその金メダルを獲得した国々である。ゲートボール…ベリーズ。フォークダンス…セントルシア。リンゴの皮むき…モルドバ共和国。逆立ち…ブルキナファソ。サクランボの種飛ばし…アンドラ公国。二人三脚…シエラレオネ共和国。ポーカー…サントメ・プリンシペ民主共和国。 騎馬戦…カーボベルデ共和国。蹴鞠…ガイアナ協同共和国。だるまさんが転んだ…ツバル。缶蹴り…アンティグア・バーブーダ。チェス…セントクリストファー・ネイビスなどなど。実に楽しい。



3000.9.19
 今年の秋は大きな蛾が大発生しているようだ。ヤママユガというらしいが、日に日に見かける数が多くなっている。あの斑点のある黄土色の羽は気持ちが悪い。中学2年生の時、やはりこんな感じで蛾が大発生した。文化祭の準備で遅くまで残った放課後。僕らはBGMに使うからというわけのわからない口実でラジカセを教室に持ち込んで、YMOなんかをかけまくっていた。そして、帰り道もガンガン鳴らしながら帰っていった覚えがある。その時に路上にいくつもべたっととまっていたのがこのヤママユガだった。学校帰りにラジカセを抱えて音楽を鳴らして歩く中学生なんて今でもいな いかな。僕らの姿を見て3年生の先輩たちは一様に目をまるくして驚いていた様子だったが、なぜか咎められた記憶はない。
 オリンピックでは各国のメダル争いが行われている。メダルの数は金のある国ほど多いという事実は、なんとも不平等を感じさせる。まるで金で「金」を買うというようなことになっているとはいえないか。いくら才能のある選手がいても、それを育てるだけの金がなければオリンピックメダルなんて取れるわけがない。ましてや、オリ ンピックに選手を送りだすだけの金も惜しいような貧しい国が世界にはたくさんあるのだ。そういう国はオリンピックに「参加すること」で精一杯なのかもしれない。ア ジアやアフリカの素質のある若者が、彼等の住む国の国状のために花を咲かすことができないとしたら、それはとても不幸なことではないだろうか。結局はオリンピック は先進国のための祭典なのかもしれないな、なんて思ってしまう。日本だけではな く、もっといろいろな国を応援したいのだがそうもいかないようだ。テレビはすっかり「がんばれ日本!!」のムード一色だし、だいいち、ベトナムやカンボジアなん て、応援しようにもエントリーしている選手自体がほとんどいないんだから。
 突然友達がやってきた。CD を8枚借りていった。明日から入院する病院の病室で聴くのだという。たいして深刻なものではないので、一週間で退院できるそうだ。久 しぶりにいろいろと肩の凝らない話ができた。合コンの話をもちかけてきたのだが、あいにくその日あたりは仕事も忙しくなりそうだし、父の三回忌の前なので、残念ながら見送った。合コンなんて期待できるものではないし、どんな合コンだっておもしろくないに決まっている。と決めつけてしまう近ごろの悪い癖。まあ、気分転換にはいいかもしれないね。また次の機会を待つことにする。



3000.9.16
 学校批判はいいけれど、僕一人に言われても困りますってね。全部の歯車がおかしくなってるんだから。 とにかくバランスが悪すぎるんだよ。やることが多くてしかも効率が悪すぎる。オレたちゃスーパーマンじゃないんだからいっぺんに何でもかんでもできるわけがないんだっていうの。中にはスーパーマンもいるけどね、そこに基準を合わせられちゃかないません。
 それにしても、スポーツの世界は深いな。この道を行けば、やはり人間は大きく成長するのだろう。学校教育が知育偏重できているとしたら、徳育と体育をどこで補えばいいだろう。ほんと言うといわゆる五教科の授業なんて午前中で十分だ。午前中は学校で勉強し、午後は地域のクラブでスポーツの練習をする。夕食は家庭で会話を楽 しみながらゆっくりとり、夜には自分の学習をしたり、趣味を楽しんだりする。人々のゆとりを奪っているのはこの国の学校制度です。この制度を変える人材を私たちは作らねばならない。
 てさ。夜にはそんなこと思っていても、いざ子供達を前にした時には、ばかじゃね えかお前らなんて思う時もあるんだよな。ぶん殴りたくなっちまう時だってあるんだよな。でも殴ってでもわからせなきゃならない時があるって言う人がいるけど、それって大人の身勝手だよね。制度を変えるためなら暴力も許されるのだろうか。



3000.9.15
 「敬老の日」なんて、なんて差別的な祝日だろう。何をお祝いするというのだ。一年に一日そんな日がある国に幸せな老後があるわけがない。年寄りが年寄りであるだけで価値のあった時代はもう大昔だ。若さが価値をもつと誤解し始めた時から、歯車がおかしくなっていることに気がつかないのだろうか。僕もいずれ老いる。どんなに苦しんだ人生でも最後の最後、意識が遠のくその瞬間にいい人生だったと思えればそれでいい。けれど、あまりに多すぎる不遇の死。もう若いと胸を張れなくなった自分がいまさら若さに何を求めよう。あの忌わしい時代の僕を葬り去りたい。
 ある子供の話である。いっしょにテレビゲームをしようと友達に誘われその友達の家に行くと、友達の母親がテレビゲームに夢中になっていて、いつまでたっても使わ せてもらえなかった。結局その子はゲームをすることができないまま家に帰ったのだという。その子とその子の母親の会話。「お母さん、○○君のお母さん、ゲームに夢中で、僕たちに貸してくれなかったんだよ」「へえ、○○君のお母さんって、そういうゲームできるんだね」「でもね、お母さん。ちょっとみっともないと思ったよ」
 「パチンコは嫌いです。時間がもったいないと思う。パチンコをする人の気持ちがわからない」と言ったあと、「私の父はパチンコ好きで、よく行くんです」と言われた。あっちゃー。これ僕のパタン。本音を言うと失敗するということはよくある。よ く言えば純粋。悪く言えばデリカシーがないってこと?「デリカシーがない人って嫌い」という女に限ってデリカシーがないと思ってしまうのだが、たぶんそれは真実だろう。全部、全部そんな女はこっちから願い下げだ。
 明日はクラブの大会なので、験をかついでカツカレーを喰った。異常に膨らんだ期待と、喰ってしまった後の空しさ。カレー色のため息が漏れたぜ。飯なんて毎日毎日繰り返す愚行。そんな感じに思えてしまう。
 「さかなになろう」というフレーズが、どこで聞いたかときどき僕の口をついて出る。さかなになれればどんなにいいだろう。というわけで、さかなのアルバムを聴いたら、これがけっこう心地よかった。♪〜さかなさかなさかな〜、さかなを食べると、あたまあたまあたま、頭がよくなる〜。と、これは違う。



3000.9.12
 また朝が来る。まだ雨の朝。緑の惑星に雨が降る。暗い路上で一人明るい自動販売機。
 きのう田んぼでミステリーサークルのできそこないみたいなやつをいくつも見た。携帯電話の電磁波のために年々それが増えてきているらしい。そんな想像をした。
 見えない雨のようにたくさんの交信が飛び交うこの空の下で、一人何の役にも立たない思いをめぐらしているだけ。
 夕べは、いつまでたってもホウレンソウができない自分に嫌気がさした。全然、他の人とつながることができない…。この壁ってなんなんだろう。そう考えると、今朝も憂鬱だ。



3000.9.10
 眠いのである。この時期にはこの時期独特のいやあな精神状態に陥る。9月は嫌いだ。ついでに10月も嫌いだ。めんどくさい。何もしたくない〜。
 日記は自分を許しているのでなく自分を甘やかしているのではないか、と少し思っ た。
 スポーツの世界は深遠だ。スポーツの世界に生きる人たちは魅力的ではあるが、と きどき彼等の話す言葉がどうしても理解できないことがある。話の意味が理解できないのである。僕の頭の中には、スポーツの文法ができていないんじゃないかと思う。
 オリンピックではドーピングの問題がますます深刻になっているそうだ。規制と新 しい薬物の登場はいたちごっこだというし、遺伝子操作による筋肉増強ももはや現実の話だという。選手個人がそれを望むのか、それとも国家がやらせるのか、よくわからないけれども。いっそのこと、ドーピングオリンピックってのをやってみたらどうだろう。どんな方法を使っても構わないから、とにかく記録を狙う。人間の限界に挑戦し、国家の名誉と威信をかけて闘う。選手たちは自国の科学研究の粋を自分の体を もって世界に示すのだ。速く、高く、遠く!すばらしき陸上競技の世界…。
 ドーピングですぐ思い出すのは、薬物を使って作った芸術作品。クスリをやりながら作った曲は、やっぱりルール違反なのだろうか。ルール違反を承知でいいものを作ってみたいという欲求は僕にも理解できる。やってみようとは思わないけどね。



3000.9.6
 涼しくなった。コンビニにはさっそく「ほかほか中華まん」なんて看板が出ていた。温度と食品の売り上げの関係も今やみんな解明されてしまった。真夏に買い置き していた缶ビールが何本か冷蔵庫に入ったままだ。それと心太も。スーパーのアイス売り場じゃ、かき氷はほとんど見えなくなってしまった。 秋だな。小さい秋の一つも見つけられないままに、どんと秋が来たという感じだ。岩崎宏美の「思秋期」なんかを口ずさんでしまうのだった。「お元気ですか〜皆さん〜いつか会いましょう」


 3000.9.5
 偶然とは思えないこと<その1>  会計の仕事で農協に行った。その時新聞に目を通すと、8年前の教え子が、あるコ ンクールで日本一になったという記事が載っていた。まるく切り取られた顔写真は、 中学生の頃と変わっていなかった。
 偶然とは思えないこと<その2>  ガーゼを買いに薬屋に入った。白衣のおじさんが「カードつくりませんか」というので、軽い気持ちでハイというと、用紙に氏名や住所等を書かされた。その用紙をまじまじと見ていたおじさんが言った。「同級生じゃない?」よく顔を見ると、確かにどこかで見覚えのある顔だった。彼は高校の同級生だったのだ。
 カンボジアの木陰のベンチで、宮沢賢治の童話を読んで胸を打たれた。「風の又三郎」も「セロ弾きのゴーシュ」も、今まで感じなかったくらいジンときた。暑さで汗が止まらぬほどだったけど、なぜかどんどん読み進めることができた。出発前、書店でたまたま手に取った文庫本だったけど、この本を選んだことは偶然とは思えなくなった。こんなことは意外とよくあるのだ。すべてが意味ありげに思えてくるということもよくある。やっぱり最初は単なる偶然であったものが、気がつくと必然になっている。思えば、僕らの生活はその繰り返しなのかもしれない。生まれたのはほんの偶然のことだけれど、僕の人生のドラマはすべてつながっていて、それが僕だけのストーリーを形作っていく。
 いつか僕が死んだ時、尾根から遥かに見下ろす町並みのように、ふぞろいではあっても、たしかに僕の生きた証が美しく見えるだろう。