10月の日記


3000.10.31
 やっとカンボジアの日記や写真をアップしました。また、この3ヶ月、私は虫刺されの治療のために毎日患部に薬を塗ってはガーゼを張るという作業を繰り返してきましたが、晴れてここに完治いたしました。皆様に御報告申し上げます。あと2ヶ月で今年も終わりですね。私はきょうで気持ちを切り替え、明日からまた新たな気持ちで生きる所存です。どうかよろしくお願いいたします。


3000.10.30
 きょうで1年間のレッスンが終了。ほんとうにお世話になりました。おかげでさまざまなことを経験することができました。これからもっといろいろな場面で使っていきたいと思います。ありがとうございました。お金はかかったけど、それだけの価値はあったような気がする。逆にいうと、お金をかけるということが力を伸ばすことにつながるのかもしれない。さて11月からはどうしようか。生徒会でそれどころではなくなるかもしれないが、最大の弱点克服のために行動を起こそうではないか。


3000.10.28
 きょうの夕方生協で。店員さんたちが大慌てで「レジが止まった止まった」と言いながら走り回っていた。どうやら機械が故障したらしい。レジでは一人の客に3人の店員がついて、その中の1人が買い物カゴから商品を取り出しては値段の表示をさがし、電卓に打ち込んでいた。だが、多くの商品はバーコードを光で読み取る方式なため値札がついておらず、残りの店員たちが商品をもって売り場まで走っては、値段を確かめて戻ってくるという途方もない作業をしていた。レシートも出ないので、いちいち領収証を切ったりもしていた。聞くと、レジの機械を最新型に入れ替えたばかりだという。ほどなくして機械は復旧したが、この光景にコンピュータ時代の落とし穴を垣間見た思いがした。


3000.10.27
 文化祭前日は最悪の心境になるのだ。これは絶望に近い。そして極度の自己嫌悪。大嫌いだ。自分自身が大嫌いになるし、子供達みんなが大嫌いになる。人間なんて所詮わがままの塊なんだ。なんて思ってしまう。そして、終わったあとは決まってそれなりの感動があって、過ぎ去るとまたいつもの煩雑な日常があって……。
 毎年こんなことを繰り返しているんだよ。いったい、人間の信頼ってどういうことなんだ。僕は人間を信じることができない。話をしても、歌を歌っても、笑いあっても、けんかしても、僕はちっともおもしろくない。どれもこれもニセモノばかりじゃないか。(ほんとうは僕自身がニセモノなんじゃないか。)
 ここにきて老人って、どうしてものを言わないんだろ。なぜ托そうとしないのか。オレたちは諦められているのか。無言のままで、どうして人生を終えられるというのだろう。僕には理解できない…。
 そんな気持ちで帰宅してすぐ、宮城の千葉先生から電話があった。あの懐かしいあったかい声をきいた。おかげで、冷えてた心があったまった。このタイミングは絶妙だった。きっと、何かの力が作用したのだ。


3000.10.26
 僕のアパートの前にはゴミ置き場がある。火曜と金曜には燃えるゴミが背丈以上の高さまで山積みにされる。窓から、ゴミを捨てに来る人たちの様子がよく見える。ゆっくりとした足取りで、散歩がてら捨てに来るお年寄り。車をつけて一度に大量のゴミを捨てていく人。それに、燃えないゴミの日ではないのに、ゴミ置き場の後ろに空き缶の詰まった袋を置いていく人もいる。半年前に誰かが置いていった自転車がまだそのままある。ゴミを捨ててしまった人は、もう去ってしまうばかりである。けしてあとを振り返ることはない。
 そういえば、「捨てる技術」という本が話題になった。部屋には物が増え過ぎたから、僕も捨てることを考えなきゃと思う。でも、捨てるものの中にこそほんとに大切なものが隠れているんじゃないだろうか、という気もする。捨てる時の潔さはすっきりしていい。しかしできれば、捨てる物がなければなおよい。ゴミを出さない生活。全部消化しきる生活。すべて自分の血となり肉となる、そんな生活をしたいものである。


3000.10.24
 サッカーの試合を見ようと思っていたのだが、知らぬ間に眠っていた。目を覚ましたら、ちょうど次の試合が始まったところだった。いつの頃からか僕には、タイミングの悪さがついてまわっている。そして最近は、何でも見逃すことばかりだ。自らリズムを狂わすような家庭生活。思えば僕は十代の頃から常に道を外れよう外れようと意識してきた。それがこのごろ、いろんなところに変な形で現れてきていて、たくさんの人々に迷惑をかけたり、自分自身を苦しめたりしている。でも、こんなつもりは全くなかったんだよね。
 真夜中のテレビはCD購入ガイドって感じで、新曲のビデオが垂れ流し。なかにはいい歌もあるが、くっだらねえ歌もわんさかあるのだ。そして、ビデオも何となく見ている分にはかっこいいが、よく見るとばっかじゃねえかと思えるものも少なくないよね。いろいろとバラエティに富んではいるけど、ホントにいいものを選ぶにはたいへんな時代になった。考えてみりゃ、センスは生き方そのものだ。自分の目に疑いをもっちゃおしまいとは思うけど、この二十年来僕が選んできた道は、もうどうしようもないとこまで行き着いてしまった。
 "Off Course"って道を外れるって意味なんだよね。修学旅行の夜、友達のウォークマンでワインの匂いを聴いたのを思い出した。夜通し、聴いていたよ。それから、三高の文化祭に行って、物理部の部室でI LOVE YOUを聴いたことも思い出した。あ、真夜中に起きた時はいつも、昔のことが出てきてしまうな。


3000.10.21
 夜の街で暴走族の一団を見た。彼らはまるで月光仮面のような全身白のいでたちでバイクに二人乗りし、鉄パイプのような長い棒を振り回しながら、ジグザグ走行していた。すれ違う時、フロントガラスを叩き割られるかもしれないと本気で思った。怖かった。寂しいんだと思った。
 おしゃれな街。ラヴソングの感傷の陰で、人はどんどん孤独になっていく。広がり続ける宇宙のように、人と人との距離がものすごいスピードで遠ざかっているような気になる。求めるものは永久に手に入らない。いくらいい歌が流行ったとしてもだ。
 不幸ではなく、「非幸」ということを考えた。そういう決意で生きてもいいと思う。ちっぽけな、我一人のさいわいを考えて何になるだろう。夕刊の写真を見て思う。2ヶ月前には平穏だった街なのに、今じゃ数多くの市民が戦火にさらされている。宗教が戦をよび、科学にもなす術はない。今以上によかった時代はないなんていってる人がいるけど、それが何の救いになるだろう。この時代に生きている人の全てが、一人の不幸を自分の不幸と感じるべきである。世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。これは幸福を諦めた後ろ向きな態度ではけしてなく、ひじょうにかたい決意を示したことばだ。
 50年後の盛岡の街がどうなっているのか想像してみる。表通りにはバスが走り、建物の看板だってたいした変化はない。裏通りの景色も今と変わりなく、人の歩く姿も変わらない。ただ、今ほど道路は整備されておらず、ところどころアスファルトが剥げ落ちている。漠然とだけれど、何となく今よりもどこかざらざらした生活になっているんじゃないかと考えてしまう。不安は拭いきれない。(それにしても貧しい想像力だ。これじゃ1000年先なんて夢のまた夢だ。)
 ある歌の歌詞をじっくりと読んでみたら、震えるくらい感動した。一行ずつ、ゆっくりと自分なりに分析してみたのだけど、そしたらさらに感動が深まった。うまくでき過ぎていると思った。それは、一言でいうと「希望」だった。人類に寄せる希望。世界に寄せる希望。子供が大人に寄せる希望。大人が未来に寄せる希望。今は矛盾と混沌の中だけど、いつか花を咲かせるのだという願い、希望、そして未来や自分に対する厚い信頼があった。若さはすばらしい。人間は、自分の花の色も、形も、大きさも自分で決めることができるんだね。そして、その花が咲き終わると、種がこぼれ、また新しい花が育つ。たとえ、つぼみのままで朽ちたとしても、それが土の肥やしとなり、また別の花を咲かせることになる。
 賢治のことばは、自らが花になるのではなく、大地の肥やしになるのだという決意ではなかったろうか。
 今このことばをいとしく思っているのは、僕が憂いの中にいるせいかもしれない。いつの日かほんとうの覚悟ができて、自分が世の中の肥やしとなることを心から望むようになれたらいいと思う。


3000.10.20
 契約していた生保が破綻した。ぼーっとテレビを見ていたが、トップで取り上げられたそのニュースに途中まで気がつかなかった。巻き込まれてしまった、ということか。どうしよう。
 例の靴を履いていった人が学校に靴を届けてくれた。ありがとうございました。みんななかなか忙しいからね。わざわざ持ってきてくれて恐縮です。
 階段を駈け上ろうとしたら、つまずいて両の向こう脛を思いきりぶつけた。あまりの痛さに、その場にしばらくうずくまってしまったよ。こういうのを、泣きっ面に蜂っていうのだな。何か最低だな。


3000.10.18
 愛がないや。前からそう思っていたけど、やっぱり愛がない。あらためて気づかされたよ。人間が愛をもっていた時代はすでに終わっているのかもしれない。
 せめて、人の親には愛をもっていて欲しいものだ。オレがもし人の親になったとしたら、愛をもって我が子を育てたい。当たり前のことと思うだろうが、その当たり前の難しさよ。
 だが、それができないのなら人類は絶滅しても構わないだろう、と本気で考える。


3000.10.16
 ベトナムのレポートが載った冊子が送られてきた。写真が全てカットされていたのでがっかり。文章よりも写真を見てほしかったのに。仕方がないから、HP上の写真をもっと宣伝することにしよう。
 写真といえば、カンボジアで撮ったフィルムを一本、向こうのスタッフに貸したままだ。あのフィルムには、彼らの所属するNGOが、政府から補助金を獲得するために十分なアピールとなる写真が数多く収められているはずなのだ。リロ、チャーリー、ボナ。彼らは国では相当な金持ちの家に生まれ、水準の高い教育を受けたに違いない。だが、ゴミ拾いのワークの後で自分の飲んだ空き缶を平気で放り投げたりするところを見ると、環境を守るという意識がそれほど高いわけではないようだ。国が貧困だということは、ただ単に食べ物がないとか着る物がないという物質的なことだけではなく、精神的にも弱い状態であるということを表している。
 「貧しい中でも明るく幸せに暮らすことができる」というのはそのとおりだと思う。だが、それはある程度余裕のある場合に限られるのではないだろうか。今回感じたのは、貧困は否定されるべき問題だということであった。つまり、貧しいことはよくないということ。
 リロたちは、そういう自分の国を自力で立て直そうとしている。その志に触れただけでも価値があるといえるかもしれない。僕の写真が彼らの国を救うことに役立つのであればうれしいけれど、やっぱりフィルムは返してほしい。そろそろ請求のメールを出してみようと思う。


3000.10.14
 携帯電話は必要ないが、携帯電話についての知識や操作方法などは知る必要がある、そう実感した。きょうは帰り道電気屋に寄って、カタログをごっそり頂戴してきたよ。どうせゴミになるのだが。
 子どものころは夢だったことで、現在はすっかり定着していることがいくつもある。以前SF映画で見たインターネットは、今や僕にとって必要不可欠なものになった。携帯電話が手放せなくなる日も近いだろうか。
その映画では、飛び交う電磁波が原因で全身麻痺をおこす病気が蔓延するのだが、そこまでは現実になってほしくない。携帯電話が出た当時、耳には直接当てずに離して使うようにという注意があったと思うが、今ではそんなことをしている人はまず見かけない。しかし、携帯電話を使用したせいで脳腫瘍や小児白血病になったとする訴訟が相次いでいる欧米では、低年齢者の使用を規制しようとする動きもあるようだ。「ケータイ天国電磁波地獄」なんてのを読んでいると、心配になる。
 ところで、先日TVで見たのは、地磁気の脳に与える影響についてのレポートであった。それによると、ある一定のパタンの地磁気を脳が受けると、幻覚や恐怖などの異常な感覚として感じられるのだそうである。世界中のいわゆる聖地といわれる場所は、ほとんどが地磁気の乱れる断層の上に位置しているのだそうだ。そこで地磁気によって幻覚を見た者が霊能者や予言者になったのではないかというのである。
 僕は実家に泊まる時には必ずといっていいほど金縛りにあう。それは仏壇があるからかと思っていたが、もしかすると実家は断層の上に建っているのかもしれない。金縛りとは高校時代からの付き合いで、ひどい時には、寝入り端には毎日のようにかかるという時期もあった。眠ろうとするとかかるので、朝まで眠れないなんていう日もあった。突然の耳鳴り、理由のない恐怖感、胸や腹に何トンという重しがのって押しつぶされるような感覚。これはひどいもんである。だがこの頃は慣れて、朝には金縛りにあったことを忘れていることも多い。金縛りが電磁波の影響だとしたら、僕はずいぶん電磁波に敏感な人間ということになる。そんな僕が携帯電話を携帯するのは、ちょっと怖い気がする。


3000.10.13
 朝から腹が立ってばかりの一日だった。何度怒鳴り散らしたことか。お前らばかじゃねえかと思うことが最近ほんと多すぎだ。たぶんばかなんだろう。だから学校があるんだろう。と、自分に言い聞かせるのだが。
 それにしても、この精神のバランスって微妙なものだ。攻撃性が外に向くか内に向くか。今はいくぶん外に向かっている時期か。ということは、次に来るのは内への波だろうか。この波の上がり下がりを繰り返しながらきっと少しずつ成長していくのだろう。そうだったらいいのだが。だがもしこのバランスを崩すと、どうなるかわからない。そういう恐怖と背中合わせという自覚はいつもある。教師に限らず仕事というのは皆、そういうものなのかもしれない。
 給料明細が渡されたが、もう額面には興味がない。買う物、支払う物などだいたい決まっている。あとは手元に残ったお金で好きな物を買う。それだけ。それって贅沢なんだろうな。でも、贅沢のためにはそれなりのリスクをちゃんと背負ってるよ…。
 しばらくこのままの生活でいいなという気持ちが強くなっている。長期的な希望をいえば、世界を旅して回りたい。そのためには毎月幾らかの貯蓄をしよう。そして最後には旅のために全財産を投げ出しても構わないと思っている。最期の地は日本じゃなくてもいいんだ。この最後の希望が叶えられるまでは、なんとか心身のバランスを保ち続けたいものだ。
 明日は中国語の授業がある。数詞についてやる予定。カレンダー、曜日、誕生日、そして時刻など。プリントはまだできてない。早起きして仕上げることにしよう。ではお休みなさい。


3000.10.10
 今日は眠かった。せっかくのありがたい話もなかなか耳に入らなかった。気力も体力もぜんぜんだめだな。まだ火曜日ということを考えるととても憂鬱だ。早く正月にならんかな。新世紀の正月。
 一週間前、以前飲み会で僕の靴を間違って履いていった人が誰かわかった。その後、返してくれるのかと思っていたがいっこうに連絡がない。どういうことだろ。
 翻訳ソフトというのを買ってみた。おもしろい。訳が奇妙だ。でもはたして実用にたえるのかどうか。これでワークキャンプの仲間にもメールが出せるかな。
 国内の写真にコメントをつけた。それと、タイの写真を何枚かアップしているのだが、見た人はいるだろうか。カンボジアのレポート、ぜんぜんまとまらない。今年中に掲載できるのか?


3000.10.9
 米を炊いた。春以来かな。外食やコンビニ弁当に嫌気がさした。(数カ月前にもこんなことを書いたのだが、いつの間にかそういう生活に戻っていた。)最近、じんましんが出ることが多くなってきたのだ。昨日も右半身が腕から背中、太腿にかけて発疹が出て、痒くなった。今日はというと、今度は左半身に…。
 何年か前にも同じようなじんましんが出たことがある。この時にはレトルト食品ばかり喰っていたのが原因だろうと勝手に判断した。今回のじんましんもきっと食生活に問題があったのだろう。
 僕は好き嫌いはないし、与えられたものはすべて御飯粒一つ残さず食べる癖がついている。魚を喰うのだって上手だとよくいわれるし、何を食べさせても喰いっぷりがいいといわれる。だが、ほんとのことをいうと食べ物のことはもう考えたくない。できるなら、もう何も口にしたくない。食べることがなかったらどんなにすばらしい人生だろうと思う。秋になるといつも感じる。食欲は、敵だ。


3000.10.7
 今朝はいい天気で、窓から見る新幹線の高架がオレンジの朝日に輝いていた。久しぶりに車で遠くに出かけた。春以来かな。
 

 秋田県の小坂町には、木造としては日本最古の芝居小屋「康楽館」がある。明治43年、小坂鉱山の厚生施設として建てられた康楽館は、いわゆる和洋折衷の建築で、外観は洋風だが、中に入ると回り舞台や花道、そして昔ながらの桟敷席がある。座蒲団にすわり周囲を見回すだけで、明治の古きよき時代を彷佛とさせる。以前何度か訪れたことはあったのだが、実際に芝居を見たのは今回が初めてである。これだけ古い芝居小屋が今でも使われているところは、ここと四国の琴平にある建物くらいだという。
 常設公演、伊東元春一座の時代劇「仇討男・堀部安兵衛」。別に時代劇が好きなわけではないが、芝居を見ることなどめったにないから、間近にスポットライトを浴びた役者たちを見るだけで珍しかった。笑いをとる場面あり、それなりに迫力のある殺陣あり、太鼓や民舞ありで、けっこう楽しめた。昔ながらのお芝居、というのがよかったのだろう。
 田舎町に腰を据えて芝居を続ける初老の座長の生き方にも魅力を感じたが、一緒に舞台へ上がっていた若者にも十分パワーを感じた。その後、黒子の案内で芝居小屋の舞台裏を見学した。花道へ役者をせり上げる切穴(スッポン)という装置や、回り舞台の下(奈落)などを見た。最後には蕎麦を喰って帰ったよ。
 6時間ほどの小さな旅である。これで少しは気分転換ができたかな。



3000.10.5
 空を飛ぶ夢を見ることがある。といっても、超低空飛行。しかも低速。スーパーマンの格好をした自分が道路の上50センチくらいのところを、歩くよりも遅い速さで飛ぶのだ。実に、もどかしい夢である。
 この間の夢は、仕事場に車を置いて徒歩で帰って来たのだが、車を取りにまた歩いて仕事場に戻るという夢だった。これももどかしい夢だった。
 眠っている時も、起きている時も、ずっとなんかそんな感じだ。いつまでたっても、どこにも到達しそうにない。


3000.10.2
 今週の始まりは最悪。聞いていないのか。それとも理解していないのか。オレの話が通じない。これって何だ?敵意も拒絶も感じない。でも、積極的で意欲的な視線を感じるわけではない。オレが前に立つたびに、彼らは後込みしていくのだろうか。受け身だと言って腹を立てるのだが、その前に十分受容しているだろうかと、考えてみる。
 「仕事と育児、どっちが大事?」だってさ。育児に決まってるだろう?でも、自分の子供を育てるなんて真っ平ごめんだ。というのがきょうの気分だ。


3000.10.1
 きのうは父親の三回忌の法要があった。もう二年、である。いろいろなことを考えた二年であった。正確には父親が入院してから今までの約三年。いったい何を学んできたんだろうか。