1月の日記
2001.1.30
目を瞑ってこそ見えてくる光があるだろう。
窓を閉めて初めて吹き込む風もあるだろう。
というわけで、勝手ではありますが、少しの間このホームページを閉鎖することにしました。
やめちゃうんじゃなくて、お休みをいただくということです。
ご了承下さい。
まるゆ
2001.1.29
暗闇の中、目を閉じると大きくまるい月が明るく浮かび上がった。視界を覆うほどのクリーム色。どんどん迫ってくるまんまるは、まるで初代の新幹線の先頭車両のようだった。
驚いて目を開けると、そこは変わらぬ闇の中だった。
2001.1.28
6時起床。7時過ぎに学校へ向かう。10時半まで部活動。その後、好摩公民館に行き、「岩手郡勤労者旗開き」に参加した。帰宅したのは2時半ころ。「人間の証明」のリメイク版のドラマをテレビで見た。見終わると4時半。眠気を催し昼寝。目を覚ますと6時過ぎ。生協へ買い物に。パックの寿司とハンバーガーの夕食。そして今、大河ドラマを見終わったところ。
組合の動員にはできる限り出るようにしている。だが、何のメリットがあるわけではない。むしろ、いろいろと悩みは増える。自由な時間は取られるし、いつも来るのは同じ人たちばかりだし、自分だけばかを見ているような気になってしまう。きょうの動員だって、教組は各分会1名以上だったはずだ。それなのに来たのは全部で10名に満たない。行かなきゃよかったとはけして思わないけれど、いったい何なんだよという思いも強く残る。「がんばろう」っていう歌をみんな腕を組んで歌った。古臭い歌。「がんばる」という言葉は大嫌いだが、「闘いはここから」という歌詞が好きだ。労働運動に血気盛んだった頃の哀愁がなんとなく漂っているメロディーもいい。
どうして組合をまじめにやってる者がつらい思いをしなきゃいけないの?まじめにやってるものが報われるような世の中を、僕たち自身がつくってこなかったんだねえ。つくろうと努力してこなかったんだ。だから世の中自己中ばっかになった。そんな時代づくりに12年も加担してきた。この罪は大きい。もし神様がいるとしたら、神様は僕を莫迦にしていると思う。僕は、冷たい人間に育ってしまった。自らの選択でそうなった。心から笑うことなんてできなくなった。誰のせいでもないと思うけど、まじめにやってきた自分のせいなのかもと思うとそれもやりきれない。尤も僕の「まじめ」は本物じゃなかったんだろうけど。
2001.1.27
朝9時過ぎに起床。顔も洗わずに近くのガソリンスタンドへ。左後ろタイヤに釘が刺さってパンクしたのを修理してもらった。強面の兄さんは車検でも世話になった人。彼は「エンジン調子よさそうすね」と笑った。
だが、新しいプリメーラが出るらしい。そろそろ考えてもいいかなと思っている。
近所に大きなスーパーができるという。何人かで手分けしてチラシを配って回っていた。あまり人が来そうもない寂しい通りだ。よほどロケーションを吟味しての結果なのか、それとも、冒険に出たのか。もし成功すれば、確実に街の人の流れが変わる。けれど、この通りのもつ「暗さ」を変えるのはちょっと難しい気がする。応援する気持ちはあるよ。それに、道草のルートが拡大するのは、少し楽しみだ。
ニュースでは関東地方の大雪の模様が中継されていた。かなりの大雪。歩きづらそうな通行人。寒そうにして雪掻きしている店員。チェーンを巻いて走るバスなどが映し出された。こちらは曇天。雪は夜降り出すという。冬らしい冬も昔とは違い、いまでは僕は体中雪まみれで外で遊ぶことはない。住宅は快適だし、一つもつらいことはない。いま東京の子どもらは、喜んでいるのか、困っているのか。
夕方から短い旅に出た。高速を南にとばした。いくつか店で買い物して、また戻ってきた。ここ数日気になっていたスガシカオのCDを買って、車の中で聴いた。当たりだった。歌も詩もよかった。この曲に出会ったことで、いい旅になった。どうして気になってたんだろうか。
きっとどっかで、呼びあうものがあったんだろうねえ。
2001.1.25
先生たちってもっと勉強が必要だよって言われた。その通りだと思う。謙虚に受け止めるしかないと思う。きのうみたいな下らない言葉に腹を立てる同業者もいるかと思うと、日記も自重ぎみになる。→疑心暗鬼。
だが、自由に書くべきだ。これは紛れもなく私の日記です。ウソ偽りはござりませぬ。
きょうもいろんなことがあった。朝から晩まで。胸を締め付けられるようだ。人間関係が回り出すととたんにこんなことばかりになる。人と人が付き合うってほんとに難しい。そして、たいていの問題は一朝一夕には解決することはない。立ち向かう気持ち半分。逃げたくなってしまう気持ち半分。
2001.1.24
新年好!きょうは春節です。あけましておめでとう。中国じゃ一週間の連休だそうですよ。
日本じゃきょうもスキャンダルばっかり。いつまでたってもこんな感じ。どうやって生きていきますか、日本人として。嫌になります。個人的な問題さえも、政治のせいにしてしまったりしてね。→責任転嫁。
…低調です。何も浮かびません。
突然だが、スガシカオが気になる。スガシカオって、須賀鹿男?
ま、いいか。
2001.1.23
今年のノーベル平和賞候補に「サッカー」競技がノミネートされているそうです。おもしろいですね。でもよくわかりませんね。そういうのがあってもいいかもね。
それにしても疲れやすくてしかたないです。夜にはもうふにゃふにゃです。朝も起きれなくて大変です。
2001.1.22
寝入り端に金縛りは二十年来のパタンだが、最近それがちょっと変になってきた。眠りに落ちようとすると、誰かが耳元で囁きそれを邪魔する。何やら俺に文句を言っているらしい。何をこの野郎!と俺も戦う。本当にうるさいんだ。しかも意味がわからない。とにかく俺の眠りを妨げようとする悪い奴には違いない。
この脳、だいぶいかれてる。
2001.1.21
日曜日が終わろうとしている。テレビですごい人を見た。自分の父親を目の前で殺された経験を持つ彼女は、それを「ありがたい経験をさせていただいた」と言い切った。穏やかな顔の修道女だった。その人の言葉に目から鱗が落ちっぱなしだったよ。「こころの時代」は侮れない。
ものごとを受け入れるっていうのは難しい。ただの受け身ではできないことだ。受容ってのはネガティヴにみえて実はとってもアクティヴなんだな。
2001.1.19
「お弁当温めますか」という言葉きょうも待ってるコンビニの僕。
新学期1日目。眠い。眠い。お休みなさい。
2001.1.18
帰宅後、水道の蛇口をひねったら水が出なかったので驚いた。しまった凍らせたか!今日も日中は寒かったからな。うかつだったぜ…。風呂場も洗面所もだめだったから、やかんにわずかに入っていた水を湧かして、蛇口にお湯を少しずつかけていた。うーん、出てくれ!
すると、ぴんぽんと呼び鈴が鳴った。出るとヘルメットをかぶったおじさんが立っていた。近くの水道管が壊れて工事をしているので水は出ないけどもう少しで出るようになりますからということだった。ホウ!凍ったわけではなかったのだ。しばらくして水は出るようになった。これにて一件落着。水道局よありがとう。
きょうは眠い。どうしようもなく眠い。明日から3学期本格始動。いかん。あす早く起きることにする。
2001.1.17
阪神大震災から6年。6年って長いようで短いようで。0歳だった子は小学生に。中2だった子は成人式。やっぱり長いか。
去年の今頃は神戸の街を歩いた。メリケン波止場とか南京町とか、元町、三宮、北野、そして、灘の酒蔵も全部歩き回った。地震なんかが起きる前から、いつか行ってみたいと思っていたのだ。
実際に歩いてみると「復興」なんて言葉も頭に浮かばないほど、夢みたいにきれいな街だった。夜の港で虹色の観覧車を見ながら時間旅行をした。
だが、街並みはきれいになっても、人々の心の復興は終わったわけじゃない。人々の表情からは、そんなことのひとかけらも感じることができなかった。すれ違う人たちがみんな心にあの体験をもっているのか。悲しみの底から立ち上がろうとしているのか。必死で生きていこうとしているのか。そう思うと、とても厳粛な気持ちになった。誰もが困難を抱えて歩いている。それを顔に出す人はどこにもいないよな。
どの街を歩く時にも、そんな想像がきっと必要なんだ。
かけがえのないたくさんの命と引き換えに、地震は何を教えてくれたのだろう。自然の前では人間ってどうしようもないちっぽけな存在だということ。それと、それでも人間って素晴らしいんだということなのか。時間がたてばどうにかなるというのではなく、人々は自分達の願いのために人と人とのつながりの中で具体的に動いていくのだろう。具体的に動くから、その結果がはっきりとした形になるのだろう。そこが、人間の素晴らしさなのかな。
人と人とのつながりが大事。学んだはずのことなのに僕は全然実践できないでいる。
あの地震の直後の番組で、ある男性アナウンサーが顔中涙でぐちゃぐちゃになりながらしゃべっていたのを思い出した。今日も僕はテレビを見ながら何度も涙を流してしまった。
歌ってもしかたのない歌ばかり 友部正人
街の名前は思い出せても
思い出せない歌がある
歌の名前は思い出せても
もう歌えない歌がある
思い出せないあの歌を
今はこんなに歌いたいのに
わたしが今歌えるのは
歌ってもしかたのない歌ばかりあの日のことは忘れたくても
忘れたくない人がいる
会ったことのない人たちが
忘れられない人になる
今はもうないあの店で
レコードだけが回りつづける
コーヒーカップは割れたのに
香りだけがたちこめている笑顔はぶらりとやって来て
人の群れにまぎれこむ
悲嘆は身をかくし
心の奥にうずくまる
もしもこれが酒ならば
きっと心底酔えるのに
砂の袋を抱えて
薄暗い階段で迷うのみ思い出せないあの歌を
今はこんなに歌いたいのに
わたしが今歌えるのは
歌ってもしかたのない歌ばかり
「夢がかなう10月」(1996)より
2001.1.16
研修会に出たはいいが、途中で眠くてしかたがなくなった。久しぶりに6時なんかに起きたからだ。事例をいくつもきいていて、「あ〜また始まるな」という複雑な気持ちになった。あと1年とちょっと…。どこまでできるかが勝負。自分自身との勝負だ。勝ってなんぼよの。ワールドカップまでちょうど500日だという。あっという間だね。日本も韓国もぜひ勝ってほしいもんだ。学校も2002年の4月からは週5日制になる。これもあっという間、待ち遠しい気もするが、その前にあの子らを卒業させる。山を越えさせる。
2001.1.15
朝、昼と何も喰わずに、クラブで思いきりダッシュしたら具合悪くなった。氷点下の体育館の中で冷や汗かいてたよ。いまだに胃のあたりが気持ち悪い。弱いぜ。
2001.1.14
久々に表紙を変えてみた。1000カウントの時以来だ。写真はピンぼけだが、タイムトンネルという感じがするかなと思ってこれにした。へんかな。
ハッピーマンデー法ってのが施行されて2年目。1月15日を前に今年の成人式はもう終わってしまった。土・日・月と三連休をつくるのが目的だという。だとしたら、今年は15日でもよかったのにね。1月15日は昔から小正月。旧暦では年が明けて最初の満月の日が15日だった。小正月にはその年の豊作を願ったり占ったりする行事が多く行われてきた。僕らの地方では、「みずきだんご」といって丸めただんごを木の枝につけた飾りをこしらえたりする。それに、元旦の大正月はいわば男のための正月で、女は料理などの家事に忙しく休めたものじゃなかった。小正月は、大正月に働き詰めだった女の人たちをねぎらう、女のための正月という側面があったのだ。
成人の日が祝日として制定されたのは昭和23年(1948)というから、たいして歴史があるわけではないけど、1月15日が休日であることで、小正月の行事がしやすくなっていたはずなのだ。それが、社会の変化によってだんだん小正月の行事は縮小されていった。そこへきて、15日が休日でなくなり、小正月をやりたくてもできない状況が決定的になった。豊作への祈りや家族を大事にする心がこもった行事がこのまま消えてしまうのは残念だ。
ハッピーマンデー法のねらいは、連休を増やして内需を拡大しようということだった。つまり、頭にあったのは経済だ。休みが増える。休みが増えればカネの流れがよくなる。それはそれでいいんだけど、そのかげで伝統とか文化とかがないがしろにされていたんじゃないかな。そういうところまで入った議論が全くなかったんじゃないかな。いつからかこの国じゃ経済が神様になったからね。
中国でも台湾でもほかの多くのアジア諸国では、今でも旧暦の正月のほうを盛大に祝っている。それじゃ新暦は関係ないかというとそんなことはなく、新暦は新暦でしっかりと社会に定着している。新しいものにはちゃんと対応しつつも、いままであった文化や伝統も守り続けているのだ。経済なんかより信じられる神様がちゃんといるんだよ。
日本はあの100年の間に、ほんとうに大事な文化や伝統を置いてきてしまったんじゃないだろうか。残っているとしても形ばかりで心が入っていない。中身がからっぽ。成人式だってからっぽ。だからあんなことになる。若者たちが教えてくれている。ほんとに信じられる神様を求めてるんだって。さがしたいよね。ね。でも、それにはまた100年くらいかかるのかな…。
♪新聞で見つけた言葉「宇宙から見れば人類の滅亡は、小さな惑星にできた化学物質の泡が消えるだけのこと。でも、その孫たちに未来があるかどうか、私は憂う」(ホーキング)
2001.1.13
感動。今朝、郵便受けに新聞が入っていた。もうこれからはコンビニに買いに行かなくていいんだ!休みの土曜日、午前中はすみずみまで新聞に目を通した。朝日は土曜が一番読みごたえがあるな。だが、これから毎日このおびただしい量の情報が届けられるかと思うと、少し気が重くなった。新学期も始まるし、そんなに毎日念入りに新聞読んでられっかという考えもわいた。
午後には大河ドラマ第1回の再放送を見た。思えば毎年第1回だけはしっかり見ているな。さっそく原作本を買ってきてしまった。直前まで迷ったが、買ってしまった。奥田民生のビデオクリップ集も買った。イージューライダーは僕のテーマだと勝手に決めている。車にはシングルCDが常備されているくらいだ。早く春にならないか。また車で遠出をしたくなってきた。
明日でほんとに休みは終了だ。どう過ごそうか。このままじゃまたダルい一日で終わりそうだ。
2001.1.12
電子レンジを壊してしまった。扉のガラス一面にひびが入った。今朝冷凍のパンを解凍しようと思って蓋を閉めた時に、金属コートされたコーヒーの袋の切れ端を蓋に挟めたままスイッチを入れたのだ。しばらくするとベリベリという変な音がして焦げ臭くなってきた。気がついた時にはもう遅かった。ひびが入っただけだからたいしたことはないかなと思い、もう一つパンを解凍しようとしたがうまくいかなかった。ひびの間から電磁波が洩れてしまうのだろうか。僕の食生活には欠かせない家電だっただけに、非常に残念だ。明日は電気屋に持っていって修理を頼むことにしよう。
さて、このごろはさすがに寒い。でも住宅事情がよくなって、部屋は昔よりずいぶんあったかだ。今の僕のアパートでは水道が凍る心配が全くない。元栓も閉めなくていいようになっている。温風ヒーターひとつで部屋は十分暖まるし、夜にいくら冷えても室温は10度を下回ることはない。これはいいことだ。だが、そのせいで窓ガラスにできる氷の模様を見ることもとんとなくなったな、とさっき急に思い出して懐かしくなった。暖かい地域にお住まいの方にはわからないかもしれないが、北国では寒い冬の朝には、空気中の水分が窓ガラスに凍りついて花のような草のようなきれいな模様を作るのだ。それを見ることがなくなった。
岩泉で暮らしていた時には氷点下20度なんて日があったし、住宅も古くてすきまだらけだったから、毎朝元栓を閉めているにも関わらず水道が凍ったものだ。それだけでなく、瞬間湯沸かし器も凍るので、毎朝ドライヤーを10分くらい当てて解凍しなくてはならなかった。ヒーターがひとつでは足りずに一部屋でふたつ使っていたな。夜もこたつで寝てたっけ。それにくらべれば盛岡の寒さなんてどうということはないぞ。高松の池も全然凍らなくなったし。小学校の頃はスケート場だったんだよな。今じゃ信じられない。(ローカル)
あったかくていいんだけど、何か忘れてる気がする。温暖化とか都市化とかではなく、もっと遺伝子レベルでの記憶が消えかかってるような。ぬくぬく。
「どんどん岩手スペシャル 作家高橋克彦と高校生が語る・僕らの未来」という番組を見た。午後7:30から1時間15分のNHK盛岡放送局渾身の(?)思い切った企画だった。3人の現役高校生たちはそれぞれ等身大の意見を語ってくれたし、高橋克彦の話もおもしろかった。語り合うことで、彼ら自身の考えがはっきりしていくのがわかった。でもあの3人は今の高校生の中ではしっかりしている人たちだろうな。高橋克彦が「平均的な高校生は…」という言い方をしていておかしかった。子どもたちから考えたり語ったりするチャンスを奪っていることが大問題だという気がした。その点で学校が批判されるのはもっともだ。でもどこかさわやかな気分が残ったな。清清しかった。よかったよ。(またもローカル)
明日から新聞が配達される。9年ぶりくらいかな。新聞とってないといって、ゲという顔されることがけっこうあったが、明日からは一般の社会人と同じように毎日新聞を取ることにする。いや、毎日ではなく朝日。
地域の情報は岩手日報がいちばん詳しいのだが、あえて全国紙を取ろうと決めたのは…。いいや、この話題はもうよそう。
2001.1.11
大雪で、晩御飯を食べにいく計画は中止だ。しかたなく冷凍庫のパンとカップのそばで済ませる。「地球白書」では、消費の拡大を縮小に転換させることが必要だと言っていた。僕もムダな消費はしないことにする。これも地球のため。「ためしてガッテン」では、毎日体重をこまめに記録するのが効果的だと言っていた。小数点以下二桁まで出る体重計を買おう。これも地球のためだ。資本主義の次に出てくるのは環境主義だろう。地球のため=我のため=人のため、だ。自分が本当に生きやすいような環境をつくっていこう。それこそ国際化だ。全球化ってやつだ。
金八先生の再放送を見て涙が止まらなくなった。ずるいよ。いちいち共感してばかりで参ってしまった。普通の先生なら、彼と同じことを考えてるよ。先生たちはみんなそう思ってるよ。と、そんな気がした。きっと子供達も感動して見てるんだろうな。思えば僕が中学生の頃、金曜八時からの第1シリーズを夢中になって見てたのを思い出す。実をいうと金八先生の影響は大きいんだよな。でも、実際やってみるとそうは簡単にいかないわけで…。自分は自分なりに精進していくことが大切なわけで…。
実は夕べから混乱している。すごく心配なことがある。今までなかった種類の心配事だ。僕の力ではどうすることもできないのだが。結論を急がなくていいことってのはたくさんあると思うよ。山あり谷ありの人生ならば、山の時には山の越え方、谷の時には谷の渡り方ってのがあるだろう。としたら、問題には真っ向から向き合うしかない。僕には何を言う資格もないのだけれど。めんどくさいからと自棄を起こしてしまうことだけはやめてほしい。
2001.1.10
街は変わり続ける。いつもどこかで建物が取り壊されていて、また別のどこかでは建設が始まっている。新しい街なんていつまでたってもできあがることはない。我々はそれを忘れて完成型だけを追い求めてしまうが
それはただの幻想なんだ。今回の旅ではひとつの「未来像」に出会うことができた。ひとつの方向をもって動いている唸りのようなものを感じた。その姿に接して、「これが未来?」という疑問は残ったけれども…。
昨夏の写真が送られてきた。今回の旅で撮ってきたのと一緒に現像した。今晩アルバムに整理しようと思っていたのだがさすがに疲れたので早く寝ることにする。気にいった写真は追々UPします。今年は中国語を本格的に勉強しようかという気になった。英語と語順が同じだし漢字は意味がわかるから意外と覚えやすい。大学の時に少々かじっていてよかったよ。少しずつ思い出そう。
それにしても…。日本のハタチよ、大丈夫なのか?テレビで見ただけですけれども、もちろんあんなやつらは極少数でしょうけれども、ばかじゃねえかおめえら!!と言いたくなったぜ。関係ねえなら成人式に出るなよ。市長に向かってクラッカー鳴らすんじゃねえよ。告訴されて当然だよ。あ〜あ、ハタチで成人式なんて意味ねえなあ。今年15になるわたくしの教え子たちよ。ちゃんと頼んだヨ。
2001.1.6
やっとこさ年賀状を作ったところ。のんびりしすぎかな。でも、正月の気分を味わってからでないと思い浮かばないよ、なんてね。そりゃ言い訳だ。例年と同様プリントゴッコ。ちょっと見てみます?→巳
21世紀、第3ミレニアムの幕開けにしてはなんとも情けない図柄ではあるけれどもそこはお許しを。
実家に行ったら盛岡よりも凄い雪で、40センチは積もっていた。道路はずっと圧雪状態でつるつる。みんなのろのろ運転でふだん40分のところが1時間以上かかったよ。明日が祖父の命日なので、きょうは母親を乗せてお寺に行った。その後お墓参りをする予定だったのだが、墓地までの道が雪で閉ざされていて、車で上がることができなかった。膝くらいまでの雪をこいで上がる気力もなかったので、「しかだねんだ、またあどで来るベ」ときょうのお墓参りは断念した。おじいちゃんごめんなさい。
2001.1.5
新しい百年の最初の年を迎えた。そんな新年早々、テレビでは回顧番組ばかりやっていてつまらなかった。今まで流行っていた風俗が全部古めかしく下らなく恥ずかしく思えてきて、年が明けてからやっぱりどこか突き抜けた感じがずっとしていた。20世紀末のさまざまなよくないことをみんな反省して一から出直そうとか、放送局からもっと積極的に発信すればいいのに。メディアにもそれほどの先見性はないんだな。むしろ新奇なものに対してはバッシングする側についてしまうことのほうが多い。出る杭は打たれる。周囲と違うことを言い出すと変なやつということになり志は傷つけられる。そんな日本の有り様にはピリオドを打ちましょう。どんどん出る杭になりましょう。そして、打たれ強くなりましょう。
21世紀。「祈り」をもっと大事にしたい。これからは「祈る」ことなしには渡っていかれないだろう。誰かのために祈る。自分のために祈る。生れ来るものたちのために祈る。死にゆくものたちのために祈る。そんなことなしに僕らはただ流されてばかりで、漫然と日々を暮らしてきたのではないか。希望は必ず実現する。でも今までどおりでは限界がある。そこに祈りが必要。だから、祈ろうと思う。
この日記を読んでくれた全ての人に幸福が訪れることを心からお祈りします。