タイムカプセル


 
 小学生の時、まわりのみんなに内緒で「タイムカプセル」を埋めたことがある。家で使っていた青色のポリバケツを勝手に一つ拝借して、中に宝物のキーホルダーやらお菓子のおまけのおもちゃやら、その頃残したかったものをごっそり詰め込んだ。それも長期保存できるように、ちゃんとビニール袋でくるんで入れたのだ。しかも、誰が埋めたのかがはっきりわかるように、自分の写っている運動会の時の写真と、住所や電話番号を書いた紙も入れておいた。たぶんテレビか何かで見て、おもしろそうだと思ったのだろう。わずか十歳そこそこの子どもに、果てない未来への憧れがあったわけでも、何十年後かへの自分自身へ過去からのメッセージを伝えたかったわけでもなかったと思う。単なる思いつきのタイムカプセルを作ったのである。
 家に誰もいなくなった日中、その頃住んでいた借家の中庭に、当時の自分の感覚では充分と思われれるくらいの深い穴を一人でせっせと掘り、そこにバケツをしずめ、土をかぶせてすっかり隠した。あとで母親からは、「バケツがなくなったの、知らない?」と聞かれたが、もちろん黙っていた。
 表のバス通りに面して、古い木造の平屋が一つ。その建物には通りから見て左右対称に二つの玄関が並んでおり、真ん中が壁で仕切られて一世帯ずつ別々に住めるようになっていた。同じつくりの建物が裏通りにも面していて、前に二世帯、後に二世帯とその区画には全部で四世帯が暮らしていた。あの頃家の中には水道がなかった。四件共有していた中庭のちょうど真ん中にあった一本の水道から、毎日バケツで水を汲むという生活だったのを思い出す。我が家はバス通りに面したほうの半分で、隣には子ども好きのおばさんと酒好きのおじさんが暮らしていた。二人には子どもはなかったが、日中小さい子どもを預かり、世話をしていた。かずちゃんという男の子で、私もときどきその子の相手になって遊んだ記憶がある。
 裏の建物には高山さんという野菜の行商をしている夫婦が暮らしており、おじさんは「高山のおっちゃん」とよばれ、近所の子供たちに親しまれていた。みんなよく高山のおっちゃんの家の前の道路で、おっちゃんからべった(メンコ)だの竹とんぼだのいろんな遊びを教えてもらったものだ。私はおっちゃんに竹馬を作ってもらい、その竹馬で足を地面につけずにどこまでも歩くことができた。それにおっちゃんはニワトリを何羽も飼っていて、私たちは毎朝その鳴き声で目を覚ました。そういえば、いつかおっちゃんが自分のニワトリに催眠術をかけてみせたことがあった。とうがらしを水に解いたものをなめさせて仰向けにすると、不思議なことにニワトリはぴたっと動きを止めてしまうのである。
 私の父は会社勤めで忙しいこともあってか、近所の人とはほとんど話もしなかった。会社から帰ると必ず晩酌をした。隣のおじさんは夜になると酒に酔って暴れ、壁一枚の隣の部屋から「ばかやろう」などという怒鳴り声が聞こえてきたりした。しかし、父の場合は周囲に罵声を浴びせるなんてことはなく、実に陽気な酒の飲み方だった。よく父は腹鼓をうちそれに合わせて唄った。今でも覚えているのが「ゆーちゃんゆのつくゆんざえもん、ゆんちょーのゆんむくれ」という唄。私には弟が二人いるが、その弟たちの頭文字を「ゆ」のところに当てはめて父が一人ずつ唄って聞かせると、喜んで笑ったものだ。それから「なむあーみだんぶ」という独特の節回しのあるフレーズもよく聞かされた。おととし父が亡くなり、その御逮夜で御詠歌をきいたあと、親戚一同が広間で車座になり、寺から借りてきた周囲十メートルほどもある黒檀か何かでできた大きな数珠をみんなで持ち、手から手にぐるぐると回した。その時唱えたのが、あの「なむあーみだんぶ」であった。思いがけず父の唄の出自が明らかになり、私たちは笑いと涙が止まらなかった。
 タイムカプセルを埋めてからほどなくして、そこに住んでいたみんなはそれぞれ引っ越しをし、住み慣れた古い家はすべて取り壊された。今ではきれいに整地されて、区画全体が一つの駐車場になってしまった。
 あれから二十数年が経った。あのとき埋めた私のタイムカプセルはいったいどうなったのだろう。そんなこと、今ではもう知る由もない。