へ 「壁画」
 街を散歩しているとよく目にするものの一つに壁画がある。建物の壁一面に大きな絵が描かれている。個人経営の店の壁に描かれたものもあるし、オフィスビルに描かれたものもある。ポスターやら看板やらを掲げているところもあるけれど、そうではなく壁に直接ペイントしているものが多いのには驚く。通勤途中の通りにも壁画がいくつかある。職場の近くの雑居ビルに描かれている壁画の中心は、赤色のストリートカーだ。その周りに、さまざまな民族の老若男女が集っている。いろんなコミュニティを散歩すると、このストリートカーを描いている壁画がいくつもある。それだけトロント市民にはこの路面電車が親しまれているという証拠だろう。その他に、子どもが描いたのかなと思われるようなほのぼのとした壁画、どこかの美大生が腕を振るったと思わせるような見事な壁画もある。ダウンタウンの目抜き通りは壁画だらけで、いちいち眺めていたら一歩も進めなくなってしまうほどだ。ネコやイヌの絵が実にきれいな動物病院。巨大なビール瓶が描かれているバー。チーズをかじるおじさんの姿が哀愁を感じさせるイタリアンレストランなど、中にはお気に入りの壁画もいくつかある。

 ところで、カナダの人々の、住居についての意識には日本人と異なるところがある。たとえば、引っ越しもかなり頻繁に行う人が多いようだ。転職率も日本と比較すれば格段に高いから、いわゆる転勤だけでなく仕事場が途中で変わるのである。そのつど職場に近くて便利なところに引っ越そうという人の数は多いのだろう。アパートやコンドミニアムといった賃貸住宅では、敷金礼金などは不要だから、お金をかけずに引っ越せる。それだけでなく、一戸建ての住宅も簡単に売り買いできてしまうのが、ここの大きな特徴である。それは住居の価格が安いというだけではない。売ろうとすれば買い手がすぐに見つかるので、それほどの負担がなくても住み替えることが可能なのである。たとえば、カナダ人の夫をもつ同僚のひとりは、昨年新居に引っ越したと思ったら、たいして間をおかずにまた新築の一軒屋を契約した。買う前はわからなかったが住んでみるといろいろと気に入らないところがあったから、というのが理由だそうだ。職業も住居も、一つところに根を下ろすとか、同じところでいつまでも過ごすとかいう感覚はまったくないようである。

 だが、このようにすぐに住み替えてしまうにも関わらず、自分が購入した家の壁や内装は、住む人によってどんなふうにペンキを塗っても構わないことになっているそうだ。建物の内側を見ると、もともとは真っ白の壁が多い。それは、自分好みの色に塗り替えることを前提として、下地が白いということなのだ。外装も同様に、実に個性的な色に塗られているのがわかる。一戸建てだけでなく、同じ建物に分かれて二軒が入っているような場合にも、壁の左右できれいに色が分かれているところがいくつもある。門扉、玄関からガレージまで、その人の趣味が見事に表れている。その中には、壁画というほど大きくなくてもちょっとしたペインティングが施されている家もある。これらも、主が代わればまた別の色に塗り替えられることになるのだ。

 壁画や個性的な色の壁面に関して、一概に良い悪いと判断することはできない。なぜなら、ひとつひとつみていくと、個人的にいいなと思うものもあり、ちょっと変だなと思うものもあるからだ。しかし、それらが隣の邪魔をしていたり、町の風景を乱していたりと感じるものは見当たらない。目障りだからないほうがよいとか、一軒だけけばけばして見苦しいとかいう建物はなさそうにみえる。どれも個性的だけれど、なんとなく悪い感じはしない。町全体としてみれば、いろいろあるおかげでおもしろいハーモニーがもたらされているような気もする。しかし、そう感じられるのは、自分も、お互いの個性について寛容であり許し合う社会の中にいるからなのかもしれない。多様であることを大前提とすれば、人々の個性がさまざまな色となって表現されるのは当然だし、自らもそのように多様な他と調和を保とうという考えも生まれるだろう。いまのこの感覚を忘れないようにしたいものだ。(2005.12.12)