ほ 「本」
もう3年近くなるのに英語がわからないのと言われるとつらい。だが、たった2年や3年で話せるようになるほど簡単なものではない。英語環境での生活ならいざ知らず、自分の職場は100パーセント日本語環境だから、黙っていてできるようになるわけはないのだ。もちろん来た頃よりは数段に、聞くことも話すこともできるようにはなった。だけどそれはあくまでも、来た頃と比較してのことであって、とてもペラペラになったなどと言えるものではないのだ。外国に暮らせばそれだけで会話できるようになるというのは幻想である。どこにいても、努力というものが必要なのだ。

 言い訳がましくなってしまったが、ここでの生活で感じているのは、言葉があまり通じない人どうしでも、なんとなくやっていくことは可能であろうということだ。買い物をするとき、食堂で何かを注文するとき、近所の人と挨拶するときなど、英語ができるできないというのはあまり関係ないと感じる。カタコトでも、表情と身振り手振りでなんとかなるものである。トロントには130以上の国々から人々が集まっていると言われる。街を歩くといくつもの異なった言語を簡単に耳にできるし、アパートの同じ階にも何カ国の人々が暮らしているかわからないくらいである。そのようなところで、英語ができないといってもあまりどうということもない。人とのコミュニケーションには言葉より大切なものがある、とそんなことを強く感じている。

 ところが、これが書物となると話は別である。日本では本屋とレコード屋を回るというのが、散歩コースの定番であった。トロントでも基本的には同じなのだが、決定的に違うのは、本屋で売られている本を読めないということだ。昔から日本の英語教育は、「話す」「聞く」よりも「読む」「書く」に重点が置かれてきたといわれる。ESLに通っていたときに感じたのは、日本人にとっては簡単な文法的な事項を間違う外国人が多いことだった。会話ができなくても、読み取りはあまり問題なくできたものだ。そういう意味では、洋書を読めないことはないはずなのだが、実際にペーパーバックなど買って読もうと思っても読めるものではない。洋書1冊読むくらいの時間に、日本語の本を何十冊読めるかわからないくらいだ。

 本、あるいは文字というものは、文化の記憶装置であるといえる。文字に記録することで、文化を携帯できるようにし、どこでも誰でもその文化を解凍して吸収することができるようにしたもの。それが本である。だから、本屋や図書館で書架を見るたびに、人類がこれまで蓄積してきた文化の大きさを感じる。ただし、それらを受け継ぐためには、その言語を理解できることが最大の条件となる。この壁の高さを思えば、ご近所とのコミュニケーションなどどうということもない。

 ちょっと見方を変えてみる。本屋の形態を観察してみよう。街中に店舗がないわけではないが、ひじょうに数が少なく規模も小さい。一方、幹線道路沿いには駐車場つきの大規模な書店がいくつもあって、平日は夜遅くまで開いている。茶色くて落ち着いた内装で、ところどころに置かれたソファに座ってゆっくり選ぶこともできる。そして、きまって一角にはスターバックスなどのコーヒー店が入っていたり、音楽CDのコーナーがあったりする。これは岩手でも増えてきた郊外店と変わらない雰囲気である。だが、日本にはなかったサービスもある。たとえば、最大手の書店チェーンの会員になれば、雑誌を除いてはすべて5パーセント引きで購入できるし、安売りのコーナーがあって、ちょっと前に出たものでも、7割引、8割引になっている。再販制度がないことは買い手にとってはメリットが大きそうだ。それから、先日は店内でコンサートが行われていたのに偶然出くわしたが、なかなかいい雰囲気であった。

 たとえ文字を読まなくとも、本の装丁やデザインには美しいものがたくさんある。それらを眺めて歩くのもおもしろい。だから、散歩コースとしては悪くない。画集、写真集などで安くなっているものもあるので、これからいくつか買って帰るかもしれない。しかし、これらの本を手にとってみると、ひじょうに重い。日本で売られている本の倍くらいの重さがあるのではないかと思うくらいである。それに、ガイドブックなど開くとたまに落丁が見つかったりもする。洋書を読めないひがみではないけれど、日本の印刷・製本の技術はここのものより数段上であることは間違いない。文字でなくとも、手触りで文化を体感することもできるのである。 (2005.12.12)