2016年1月  januari 2016

zondag 31 januari

 雲がたれ込めた寒い日。午前中は部屋で仕事を進める。昼過ぎてからバスとトラムを乗り継いで出かける。「ヘット・シップ」という建築に関する博物館を見学した。約1時間の英語の解説付きで、建物の内部と外部を案内してもらった。途中から雨が降って寒い中だったが、興味深かった。終わってから、博物館のカフェで遅い昼食のスープを食べた。歩いて停留所に行く途中で、トラム沿いのカフェでコーヒーを飲んだ。やっとで乗ったトラムは方向違いで、終点まで行ってからまた乗り直した。乗り換えたバスがステーションに着くと、ちょうど家の前で止まるバスが発車するところだった。寒かったのでありがたかった。暖かい日にまた来れたらいい。

zaterdag 30 januari

 午前中は仕事。午後から車でザイストという町まで行く。ユトレヒトの東側にある小さな町だというくらいの知識しかなかったが、行ってみるとここもきれいな町だった。そして、ここも意外に広かった。他の町と同様に、広場には市が立っており、賑わっていた。買い物通りを一周すると、悠に一時間半くらいかかった。

vrijdag 29 januari

 通常業務は昼までで、午後は職員の研修だった。トラムで歴史地区まで出て、運河巡りの観光船を貸し切って、職員の解説付きで街を運河から眺めた。日本語の解説はありがたかった。ここに来てまもなくの頃、一度乗った時に英語で聞いたことが残っていたのか、解説は多くが復習という感じだった。船を降りてからは、国立美術館まで歩き、17世紀の最も有名な絵画を中心に鑑賞した。これも日本語での解説付きだったので絵画を取り巻く事情を詳しく知ることができた。

dondersdag 28 januari

 朝の7時に家を出てバスステーションまで歩くと、ちょうど142番のバスに乗ることができる。170番台のバスと路線は同じだが、途中の停留所をかなりとばすので、空いており、しかも乗り降りが少なくて煩わしくない。それで最近、朝にはバスステーションを経由して142番に乗ることが多くなっている。帰宅時もメトロを居りた時にこれが来ると少しほっとする。

woensdag 27 januari

 かつて僻地で働いていた時のことが思い出される。生活環境や業務形態の中に相似点が多いからだろう。その時には上司や同僚からかなりの叱咤を受けたのだが、今同じように若い人達に言おうものなら、この職場は成り立たなくなるだろう。管理職もおそらくそう感じているだろうし、ある程度の年配者はそんなことを考えているのではないだろうか。

 聞く耳のない者に何を語っても仕方が無い。馬の耳に念仏。猫に小判。豚に真珠。暖簾に腕押し。豆腐に鎹。

dinsdag 26 januari

 きょうは一日通常とは違う時程で進んだ。多くの客人が訪れて、その方たちと交流する日だった。英語でのコミュニケーションをする機会はそれほど多くないのだが、それはほんとうは機会がないのではなくて、機会を利用しようという気持ちが足りないのである。だからなのか、こういう客のあるような時くらいはせっかくだから話してみようという気持ちにはなる。国は違えど同業者との話には当然ながら共通性がある。実をいうとむしろ日本語を話す同業者との方が相容れない感覚を覚えることが多い、不思議なことだが。

maandag 25 januari

 また一週間が始まり、あっという間に夕方となった。気温は春のように上昇し、日本やアメリカの並外れた寒気とは対照的に、こちらでは異常に暖かい冬となっている。終わってからは、きのうと同じようにメディアマルクトに行った。きのうは考えていなかったコンピュータを購入した。職場で使っているのとメーカーも同じだし、キーのタッチも同じだから、使い勝手は悪くないだろうという考えに至ったのだった。そして、クラウドのサービスを本格的に導入しようと思ったのだった。

zondag 24 januari

 この日も朝には仕事をした。そして昼から散歩に出た。アムステルフェーンとアムステルダムとの境にある、雰囲気の良い老舗のカフェで昼食をとった。カフェとレストランでは格式もメニューも価格も違うのだろうが、レストランにはあまり足を運ぶ機会は無い。カフェで十分満足するというよりも、カフェの方が好きだと言った方がいいかもしれない。そして、ハンバーガーというのはアメリカのものかと思ったらそういうわけではなく、やはりこちらでも食べ応えのあるハンバーガーを食べることができるのであった。その後はメトロに乗って、アレーナの近くのメディアマルクトに行き、コンピュータを見た。

zaterdag 23 januari

 午前中は仕事をしていた。2時を過ぎてから車を出した。ナールデンで小一時間ぶらぶらして、そこから少し南に下ったバッスムという町を散策した。何の変哲も無い町だが、きれいな町だ。オランダにはこういう町がいくつもあって、そこでだいたいの買い物も済ませることができる。日本の小さな町とは大違いだ。どこでどう間違えたのかと、こういうところに来るといつも思う。

vrijdag 22 januari

 何のためにここに来たのかという問いには、二つの面から答えなければならない。一つは我のため、一つは彼のためである。我とは自分の欲求のためであり、彼とは自分以外の人間の利益のためということである。答える時に気をつけるべき点は、我を後回しにせよということである。これは試験の対策として重要である。

 だが、我と彼を分けて考えることは有効だろうか。おそらく違う。我のためにと思って行うことはすべて彼のためになるし、彼のために行うことによって我が生きる糧を得るのもまた真実だ。だから、我は彼なりと思えば、欲望の限り何をしても許される。逆に、我と彼が相容れないと思うようであれば、何をしたって許されない。

 「許されない」と断じてしまうところがきっと自分の弱さである。だから、顔が歪んだりするのだ。

donderdag 21 januari

 水曜日が過ぎると、一週間は終わったも同然という気になる。木曜日の夜には表情が緩んでいると言われた。ここ数日、右目の下がけっこう勢いよくけいれんする。ストレスという一言で片付けられるその現象は、これまでもよくあった。傍からストレスと言われると、それほど重く感じているわけではないのにとやや不満な気分になる。だが、身体症状に出ているではないかと言われると、反論のしようがない。

 あれこれとどうでもよいことを考え過ぎるのかもしれないと思いながら、一方では、こんなに何も考えないでいていいのかという思いも浮かんでくる。ただ、いつも考えていることは、考えるべきことについてはとことん考え抜くことべきだということだ。 人間は考える葦であるという言葉を思い出した。パスカルは何を言いたかったのだろう。

woensdag 20 januari

 笑い話から遠ざかっていただろうか。毎日たわいもないことで大笑いしていたように思うのだが、そうでもなかっただろうか。日本のニュースはテレビでは見ることができない。いまやBBCWorldNewsは欠かすことの出来ないものになった。世界のことが一瞬にして地球を駆け巡るような今の時代から子どもの頃のことを思い起こせば、当時は何もなかった。世界ではさまざまなことが起きていたはずだし、世の中の流れが滞ることはなかったに違いない。しかし、それを知る術がなかった。

 世界の情勢が生活の一部だとすれば、くだらなくて脱力して思わず吹き出すような笑いの断片もまた、生活の一つである。自分を形作る要素を仮にジグソーパズルだとすると、ピース一個の大きさも形もほんとうにまちまちで、顕微鏡を使わないと見えないものから、宇宙に出ないと全体像が掴めないほどのものまである。大きなものが価値があって、小さなものはどうでもいいと、思ってしまうこともある。反対に、それを一緒くたにして全部同じ大きさだと捉えたくなる気持ちが湧くこともある。

 パズルとはいっても、ほんとうは欠片がばらばらの状態で散らばっているわけではない。すでに絵は出来上がっている。

 それを見ようともせずに、欠片を探してばかりいるのはちょっともったいない。

dinsdag 19 januari

 育ててもらった恩というものもあるだろうが、自分たちがその親みたいな者から独り立ちできない状況に追い込まれているとしたらそれほど苦しいことは無いだろう。育てられた恩は育てた者へ直接は返せない。すべてが間接的に、これからの人への贈り物となって手渡されていく。巣立つこともままならないなら、贈り物を手渡せるかだって疑わしい。

maandag 18 januari

 毎日発生する逸話はそれを聞くと人をがっかりさせることが多い。いくつものことが重なって、人は人を信じられなくなっていく。またそれとは反対に、少しずつ信じられるようになることもないではないのかもしれない。気温が昨年の冬にはこんなに下がらなかったというくらいまで下がった。それがここにとって甚だ寒いことだとは思えないけれども、いざこれだけ冷える前には、こんな防寒は必要は無いだろうと高をくくっていたのだ。それで少し慌てて長袖の下着を購入したりということにもなったのだ。

zontag 17 januari

 阪神淡路大震災から21年が経過した。そして三陸沖の地震から5年が経った。それほどまでに大きな地震の起こる頻度は高く、日本人は一生のうちに何度もそのニュースに触れることになる。だとしてもなのかだからなのか、当事者でなければ、国土が被害にあったことすら忘れがちである。

 昨夜は1992年に起きた飛行機の墜落事故についてのテレビを見た。スキポールを発った貨物機が市の東側のアパートに落ちて、乗員とアパートの住人が40人以上も命を落としたのだそうだ。このことを覚えてはいなかった。

 アレーナ辺りまで歩いた。晴れて冷え込み、運河に薄く氷が張っているのを見た。そこを2時間ほど。

zaterdag 16 januari

 ゆっくり起きたことは、自分のリズムを壊すことにつながる。いくら休日とはいえ、自分の時間を無駄にした。よくある話だが、よくある話そのものが全体を面白みのないものに変質させてしまっている。ハールレムのとある時計屋の後ろ側、大戦時にユダヤ人の隠れ家として使っていた建物が博物館になっている。そこを1時間の予定で見学。その後、フランス・ハルス美術館を見学。合間にフリッツを食べたり、食事をしたりした。風が強くて寒かった。

vrijdag 15 januari

 成人の日と言えばこの日だし、この日は小正月であり、女正月でもあった、かつては。この話をすると、どういう反応をしたらよいものかわからないという顔の人もいる。ただ、そういうこともあったし、そういうことを考えてほしいと思っている人がいるということは、何となく伝わればよいか。1,000,000,000分の1ほども伝われば、それで十分か。

donderdag 14 januari

 朝から気が気で無くて病院の照明のことなど頭に無かったから、この日の灯りがどんな色だったかは覚えていない。雨が降ったり止んだりの嫌な天候で、昨夜まで何の構想も無くて、夕方まで何一つ面白くない時間を過ごした。

woensdag 13 januari

 全体的に行事が立て続けに行われる一日にあって、自分だけがその和に含まれずに終わった一日であった。ねらいというのは、傍から見るものと、自分自身が考えているものとは違う時がある。周囲からは困っているように見えて、その実自分は誰より楽しんでいることもある。病院のイルミネーションが赤と緑でクリスマスの特別な仕様の灯りだったことをこの日の朝には確認した。

dinstag 12 januari

 咳がいつまで経っても治らなかったのだが、そういえば3か月以上治らなかったことがあったと思い出した。少し気を遣えば抑えることができるが、気を抜いた瞬間に制御がきかなくなることもある。

 きょうは1月に入って初めてのことが続いたが、たいして何も準備せずともできることだけで済ませてしまった。

maandag 11 januari

 今年の第2週目が始まった。かつて誰かがだんだん楽になると言っていたことがあったが、それは何も見ていない人の言葉だ。それを幸せとは呼びたくない。人それぞれの価値観があると言いつつ、自分にもそれがわかっていない。

zondag 10 januari

 客人たちはきょうの飛行機で帰国した。朝にホテルに迎えに行き、車に荷物を積んだまま、少し北にある運河沿いの地区に行って、ある橋を見てきた。現代建築の並ぶ面白い地区で、何度か足を運んだところだったが、その橋は見ることがなかった。ガイドブックもわざわざ見ないので知識もつかないのである。

 空港で見送ったのは12時頃。そこから南の町にあるカフェに行き、昼食を食べた。その後、買い物しがてら帰宅すると14時を回っていた。さすがに疲れて2時間ほど昼寝した。

zaterdag 9 januari

 客人たちを乗せてクローラー・ミュラー美術館に行った。開館とほぼ同時に入り、印象派、そしてゴッホのコレクション中心に2時間ほど見てきた。しばらくは観客が少なかったため、名画にほとんど独り占めでじっくりと向き合うことができた。ゴッホのゴッホたる所以には詳しくないが、これが絵というものかという新鮮な驚きとともに見られたのが嬉しかった。

 帰り道には、ナールデンに立ち寄り、雑貨屋や古美術店をいくつか見て回った。短い時間ではあったが、普段あまり入ることのない類の場所だったので、興味深かった。一日いっぱいで疲れたが、夜には文書をひとつ完成させて就寝した。

 どのような不遇な人生であれ、後世に絶大な評価を得られるとしたらそれは素晴らしいことではないか。だいたい、誰にとっても人生とは不遇なものではないか。生きるということはいつでも楽ちんとは対極のことなのだから。

vrijdag 8 januari

 今年の第一週が終わった。多くのことを積み残して週末に入った。時代の変わり目というなら、いつでも時代の変わり目だ。世代の違いというなら、その違いは一生埋まらない。自分がやってきたように、他人にさせることは難しい。

 きょう、初任の頃副学年長の先生に言われたことがまざまざと心に浮かんできた。終業式の生徒の言葉について。誰だあれ指導したのは。行事ばかりの反省なんて話にならない。大事なのは行事じゃない。日常がどうだったかなんだよ。

 言われなければ何もわからないままだった。いくつものそんな瞬間を通り過ぎて、当たり前のことが次第に増えた。まだまだなのだけれど、そうも言っていられない。まだまだはまだまだながらも、今度は自分が声を出す番だ。

 しかし、あの時言ってくれたような、言われて変われたような状況に、いまあるだろうか。

 違う人々と生きることの難しさ。社会が抱えることの重さを自分一個人の境遇と重ねてみる。

donderdag 7 januari

 ハレとケの文化など全く伝わってはゆかない。今ではすべてがお祭りであって、イヴェントであって、楽しかったり、賑やかだったりすればそれでよいという風潮になってしまった。あまりに空虚だ。目を伏せ、耳を塞いで、本質から遠ざかろうとばかりする。松の内はきょうまでとはいっても、この雰囲気はまだまだ続くのである。

woensdag 6 januari

 昨日のことだが、朝目覚めた時にまだ生きていたきょうも生きられると感謝するという話をしたら受けた。何もおかしいことはない。夜眠りに就いてそのまま起きないのが死ぬことで、再び目覚めるのが生きるということだ。生と死の違いは、目覚めるか目覚めないかだけなのだ。だから、死ぬのは楽ちんなもので、生き続けるのはなかなか大変だ。

 出来る人の論理でものが進められるのは危険だ。いつまでも出来ないままでもいけないけれど、出来ないことを前提に組み立てていかなければ出来ない人にはあまりにも酷だ。努力は大切だが闇雲にがんばるだけで解決できることなど何も無い。

dinstag 5 januari

 通常にも様々な段階がある。昨日を通常業務の第1段階とすればきょうは第2段階だった。そして、明日は第3段階だろう。頭を働かせることは当たり前のことだが、その働かせ方にも段階があって、昨日よりもきょうの方が複雑なことを考えていたように思う。昨日腹を立て、きょうも腹を立てた。だが、腹の立て方が違っていた。

maandag 4 januari

 仕事初めのきょうは大した仕事にならなかった。というのは、時間が短くて進め様が無かったからだ。それが良いことか悪いことかはわからない。働く時間が長過ぎればまた文句を言うわけだから。それに、早く終わったことが幸いして、空港で客人たちを迎えることができたのだから。

zondag 3 januari

 今年初めての日曜ではあるが、明日から通常業務となる年末年始休暇最後の日でもある。明日には来客があり、その方達を連れて行く場所の候補地として、クレラー・ミューラー美術館とヘット・ロー宮殿に行ってきた。今回美術館には入らなかったが、宮殿には入場して一通り回ってみた。時間をかけるつもりはなかったのだが、入るとすぐには出られないほどの大きな規模だったので驚いた。その後は、ナールデンという城塞の町に立ち寄り、少し歩いた。せっかく日本から来て滞在するのであるから、少しでも効率よく回れればよいと思う。そのための下見ではあったが、また個人的に足を運んでみたいところばかりだった。

zaterdag 2 januari 

 午前中はゆったり過ごしながらも仕事の書類を進めた。午後から少し買い物に出かけた。電球や蛍光管が一度に何個も切れたので、電気店やホームセンターを梯子した。商品の種類があまりに少なく、電球は二社のもののみ、蛍光管に至っては一社の製品以外にはほとんど売られていなかった。たしか蛍光管は日本でも生産中止になるとかなったとか昨年読んだことがあった。だからこちらでも風前の灯火なのだろうか。困るのは、借家住まいの者だ。

vrijdag 1 januari

 新しい年が始まった。ここでの生活もあと1年と少しを残すのみとなった。休暇は日曜までで来週からは通常業務に戻る。この休暇でもあちこちを歩き回り、貴重な時間を過ごすことができた。さまざまな社会があり、もちろんそれらに優劣を付けることはできないのだけれども、個人的に個々の事物の評価を与えることはできる。そして、個人が日々多くの出会いによって変化するのと同様に、どの社会も互いの結びつきによって変わっていく。土地柄旅先ではどこに行っても教会ばかり見ることになるのだが、いつも感じるのは歴史の重みと、個人の小ささと、人類の行く末のことである。

 個人の持ち時間はほんとうに短く、歴史は誰かの恣意によって管理できるほど単純ではない。それとともに、個人の命は儚いながらも必ずしも無力ではないということと、わずか一人の判断ですら歴史を狂わせるのには十分だ、という考えも頭をもたげる。

 出会いが人を変えるなら、それは村どうし、国どうしも同じだろう。村と村がぶつかり合うと抗争が起き、国と国なら戦争と呼ばれる。どちらかがどちらかを征服すれば、征服する側は都合よく歴史を捏造し、常識を組み替える。征服される側が面白くない思いを引きずれば、それが火種となっていつかまた争いが起こる。

 だが、別の側面から見れば、異なる者どうしの出会いこそが新しいものを生み出す方法である。遮断すれば途絶えるのみで、融合だけが道を開く鍵ではないか。この二千年のうちに異なる者たちの出会いがあり、抗争や断絶が繰り返されてきた。その後これからの千年二千年でそれぞれが共に生きられる道が開かれていくのかもしれない。その経過について、一個人の何の憂いも入り込む隙はない。心は遠く見遣ることができたとしても、自分の足はこの大地から離れて飛ぶことはできない。ただきょうも一歩踏み出し、足跡を付けるのみである。