見立競五枚兜(みたてくらべごまいかぶと)         〔本文を読む〕
 

一.はじめに

 『見立競五枚兜』は、原本の所在がわからない。現在では、昭和期のものと思われる写本の存在が確認されているだけである。さらに、この小説の作者とされる鉈也民清についても、素性は全くわからない。
 序文や跋文に「弘化四年」(1847)と書かれてあるので、江戸時代末の作と考えるのが自然であろう。しかし、原本がなく、作者がどのような人物であるのかもはっきりしない現在、残念だが推測の域を脱することができないままである。
 これまで世に出ることがなく、まして研究の対象とされたこともないまま、岩手県立図書館の書庫に長い間収められていたものであった。私がこれを国語学の卒業論文として扱ったのが1989年のことである。卒論については、当時から、いつかは出版したいという願望を抱きつつも、就職後は手付かずの状態であった。だが、自分のホームページを開設したことをきっかけにウェブ上での公開を思いついた。そして、いずれ近い将来、長年の夢の実現にこぎつけたいと考えている。
 この小説は、盛岡周辺や旧南部領が舞台となっており、地域色がところどころ盛り込まれている。岩手を舞台とした近世以前の小説としては珍しく、全編で二百丁ほどもある長編である。しかし、会話文においては、この地方の方言などは使われておらず、一見して江戸語と思える言葉で書かれている。
 本ページでは、この「見立競五枚兜」の全編を可能な限り翻刻したものを逐次掲載していく予定である。
 初めてこの小説に出会ったときの感激は大きなものであった。それは、郷土を舞台にした小説を発見できた喜びと、その内容のすばらしさに対する感動であった。そして、この本との出会いが、自分の将来を方向づけるのではないかと、漠然とではあったが感じたものである。
 本ページが、この小説を多くの人々の目に触れる契機となることを願ってやまない。



二.解説
 
1 形態
 (1)巻数   三巻、三冊。
 (2)寸法   縦23.5cm、横16.5cm。
 (3)外題   『見立競五枚兜』(上・中・下)
 (4)内題   上巻『見立競五枚佳婦登前編之巻』
          中巻『見立競五枚佳婦戸後編竹之巻上』
          下巻『見立競五枚佳婦戸後編梅之巻下』
 (5)紙種   楮紙の罫紙。
 (6)行数   本文13行。
 (7)署名   加賀野庵鉈也。

2 本文
 『見立競五枚兜』は、現在、岩手県立図書館に所蔵されている。国書総目録によると、この文献はほかに所在がなく、これが現存の確認できる唯一のものということができる。
 岩手県立図書館郷土資料目録によると、「弘化四年(一八四七年、江戸時代末)写」となっている。しかし、その紙種や形状から、明らかに近代以後の写本であると考えられる。
 本資料は、太田孝太郎氏(1881〜1967)の旧蔵書であり、太田氏が筆写したものである可能性がある。藤原暹氏(1989現在、岩手大学人文社会科学部教授)によると、筆跡から判断して、太田氏の筆記である可能性がかなり高いということである。
 太田孝太郎氏は、岩手の郷土史研究家として、また、中国古印、篆隷書の学者として多くの功績を残した。氏は、岩手に関する郷土資料の集大成である『南部叢書』を編纂したことでも知られている。
 以上のことから考えてみると、目録に「弘化四年写」とあるのは、弘化四年に書いた本を、のちに書写したものと解釈できるのではないだろうか。
 序文および跋文から成立年代を推察するとすれば、弘化四年以前ということになる。しかし、写本しか残っていない現状では、断定することはできない。

3 内容
 『見立競五枚兜』は小説であるが、細かい区分を考えるのには難しい面がある。それは、前編と後編とで形式や物語の趣向が異なっていることによるものである。
 この小説は、前編では盛岡周辺、後編では南部藩全体が舞台となっており、その土地の風物、地名や伝説などをところどころに織りまぜながら、物語が繰り広げられていく。
 物語は、五人の中年女の夢談義が発端となっている。五人がそれぞれ子供を授かる夢を見る。しばらくして五人は子供を産む。そして、その子らが二十歳ほどに成長してからが、本編の始まりである。
 その子供たち五人を簡単に紹介しておく。
 

岩太郎(お岩の子)  国一番の富豪、国一屋の息子。
姫 野(お岳の子)  病気の母親を気づかう貧家の娘。
お 峰(お早の子)  人気芸者。岩太郎の友人。
山 三(お雲の子)  武士の家に生まれた芸人で、強力の持ち主。
森 蔵(お徳の子)  盗賊の頭。当国一の大悪人。
 
 前編は、岩太郎と姫野の恋物語を基軸にして、これら五人の人物を中心にして展開される。前編では会話文が相当な割合で含まれており、会話中心で構成されている。会話文の部分では話し手を明示し、符号をつけて表している。
 書式は会話を大字に書き、地の文は大字であったり、小字で二行割にしたりと一定していない。そして、会話文の後に「ト」を置き、人物の行動を叙述する体裁になっている。また、「評曰」と大字で書き、その下に二行割で内容上の注釈や説明が行われている部分がある。
 この形式は、『東海道中膝栗毛』をはじめとした滑稽本の影響を受けているのではないかと思われれる。
 以上は前編であるが、後編は前編とは趣を異にしている。前編では悪者として登場していた森蔵が、前編の終わりで心を入れ替え、後編では、高僧南昌法師として出てくる。物語は、南昌法師の法力にまつわる仏教伝説的なものを基軸にすえて展開される。先の男女が南部領の名所を巡る旅を行い、その道中に起こる事件を南昌法師が法力を使って解決していくというものになっている。
 会話中心の前編に対して、後編でははじめ多かった会話文が次第に減少して、梅之巻ではほとんど見当たらなくなる。符号を使った口語の直接の会話部分が減り、人物が語る内容を文語で間接的に表す形が増加してくる。また、後編では二行割の部分は皆無である。
 前編が全体的に軽妙なテンポで流れているのに対し、後編では仏教用語をふんだんに用いて、神秘的で荘厳な雰囲気が漂っている。なお、会話文は一見して江戸時代後期に江戸で行われた話し言葉のようである。

4 作者
 序と跋に、加賀野庵鉈也という署名がある。そして、署名の下に、鉈をかたどったシンボルマークが描かれている。加賀野庵というのは、盛岡の加賀野に在住していたということであろう。
 署名には、鉈也のみしか記されていないが、岩手県立図書館郷土図書目録には鉈也民清とある。これは、この文献が図書館の蔵書として登録された時点では、作者名の知ることができる何らかの手がかり、(例えば、原本などの書物や太田孝太郎氏などの人物)があったのではないかと想像できる。
 鉈也民清は未だに素性のわからない謎の人物である。この『見立競五枚兜』以外には、何の資料も著書も発見されていない。
 しかし、鉈屋長清という人物については『盛岡砂子』『内史略』の中に次のように書かれている。
○『盛岡砂子』城東之部(『南部叢書』第一冊、491ページより)
 頓證山菩提院
葺手丁より内加賀野へ入口西側、三明院向、光臺寺末、浄土宗。或舊記云、寛永の頃京より、鉈屋長清といふ者、金持にて廻國し、盛岡へ来りて鉈屋寺(しゃおくじ)を建立す、ゆえに鉈屋丁と云、則此菩提院の事也。寛永圖を按に、此門前より、今の村井何某の前の邊に、仕限門有りて、町家にてなた屋丁と有、則是也。然れは、この草創は寛永の頃なるべし、又同圖に、今石川氏の宅地は、秋田忠兵衞と有、城之介弟季隆の事にや、猶可考。 (HP註※「なた」の字は金偏に「施」の字と同じ旁の字になっているが、資料中には次のような註が記されている。『按、□はてほこと訓してなたと云訓なし。鉈の字の誤なるへし。』)
○『盛岡砂子』城東之部(『内史略』前十九、71ページより)
 一 頓證山菩提院 同所西側 光台寺末浄土宗 或旧記に曰 昔京より鉈嘉清又長清共と云者 金持ちにて廻国し 盛岡に来りて右鉈屋寺を建立す 故に鉈屋丁と云(HP註※「なた」の字は金偏に「也」。)按るに、□※はてほこと訓してなたと云訓なし 鉈の字の誤りなるべし 則此菩提院の事也 寛永図を按るに 此門前は今の村井何某の前の辺に仕限門有りて 町家にて鉈屋丁と有則是也 然は此草創は寛永の頃なるへし 又同図に今石川某の宅地は 秋田忠兵衛とあり 城之助弟の季隆の事にや猶可考 或記曰 鉈屋嘉清と云有徳人廻国して爰に下りし時 今の鉈屋町に一寺を建立して鉈屋山菩提院と号く 
依之所を鉈屋町と唱ふ いつの頃加賀野村へ引移しや不知 故に今南側を鉈屋町と唱 北側を水主丁
と云御水主住居の故也 
○『内史略』后二、111ページより
 一 往昔京都より鉈屋長清と云冨人 廻国して御当地へ下向 鉈屋山(シャヲク)菩提院建立依て鉈(なたや)町と云 其後斗米(とっこべ)へ所替今菩提院と云(HP註※「なた」の字は金偏に「也」。)
 以上は、盛岡にある鉈屋町(なたやちょう)という町名の由来を説明したものである。
 要点は、寛永の頃(1624〜1644)京都の富人鉈屋長清が盛岡へ来て鉈屋山菩提院という寺を建立したので、鉈屋町という町名がついた、この菩提院はいつの頃からか加賀野村へ移転したということである。
 鉈也民清と鉈屋長清の二人の人物には、どのような関係があるのだろうか。民清と長清はもしかしたら血縁関係にあるのかも知れない。また、「民」と「長」はくずし字では区別しにくいことから、同一人物である可能性も否定できない。
 物語の終末部では、南昌法師が国一屋の建立した新しい寺、青龍山南昌寺に移ったとある。このことから、上記資料に見られる鉈屋長清の記述との関連も想像することができる。
 『見立競五枚兜』の作者とされる鉈也民清については、今後とも調べを進めていく必要があろう。

5 題名
 『見立競五枚兜』という題名は、どのような意図でつけられたのだろうか。まず、「見立」の意味を「似た、別のもので、そのものをたとえること。別のものになぞらえること。」(日本国語大辞典)と考えてみよう。すると、『見立競五枚兜』は「五つの兜を別のものにたとえくらべる」という意味ととらえる
ことができそうである。
 では、「五つの兜」とはいったい何を指すのだろうか。最初に考えられるのは、登場する五人の男女である。物語を読むと、その五人の名前が盛岡周辺の山々と一致することがわかる。
 ○岩太郎=巌鷲山(岩手山)
 ○姫 野=姫神山
 ○お 峰=早池峰山
 ○山 三=多々羅山(鑢山)
 ○森 蔵(南昌法師)=南昌山
したがって、題名の意味は、「五つの山を五人の人物にたとえてくらべる。」ということになろうか。
 さらに、「兜」という言葉には、「人の頭に立つ者。第一人者。」という意味がある。(岩波古語辞
典)物語の内容からも、この五人がそれぞれ何かに秀でた人物であることを見て取ることができる。
 ○岩太郎=当国一の富豪。人情が誰よりも厚い。
 ○姫 野=病身の母親のために尽くす孝行者。
 ○お 峰=親や友人のために尽くす、当国きっての人気芸者。
 ○山 三=誰にも負けぬ力の持ち主。
 ○森 蔵(南昌法師)=前編では当国一の盗賊、後編では当国一の高僧。



 凡 例
 本ページの底本には、現存する唯一の写本である岩手県立図書館所蔵のものを使用する。
 翻刻にあたっては、底本にできるだけ忠実に行うことを基本とする。また、ウェブ上の公開ということからできるだけ読み易いものとすることを留意したい。
 ただし、次の諸点については、底本を改め、読み易くする。

一.漢字

1 異体、古体、略体の漢字の類は、できる限り現行の漢字に改める。ただし、改めた箇所を註記することは特にしない。
2 漢字の誤記と思われる箇所は、訂正せず、その旨を註記する。

二.仮名

1 仮名文字は全て現行の字体に改めるが、ひらがな、カタカナの別は原本のままとする。ただし、「ツ」と「つ」のようにひらがな、カタカナの区別がつきにくいものについては、文脈から判断して自然な形に直す。また、大文字、小文字の別も、小説の流れとして自然な形に改める。
2 濁点については、およそ原本通りとする。濁点のつけ誤りと思われる所も訂正はせず、註記する。原本は濁音と半濁音の区別をしておらず、全て「゛」で表されている。半濁音と思われる箇所も、改めずに原本通りとする。
3 本文の中に入るべき仮名を、その上の漢字の振り仮名のように細字で出した所がある場合、その部分が助詞、副詞であれば本文の中に入れ、用言の活用語尾は原本のままとする。

三.振り仮名

1 振り仮名が、漢字の読みの一部にしか振られていないなど、不完全である場合は、改めたり書き加えたりすることはせずに、そのまま示すことにする。
2 振り仮名と本文の仮名が二重になっている場合は、細字の方を削除する。

四.句読点

 底本には句読点は一切使われていない。そこで、便宜上の処置として、句読点がほしいと思われる箇所には、私に加えることにする。

五.その他

1 衍字や、明らかに誤りと思われるところは、改めて示すことにする。しかし、その旨を註記で示すことはしない。
2 底本では会話文の場合、話し手の下に符号をつけて示している。これを読み易くするため、現行の括弧に改める。mた、この場合、話し手が変わる度に改行する。
3 底本における反復記号は、できる限り現行のものに改める。
4 判読不能な箇所や、文字を確定できない箇所については、□で示し、註記する。
5 本文にはところどころ朱筆によって改められていたり、加点して消されている箇所がある。それらの箇所は、この写本の原本に忠実に示すために、筆記者が加えたものであると推測できる。よって、その部分は朱記にしたがう。また、朱筆によって「?」や括弧などが加えられている所は、註で示しておくことにする。
6 註については、本文を読む上で最低限必要なものに限定した。地名等は現時点では不明のものもあるので、今後の研究課題とする。


 〔本文を読む〕