見立競五枚佳婦登前編之巻



  序 
見ぬ漢邦の五獄にあらで女国五山にあてし五つ乙女が見してう夢の噺なりき。然者としてもそは後朝ことの斯くても笑ふ先、此筆のちからをたのむ茶話夜咄□□寝むらで聞耳と訳なき事をこぢつけはべりぬ。
             弘化四
                   二月
                    かゝ迺庵
                        鉈也述


見立競五枚兜前編松之巻                 鉈也述
  発 端
 北上の流れに影てふものは岩の鷲峰なり。中津川に添てやさしきは姫ヶ岳、多々羅の山の高き迄。君が代あをく腹鼓戸々に唄へば家々に洗濯ものを取仕舞。
お岩「コレおみや、皆様に御出といってきな」
おミ「ハイ
と走り行。まもなく近所の女四五人きたりて、
皆々「ハイ今晩はおありがとふ御座ります」
お岩「ヲヤ皆さん御はよふ。サアサア御上り」
皆々「誠に御久ぶりなよふだ」
お岩「だからおよび申しやした。先御茶になさへませ。皆子持ずだから誠によいヨ、面倒がなくて」
皆々「左様イ、其様物で御座ります」
お岩「拠なしにそうもいっておくがいゝ、亭主に嫌わるゝもしらずに。お徳さん、お岳さん、お雲さん、お早さん、其沢庵がうまいからかぢりなさへ。団子なりせんべいなりと安上りで夜ばなしだ。御取なさいし」
皆々「御戴申ますから御構なさいますな」
女中のこと故様々世界色々噂話有べけれど略。
皆々「コチノ鷲蔵さんはどちらへ御出だ
お岩「旦那様へ参りやした」
皆々「ヲヤそうかね、ひまがなへの」
お岩「あるのさ。年中ぶらぶら牛のきん玉だ」
皆々「おかしいねへ、ハゝゝゝゝ」
お岩「時に皆さん、御聞きなさりいし。私しや夕べおつな夢を見たよ」
皆々「ドンな夢だへ」
お岩「コウサね、私しや御岩鷲山を登ましてね、夢だからおつだよ、からだが大キクなって御岩鷲山を聢と抱てた夢を見たわな」
皆々「お岩さん、夫じゃおめへはらむからそふ思な」
お岩「ナニ今四十づらしてはらんだら大変だ。外聞わるい」
皆々「それだっても急度だから」
お岩「エゝ面のかわだのふ」
お早「アノウ私しも夢を見ましたハナ。私しや池の中に水を浴びていたらね、池の底から大蛇が顕れ出て其大蛇が私を頭に頂イテ、すっと差上られて見やした。おっかなくっておっかなくってどふしやうと思イやした」
皆々「おっかなひ夢だけれどイゝ夢だ。大蛇の頭に上ツチヤ弁財天さまだから女の子をはらむよ、お早さん」
お早「いやだのふ。大蛇が子になったら命とられて」
皆々「そうでないよ、おはやさん。大蛇だからとて夢だもの、仕合な夢だ」
お雲「私しや短かひよ、はんじてくんな」
皆々「どんな夢だへ、咄しな」
お雲「多々羅山に枕をして見たよ」
皆々「何れわるねへ、是も寝た夢だからはらむの。お岳さん、どふだ、なんぞ見ねへかね」
お岳「私しゃ夕べ夜中に大変お腹がいたんで、内の人も寝ずに色々見取ってくれましたが
ね、漸々落付イテ眠りやした処が、夢に美しい御姫様のよふな御方がおいでなすって、此薬を飲めバ御腹がいゝとって御薬を頂きました。此夢ハ妄想(もうぞう)じゃ御座ませんか。御腹をいたんだ跡の事だから」
皆々「イヤイヤお岳さん、そうじゃねへ。其御薬が子種だから是も懐胎仲間入。ヲットよしよしこんど此仲間じゃお徳さんばかりだ。サアおめへどふだへ、なんぞ見たろう」
お徳「見たがね、おめへ方のよふにやさしい夢じゃ御座りやせん。誠におもひ出すと身の毛が立よふだ」
皆々「どんな夢だへ、お咄しな」
お徳「アノウコウサネ四五日まへ一ばん大あれな事があったがね」
皆々「アイあのばんひどがった」
お徳「アノサネ、内の人が御屋敷へ行、私しや独りで四過迄何かして夫から寝ましたが、夫からの夢だわな。誰か戸を叩音がするから内の人が雨風がひどいから夫で帰たのかと思って戸をあげやした所が、見なれネイ男が立て居て『用があるから一寸きてくれ』と云から『内をあけていかれない』といったが聞入ませんの。わるくすると只じゃすまねへよふだから『おめへさま、わっをどこへ連れていくのだ』といったら『直にそこへらだ』と云から、おっかなひけれど跡に付ていったの。すると『手めへは足が遅ひからおれがをぶっていく』といふわけになって、私チキをおぶいやした。すると足の早へ事飛様だらふ。まもなく急度した家に連て、夫から奥座敷へ参りやして、背(せなか)からおろされて、『爰に居ろ』といふからおっかなへけれど其座敷に独り居たがね、暫くすると其人が出てきていろいろ酒肴持ってきてワチキに呑せて、其身も呑だり何かして、そんな大きな家に人がひとり居なひよふだっけ。大概呑支舞て、其男がワッチキの手を引っぱって閨へ連られたの
皆々「ヲヤヲヤ御徳さん、夫じゃ其男と寝なすったらふ」
お徳「お聞なさいませ。夫から閨へいって見たら誠に美しい奇麗な夜具で、しゃんと床(とこ)が直ってあるだろう。其男がワッチが手を引ぱってねするから『おまはんワッチキをどふなさいまし。ワッチキだって亭主もあるしコンナ出来ません』といったら、其時其男がワッチキにらんで顔の恐ろしへ事絶入かと思ひやした。命有っての物種と思ひやしたから自由になりやしたわな」
皆々「ヲヤヲヤ其男アなんだろふ。ほんとふの人か、お徳さん」
お徳「ワチキどふしやうと思って早夜が明ればよいと思って恐ろしいやら苦しいやらで一ばんなぐさまれて、そうして居内其男がすやすやと眠りましたから、逃出そふと思って懐をそっと出て見ると、其男の跡の方に二間斗の木が倒(たを)て居るからふしぎだと思ってよっく見たら、木の倒て有のじゃ御座りません。其男が大蛇と見へて、ねむって正体をあらわして尾が二間斗出たの。するとワッチキ今に呑れると思ってわっとないて表へ欠(かけ)出す、山の崩れる様な音がして、大雨大風しんどふ雷電(らいでん)して大蛇が後から追欠(をっかけ)きて一呑にしやうとするから、ワッチキ一生懸命山の麓へいっさんに飛びおりたと思ったが夢が覚やした。布団も着物も大汗で大けい濡ました。モウモウ此咄しをするも身の毛が立よふだ
皆々「夫恐ろしい夢だ。なんにしろ夢のよふでもあり、ほんとふの様な所もあり、気味のわるい夢だのふ」と暫く無言。
お徳「おはやさんの夢大蛇に頂かれて見たからイゝが、ワッチア畜生に慰まれたからくやしくってならない。皆さんわるい夢だらふ、ねへ」
皆々「夢は唱ひ様でわるいもよくなる。だから気に掛なさん、根が夢だもの」
お徳「わるくなけれよふ御座ります」
お岩「時にお徳さん、おめへ其夢じゃはら人仲間だ。其大蛇、子種をおろしてくれたから懐胎(くわいたい)だ」
お徳「ワッチキそんな事の仲間入せず共よい
皆々「夫でも仕方がない。お腹の子を大切にしな」
お徳「あきれるのふ」とふさぐ。
お岩「マヅマヅ夢咄しで面白おっかなかった。一上げましゃう」と酒肴取出し、
サアサア祝ひよふでよくなるから」
皆々「そふねへ。御馳走になりやしゃふ」とミナミナこころよく呑雑談(ぞうたん)大笑暇乞(いとまごへ)して立帰る。

評曰五人女、男女子供五人迄世に出ると知べし。所謂初にみしてう夢のお岩が国一屋岩太郎也。続てお早が子、芸子のお峰、多々羅山の毒蛇の森蔵、姫野が願ひ、親々の夢になづろふ奇事怪談、数帖の窓にてらし見玉へ云々。


  第弐輯
 角て五人女の夢物語りも、虚無ならなくに子を儲け、年光流水十余年の春秋をむかへにければ、己が身々の所帯むき、昔と違ひ大に善悪即世恩愛の穴にして忠孝信義のかけ縄もて人の身自由ならしめぬ、天理の工ぞ常なる哉。其中にお岳出産し、子女子にて玉の如くなれば、夫婦の寵愛おろそかならず。高位富豪にも嫁として末の栄を見とはやくも十六才の頃にもなりぬ。お岳が夫トハ年来多病なるものにて畢にはかなくなりぬ。難の月日を送りて、母子二人が痩所帯、貧苦にせまる母親が娘姫野を力草。斯てわびしくくらす内、お岳が永き煩イ姫野が昼夜の心労に枕をさらぬ孝心看病。
ヒメノヲッカアヘ「お薬があったまったよ。御上り」
お岳漸々起直り薬を呑終る。
姫野「ヲッカアワッチキ願いが有から聞ておくれ」
お岳「われが願いカ、なんだへ」
姫野「外じゃねへが、ワッチキ女郎になりたいよ」
お岳「エゝ」トビックリ鳴声になり、「夫アなんの為に勤をしたいト云のだ。病ほふけた母を捨るといふのか」
姫野「イゝエどふして、海山ふかき親の恩、すてゝ勤に出よふでないが、おっとさんは御果なさる、又おっかあ、ひょっとおっかに死ナれるとわるいから身を売て沢山と御茶りとうまい物上たいから
お岳「夫いらない苦労だ。おれはどふて此病で死ぬのだから、手まへに女郎させてつまるものか。万一おれがよくなると、折角はたらへて手前に此恩がへしによい着物でもきせる。其顔形だからなんでもよい人のとけへ片付たへと思ふのだ。女郎所かはげみのない事をいふ。親にかんなんさせまい思ふだろふが、そんな事聞チアかなしくなるからやめてくれ」
姫野「夫だって朝夕の事から何から矢竹に思っても届ヶないから」
お岳「届ない事知ていら。どうかして女郎はやめてくれ。なんとなってもいゝから」
姫野「おっかアハしらないから何とも思ふまいが、乞食をするより女郎にしてくんな」
お岳「此子なんでそんな事云のだ。手まいが此母を養ふ為に乞食でもして居るのか」
姫野「アイゝ」と斗りに鳴沈む。
お岳ビックリ、今聞かなしさにうるうる涙。
姫野「ワッチキア毎日人の門に立もらってきておっかにくわして居ルヨ。今迄咄さないが、どふも届ないから身を売て其金でおっかにうまいものを上たい
お岳「夫アマア大変だ。おれは病ぼふけて夢中だからなんともしらないが、一文もあづけないから乞食して親を見取てくれる心ざし、有難といおふか忝ないといおふか泪が出るはひ。可愛や可愛や、是に仕様が有から女郎になる事辛抱してやめてくれ。あすにも手前玉の輿になるからだ。女郎にすると立身の蔓がきれから」
姫野「ワッチキアものどこに立身のつるがあろふ」
お岳「イヤイヤそふでない、此母がむねにあるわへ。おれも此病イガよくなったら早速取極よふと思って居けれど、みる通りの大病だからいまちっと辛抱してくれよ。辛抱してくれよ」
姫野「アゝイ
涙を払へ次に立。姫野、此間より内々人を以、奉公の口を聞合せしに依て又世話するものゝありて、金子受取べきはづなるべし。尤世話料彼是先の者に任せしならんよって、人待顔にて居ル処へ、女郎屋、表の方にて内をのぞき、うろうろ小声になりて、
「おっかアハどふしたへ」
姫野「ヲヤよふ御出下さいました。おっかア今眠って居りますから気遣い御座りません。ワッチキおっかアにゃ何にも咄しませんから其積りで跡々迄の御了簡を下さりませ」
女郎屋「ヲットよしよし今金を渡そふか」
姫野「夫なれバ誠に安堵して参ります」
女郎屋「アゝウゝそふだ」と懐より取出し三拾両渡し、
「弐拾両兼て申通り、世話した衆へやったからそふ思ふがイゝ
姫野「ハイ有難ふ御座ります」と金を受取、奥へ行、おかへ、
「此薬箱にお薬を入レておくからねへ。サヲ思っておくれ」
お岳「ウゝ
姫野「ワッチキ近所へ一寸いって来るから」
お岳「ウゝ
姫野「爰にうまいものを買っておるだから是を上りな。そんならいってくるから」
と立。是ぞ顔の見納と、思わず涙はらはらはら。歯を食しばり忍び鳴、漸々次へ立出て、
姫野「親方さん、御待遠で御座ましたろふ。もふよう御座ります」
女郎屋「そんなら参りやしゃう」と娘を連て立出る。
姫、後の戸〆心の内の暇乞、涙ながらに出て行。
 評曰母の詞の内、娘を片付る心当有しならん志がある故、娘が知るべきにあらず。然共此貧苦のよふすにてハ譬ひ言名付せる者有て母が止ル事あり共、娘が心是非なく勤に出ん事必定。母が其人をいわざりしわ、意味ありて覚る云々。

   第三輯
爰に其頃毒蛇の森蔵とて異名をとりし無類の悪人有。父は森右衛門とてかすかにくらす者なるが、母のお徳は有夜大蛇を通ずると夢を見て孕たる子なり。其故にや月みちて此子を産時大熱に苦しみ命もたへだへなるを、森右衛門種々に介抱し、終に男子を生ぜしが、苦しみの中にも悦びつつ養育しけるが、母のお徳は毒気のとどこほりにや五六日目に果なくなりけり。森右衛門は悲しみなげく事大方ならず、この子をば無き人の影ヨ形よと大切に育ける。此子十二三才の頃、風で森右衛門煩い出し、是又空しくなりければ、みなし子にて家にひとりありけるに、生れ付色黒く、目大きく、手足たくましく、力飽くまで強く、成人に従ひ大胆不敵となり、人を人共思わず、悪ものを集め、博奕大酒口論を事とする故、近きあたりのものもてあまし、後にわ誰問ものもなければ能事に思ひ、色々の悪事を工み此頃は風と思ひ付、毒蛇ケ森といふ谷陰に洞穴のありけるを見立、己が住べき程の今をしつらい、同じ仲間の悪者四五人住居して、顔よき女を盗出し連帰り、己が心の侭になぐさみ心に随ざるを他国へ売りてやり遊女にして其行跡毒蛇の如くなれば、世の人異名をよんで毒蛇の森蔵とて恐れあへり。然るに彼森蔵併同類共毎日の如く町々在々欠あるき、美目よき娘もあらば盗出し大金にせんと思いけるに、有夜同類四五人集りて、森蔵に云様、
ミナミナ「親方こねへださっぱりと得ものはなくてより合がねへ。どふか気のきいたしろ物見当たりてへもんだ」
森三「ウゝおれも其心山々だが更に見当りがねへ。町にア沢山だが役人の目がおおいから掻さらわれねへ。夜の目は座頭も同じ事で聢かと分らないから困るヤツヨ。在郷娘は色くろく、鼻ったれて迚もおっかねし」
壱人某し「此間見当りたる娘こそ天下一かと思われやす。いか成事にや人の門に立て乞食をして飯なぞもらって帰るよふす。身のさまア見られねへ程やつれてぼろを引きずってたが、顔色は花だサ。桃の頤芙蓉の眼、丹花の唇瓢の歯、ひすいの髪すじ長して日久しく、鬢に油は用イねどその香はなにとふり、雪の膚へハ透き徹る斗り、きめ艶やかにして指ほそく、恥かしそふに手拭にて顔を包み、情の合力頼ますと窈窕の粧イ綴の裾短かけれ共羅織にも堪ざるべし。頻伽の清音耳に通り、歩むとすれどたゆたげに、なれぬ乞食はなにゆへぞ。思ふに誠の乞食ならじ。子細有事なるべきに、何にもせヨよいしろ物。親方にア一寸見立ハどふで御座イしゃう」
森三「ソイツありがてへ。あすはいって見立てよふ。マア夫にきめておかふ。綴れを着ても母呂着ても、玉がよければ値千金、面白へ、酒でも呑むへ」
と酒盛りとなり、其夜を明し、森蔵等翌日隠れ家を立出、悪者弐人を連、あみ笠に面をかくし町へ入込、遊び居て同類弐人に様子を窺はせる。時既に其日も八つ過に至りて弐人の悪者欠来り。
弐人「親方、彼一件サネ、何ンだか六ケしい事ア有様子と見へて、娘ハ涙だぐんで居ル処へ女郎屋の亭主なぞ入込こむあんべい、能々忍んで様子を聞に、母親長の大病サ。乞食をして親を養のふ長物語、女郎に成って其金で親を見取るたいといふ親子が愁傷、其処へ女郎屋の亭主がずりこんで渡した物は慥々金丗両より下ではない。今に女郎屋娘を連てくるであろふ。金と娘を右左り、なんとうめへじゃ御座りませんか」
森三「奇妙奇妙、福徳いなりがこんこんの夜働き。返りは大方日が暮よふ。手前は病ぼふけた母を欺き金を取レ。おいら二人で喧嘩と出かける所で娘をかきさろふはうまいうまい」
づき合、右ト左りへ走り行、物の哀をしる人もしらぬも同じ欲の道、縄手細みち一すじに宵やみのいとくらく、女郎屋は姫野が手を引縄手なかばに至る時、斯て壱人の悪者は娘が家の当りをうるうると窺ひけるに、母は昼の程娘が当へし菓子餅抔食しながら独り言。
母「なにをしている積りだ」
と何心なく薬箱の蓋を開き見てびっくり取出す財布に三十両。
「ヤアゝ娘は身を売て此金を残して置たるか。ハア、ハツ」
ト斗気も驚転、
「可愛や可愛や、今宵一ト夜待てくれたなら勤奉公させまいもの。病ぼふけたる此母が命たすけて呉れたいと乞食非人とさまを替へ、日々に廻る人の門、けふも今日とて女郎になりたい、母に薬を呑ませたい、うまいものたべさしたいと云れし時のいぢらしさ。早此身が能くなって、言名付した其人に手渡しにして悦びたいと思ふかいない我が身の大病、母が病気を苦労にして女郎に身をば沈めしか。コハその我ハ何となりゆく身の上ぞ」
と前後不覚になき倒る。長き病の其上に娘の別れにせき詰て、
「ウン」
と一ト声そり返る。誰たすくる人なきを得たりと悦ぶ已前の悪者忍び入らんとする処を、誰とはしらず傍より顕れ出たる壱人の男、曲者が襟首取てかき上ゲ、かたへのどぶへ水入と投込、傍りに隠れて様子を窺ふ。どぶ水喰へし悪者は夢か現か弁えかね、神の仕業か仏の術か、今の秘術に胆を潰し、跡を見ずして逃て行。忍び窺ふ其人も心静に立さりけり。扨又毒蛇の森蔵ハ、壱人の悪者引連れて、今や来ルと待受る。夫ともしらで縄手道、女郎屋ハ娘が手を引たどりたどりてきかかる処に弐人の悪者踊り出、
「コレ貴様、此娘をどこい連て行のだ。誰に聞てなんで連て行」
女郎屋「ナニ貴様達アどこの人だい。此娘に付て用があらばおいらが内迄あいばっセヘ。道理を聞せてやろふわへ」
二人「ナニうぬが家迄いっていられるものか。親ハ女斗と思って大病を見込んで、母をどんな事してきたもしれねへ。町中かて人の娘をかどわかす大盗人、縄を打て引立る」
と掴み掛る。
女郎屋「待っセヘ。段々様子の有コッタ」
といえども聞ず無法者、女郎屋も余儀なく掴合ふ。此ひまに毒蛇の森蔵、娘を手早く手拭にて口を破り、小脇に挟んで走り行。コナタノ二人ハ一生懸命深田の中に落入て、組ンつ転ンつ掴合、おりから吹来る山おろし、稲光り頻りに雨降りだし、雷の音ぐわらぐわらぐわら、毒蛇の森蔵足ばやに夕顔橋に至る時、頻りに吹来る大風大雨、真の闇なる橋の上を稲妻の光りを便りとして、漸橋の中程に至る時、天地震動して雷鳴大に響きてからからからヒッシャリと砕て落る火の玉の転び来りて橋の上を車輪の如く飛廻る。大胆不敵の森蔵も思わず姫野を取落す。はづみに姫野ハ真逆さまに橋より落て水に入る。さすがの森蔵、雷声に気を失ひ、
「ウン」ト倒れて正体なし。暫くして風おさまり雨止ミて元の空となり星の数々光をそへ、一帯の銀河天にたなびき、夜の露のひややかなる、森蔵よふよふ我に帰り、あたり見廻シすごすごと己が住家に帰りける。

  第四輯
爰に又、国一屋鷲蔵とて国中第一の有徳の町人有り。妻ハお岩とて六十に三つ四つたらぬ夫婦なるが、むかしはさまでのものならねど近年の出来分限倅岩太郎十九才、発明者にて人愛よく、随分女にも苦労ハする。情の道ハ粗しりて、通といふ迄なけれ共、あるに任せて花やろふ、色をも恋も駿河屋の二階坐しきにたわいくる、此頃暑気の堪かたさに思イ付たる船遊び、今日七八人の友を誘へ芸者お峰諸共に酒肴の用意も調へければ、皆ゝ船に打乗り、北河岸通りを逆上り、栗谷川の流れに口を濯ぎ、阿部の古城を弓手にして、植田街道右手になし、聖寿寺山の雲のあし、乗る浮船に任せ見て行つ戻りつ定メなき瀬の早キ所船を漂わせ、水静なる所鳥眠る詩賦章を吟ずるまでハなけれ共、俗をはなれ歌を読み、句をつらぬるに及ばねど風流おもむきを異にす。四山の薫煙蒸が如く鷲峰の雲の雨もやい近く見る姫ケ獄、遠く望ム多ゝ羅の山のいぶせく思ふ毒ケ森、是ぞ四神の堅めぞと、思へば嬉し君が代の、鼓腹のためし汲酒の興あり感あり又たぐいなき遊びなるべし。斯くて終日遊びくらし日も暮果て、船屋根に丸灯籠を提させ三味線の音水声の轟きて、かしましく乱酔乱舞船ば叩き、片河岸通りに此船来ル時、俄に一天かき曇り大風吹来て、提たる灯籠の火を打けし、船中真闇となる。皆ゝ
大に驚き明りを付んとうろたへる。折から大雨降り来って風いよゝ強く、数多の乗合苫を覆へ雨を凌ぎ、稲妻の光りに目を驚かし心をいためありけるに、雷鳴大イに震動する故、皆ゝあわてゝ夕顔橋の下に乗入レとする時に、雷ビッシャリ橋の上に落かゝると、ミナゝ「ハッ」ト云て倒れふす。此時壱人も心地あるものなくひっかたまって居ル処へあいもあらせず上より落来て苫屋根を突抜き船の中へドウと落たる者あり。皆ゝ此処へ雷落たりと思イければ、二度魂をけして起見る者なし。暫して雷やみ風納り雨やんで本の快晴となり、星の光り見へける故、
船頭伝九郎「ミナゝ起さっせへまし。モウ大丈夫で御座ります」
皆ゝ我に帰り、「イヤモウ大変な目に逢ましたな。モウゝ死ぬかと思った」
岩太郎「御互イ御同前一生懸命仏さまア頼んだ。アノ落た時声がとまったっけ」
ミナゝ「単物の袖ハ汗やらしづくやらだ」
岩太郎「なんにしろくらくってならねへ、火を付てへもんだ。誰ぞ打ておくれ」
火打の音「チョッキゝゝ」
「ヲット〆たゝ、サアゝ灯籠を付たゝ」
岩太郎「ヲイラア騒動の時、何ケ此船へ物の落たと思ったようだっけ」
お峰「爰にいま生た人も居たわな」
岩 「ヲヤお峰さんか、おめへを忘れたっけ」
お峰「ヲヤ情ケねへノウ」
岩 「ナアニ今の騒ぎじゃ身一つも六ケしいかった」
お峰「モウゝ一生船遊びアせないから」
岩 「時に、お峰さんより女が居ないはづだが爰にひとり女がいらア、誰だろふ」
お峰「ホンニねへ、女子が居るヨ、誰だろふねへ」
岩 「サッキ物の落た音がしたっけ此女かしらねへ」
皆ゝ「アノ騒ぎじゃ粂の仙人でも落るのさ。勿論女だもの岩さんの男ぶりにゃ女雷が落て来たのだハゝゝ」
岩 「コレひへきって居ルだよ。死にアしまいか」
お峰「ホンニからだがひゃっこいようだ。ヲヤゝおっかないのふ」
岩 「誰か早く明りをくんな」
ミナゝ「イゝ女だねへ。可愛そふに。誰か薬りハあるまいか」
岩 「船で死なれじゃ唯すまねへ。いかしたへものだ。コウしやしやう。私の懐へ入て抱て暖めるから、おめへ方此印籠の薬を出して口をあけて呑してくんな」
と懐を開キ膚を暖める。皆ゝ口をあける。
お峰薬を呑せ盃にて水を汲み、口中に含みて女の口へ吹込、
岩 「お峰さん、背を撫てくんな」
と色ゝ介抱する。
姫野「ウゝゝ」と息出る。
岩 「有難へもんだ。生たから皆ゝさん悦んでくんな」
お峰「誠に薬がこう聞ものか。気味がイゝよふだ」
皆ゝ「先ゝよかったゝ」
岩 「ねへさん気をたしかに持なせへ。助ケて上るから」
姫ホソキ声にて「皆ゝさま御ありがどふ御座ります」
岩 「モウ大丈夫だ。サア伝公、船を早ク返してくれ。爰にアさっぱり用なしだ。時にお峰さん、此女中もあるからおめへとけへ今晩推しかけやす」
お峰「そふなさいまし。私しも此ねへさんを御案事申から何レおとめ申やしやう」
ミナゝ「成程よふ御坐りやしやう」
といろゝ咄す内、船ハ上り場に着とみなゝ上ル。
岩 「伝コウ、此女中をおぶってお峰さんとこ迄」
伝 「ヘエゝ承知で御坐イやす」
ト船をつなぎ姫野を背負、ミナゝ連立お峰の方に至ル。
お峰「おっかア今帰イツタヨ」
母 「ヲヤ皆さんが御揃だねへ」
岩 「何れ今夜ハ御邪間するから、やかましくっても聞ねへふりヲ」
母 「ヲホゝヨウ御坐ります。サアゝ坐敷ゝ」
ミナゝ「御免なさいまし」
お峰「皆さんマア坐敷へ御出ヨ」
ミナゝ「ヘエゝ然ば御免ヨ」
ト奥ハ酒興の大咄し。
岩 「伝孝大義ゝ、サアねへさん静に御上りな」
姫 「おありがとふ御坐ります。大キによくなりました。偏に御影さまで御坐ります」
岩 「先心持ハよくって仕合だ。気遣せず休みなさい」
峰 「何ンにもお気遣ないヨ。おまさんを私の部屋へ御連申そふ。騒がしい処ハよくないから」
岩 「そふしてくんな」
姫 「ナニ宜しふ御坐ります」
お峰「そふでないヨ、サア御出」
姫 「ハイ」
ト部屋に入る。
お峰「なんにもお気遣ないから単物を着替なさいし。是ハ私しが平生気だけれど御膳も直に上るから。岩さんが真切な人だから落着いていなまし」
と立出る。
お峰「岩さん、聢と見なすったか」
岩 「見たのさ」
お峰「アノ様に美しい女子もないもんだヨ」
岩 「おめへ程じゃアねへのサ。雪と墨がきいてあきれる」
お峰「岩さん、わたくしにア遠慮するだらうからおまさんいって訳を聞ナ」
岩 「コイツあやまるかだんまりでもいられまい。咄して見やしやう」
と部屋へ這入。
岩 「あんばいわどふだへ。よふごぜへすのか」
姫 「しっかりと致しました。みんなあなたさまの御影で御坐ります」
岩 「ソリャ安堵した。ソシテ不調法だが、おまいさんハどこだい」
姫 「ハイ私シハ木場で御坐ります」
岩 「何ケ用が有て夕皃橋を通ってソシテ落たのかへ」
姫 「ハアイ」
岩 「雷さまに動転しなすったろふ」
姫 「左様で御坐ります」
岩 「お名ハなんと云ます」
姫 「ハイ姫野と申ます」
岩 「今夜内へ帰るなら送りやしやうかね」
姫 「御ありがとふ御座ります。けれど内へ帰られません事が御坐ります」
岩 「親にしかられて帰られないと云訳かへ」
姫 「イゝエ」
岩 「そしてどふ云訳だへ」
姫 「どふも噺されません」
岩 「ソシテおめへひとりどこへいくつもりだへ」
姫 「いき所も御座りませんけれど」
岩 「何ケ様子が有風だが、どふなる心だろふ」
姫 「私しが身ハ段ゝ様子が有って女郎にならねばなりません」
とはらゝ涙をこぼす。
岩太郎もふしんはれねば、何と云べき詞もなくしばし此処にて無言なり。坐敷ハ一座大酒盛なり。 

  第五輯
河船を留て逢瀬ハありながら、まだ打解ぬ人心、艶姿容貌たぐひなき、姫野が身の上心得ずと、
岩 「時に姫野さん、今の様にばかりいっていてハ一向様子がしれないが、初対面だから見もしらねへ者にむざと入組ンだ訳を咄して益ねへ事だと思イなさろふが、私だってまんざらの野郎でも御座りやせん。国一屋の岩太郎といふ者で御座りやす。ふしぎに御目に掛ルといふものゝ何も御縁と思ふから承っておめへの為になるよふにして上よふと思ふからの事たか何も気まずく思わずとさっぱりと御噺しなさい。何ンとかおめへの身の立様に御相談申そふから」
姫 「そふおっしゃって下さらねへ迚、おめへさまの事だから物をかくすといふ訳じゃ御坐りません。命おハりし程の私しをいろゝ御介抱下すって、其上に身の上よふにと迄おっしゃって被下ます。見もせず聞もせぬ私しをいかな御縁といゝながら、世にも嬉しい御詞が何より私しが力草、何を包み隠しましやう。私しが父ハ早ク身まかり、母が手一つに育られ、海山受し恩の母ハ病に伏し
て起も上らず月日を送る其内にハ家財道具売り尽したくわいのなき私しが母の病気を見取にも詮方なくて、駿河屋へ五拾両に身を沈メ、二十両ハ世話する人にとらせやり三拾両ハ母上の薬の箱に入置て、夫とハなしに暇乞別の涙血にかへる。振り返り見る我家の方、駿河屋さまに伴れいそぐ縄手に悪者が待伏して、駿河屋さまへ種ゝの難題、男の意地合引組内壱人の悪者、私しを小脇にはさんで走り行、夕皃橋に至ル時、頻りに光る稲妻にアイモあらせず雷鳴とけて火玉の散るに驚き取落されし私しハ船の内共夢うつゝ、ふしぎの命たすかりて、今はた嬉しい御詞にどもこふもしてくりろろハ有難イやら忝イやら御礼ハ申尽されませぬが、されバ迚数の金を出す人の心の内ハどのよふにあろふと思へば打もおかれぬ私しが身の上、只此上の御情にハ駿河屋へ送り届ケて被下ませ」
と始終を語る実情に思わず岩太郎も落涙し、暫し詞もなかりけり。
岩 「お咄しを聞やしたが、おめへハ誠に孝行だねへ。併しおめへに捨られじや、おっかアどんなになげくだらふ」
姫 「私しも夫ばっかり苦労になります」
岩 「そふで御坐りやしやう。今の御噺じやア
どふでも勤に出にやなるめへの」
姫 「拠御坐りませんから勤に出るのハ覚悟極めております」
岩 「誠に可愛そうだねへ。そしておめへのおっかの名ハなんと云へ」
姫 「ハイお岳と申ます」
ふしぎそふに、
  「おまいさまア私が母の名をなんで御尋なさいます」
岩 「ウゝワゝ聞て置ふと思って」
姫 「迚も覚悟しておりますから駿河屋へ早く参りとう御座ります」
岩 「おめへ其様にいそいで女郎屋へ行たへのか」
姫 「いきたい事ア御坐りませんけれど致しよふが御坐りません」
岩 「おめへ駿河屋へいったら、おいらが様ナ者ハ見ねへふりを仕よふの」
姫 「どふして、あなたの事ハ一生忘れません」
岩 「ナニ今そんな事ヲいってもしらねへふりをするのサ。ソコガ浮気商売だもの」
姫 「私が見ねへふりをしませんけれど、あなたが御出がないかと思って」
岩 「いかねへ事ア有るもんか、毎日居続けだ。段ゝとイゝ客が来てはやり出すと、おいらが様ナ者ハいってもふられるだ」
姫 「ヲヤどんな人が来ても私しははだハふれません」
岩 「女郎になるから客にはだをふれるのサ」
姫 「私しやもふゝどんな事が有ても夫がなりません」
岩 「おめへ夫じやア色男があるの」
姫 「私しやそんな事をしりません」
岩 「おめへ誰に貞女を立ルのだ」
姫 「私しやあなたの御恩がありがたいから」
岩 「夫アじやうだんだろふ。私しアなんの恩が有て」
姫 「命の恩とソシテ」
岩 「ソシテなんだへ」
姫 「ハイ」
ト寛示してウツむく。
岩 「サア貞女を立る心持を咄しな」
姫 「あなたと一度でもはだをふれましたもの」
岩 「コイツあやまる。イツおめへとはだをふれだへ」
姫 「ハイ」
トうつむく。評曰、
姫野孝心貞節、親の言名付とハしらざれども、船にて介抱の時、岩太郎と膚を合せしによって斯ハ云しなるべし。岩太郎ハ其情猶かたき思ひあるに依おして尋問、母の名を聞に至てビックリせしハ云名付の事、身に覚へありしと見得たりと云ゝ。
次の間より、
お峰「おさし合ないかい」
岩 「なんにもさし合なしの木に餅がなった」
お峰「夫じや甘かろふねへ。岩さん一寸爰へきな」
岩 「なんだへ」
お峰「用があるから一寸爰へ」
岩 「ヲイ」ト立「なんだへ」

お峰「おまはんアノ子から様子を御聞なすったろふ」
岩 「アゝきいた」
お峰「今ねへ、駿河屋の親方さまア参て居ります。段ゝアの子の事を御噺したが右の訳だから、こよいの内にやらづアなるめへと思イやす」
岩 「サウヨアノ子も咄して居た。やるものゝ今じゃおれが身の外分になるから親方にあって頼てへ事があるからこっちへよんでどふだろふ」
お峰「外聞はなんだへ」
岩 「咄すに咄されねへがおいゝはなす事だ。アノ子を女郎にしてもおれが方で揚詰にする積りだ。其さんだんを付てへ」
お峰「そんな事の掛引ア直談じゃア能ねへよ。私しにおまかせなさいやしやう」
岩 「成程そこらもあらふ。何分頼みやす」
お峰「先返すがよふ御坐イやしやう」
岩 「そふしやう」
とお峰諸共部屋に入り、
岩 「駿河屋の親方迎にきたからおめへ支度してイクガいゝ」
姫 「ハイそふで御坐りますか」
としほゝとして居る。
お峰「おめへさん決して御心遣ひしなさんなへ。岩さんの方でよいようにして置きなさるとおっしゃるから。私しだって毎日まいりやすし気を丈夫に持て御出」
姫 「誠に冥利が恐ろしへヨ」
ト涙をこぼす。
岩 「どふでもなるからおめへに苦労をさせねへつもりだ」
姫 「私しが苦労も御坐りますまいが、あなたが私し故に」
岩 「男の苦労ハ金銭ハ当りめへサ。其内どふ共するから余り物を思わねへがイゝ」
姫 「御礼の申様が御座りません。お峰さんどふぞ私しを妹とおもって下さりませ」
お峰「よしゝ姉も呑込だ。妹気を丈夫に持れたねへ岩さんヲホゝ」
岩 「なんにしろ盃出してくんな。親方にも一つ呑せやしやう」
お峰「そふ致しやしやう」
と勝手へ行。
親方「ヘエ御免なさへませ。是ハ若旦那先以今夕ハ別て姫が義に付段ゝ御ありがとふ御坐ります」
岩 「イヤモウ御聞だらふ。大変な騒ぎが又こふ云訳になって奇妙サねへ」
親方「左様で御座ります。偏に御影さまで御座ります。アノ姫野も先ゝよかった。よの人と違って国一屋の若旦那の御世話に成るとハ」
姫 「あなたの御影で助りました」
親方「お峰さんから様子を聞ておもしろビックリした。どろ坊めらア喧嘩仕掛られて引組内手めへさらわれたから金を捨たと思った処へ様子がしれて迎にきた」
姫 「私しもどろ坊にさらわれた時ア殺されると思って居ました。雷さまの音で橋から取落されたが仕合になりました」
親方「偏二若旦那の御影だ」
岩 「都合よく船を乗り下ゲたあんばいサねへ」
と咄す内酒肴持出、色ゝ咄しハあれども略。盃納め、
親方「先私しハ
御暇に致しましやう。若旦那まだ御寛りと御咄しなさいましやう。お峰さん何れ明日御逢申ます」
お峰「もふ御返りで御坐りますか。餘り御麁抹で御坐ります」
岩 「何分御面倒で御坐りやしやう」
親方「ヘエゝゝサア姫野いかふわい」
姫 「あなた御静にお礼ハ申尽されません」
と涙ぐむ。
  「アノウ御峰さん、朝にはやくきて下さりませ。誠に御有難ふ」
お峰「朝はやくいくから」
姫 「左様なら」
と暇乞して持せし用意の篭で行。
お峰「岩さんどんなだへ」
岩 「おれが身ハふがいないてむねがさけるよふだっけ」
お峰「きのよわい。金銭で訳がつくわな。朝にいって掛引付るから気遣ないヨ」
岩 「何分頼みやす。モウ返ろふ」
と立上りしが、
  「お峰さん、根がアノ子ハおれがこふなるわけのあるのだ」
ト小指を出して見せる。
お峰「ヲヤそふかへ」
岩 「また来て咄しやしやう」
と是も又愁然として立帰る。