寒い街


 夏が終わるとすぐ、彼は職を失った。
 この秋開館する市の新しい美術館の工事が、予定通りに終了したのである。彼は一年ほどの間、そこで人夫として働いていたが、美術館が完成すると同時に、自動的に解雇になったというわけである。
 「ハイご苦労」
最後の給料を渡す工事担当の役人の表情は、あまりにも素っ気なく、それが彼の不安をいっそう大きなものにした。
 この街に出てきたのが去年の夏。何もない貧しい田舎から出て、華やかな都会で暮らしたい。そう思い立った彼は、卒業式を終えて数日後、ほとんど家出同然で一人夜行列車に乗り込んだ。街には仕事はいくらでもある。彼の友人たちはそう言っていたし、彼自身もそう思っていた。そのため先のことは全く心配せず、むしろ気持ちはわくわくとして期待に満ちていたものだった。街の大きな駅のホームに降り立ち、人込みのコンコースを歩いていると、美術館工事従事者募集の張り紙がふと目に止まった。彼はその日のうちに市役所に赴き、雇用期間は工事が終了するまで、と書かれた契約書に迷わずサインした。早速翌日から砂利を運搬したり、穴を掘ったりという、単純な肉体労働に明け暮れる日々が始まった。若い彼には仕事の内容は特別きついというわけではなかった。それに朝晩の食事は欠かさず出してくれたし、夜は、労務者用のプレハブ宿舎で寝泊まりができたので、生活の上でも不目由はなかった。ただ、最初のうちは、自分が求めていたものとの大きな隔たりに気力を落として何度も仕事をやめることを考えた。しかし、相談相手になってくれたり、酒を汲み交わしたりできる仲間かでき、彼らと日々を過ごすうちにそんな考えは消えて、今までにない新しい喜びを感じるようになった。そしていつしか、自分なりの充実感を持って仕事ができるまでになっていた。美術館の建物ができあがると、外側の塗装や内装、器材や展示物の搬入まで、あらゆる仕事を行った。
 ところが、美術館の完成、つまり解雇の日が近づいてくると、彼の気持ちは次第に不安に駆られるようになってきた。この次の仕事のことで、悩んでいたのである。労務者たちは時間を見つけて交代で職業安定所や民間の紹介所に出かけていった。最近では、不景気のために、どこも新しく人を雇えるほどの余裕はなく、日雇いでさえ見つかれば運がよいというくらいだったのである。仲間の中には、店や会社を一件一件まわって、なんとか雇ってもらえないかと必死に頼み込み、やっとのことで契約にこぎつけて、ここの工事現場から離れていった者も何人かいた。だがとうとう彼は、仕事を見つけられないままに、解雇の日を迎えてしまったのである。

 薄っぺらな給料袋をたたんでシャツのポケットに押し込んでから、彼はしばらくぼうっとしたまま動かなかった。新しい美術館は、市のほぼ中心に位置する、広大な市民公園の一画に建てられた。背の高い広葉樹がいくつも生い茂っていて、木々の間では、鳥たちがさえずりまわり、子リスがちょろちょろ駆けめぐる。芝生では、青空の下で日光浴をする若者、サンドウィッチをひろげる老夫婦。そして、楽しそうにはしやぎまわっている子どもら。こちらでは、陽気な調子でジャズを演奏しているミュージシャンたちと、かれらを暖かく取り囲む人々。少し間の抜けたトランペット。おどけてみせるベースのおじさん。笑い、拍手、飛び交う歓声。景気が良くないとはいえ、今日も市民たちの憩いの空間は、明るく穏やかな表情を見せている。そして、その先を更に進んでいくと、高さが三メートルほどある、この街の初代市長のプロンズ像が、口髭を豊かにたくわえて立っているのに出合う。そのまわりでは、いくつもの噴水が水を吹き上げている。その後方の、コンクリートの広場の向こう側に、市民の新しいシンボルになる均整のとれた白く美しい美術館の建物が、堂々とした姿で、開館の日を今や遅しと待ち構えている。彼はその巨大な建築物を背中にして、石の段に腰かけていた。気が付くともうほかの連中は、行く当てがあるのか、みんなどこかにいなくなり、ここに残っているのは彼だけだった。彼はポケットから封筒を取り出して、中身を確かめた。紙幣が五枚と、硬貨が五枚。この金と、わずかながら毎週銀行に預金してきた金とを合わせれば、なんとか一か月は食っていけるだろう。その一か月のうちに仕事が見つかればよい。彼はそう考えて気持ちを楽にしようと思った、だが、不安は消えず、そのままがっくりとうなだれてしまった。それからしばらくすると、一人の男が何気なく彼に近づいてきて、こう話しかけた。
 「ヘイ坊や、こんな所で何してる」
彼は少し驚いて、顔をあげた。声をかけたのは、工事現場で共に働いていた仲間だった。初老の、痩せこけた小男で、みんなからおやじと呼ばれ親しまれていた。夜の宿舎では、よく彼らと酒を飲み、騒いだものだった。
 「これからどうする積もりだい?」
男はそう言いながら、彼の肩に手を掛け、隣に腰を下ろした。つい午前中まで一緒にいたのに、その笑顔がとても懐かしく思えて仕方がない。
 「仕事、見つけるさ。おやじは?」
 「俺はまた、元の暮らしに戻るだけだ。まあ一本どうだい」
男は胸のポケットから煙草を取り出し、彼に勧めた。彼はそれを指でつまみながら、おやじが以前盗みをはたらいていたという話を思い出して、こう言った。
 「おやじ、この煙草、どこかでくすねてきたんじゃないだろうな?元の暮らしってのは、まさか泥棒?」
その言葉に対して男は何も言わず、ただにやりと笑い、彼の煙章に火を付けてやった。
 「なあおやじ、今夜からどこで寝るんだい?裏のボロ宿舎はもう取り壊しが始まってるぜ」
 「まだ決めちゃいねえよ。ただ、屋根の下じゃねえことだけは確かだ。ハハ」
呑気なものだ。彼は男の態度に、ほんの少し苛立ち、苦笑した。それから少しの沈黙。
 そしてそれを打ち破るように彼がこんなことを言った。
 「泥棒ってのは大変だろ。とにかく人に見つからないようにやんなきゃなんないから。もし見つかったら、おしまいだもんな」
 「取っ捕まって、刑務所行きよ」
 「俺は刑務所に入れられるようなことなんかしないさ」
 「それじや泥棒には、なれないな」
 「誰がなるもんか」
 「ふうん、でも坊や、金が無くなって、仕事も見つからなかったら、どうやって生きていく積もりだ?」 
 「どうやって、って……。そのときはそのとき、何とかなるさ」
 「なんとかなる、じゃなんともならんのさ。盗みをやるかゴミ溜をあさるか、今のうちから覚悟しておくことだな。ハハハ」
 「ゴミ溜をあさるなんて、そんな乞食のようなまねするもんか」
 「ハハハハハ。まあそんなに意地を張るな。今の世の中じゃ、乞食が一番幸せかも知れないぞ」
 「冗談言うな」
 「ハハハ。とにかくな坊や、今日からおまえも歴とした失業者だ、というわけさ。じゃあな」
おやじはポンと彼の肩を叩いて立ち上がった。美術館の白い石段をとんとんと下って行くおやじに、彼は少し不安な声になって尋ねた。
 「おやじ、どこ行くんだよ」
おやじは振り返るとにやっと笑い、右手を中途半端に掲げ、人差し指と中指を微かに動かしながら、ゆっくりと、しかもはっきりとこう答えた。
 「し・ご・と」
彼はおやじの後ろ姿を、不満と、そして信頼のまなざしで、黙って見送っていた。だが、おやじとの距離が離れるにしたがって、今まで紛れていた不安が、再び彼に重くのしかかってきた。
 

 その日から、半月がたった。彼は新しい仕事を求め、まだ街を歩き回っていた。仕事という仕事はどこに行っても全く見つからず、彼は半ば途方に暮れていた。これだけ広い街なのに日雇いでさえ一つも募るところがない。不景気は深刻になってゆくばかりだった。働いていた頃には明るく徴笑しているように見えた彼の街も、今では灰色にすさんで見える。
 彼は知らず知らずのうちに公園に戻って来ていた。九月の終わり、昼下がりの公園の芝生はくすんだ色に変わって、もう人の影もまばらだ。破れた新聞紙が風に吹き飛ばされ、からからと空き缶が気の抜けた音を立てて転がる。そして、淋しそうにうろついている野良大。
 最近白昼に街のあちこちでよく目にするのが、うす汚れた身なりの男達。恐らく彼と同じように、仕事にあぶれてしまったのだろう。その中には、かつて彼と共に働いていた者の姿も何人かいたが、誰も彼のことを見向きはしなかった。

 ある橋の下で乞食の老夫婦が暮らしているのを、十日くらい前に知った。彼らは昼間は、今にもつぶれそうなくらいに傾いた、小さな掘っ建て小屋の中に閉じこもっていて、一歩も外に出ない。だが夜が深まり人通りが少なくなる頃、こっそりとゴミをあさりに出掛けるのであった。ある夜彼が川沿いの道を歩いていると、老いた男女が小屋から出てきたところを偶然目の当たりにした。すると彼を見た二人は怯えながらこそこそと逃げるようにして小屋の中へ戻っていったのである。
 またそれから何日かたったある朝のこと、彼が橋を通リかかると、通学途中の小学生たちが、この小屋めがけて石を投げつけているところに出くわした。彼の胸には怒りが込み上げたが、どうしても咎めることはできなかった。子供たちの投げる石が、自分のほうに向かって飛んでくることが、怖かったのである。もはやこのとき彼の身なりは、浮浪者以外の何者でもなかった。
 

 考えていたよりずっと早くに、彼は紙幣を使い果たした。今では硬貨がわずかに数枚、ズボンのポケットの中で鳴っているだけだ。ふとおやじの顔が浮かんだ。おやじはどこにいるんだろう。見つけたら、盗みのこつを教えてもらおう。もう生きてゆくためには盗みをはたらくこともやむを得ない。というよりむしろ当然であるとさえ、今では思えるのだ。
 泥棒だって悪い経験ではない。仕事が見つかるまでおやじに世話になろう。そう決意した彼は、とにかくおやじを探そうと、街の至る所を歩き回った。しかし広い街の中をいくら歩いたところで、そう簡単に目当ての人間一人を見つけ出せるものではない。
 すでに日が暮れかけていた。
 疲労と失望のために、彼は歩く気力もなくなってしまった。たどりついたところは結局、美術館の前の広場だった。タ焼けで真っ赤に染まった公園には、ベンチに座って笑いあっている勤めを終えた人々や、時計を気にしながらそれぞれに誰かを待つ若者たちがいた。片隅にはホットドッグの屋台も出て、秋の夕暮れの公園はちょっとした賑わいを見せていた。屋台を見ると急に、自分が空腹だったということが彼の意識に上ってきた。彼はどうにも我慢できなくなって、ついにホットドッグを買うことにした。店に行き最後の硬貨を差し出したとき、店のおじさんが自分に何か大きな声で怒鳴ったような気がしたが、よくはわからない。
 ベンチに腰掛けホットドッグを頬張っていると、突然美術館の閉館を知らせるチャイムが大きく鳴りだした。だがもう彼は、自分たちが造ったあの巨大な建築物を、自分とは全く無縁なものだと感じていた。
 辺りはすっかり暗くなり、人の数も少なくなった。屋台も店をたたみ始めている。また夜がくる。このごろでは夜風がとても冷たくて、寝るにも寝られないほどである。彼は美術館の裏のあまり風の当たらない場所を見つけて寝ぐらにしていたが、新聞紙をいくら重ねても、ぐっすり眠られるものではなかった。
 ようやくうとうとしかけたころ、突然彼の耳に刺のある声が飛び込んできた。
 「おい起きろ。こんな所で寝られちゃ困るんだ」
驚いて目を覚ますと、懐中電灯の眩しい光がまともに目に入った。ガードマンは彼の服を掴み、強引に立ち退かせようとした。すると、彼は拍子抜けするほど素直に立ち上がり、すっとその場から立ち去った。
 行き場のない彼は、仕方なくまた広場のベンチに座った。横になってから、まだそれほど時間が経っていないようだ。静まりかえった真夜中の公園。止まっている噴水の水面に満月が映っている。空を見上けると冬の星座の星々が瞬いていて、それが寒さをいっそう厳しく感じさせる。
 「さむう……」
彼はいつまでたってもがたがた震えが止まらなかった。
 「とにかく新聞紙をもっと集めてこなくては」
しかし、いくら新聞紙を体に巻き付けたところで、寒いことには変わりがなかった。結局その後は一睡もできないうちに、東の空が白んできた。カラスの群れがうるさく鳴きながら上空を飛んでいったそのとき、彼は早朝から始まる街の市で食べ物を盗むことを思いついた。
 市場は朝早くから、大勢の人々で活気づいていた。あちこちから「おはよう」と挨拶を交わす声や、笑い声が聞こえてきた。なかには、真っ赤な顔をして野菜を値切っているおばさんや、わけのわからないものを店頭に並べてただ黙って座り煙革をふかしている老人の姿もあった。彼はパンを置いている一画に目をつけ、店の者に気付かれぬように物陰に隠れながらさり気なく近付いていった。朝のパン屋には次から次へと客が訪れ、店員はてんてこまいの様子だった。

 「これだけ人がいれば大丈夫だろう」
彼は何気なくフランスパンを一つ抜き取ると、一目散に駆け出した。人を躱し、人と人の間をすり抜けながら思い切り走って逃げた。どこまでも逃げた。いつの間にか市場を離れ、いくつもの角を曲がり、ある狭い路地裏に入ったところでやっと彼は走るのをやめた。
 誰も後を追って来るものはいない。
 「ざまあみろ」
彼は息を切らしながら呟き、笑った。そしてこの街のどこかで、恐らくは自分と同じ事をしているであろうおやじに、無性に会いたくなった。
 暗く人気のない路地で、彼はパンだけの粗末な朝食をとった。走った後ということもあって、パンがなかなか喉を通らず、食べるのに時間がかかった。
 「牛乳も取ってくればよかった」
やっとパンを十分の一ほども食べたとき、薄汚いアパートの屋根の上から、太陽の光が差し込んできた。彼はとにかく歩きだすことにした。残ったパンを噛りながら歩いている間に、こんなことを考えた。
 今となっては新しい仕事を見つけることなど、もう夢のような話になってしまった。どうして俺はこの街に出て来たんだろう。偉くなって金持ちになるためだったろうか。ああ、俺は何を考えていたのだろう。この街に来る前の自分が思い出せない。俺はこの街にいったい何を求めて来たんだろうか。あれこれ考えれば考えるほど卑屈になってゆくような気がして、彼は首を横に振り、今考えていたことを忘れてしまおうと思った。家を飛び出して以来会わないままの両親の顔が目に浮かんだ。
 乞食夫婦の住む橋に差しかかったが、今にもつぶれそうなあの小屋からは、人が出てくる気配は全くない。あの人たちは、どうしてああなってしまったのだろう。たぶんそれはあの人たち自身にも分からないことだと思う。やり切れない気持ちのなかに、ふとおやじの言った言葉がよぎった。
 「今の世の中、乞食が一番幸せかも知れないぞ」
そんなことは絶対にない。彼らが幸せに感じているわけがないじゃないか。
 

 彼がおやじに再会したのは、その日の午後のことである。
 人通りのない裏通りを一人歩いていると、おやじが警官二人に両脇を抱えられながら、彼のほうに向かって歩いてきた。とうとう捕まってしまったらしい。彼に気が付くとおやじは、少し照れたような、申し訳なさそうな変な笑顔を浮かべながらぼそっと言った。
 「毛布の一枚もないと、夜がつらくって……」
 その一言に対して、彼は何も言い返すことなどできなかった。
 そしてその言葉を、心から素直に受け止めることができた自分が、悲しかった。
    細い裏通りにはおやじや警官たちの姿はすでになく、彼だけが一人、立ちつくしていた。                                                          〈了〉