2002年4月

■4月(4.30)
 倦怠感の中で考える。
 4月にしてすでに五月病の自覚か。
 季節というのは心のあり方をさすのだ。
 五月病をサツキ病と呼んでみたら少しきれいに響いた。
 病いというのはけして否定すべきものではなく、
 病いの中に、美しさが隠れているのかもしれない。
 そしてまた、美しさには病いがそなわっているものなのかも。
 それぞれに病いの種を抱え、それを健康に内在させて生きる。
 春には春の、冬には冬の、心の叫びがあって、
 その声の届く先にこそ、救いがある。

■特にナシ(4.29)
 引っ越ししてから一ヵ月。コメントは特にナシ。
 三連休も終わり。それについても特にナシ、特にナシ。
 久しぶりの友人からの電話。遊びに来てねと言ったものの、さていつになるやら。
 西日が当る部屋で昼寝した。
 目覚めたらもう明日は授業だ。
 部活動には賛成?反対?
 ノーコメント。
 特にナシ。
 中途半端に13年。
 カエルか、サルか。
 ボクはヒト。
 ヒトらしく生きるにはムダが必要だ。
 大いなるムダ。
 これまでの人生について一言!
 特にナシ。
 これからどうするおつもりですか?
 …………。

■樹のある場所で(4.28)
 樹のある場所で話をした。
 街について考えた。
 おもしろくない街が増えたのは、
 街が変わったからではなく、人の生き方が変わったからだ。
 木漏れ日を見上げながら、
 これはいつかも思ったことだったということを思い出した。
 言葉がつまらなくなっているのは、
 心が貧しくなっていることの証拠で、
 そんなことさえも他人に言われて初めて気づくくらいなら、
 おとなとしては失格だよと思った。

 いつしか生き方は「ライフスタイル」という言葉に置き換えられて、
 意味する内容も変わった。
 例えば泥臭くて敬遠されるのが「生き方」ならば、
 カッコ良くって魅力的で、欲しがられるのが「ライフスタイル」
 なのか。
 そんな表層的なことに振り回されている僕自身のライフスタイルが、
 やっぱり薄っぺらでちゃちでキッチュ
 ではないのか。

 樹は何を教えてくれるか。
 樹は何も教えてはくれない。
 彼はいつでもおまえ自身の言葉で考えろと突き放すだけだ。
 樹の言葉で語られたところで、
 やはり僕らには伝わりはしない。

 他人の言葉で癒されるようではいけない。
 自分自身でもがき苦しんで自分の言葉を紡ぎ出すしかない。
 そういう決意が薄れていたのだ。
 言うまでもなくそれは生き方の問題。
 
■3連休初日(4.27)
 とはいえきょうは1日中スケジュールが目白押し。午前中3時間部活をして生徒会主催のボランティア活動で駅前のゴミ拾い、午後にはPTA総会そして夜はPTAの歓迎会と、それはそれは休日とは思えない日であった。いろいろあっておもしろかったが、さすがに疲れた。歓迎会の後、飲まなかった先生に家まで車で送ってもらったのはラッキーだった。
 今度こそ、ラオスに行こうと思う。問い合わせたら席が空いていたのでさっそく予約した。ハノイ経由で入って、プノンペン、ホーチミン経由で出るというややややこしい往復。インドシナ。あの熱い空気。青い空。街の喧騒。そして、人々の笑顔。また新しい出会いがあると思うと胸は高鳴るよ。3年ぶりにベトナムの地を踏めるというのも楽しみ。すでに旅は始まったという気分である。オレには旅があると思うと、夏までは元気に乗り切れそうだ。

■夢想(4.26)
 家庭訪問の2日目。時間のずれは5分以内と今のところ順調。それにしても、たった4日間に38件というのは厳しいのなんのって。勤務時間という概念とは無関係に6時近くまでかけざるをえない理不尽なスケジュールとなっている。
 自信をもつためには過去の自分を受け入れねばならん。信頼を得るためには現在の自分をさらけ出さねばならん。
 はたして夢を叶えるために、未来の自分を掛けたり引いたり足したり割ったり、そんな計算をせねばならんのか。
 わけのわからんことを考えながら、今夜も床に就くとしよう。

■週末(4.25)
 今週もあと一日、一週間は早いが深みを感じないな。
 ゆっくり腰を落ち着けて何かに取り組むということが欲しい感じだな。
 味わい深い人生がいいな。
 
■チンパンジー博士(4.24)
 夜の教育テレビをみてみたら、チンパンジーの言葉について先生が話をしていた。きいているとその先生はチンパンジーの声をまねて、真顔でホッホッホとかウホウホウホとかウキーッ!とか叫んでいたのでおもしろかった。この人はほんとにサルが好きなんだな。ウキーッ!

■その日暮らし(4.23)
 寝ぼけ眼でパソコンに向かいつながりのおかしな文を書くようではいかん。
 登校しぶりの子がきょうは来た来ないと一喜一憂しているようではいかん。
 間に合わせの授業参観でも終わればよしなんて思っているようではいかん。
 教育にも質というものがあって質の高い教育を受けた者は伸びるだろうが、
 粗悪な教育というものもあってそれを受けた者の可能性はどうなるだろう。
 あれこれ考えるけれどけして一人では変えることのできないことばかりだ。
 一人の力で変えられると思っているようではまだまだだということだろう。
 長い間物置きにしまっていたボーズのスピーカーをアンプにつないでみた。
 山下達郎よろしく棚から一つかみ聴いてなかったCDを取り出して聴いた。
 大きな音を出しても大丈夫な状況というのはたいへん気持ちがよいものだ。
 トッド・ラングレンの歌を聴いていたら、中村一義とそっくりだと思った。
 機嫌がよくて楽しいわけは明日スポーツテストなので授業がないからです。
 調子がよくて走りたくなるわけは毎日少しずつ体重が減っているからです。
 教師はその日暮らしになってしまうというのは漱石も言っていたことです。
 そんな性質だから教師になったのかそれとも教師になったからそうなのか。
 どうでもいいけどこだわり過ぎだと思いませんか自分の職業というものに。
 でもそれくらいこだわってもいいと思いませんか自分の職業というものに。
 それなりに今も次のステージのことを必死で必死で考えているところです。

■眠い(4.22)
 いやあ、ダメですねえ。家に帰るとくたあっとなっちゃってねえ。
 睡魔と戦わないとならないんですかねえ。
 やなこったねえ。

■眠い(4.21)
 もう寝よう。

■開花(4.20)
 一気にいろんな花が咲いた。全部素通りだ。

■春の宵、ヨヨイの酔い(4.19)
 職場の歓迎会が大々的に行われた。やはり数は力なりという感じがしないでもなかった。パワフルだこれが束になれば怖いものはない。
 ほろ酔い気分で電車に乗って、帰宅してイスに掛けていたらそのまま眠ってしまった。気づいて急に立ったところ目が回りだし吐き気がしておまけに腹もおかしくなって、冷や汗タラタラ胸はトカトカで床に倒れ込んだ。それほど飲んだわけではないのにひどい酔い方だ。疲れが出たのかな。
 バンコクでシンハービールの大瓶を一本空けて帰ったホテルで同じような症状が出たのを思い出した。入学式から2週間。これも旅みたいなもんだ。休み休み行くとしよう。
 だが、今度の土日は休めない。わーっ、こんなことでいいのかーっ!ドーン!(雷に打たれてスケルトン)
 
■変質(4.18)
 毎日毎日いろんなことを感じては、いいとか悪いとか自分なりに判断して、納得して、実行して…。
 つくづく、少数派なんだと思う。
 僕には彼らの言葉がわからない。
 同じ感性で生きている人などいないのはわかっているけれど、価値観の同じ人なんてこの世に一人もいないというのは当たりまえだけど、こうもさまざまな考え方があるなんて、驚いてしまう。とても、刺激的な毎日を送っているよ。楽しい!楽しくて、頭がおかしくなりそうだ。
 これだけ感覚が違うんじゃ、まとまるものもまとまらねぇ!と素直に思う。
 こうも世の中が(自分自身が)変になってしまうと、普通の社会人づらして生きているのはまずいんじゃないかと思えてくる。不適切なんじゃないかと、このオレが。
 人の所為にするかあるいは自分の所為のどちらかかと考えてしまうのは、とても若くて旧いものだから、限界がある。ここで穏やかに和やかにやっていこうというのなら目をつぶることも必要なのだろうか。
 それか、まったく違うことを考えてみてもいいのかな。
 
 死ぬまで楽をしたい。
 パット・メセニーのギターシンセみたいに流れ流れてオープンエンド。
 あぁ、これはバイヨンの森のコーラ屋だ。一缶2ドルの暴利を貪るしかも冷えてないやつ。
 夢の中にできた新しい図書館で前の職場の人にあう。お久しぶり話しましょうここでちょっと待っていてください用事を済ませてすぐ来ますからと言ってそのまま忘れてすっぽかす。
 なんて、そんな感じのことはもういい。

■桜吹雪(4.17)
 強い風で、早くも桜は花びらを散らし始め、校庭を走る生徒たちの上に降る。そこらじゅう桜の匂いに包まれている平日の夕方。

■花見(4.16)
 帰り途中の国道で、後ろから120キロくらいの猛スピードで追いかけっこしている2台の車に遭遇した。若向きのその車には、若葉マークが付いていた。楽しくて仕方ないのだろう。マシンの力を自分の力と誤解しているのだろう。追い抜いていった車を見ながら、爆発しろと念じた。もしかしたら、運転していたのはタコみたいな形の情けない宇宙人だったかもしれない。車から下りたとたん、どろどろになって溶けてしまったりして。しょうもない空想。
 道路沿いの温度計は20度。きのうきょうですっかり桜は花開き。校庭の桜はすでに満開。いつもならこれはゴールデンウイークあたりの状態だ。天気予報は雨。今週末では遅いかも。余所事になるうちに花見をしよう。特に今年見逃してしまうとしばらくは見られなくなるかもしれない。明るいうちに帰ったので、近場に母と祖母とを花見に連れていった。花巻温泉は少し標高が高いらしく、5分咲き6分咲きという感じで、さくら祭りのぼんぼりの灯りはあるもののたいして人は来ていなかった。何年か前に泊まった古い旅館が閉鎖されていたことを初めて知った。それから花巻の町に出て食事をした。マルカンデパートでと思ったが、ちょっと遅かった。あるホテルのレストラン。車から様子をうかがっているとタイミング悪くホテルの車両係がお食事ですかといって誘導し始めた。流れのままその店に入った。店内はハイカラな雰囲気で、客たちはみな上品に見えた。花巻というところはちょっと田舎のインテリがたくさん住んでいるようなイメージを僕はもっている。それにしてもジャージで来たのは相当恥ずかしかった。
 でもたまにはね。こういうことがあってもいい。

■我が儘(4.15)
 いろいろな我が儘が通るところと通らないところ。その場にいてはわからないのだが、その違いは確かにある。力学、というよりもその場の人間関係でものごとは押し進められていく。いろいろな違いが見える。このことの楽しさ奥の深さ。僕はまだ一つところにどっぷりと浸かるという段階ではなかったと改めて思うのだ。あるところには我が儘な人たちがたくさんいた。そして、その人たちのかげで我慢している人がいたのだ。僕はそういうことが少なくとも以前よりは何となくでもわかりかけているみたいだ。
 大事なことは知識でもプライドでもなく、力でも技でもない。一人で生きてる気になるなということなのかもしれない。他人に我慢させないことで、我が儘を乗り越えたいと考えている。我が儘な人たちに勝ちたいと考えている。
 
■ビッグ・イヴェント(4.14)
 ある人から誘われていたイベントに行ってみようと思って、時間少し前に盛岡にある会場に行った。だが、そこには見知らぬ人2、3人しか居らず、その人の姿はなかった。予想外に小さな部屋で、イベントではなく学習会か何かのような雰囲気がした。変だと思いながらもしばらくは入り口で待っていたのだが、時間になってもその人は姿を見せなかった。知らない人ばかりのところに入っていってもしょうがない。逃げ出したいような気持ちになって、結局逃げた。
 僕は発表会だと聞いていたから、軽い気持ちで来たのだった。だけど、学習会だとしたら、他の人たちといっしょに話したりすることになる。悪いけど、そこまでの心の準備はしていなかった。本当にやる気があるのなら、○○さんの紹介で来ましたとかなんとか言って、とりあえず参加してみることもできたのだけれど、きょうはそんな気持ちにはなれなかった。興味がないわけではなかった。だからこそここまで来たのだが、あと一歩を踏み出せずに終わった。知らない人に会うことは、相当なエネルギーが要るのだ。先週一週間知らない人にばかり会い続けた自分。きょうは電池切れという感じだった。
 会場を後にした車の中で、罪悪感と憤りを感じながら、自分の行動を正当化しようとあれこれ考えている自分を客観的にみたら、この人は弱い人だと思った。みすみすチャンスを逃してしまった。今までも同じようなことがたくさんあった。その積み重ねが、今のあんただ。チャンスをくれたその人に対して、僕はやはり悪いことをしたのだろうか。
 盛岡は桜の花が少し開きかけという感じだった。こないだまで住んでいたアパートの前を通った。僕の部屋だったところはまだがらんとしていて、誰も入っていないようだった。考えてみればこの土地に何の未練も愛情も感じてはいない。来てみようと思った気持ちに、自分自身嫌気が差した。
 どこか遠くへ行きたくなった。北は、青森とか八戸とか弘前とかが浮かんで、南は仙台が浮かんだ。高速道路の入り口で、北に行こうか南に行こうか迷って、直前で北にハンドルを切った。けれど、そんなに遠くまで行く気力はないことに気づいた。まだ雪の残る岩手山を左手に見ながら、久しぶりに山に行ってみるかと、西根インターで高速を下りた。焼走り溶岩流。散策路を少し歩く。ところどころ残雪がある。空気は冷たくないが、下界よりも季節は遅れている感じ。「耳を澄ませてみよう」という看板。さまざまな鳥の声が聞こえると書いてあった。だが、鳥の声はなく、かわりに聞こえたのは、にぎやかな大学生たちの話し声と、自衛隊の演習のドカンドカンという砲弾の音だった。求めているものは、見つかりはしないのだ。
 後ろへ、北へ、冬へ。そんなことばが頭に浮かぶ。後ろ向きにでも進んでいけば遠回りに前に進むことになる。北を目指して歩いてゆけば、北を通り越して南に行ける。冬の季節を終えて春夏秋と通り過ぎれば、また冬が訪れる。たとえ後ろ向きに見えても、すべて前へ進んでいるということになりはしないだろうか。輝かしいばかりが未来ではない。これからもっとつらくなるのだと悟った。
 昼過ぎには帰宅した。ごろごろしているうちに眠りにおちた。せっかくの連休ももうおしまいだ。
 こんな日でも僕にとっては、かけがえのない一日。

■つまらない講演会(4.13)
 きのうの講演会はおもしろくなかった。基本的な知識の伝達というだけで、なにも目新しいものがなかった。ただ眠いだけだった。

■一週間が終わって(4.12)
 最初の一週間が終わった。長い長いと思っていたが過ぎればあっという間だ。とにかく疲れた。当たり前だ。
 この連休はゆっくり休もうと思っていたのだが、土曜日は一日予定を入れることにした。
 外海を、漂っているような感じだ。
 
■慣れると馴染む(4.11)
 慣れることと馴染むこととは違う。慣れてきはしても、どうしても馴染めないということはあるだろう。馴染んではいけないということもあるのかと思う。
 今の学校でいちばん馴染めないのは、教室に教壇があることだ。黒板の下が高くなっていて、教師は生徒より一段高いところから授業をする。どうして生徒を見下ろして授業をする必要があるだろう。それが当たり前だったのはもう何十年も昔の話。何を隠そう僕は、教壇のある学校に来たのは初めてだ。これには非常に強い違和感を感じる。これに馴染んでしまっては終わりだと思う。
 それと、教科連絡用の黒板が教室の真後ろにあるのはどう考えても使いづらい。これを使うとなると、哲学の転換を否応無しに迫られるのだが、答えは変わらない。自分を変えるか、黒板を変えるかと聞かれたら、黒板をと答えよう。なんでこの黒板が外れないのか、考えると腹の立つこと。
 建物には設計者の思想が現われている。校舎にはもちろん設計者の教育的な思想が現われるはずであるが、その思想が貧相な場合、そこの学生たちにとっては気の毒なことになる。そういう貧相な校舎が実は日本中至る所にあって、そのせいでおかしなことになるということはないか。画一的で冷たいいわゆるハコモノの校舎でなにが教育できるものか。子どもの生活のイメージのない校舎で、子どものイマジネーションを育てろというのか。無理難題を押し付けて、できるようにすることが教師の力だという。できなければ教師の努力不足だという。確かにそれもあるだろう。だが、それで片付けられては困る。
 挨拶回りの際に教育長が、6学級用の校舎に7学級で使いづらくて迷惑をかけるがよろしくと言ったのだが、6学級用の校舎をつくること自体がもう罪なのだということを彼は夢にも思わないだろう。ましてや無理に1学年7学級を詰め込んだために、下級生と上級生の教室が隣り合ってしまい、余計なトラブルが絶えず起きるような仕組みになっているということが、どれだけ学校の努力を虚しくさせているかということも、彼はまったく感じないだろう。近年急激に拡大した新興住宅地に学校を建てることを少しも考えず、5キロも6キロも離れたところまで冬場も自転車で通わせて平気な顔をしている教育行政の杜撰さに、大人社会の異常さに、彼がいつになって気がつくというのだろう。
 だから、そこに馴染んではいけない。けして、ぬるま湯に浸かってはいけない。

■見慣れゆく風景(4.10)
 長い長い一週間!やっと半分。
 見慣れゆく風景。この楽しさ!
 味わわない手はない。楽しまない手はない。
 
■ボレロ(4.9)
 疲れた。きょうもほとんど立ちっぱなしだった。学級開きはSGE。イエスノークイズにバースデイリング。2日目にして子どもたちの表情はますます柔らかくなり、こちらも手応えは上々だ。まったく気を抜いてはいられないけれども。
 同じようなことをしているのだが、勝手が違う。だから、目が回る。みんな、目が回っている。
 ラヴェルのボレロを聴いていたら、旅の計画を立てたくなってきた。曲が進むにつれて、だんだんだんだん夢が膨れてきた。これを萎ませてはいけないよ。

■始業(4.8)
 入学式が終わった。あーまた始まった。こっからだよこっからだ。
 ことごとくリンクが切れてました。寝ぼけながらホームページの更新をしたから。
 
■狂気の沙汰(4.7)
 ある塾のチラシ、「お母さんの夢かなえます」だって。それは違うだろー!と首をひねった。誰のための塾だってんだ。母子分離のできてない母親ってのが増えてるらしい。きっとこんなコピーに吊られてわが子を通わせる親も多いのだろう。子どもが可哀想だ。嘆かわしいぜ。今度の週5日制完全実施は今までの価値観ではやっていけないところに来たということだと思う。そんなことはどこでも言われてることだけど、親も教師も大人たちが本気で変わる気があるのかどうか、そこが試されるんではなかろうか。
 文章にまとまりがつかないのは、気持ちがおかしくなってるからだ。きょうはあるセールスから電話が来て、自分の生活が甘いと言われて嫌な気持ちになった。だからあなたはいけないのと、見ず知らずの人から指摘された。この怒り。俺の何が悪いってんだ。同時に、見放されたような気がしてつらかった。俺の何が悪いってんだ。あの人とはもう二度と話をしたくないと思った。
 明日は入学式なので、心の準備をととのえたい。それから、モノの準備もしなきゃいけない。けど、さっきのことがあったからなかなかもとの空っぽの気持ちには戻れないでいる。仕事のことを考える時の頭は空っぽだ。そればかり考えていればいいから気が楽だ。子どもたちのことだけに一生懸命になっていればいいから、自分なんてどうでもいいと思っているから楽なんだ…。なんて。そんなスタンスで日々を生きてるのなら、きっとまたこれ以上嫌な思いをするに決まってる。
 今の日本の景気と同じで、下げ止まるということはない。これが最低かと思っても、まだまだ限度なく落ち続けていくのだ。と、そういう鬱的な字面を固めとけば、これも一つの保険ということになるか。
 昨日の幻覚の話じゃないけど、最近予知能力が高まってるような気になっている。思っていることがすぐあとで現実となる。その頻度が以前より増している。でも実はこれ、幻覚と同じような脳の働きで、力が付いているのではなくて、力が弱くなっている状態なのかもしれない。要注意だ。

■ある土曜日(4.6)
 6時に起床。8時に会場集合。鉄道が通っているので生徒たちは現地集合でOKこれは助かる。それから5時過ぎまで大会。コーチとも、保護者とも初対面。コーチは一見怖そうだがかなりできた方だと見た。でも最後のほうでキレて帰ってしまったのには参った。電話したらちゃんと会話できたので安心した。お母さんたちはみんな僕を歓迎してくれた。独身ですかと聞いてきたのは、休日の部活を期待しているからだ。荷が重いや。
 荷物を学校に置いてから帰宅。それから北上まで車を走らせて30分。「ビューティフルマインド」を観てきた。現実と幻覚の区別ができなくなる病気。脳も数学も深遠。そして愛という真実。いったい、愛って何なんだ?

■始業式(4.5)
 紹介式と始業式があった。初めてここの生徒たちと対面した。そして、部活の生徒たちともコミュニケーションを取ることができた。明日の土曜日は大会なので、とりあえずは様子を見てみたいと思う。

■自転車通勤(4.4)
 きょうは自転車に乗って通勤した。晴れてはいたが、風の強い日で寒かった。家を出てすぐに引き返そうかとも思ったが、思い切って続行した。行きは上り坂が多く、おまけに強風のために30分くらいかかってしまった。けど、帰る時は下り坂で、20分ちょいで着いた。
 いよいよ明日から1学期が始まる。初めての生徒たちに対面だ。この緊張感がたまらない。早く会いたいようなそうでないような。きょうはいろいろな新年度準備。去年は20代から30代が多い学団だったのだが、今年はずいぶんベテランが多くなった。みんな何も言わなくても次にやることがわかっているという感じで、すごく落ち着いた印象がある。ここで自分らしさをどう出していくか。明日からがほんとのスタートである。

■電車通勤(4.3)
 初めて電車を使って通勤した。といっても一区間だけ。所要時間は7、8分か。ところが駅から職場までが歩いて20分と予想以上にかかった。もうひとつ先の駅からだと10分で着くそうだ。どちらが楽かを考えると二区間乗ったほうが楽かもしれないが、どちらが楽しいかを考えるとそれはよくわからない。とにかく今度はもうひと駅乗ってみることにしよう。

■本日は晴天なり(4.2)
 午前中は挨拶回り。近隣の施設や小学校にぞろぞろと挨拶に行った。あったかい日、岩手山や早池峰山などの山がくっきりと見えた。以前の見え方と比べると岩手山は小さくなったが、その分早池峰山は近くなった。3人の先生方を車に乗せながら、このままどこかへ走り去ってしまいたくなるほどだった。挨拶回りから帰ると職員会議。午後は新任職員のための説明会。そして、生徒名簿づくり。きょうはこれで終了。たいしたことはしてない。でも、まだ2日めなのに、もう3、4日経ったような錯覚。今度の土曜日には部活の大会があることがわかった。学習会や歓迎会に行こうと楽しみにしていたのだが、そうはいかなかったようだ。にわかにいろいろと仕事が出てきたぞ、という感じ。
 職場を変えるということは、新しい人間関係を切り開いていくということ。会う人会う人皆初顔合わせで、少しずつ少しずつ知り合っていく。疲れることではあるが、これも一つの勉強であり、「出会い」を研究する好機である。こういう機会は人生にそうそうあることではない。そういう意味ではとても楽しく、充実した時間を送っている。そして、金曜日には数百という新しい出会いが待っている。とてもおもしろい局面だ。
 あすは分会の歓迎会があるので、電車での通勤にしてみようかと思っている。今までやろうと思ってもできなかったこと。楽しみである。
 
■違和感(4.1)
 新任地での1日めが終了。学年会、職員会議、分掌部会、教科部会、そして辞令交付式ならびに研修会。やはり勤務地が変わると何から何まで変わるのだ。いいのか悪いのかはわからない。とにかく違うのだ、という違和感。周りは何か忙しそうにカチャカチャやってるのだが、自分はやることがない。最初はこうだっけというのはわかるが、どうも落ち着かない。まだ慣れてないということだろう。焦らずともこれは日が経つにつれて否応無しに解消されていくに違いない。
 家に帰れば帰ったでここでも違和感がつきまとう。一人暮らしをやめてみるとあれもこれも違和感。帰宅してみると、自分の部屋に置いていたモノの位置が変わっている。善意でやってくれているのだろうというのはわかるのだが、こういうことは許せない。だからきちっと話してやった。食事も洗濯もお願いしているので大きなことは言えないが、それでも文句は言うべきだと思った。
 きょうは16時過ぎに帰ってきた。ほとんど国道の太い道路を通るので、距離のわりには時間が短い。通勤時間は10分程度と予想以上に早くなった。それはいいことなのだけど、道草して帰るのが常だった僕としては、途中どこにも寄るところがないというのはさびしいものだ。これにも慣れる必要があるだろうか。