2002年5月

■ワールドカップ開幕!(5.31)
 サッカーで盛り上がるのは楽しい。
 けど、
 みんなが同じところばかり見ていると、
 危険。
 世の中熱にうかされている間に、
 へんなことがいろいろと出てきそうだから、
 要注意。
 日韓共催というからもっと交流があってもいいと思っていたけど、
 ケミストリーとかばっかじゃん。
 スポーツニュースでも韓国チームの情報すら出ないじゃん。
 それで日本戦が始まったら、
 テレビ局で率先してニッポンニッポンって騒ぎそうだから、
 心配。
 それにしても立派なスタジアムがたくさんできたもんだ。
 誰のカネでつくったんだろう。
 幾らかかったんだろう。
 祭りの後はどうするんだろう。
 またツケがこっちに来るのかな。
 などという不安。
 
■あああ(5.29)
 旅の計画がふいになってしまった。
 いくら笑顔でいたって、
 悩みのなさそうな顔をしていたって、
 心の中はどろどろで、
 どうしようもない深みにはまって抜けだせない。
 ってことない?
 精神の安定を求めるならば、
 もっとできることがあるだろうに。
 それを探せってことか。
 どうにかしろってことか。
 部屋には無数の透明な溜め息。
 
■酔った頭で(5.26)
 イヴェントが終わった時の気分なんてすっきりと晴れやかでさ、
 些末なごたごたなどもう誰の記憶からも薄れてしまってさ。
 でも大事なのは成功したというそのことだけではなくて、
 いろいろとこちらがわのスタッフの工夫なり技量なりなのであって、
 感傷的な涙や叙情的な余韻に浸ってばかりいるべきではない。
 断固として!
 磨くのはこちらのチームワークと感性と、
 彼らに働きかける命の願いのほうなのだ。
 明日からこそがほんとうの闘いなのだから。
 
■荒天に(5.25)
 雨が降ったり止んだりの土曜日、
 校庭では運動会の準備があって、
 係の生徒たちが組団の陣地をつくった。
 教室で寝てばかりいるある男子生徒が、
 いつもとは打って変わって
 生き生きとした表情で、
 足場の組み方や全体の構図なんかを説明していた。
 それをみて雲が晴れる思いがした。
 
 泥にまみれた鉄パイプ。
 ヘルメットから滴り落ちる雨。
 時折吹く強い風に震えながらも、
 彼らは手際よく仕事を進めてゆく。
 こんなひとときによって、
 自分が偏見を抱いていたのに気づかされる。
 
 人はみかたによって、
 さまざまな姿に映るものだ。
 何度も話してきたけれど、
 そういう自分のほうが一面的にしか物事をみていないということを、
 彼らは教えてくれる。

 運動会なんて小学生の頃から大嫌いだった。
 その気持ちは今も変わらず。
 なきゃいいのにと心の底から思ったり。
 だけどだからこそ、
 必要なイベントなのかもしれない。
 
 校庭にはみるみる雨水がたまり、
 せっかく引いた白線もすっかり消えてしまった。
 空には閃光が走り、とどろく雷鳴。
 明日はいったいどうなることやら。
 子どもたちにとっていちばんいいのは、
 予定通り決行されることに違いない。
 それは我々とても同じこと。
 ぜひとも明日の彼らの姿をみたいものだ。
 そして個人的な願いを述べるとすれば、
 明日をクリアした彼らにあってみたい。
 明日をクリアした自分にあってみたい。
 
■思考停止(5.24)
 未確認物体は日没とともに見えなくなって、
 結局なんだかわからずじまい。
 考えなさいって言ってる。
 もっと目を開いて物を見なさいって言ってる。
 だからUFOはUFOのままなのか…。
 
■運動会・病(5.20)
 今度の日曜日は運動会で、
 生徒たちは一生懸命になって練習している。
 先輩風もこの時期に限っては有効で、
 命令によって生活が活気づいたりしている。
 皆のそんな滑稽な状況を見てある人が、
 運動会病にかかっているといった。
 なるほど病気というとわかりやすい。
 こっちとしては、
 その病気を治してやることが仕事だ。

■優先席(5.16)
 昼下がりの電車はそれほど混んではおらず、
 ぼくの向かいの座席では、
 途中から乗り込んできた高校生たちの一群が、
 辺りをはばからぬ大きな声でおしゃべりしていた。
 そしてほかの乗客たちはみな静かに、
 それぞれうつむいたり、読書したり、
 あるいはうとうとしたりしていた。

 優先席というのはどの車両にもあって、
 そんなことに関係なくそこに座る若者もいるし、
 かといって、老人のほうが
 堂々と権利を主張してそこに座るということもない。
 だけど電車の中では、
 席をゆずる人はたくさんいるし、
 ゆずられる人もたくさんいる、
 優先席とはまったく関係なく───。
 そこの窓ガラスにはステッカーが貼られてあった。
 「優先席」という特別なことばと、
 老人と、けが人と、小さな子どもと、妊婦とが
 それぞれ輪の中にデザインされた四つの絵。

 ある駅で、
 二人のおじいさんが乗ってきて、
 優先席とは気づかずにドアのすぐ横の席に座った。
 やがてドアが閉まり、電車が走り出した。
 するとそのおじいさんたちは
 二人同時にうしろの窓を振り返った。
 貼ってある「優先席」の文字を見ると
 はっとした様子で、
 これまた二人同時にすっと立ち上がり、
 そそくさとほかの席へ移って座った。

 二人のおじいさんは
 どんなことを考えてそうしたのだろう。
 自分たちを優先される側とは思わなかったのか。
 それとも単に、
 年寄りと思われるのが嫌だったのか。
 とにかくぼくの目から見れば
 当然優先席に座る資格があろう人たちが、
 優先席に座ることを拒否したのだ。
 
 その光景を見て、
 ぼくはにわかに「優先席」という概念が
 いたわられるべき者を狭いところへ閉じ込めるための
 仕組みでしかないという気がしてきた。
 ある韓国人の話を思い出した。
 「わたしの国では電車やバスでお年寄りを見かけたら
 若者は必ず席を譲ります」
 ご多分にもれず、それにくらべて……と話は続く。
 いったい席を分ける必要があるだろうか。
 いいや、そんな必要などないはずだ。
 わが国の人々は弱者に優しくないだろうか。
 いいや、そんなことなどないと思いたい。
 ただ社会には仕組みがあって、
 善良な人々はそれにしたがって生きているだけなのだ。
 その仕組みがほんとうに
 人々のためになっているのかどうか。
 それこそがほんとうに大切なのに、
 いつしか議論は途絶えてしまった。
 
 「優先席」などなくていい。
 じゃあどうやってあのステッカーをはがせばいいのか。
 恥ずかしいけど、
 ぼくにはその方法がわからない。
 心のバリアフリーというけれど、
 厳然と、それを邪魔する仕組みがある。
 そんな仕組みなんか取っぱらいたいと
 駅の階段を上りながら思った。
 
■治外法権(5.13)
 学校には男子休憩室というところがあって、
 そこには男性の先生のロッカーがあって、
 そこで着替えたりするわけですが、
 実はおもに先生方がタバコを吸う部屋になっています。
 当り前の話ですが、
 先生のための部屋ですから、
 生徒は入れません。
 広い学校の中でそこだけ、
 なんか特別な場所という感じです。
 そこには入れないことを生徒たちは当然と思っているのか、
 それとも先生方に気を使っているのか。
 
 そうしてそこではさまざまな情報交換が
 行われたりするわけです。
 ぼくもたまにそこに入って
 みんなの話をきいたりするわけですが、
 そうするといろんなことがきけるんですね。
 より先生方の本音がきけたり、
 あるいはこちらから話せたり。
 ところがぼくはタバコを吸わないので、
 3分もその部屋にいると、
 口の中にタバコの味が広がってくるんです。
 背広を半日ロッカーに入れておくと、
 もうすっかりタバコのにおいが染み着いていたりするんです。
 これはあまり快いことではありません。
 だからそういう部屋には
 あまり好んで出入りはしていません。
 
 タバコというのは文化ですから、
 身体にいいとか悪いとかそんなことは関係ない。
 吸いたい人は吸えばいいんです。
 こどものタバコを禁止しているのは、
 身体に悪いからということもあるでしょうけど、
 ほんとうは
 こどもなんかに吸わせてたまるかという
 おとなたちの意地なんじゃないでしょうか。
 こどものくせに
 おとなたちのものを味わったりしていたら、
 やっぱおとなのコケンに関わるじゃないですか。

 何かを禁じる時には必ず、
 守りたい何かがある。
 おとなかこどもか。
 ジブンかタニンか。
 はたまた名誉か人命か。
 日本人か外国人か。
 それにビンカンなのはおとなか、
 それともこどもか。
 ドンカンになっちゃあイカンと、
 ニュースを見ていて思いました。
 
■ターザンボーイ(5.9)
 もう何年も沈黙しているアーティストの近況も
 どこからか情報が入ってきたりする
 それをきくとなおさら親近感がわいてくるのは
 どうしてだろう
 そんな彼の音楽を敬愛する人たちもたくさんいて
 若いアーティストたちの手によって
 いいトリビュートアルバムが作られたりもする
 早く活動再開してくれー
 なんていう無責任なファンの声が
 どれほど彼の心をかき乱していることか
 必然的な休息なのかもしれないし
 自分自身思わぬ展開なのかもしれない
 誰の人生であろうと
 とやかく言われる筋合いはないわけで
 とにかくこんなにして歌い継がれる歌を
 のこしている彼はやはり素敵!
 だと思うのだ

■食について(5.7)
 テレビを見ながらごはんを食べた
 たいしてテレビに集中するわけでもなく
 かといってごはんを一生懸命食うわけでもなく
 なんとなく見ながらなんとなく食べていた
 
 フランスのとある三ツ星レストラン
 そこのシェフが思い切った転換を決断した
 今まで肉料理中心だったものを
 野菜が中心のメニューに変えたそうだ
 さらにそのシェフは畑まで出かけて
 質のよい野菜を自らの手で
 栽培するようになったらしい
 世界では食にまつわる改革が
 着実に進行しているということだった
 そのシェフの願いは
 ほんとにおいしいものを食べてもらいたい
 というただその一点に尽きるだろう
 BSEとか表示の問題とかが相次ぐ中
 安全でおいしいものを求めての
 いわば当然の決断だったかもしれない
 だからそれは
 ただひとりの料理人の小さな願いとは思えず
 地球を救うための大切な方法を
 示しているようにも取れた
 
 どこかできいた話だが
 家畜を飼育してそれを食料とするよりも
 野菜や豆を栽培して食べるほうが
 何十倍も効率がよいのだという
 つまりもし同じ手間ひまをかけるなら
 野菜のほうが肉よりずっと
 たくさんの人間を養うことができる
 それだけ食糧難を回避する手だてになり得る
 食うに困ることなどない日本に
 生きているぼくらには
 実感しにくいことだけれど
 食糧難はけして遠い将来のことではなく
 いまこの地球上に起きている
 もっとも大きな問題の一つだ
 どこに住む人にも十分な食料を確保すること
 それが今もできないでいる
 だとしたら
 野菜中心の食事に変えていくということは
 人類の大切な選択となるはず

 中国で「素食」と書くと
 100%植物性の食品を使った料理をさす
 おいしいしからだにもいい
 医食同源の国で培われた歴史的な方法
 ベジタリアンという人たちを
 以前は理解できなかったのだけど
 単純に肉や魚を食べない主義の人たち
 というのではなく
 食と生き方を追究する尊敬すべき人々
 なのではないかという気がしてきた
 
 日本では早食い競争の類いが人気をよんで
 ゴールデンタイムには
 底なしの胃袋をもつ男女が
 猛烈な勢いで寿司やらラーメンやらを平らげる
 あれを見て胸をいためる人は
 少なくないのではないだろうか
 あんなに多くの食べ物があるのに
 どうしてそれをうまく分けられないのかと思う
 給食であれをまねた中学生が
 パンをのどに詰まらせて死んだ
 だから自粛しよう
 では困るのだ
 あんなことをやったらだめなのだ
 
 「ほんとうにおいしいものを食べてもらいたい」
 これは
 人間のいちばん大切でいちばん基本的な願いだ
 「ほんとうにおいしいものを食べたい」
 と同じくらい基本的
 「食べたい」を叶えるためには
 「食べさせたい」が不可欠なのだ
 そこが人間というものだろう
 誰もが誰かに何かを食べさせて生きている
 誰もが誰かに何かを食べさせられて生きる
 これが守られていない世の中だとしたら
 現代は人でなしの世の中ということになるだろう
 
■こどもの日(5.5)
 その日ぼくは一日中遊んでいた。
 歩行者天国で写真を撮った。
 胡散臭い若者たちがいて、
 手品で人を騙して金儲けしていた。
 暑い中10キロも歩いたろうか。
 喉が渇いてしかたなかった。
 ペットボトルに入った冷たいお茶を買った。
 お寺は人でごったがえして、
 団子を売るお店も商売繁盛のようだった。
 おじいちゃんおばあちゃんはお金持ち。  
 なにかおもちゃを孫たちへプレゼント。
 こどもの日だからねと言って
 いつもより少し財布のひもをゆるめ、
 それを当て込んだ若い親も、
 せっかくだからと高いのを選ばせたりして。
 ぼくの中のこどもが叫ぶ。
 なあんにも高いものは要らないって。
 ぼくと同じ顔のこどもはいないか、
 なんて目で見てしまうと、
 どいつもこいつも可愛げがうせる。
 ほんとにこどもであることは
 ほんとはたいへんなことなんだ。
 きみがこどもであるうちに、
 こどもらしさを手に入れてくれ。
 あなたがたのこどもがこどもでなくなるまえに、
 どうかこどもにしてあげてくれ。
 その日ぼくは一日中遊んでいた。
 でもどうしても物足りなかった。
 ぼくがほんとに欲しいのは、
 今まで満足に遊んでこなかった時間。
 こどものふりして振る舞いながらも、
 遊び方を覚えてこなかった少年時代。
 もう手遅れかもしれないけれど、
 カネではけして買えないものが欲しい。
 こどもになるのが、
 ぼくは遅過ぎた。
 
■バカヤロウは愛の言葉(5.4)
 バカヤロウと怒鳴りたい気持ちを抑えて考える。
 きっと理由なんかなくて子どものわがままなのはきまっているけれど、
 それでも彼の口をついて出た言葉の意味について
 ぼくなりに、素直になって考えてみる。
 平等というのを一言で説明できる人はいないだろう。
 上下の差がないというのはどういうことだろう。
 彼が伝えようとしていることに耳を傾けることが、
 ぼくが伝えようとしていることを伝えることにつながる…。

 そんなユウチョウなことは言っていられないか。
 1年はあっと言う間だって。
 このままじゃ彼は変わらない。
 言うべきことを言う。
 言うべきことを言わせる。
 そういう立場に立っているのかぼくは。
 全部の意味をつつみこんだバカヤロウを
 やっぱり言わなければならないのだ。

■川岸で(5.3)
 春の午後、川岸にひとりすわってコーラを飲みながら、
 ヒバリが空に上がっていくのを眺めていた。
 複雑怪奇な声を出しながらずーっと高いところまで上がって、
 やがてまたぼくの目の高さまで下がってきたと思ったらどっかへ飛んでいった。
 なんか可笑しかった。

■上ることばかり(5.2)
 上ることばかり目ざしてきたから、
 下りることはヘタなんだ。
 けれどももしきみが坂のとちゅうで
 はあはあ言ってあえいでいたなら、
 やっぱりぼくのほうが
 きみのところへ下りていって
 待つよりほかはないんだ。
 呼吸がちゃんとととのったら
 またいっしょに歩いていこう。

 上ることばかり目ざしてきたから、
 下りることはヘタだった。
 だけどもきみが山を下りはじめて
 いちばん盛んだった時を過ぎたら、
 しっかりぼくのほうだって
 きみと同じところへ向かって
 歩くよりほかはないんだ。
 ぼくが目ざすのも上でなく、
 きみの向かっている先なんだ。
 
 上ることばかり目ざしてきたけど、
 下りることなしには…。
  
■風(5.1)
 五月には五月の風!
 乾いた道路、タイヤロボット、リンゴの白い花。
 言葉が音符のように流れていく。
 新しい自転車、緩やかな下り坂。
 友達と分かれた後の微かな興奮。
 僕達を繋ぐリレイション。
 五月には五月の風。