2002年7月                                                               
■暑中御見舞申上げます(7.30)
 暑いです。特に車の中はひどいものです。先日カーエアコンをつけてたら吹き出し口から何やら白い気体がどんどん出てきて驚きました。それ以来どうも冷気が出なくなってしまったみたいです。冷媒のガスが抜けてしまったのでしょうか。
 もしかしたら、冷えないのは車が暑くなってるからかもしれないと思い、コイン洗車場に行って全体に水をかけてあげました。車はきれいになりましたが、それでもエアコンの効きはよくなりませんでした。
 そろそろ13年目に入るぽんこつですからしかたないですね、うまくつき合っていくしかないでしょう。
 今月の日記はきょうで終わりにします。それと、更新は一週間程度お休みします。
 どちらさまも、熱中症や夏バテにはお気をつけ下さい。   
 
■のんびり行こう(7.29)
 いつでもその人の一面しか見ることができないのだということ。ところが、その一つ一つは残らずその人の生き方を反映しているということ。どんなことでも可能性があって、そのことに対して常に謙虚であるべきということ。自分以外のものをどう見るかということが、結局は自分自身に返ってくるのだということ。
 自分のほんとうの見方というのはどんなものだろうかと、考えてみます。ここに文字にしたことがらは実はすべて誰かの受け売りで、僕が僕自身で紡ぎだした考えなんか微塵もないんじゃないかと、疑ってみます。はたしてどうなのか、その答えは見つかりません。
 きょうは仕事がはかどりました。夏休みの宿題のレポートは完成したし、陸上の練習と部活に参加していい汗かいたし、机上は整理できたし、何よりきょうは日がかげっていたため涼しく感じられたのがよかったです。それにしても、きょう一日で、いろいろなところにいろいろな人間模様が展開されるのだなあと思いました。たとえば、僕と似たような志や境遇をもつ人と話をすることができました。その人はとても身近な人だったのです。それから、同じ人物についてのさまざまな評価を一度に聞いてその多様さにびっくりするようなことがありました。そうして、自分のことを振り返っては浅はかだったことを恥じて、悔いたのでした。もしこれが通常の授業日であれば、咀嚼する間もなく吐き出されてしまうような些末なできごとだったかもしれませんけれど。
 この間ひょんなことからネット上で知り合った人とメール交換を始めて数日。その人からのメールがぷっつりと途絶えてしまいました。原因は明らかにこちらの思慮のない文面にあったはずで、それを辿る間もなく僕にはあの言葉だなというのは見当がつくのです。きっともう二度とこのHPさえその人には読まれることもないでしょう。これはただ単に誤解を与えたということではありません。人の気持ちをくみ取ることなしに綴ってしまったわずか一言によって、僕という人間は理解され、僕はつき合うべき人間ではないと評価されたのです。
 感じたのは、顔もわからぬままのネット上の関係の果敢なさと、自分の信用を損ねるにはたった一言あれば十分だという厳然とした事実。果敢ないからいいかげんにやるのではなく、果敢ないからこそ一つ一つを大切に繋いでいきたいと、自分に言い聞かせたいものです。
 だけど人生は思ったよりも長くて、まだまだ旅は始まったばかり。日々の小さな出来事の積み重ねが自分を作っていく。とすれば、日々を歩んでいく以外に自分を作る方法はない。足りないのは重々承知。迷惑をかけながらなのはお互い様。速さはゆっくりでいいから、歩幅も短くて構わないから、いくら道草喰ったって遠慮はいらないから、のんびりと自分のペースで行きたいと思います。よろしかったら今後ともおつき合い下さい。

■BGMはシンバルズ(7.26)
 一学期の業務がすべて終了。この日が一年中で一番いい日、かもしれません。明日から夏休みとなるわけですが、夏休みは夏休みで違う形態の仕事があるので、子どもと同じようにはいきません。でも、休む時にはしっかり休みますよ。ところで夏休みは8月21日までの26日間。そのうち出勤は8日。出張が4日。土日が8日間。夏期特別休暇が3日。勤務場所外研修が1日。そのほかに僕は年休を2日取ります。(そんなことをばらしてどうするの?)うちの学校の夏期休業中の職員動静表を見ると、僕は休みをかなり多く取っているほうみたいです。これが、先生以外の方々の目にはどう映るのか、ちょっと興味があります。ちなみに明日の土曜日は夜に学区の商店街の夜市の巡回に出ることになっています。
 教師はたぶん24時間仕事のことを考えっぱなしの商売なのだろうと思います。夜に家でくつろいでいる時にも、ごはんを食べている時も、風呂に入っている時にも、明日はあの子にどんな言葉で話しかけようとか、こう言えばあいつはこう出てくるだろうからそしたらこう返してやろうとか、これが心配だから朝にはこんなことをしゃべって布石を打っておこうとか、そんなことをたえず考えている生活です。これが長期休みもなく続くとしたら、きっと僕は音を上げてしまうことでしょう。夏休みや冬休みには、もう少し広く物事を見つめて、考えを深めたい。慌ただしさの中ではなかなか見えてこないような、大局からの見方や判断というものが、教育には絶対に必要だと思っています。
 今年から完全週5日制になったので、自治体によっては夏休み中の勤務場所外研修の制限を打ち出しているところもあるようです。夏休みは子どもと同じように休んではいられない。それはもちろんです。けど、自宅研修をさせないで原則的に出勤を強いるような流れというのは嫌だなあと感じます。自分に必要な研修を自分で考えて実行する。そんな自由を奪われてしまっては、教師の個性なんて発揮できなくなりそうです。
 教師は子どもとどう向き合うかが勝負。それは事前に何を準備するかによって決まると思います。モノの準備だけでなく、ココロの準備、そうしてコトバの準備。それらをととのえて、子どもの前に自信をもって立つことができる自分になること。これが大事だと思います。その場だけ取り繕おうとしたって生徒にはすぐに見透かされてしまいますからね。
 でも、自分作りを十分にさせてもらえるだけの余裕は、今の教育現場にはありません。僕にとっては旅こそが何にもまさる研修ですが、これからも好きなようにできるかというと、どうも雲行きは怪しいです。教師という職業に対する魅力もどんどん減ってきちゃったなあと、感じることが多くなった今日この頃です。

■スタートレック(7.22)
 衛星映画劇場でスタートレック全シリーズの放送スタート!なんてカッコいいんでしょう。もともと中学生の時に見ていたテレビシリーズの再放送とか、同時期にやっていた「スペース1999」なんかの世界が大好きでした。僕の宇宙モノ、未来モノ好きというのはここらへんに端を発するのではないかと思います。スターウォーズのような「活劇」とは違いますが、未知のものへと向かってゆくフロンティアスピリット溢れた展開にはものすごく魅力を感じるのです。
 はじめのうちは祖母もいっしょに見ていました。いつもテレビを見ては何やかやコメントする祖母ですが、今宵の映像はまったく理解できなかったようで、「何だかわからねぇ」といってすぐに自分の部屋に行ってしまいました。

■駐車場から(7.21)
 朝出がけに庭で見た一匹のミミズが、帰ってきた時には干涸びて、アリがうようよたかっていました。真夏日の太陽の下で、ミミズは土に還っていったのです。
 この二日間は駐車場係という貴重な体験をしました。蒸し暑かったし、きょうはときおり日が照ったので、腕や顔が日に焼けてひりひりしています。中体連だけでなくて高校野球の会場でもあったので、野球観戦の人たちが次から次へと来ました。ずっと立ちっぱなしだったし、ときどき走ったりもしたので、いい運動になりました。
 そして、いろんな場面に出会うこともできたのですが、仕事を終えての率直な感想は「もうやりたくない」。そしてその理由は、「嫌な大人たちをたくさんみたから」。自分勝手で、ずるくて、相手のことよりまず自分のこと、なんていう人々の姿を何度も目にしてしまったので、終わってからもしばらくは後味の悪さが残っていました。
 いろんな人がいるものです。喧嘩腰になったり、わけのわからない理屈でごねたり、すっかり無視したり、筋違いの文句を言ったり…。それが子供達の親だったり、競技役員だったりするものですから、されたこちら側としては何とも言い様のない残念な気持ちになってしまうのでした。これを弁当一個でやらされるというのは割に合わない気がします。
 いっしょにやっていた人が、「これじゃ心の休まる暇はないね」と言っていましたが、それをきいてああその通りだな、休日に必要なのはそれなんだよなと思いました。こうして僕の土日は終わってしまいました。
 でもそんな自分も十分自分勝手で、ずるくて、相手のことよりまず自分のことを大事にする奴なので、お互い様なのかもしれません。休日を楽しく過ごす人たちがいて、その陰ではたいへんな思いでそれを支える人たちがいる。きょう自分はこっちの支え役の一端をほんの少し担ったわけで、今度は逆の立場に立つことになるのでしょう。
 この数週間のうちに家の近くで撮った写真を、載せました。夏らしいなと思うのですがいかがでしょう。→イーハトーヴ・夏'02

■BGMはマリマリ(7.19)
 雨の朝、出がけに敷石を踏んだらパリッと音がしました。きっと小さいカタツムリを踏みつぶしてしまったのでしょう。怖くて足元を見ることができませんでした。家の庭にはこの時期意外と多くのカタツムリが発生します。気をつけていないと残酷なことになってしまいます。
 蒸し暑い毎日に嫌気が差してだらだらする間もなく、さっそくまた次のことに向かわなければなりません。そうやって仕事仕事の日々は続いてゆくのです。あすあさってはなぜか中総体の駐車場係になって朝七時から車の誘導です。同僚からあんたみたいに何の不平も言わずに働かなきゃだめだなと皮肉を言われました。けしてそんなわけじゃないのですが。「仕事中毒度チェック」なるものをネットで見つけてやってみたら見事「あなたは重度の仕事中毒です」という判定が出ました。とってもがっかり。でもまあ、納得です。そして私は、旅に出るのです。
 すべて自分が試されているのだと感じるのですが、だからといってそれが自分の向上につながっているかどうかはわかりません。これでもかというくらい修行が足りんのです。今ちっぽけな自己を前にして無力感だけが膨れ上がる、そんな金曜の夜を過ごしています。
 それではみなさん、よい週末をお過ごしください。チャオ!
 
■雨の野外炊飯(7.14)
 日曜日のきょうはPTAの行事で朝から出番となりました。6時から7時までは校地内の草取り。一旦解散して9時にはまた集合。つなひきと野外炊飯をする予定でしたが、あいにくの雨でつなひきは中止。小雨の中の野外炊飯となりました。ところが雨脚は強くなる一方。生徒と保護者総勢400名くらいになったでしょうか。一斗缶で作ったかまどをならべて、班ごとにカレーやら豚汁やらを作ったのですが、土砂降りの中みんな雨にぬれながらの作業でした。そんな中でお父さんたちは火起こしなどに大活躍。子供達もなかなか楽しそうにやっていました。食べて片づけが終わったところから解散して、何だかわからないうちに行事は終了。憎らしいことに、終わったと思ったらあれほど降っていた雨がすっかり止んで、空が明るくなってくるではありませんか。たいへんな日曜日になりましたが、まずは終わったということで一段落。明日からはまた学期末の仕事に精を出すことになりそうです。

■教科書が変?!(7.11)
 三年生の国語の教科書の古典の単元には、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる松尾芭蕉の「おくのほそ道」が載っています。冒頭の一文には、「旅こそ人生」という芭蕉の人生観が示されているといわれています。さらに、この序章の部分には理由なく旅へと向かってしまう気持ちが表現されており、読むたびに、新たな旅へと誘われるときの微妙なわくわく感を思い出させてくれる名文だと思います。何を隠そう私がホームページを作る時の理想としているのは、この「おくのほそ道」の紀行文のつくりかただったりするのです。
 ところで、この「おくのほそ道」の文章の中で教科書に収められているのは、冒頭部分と「平泉」の部分の二箇所なのですが、今年度の指導要領改定にともなって、今まで載っていた「平泉」の後半部分がすっかり削除されてしまっていることに、驚きと怒りを覚えています。
 奥州藤原氏の栄華の跡を五百年後に訪ねた芭蕉は、源義経が最期を遂げたといわれる高館に登り、そこから北上川の川筋を見下ろす。百年続いた輝かしい繁栄や、敵味方に分かれ争った者たちも夢のように消え、今となっては雄大な自然が残っているだけだと感じる。自然の永遠性にくらべて人間の営みはなんてはかないのだろうと涙を落とし、「夏草や兵どもが夢の跡」の句を詠む、ここまでが前半。新しい教科書はここで終わっているのです。
 ところが大事なのはここからで、後半で芭蕉は高館から今の中尊寺へと場所を移します。そこで目にしたのは、五百年を経てなおきらびやかな姿を留める金色堂(光堂)だったのです。「七宝散り失せて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひ風雨を凌ぐ。しばらく千歳の記念とはなれり。」つまり、そのままにしておけば廃虚の草むらとなるはずだったところを、後の世の人々が、その輝きを失わせぬためにさや堂を建て、厳しい自然から光堂を守ってきたのである。そのおかげで、今となっても千年の昔をしのぶことのできる記念として残っているのであるというのです。また、ここで芭蕉は数詞を積極的に用いており、あたかも七色の宝石が文章全体にちりばめられているような、美しい表現技巧が施されている部分としても見落とすことはできません。
 前半で人間の営みがどうしようもなくちっぽけだと感じて涙したのとは対照的に、後半ではそんなはかない存在ではあるけれど、人々は必死で価値あるものを後世に残そうと努力してきている。なんと素晴らしいことではないかと人間存在を讃え、「五月雨の降りのこしてや光堂」の句で、「平泉」の項を締めくくっているのです。
 ですから、前半で終わってしまっては、まったく芭蕉の言わんとしていることを読み取ることができないのではないかと思います。もちろん教科書にこだわらず教師が自由に教材を選択できますので、私は勝手に後半も扱ったわけですが、教科書を作る側の意図はどんなところにあるのだろうという疑問は晴れません。
 たしかに人間ははかなくて、ちっぽけな存在です。おそらく私たちは一生かかってそれを否応無しに思い知らされるのでしょう。でも、だからこそ人間は素晴らしいのであって生きる価値が生まれてくるといえるのではないでしょうか。十四、十五の若者たちにであればなおさら、その素晴らしさをこそ作品を通して少しでも感じてほしいと思うのです。
 
■親の生き方子の生き方(7.9)
 この敬体の文章はなかなか書きづらいものですね。やっぱり他人にまとまったメッセージを伝えることを前提とした文体ですから、いいかげんなことは書けないぞという感じがします。振り返ってみると、このホームページに敬体で書いたところは少ししかなかったみたいです。それだけ自分勝手に、いいかげんなことを書き綴ってきたということでしょうか。
 「書くことによって人生が作られていく」というようなことを、ある人が書いていましたが、毎日書くということはかなり重いことだと感じます。そして、自分はそれだけの人生をはたして積み上げているだろうかと疑います。一年前、二年前にも、同じことを考えていたんじゃないか、全然進歩がないじゃないかと思ってしまうこともしばしば。自分はとうていその言葉の域には達していないのです。文章の背後に書いた人の人生が滲み出てしまうものだから、字面だけ取り繕おうったってしかたがないわけです。
 ところで、商売柄、人の親に接することも多いのですが、「この親にしてこの子あり!」と実感する瞬間というのがあります。「ああなるほど、だからあの子もああなのね」と気がつくことはしょっちゅうです。相手の顔を見なくても受話器越しの会話からだけでそう感じることもあります。子どもが見せる姿には当然まわりの環境が影響していて、中でも親の影響というのははかりしれません。この頃感じるのは、子どもには親の人生観が書き込まれているなあということです。遺伝子が子の形質を決めるといいますが、形や性質だけでなく、人生観とか生き方とかいうものも同じように子に伝えられているのだなと思います。思うように子が育たないというケースは無数にあるでしょうが、そんなとき育てる側の人間の人生観とか生き方とかいうものを見直す時間があればいいんじゃないかなと感じます。
 毎日じっくり自分を省みる。そんなゆとりがもてなくなっている時代かもしれません。

■蒸し暑い日に(7.7)
 きょうの午後突然友人が家にやってきました。何の前ぶれもなく来るのは相変わらずでしたが、きょうは奥さんと子どももいっしょに。元気そうで何よりでした。お仏様を拝んでくれて、それから、自分が書いた書の入った額を置いていってくれました。彼は書家であり、全国の作品展で入賞するほどの腕の持ち主なのですが、その彼が自分の作品をくれたのは初めてのことです。それだけ自信をもって活動しているということでしょう。そして、それを支える家族の存在も大きいのだなと感じました。
 三十代も半ばを過ぎたこの年代は、公私共にもっとも活力に満ちた年代と言われます。友人もおそらくはそういう人生の充実期を過ごしているのだなあと嬉しく思うのです。そして自分はと考えると、たいへん複雑な心境に陥るわけですが、もうなんとも取り返しがつかないところまできているなあ。自分は誰でもない自分の道を歩いているなあと、変な感慨があるのも事実です。
 蒸し暑い日が続きます。今夜は七夕ですが、空は曇っていて星は見えそうもありません。
 今まで黙っていましたが、来年度から僕はどこか知らない国で働くことになるかもしれません。ここにきてちょっとビビってるわけですが、これも自分で決めたことなので、あとは突き進むしかないのです。自分は自分と心に言い聞かせて、明日からも働こうと思います。

■へんなニュース(7.6)
 テレビのニュースを見ていて、腑に落ちないことが多くなりました。きのうからきょうにかけての大きな話題は、長野県知事、田中康夫氏への不信任案可決について。知事就任からこれまでの議会との対立の経緯が長々と放送され、県議会議員や政党関係者のインタビュー、そして今後考えられる動向についての記者のリポートでこのニュースは終わってしまいました。僕が不満だったのは、田中氏が「県民の声に耳を澄まして判断する」と言っていた、まさにその県民の声がまったく取り上げられていなかったことです。もっとも、選挙で選ばれた議員の何人かが考えを述べていましたから、それらを県民を代表する意見ととることもできるでしょう。放送局側もそのような考えに立ったのかもしれません。しかしそれだけをもって県民の声としてしまうのはあまりにも偏っているのではないかという気がします。ほんとうの民意とは、名もなき一般庶民一人一人の意思であり、田中知事も議会も、その庶民たちの生活や生命や将来を守る立場の人間なはずです。中でも残念だったのは、本会議の決議を欠席した議員の方が、テレビでは堂々と意見を述べていたことです。市民の代表のはずなのに、なぜそんな手法をとるのでしょう?
 僕は、少なくともこのニュースに関して言えば、メディアがそういう一般の方たちの声をあえて一つも取り上げなかったということに、おかしさを感じました。一地方自治体の出来事であり、そこまで扱う必要がないということなのでしょうか。それとも、賛否両論入りまじり、短くまとまらないということでしょうか。たしかに、ダムを造らないこと一つとっても、だれかが利権を失うのかもしれないし、県民の生活を支える仕事が減るのかもしれません。いろんな立場が交錯して、良い悪いの判断は難しいと思います。
 けれど、その番組の構成から受けたのは、庶民がないがしろにされているのではないかという印象でした。と同時に、何かわかりませんが胡散臭いものが見え隠れしているようにさえ感じられました。
 メディアというのはいつでも、小さき者、弱き者のほうを向いて発信するものであってほしいと思います。

■愛すべき街は(7.4)
 盛岡の八幡町にある番屋の建物が壊されようとしています。この番屋、明治期に造られた望楼形式の建築物として全国的にも珍しいとされ、歴史的価値が高く認められるもののようです。市民から大きくあがっている取り壊し反対の声に反して、市長は解体を無理に押し進めようとしているように感じられます。なぜそのような建物の解体が、具体的理由も示されぬまま、何の議論も経ないまま、行政の勝手な判断で行われなければならないのか、納得できません。
 なんとこの市長、「全国近代化遺産活用連絡協議会」という会の副会長を務めているというのですから驚きです。この協議会、きょうからその盛岡市で大会が開かれているそうです。ところが、当の盛岡市長は東京出張で欠席とのこと。
 あんた、やってることと言ってること矛盾してませんか?と文句の一つも言いたくなりますね。盛岡生まれでこの春まで盛岡市民だった僕としては、言いたくはないですが、愛する街が愚かなトップのために汚されていくという感じがしてしまうのです。この番屋問題だけではなく、某大規模店の出店に際しても、その企業にまちづくりのプランを「考えてもらう」旨の無責任な発言がありました。
 四月以降は盛岡の街を訪れたのはほんの数えるほど。近年になって急激にマンションだらけになった街は、魅力も半減してしまった感があります。その上こんなニュースが追い討ちをかけ、ひじょうに寂しい気持ちになっている僕ですが、ますます足が遠のいていきそうです。

■楽しいひととき(7.3)
 一日じゅう雨が降ったり止んだりのこの日。久しぶりの友人たちに会いました。きれいなレストランで、おいしい料理を食べながら、楽しい話のやりとりをしました。こんなふうにしていても声をかけてくれるなんてありがたいことだと思います。またお会いしましょう。
 近況報告で、ずいぶんくだらないことを言ってしまいました。もっと気のきいたことの一つ二つ言えればいいのに何も思い浮かびませんでした。まるで梅雨前線のように、この生活も雨風いろいろあるようでいて実は停滞していたのでしょうか。
 一学期を乗り切る元気が出たかな。もう少しです。七月は文字通りの書き入れ時。さてちょっとスパートかけていきますよ。

■行きたい場所(7.2)
 こんど僕の行ってみたいところは都会です。高いビルがたくさんあって、公共交通が発達している。きれいな建物と通りの間に、緑の豊かな公園があって、朝には人々が散歩する。日曜日にはあちこちで、気ままにスポーツを楽しんで、老若男女がいっしょになって夢中になれる。人々の洗練された暮らしの中に、確かな伝統が息づいている。そうして、街全体にいつでも馥郁たる香りが広がっているような、そんな都会に行ってみたいのです。