2002年9月
■合掌(9.30)
 あっという間に半年が過ぎた。あと半年で終わりということだ。きょうは親父の命日。わかりやすい区切りの日に死んだのは、親父らしいとつくづく思う。あれからもう四年。世の中すっかり変わっている。こっちはこっちで当時は予想もしなかったような事態を迎えようとしている。あと半年。一生のうちでもかなりスリリングな局面である。みんなあなたが仕掛けてくれたのだとしたら、こっちは黙ってそれに乗っかるしかない。とにかく御意に従うのみ。何が起きても手を合わせて感謝するよりほかはない。

■朝のリレー(9.29)
 朝7時からの部活で生徒たちといっしょにリレーをやったら具合悪くなって酷い目にあった。めまいがして冷や汗が出て吐き気がして最悪だった。
中学生と同じようにやろうと思っても、もうだめなのだということを痛感した。身体的にも年相応の動き方というのがあるのだ。少し反省。

■雨の午後に(9.28)
 授業研が終わってほっとしたのも束の間。次の事がもう始まっている。一つ一つこなしていく。コツコツと片付けていく。そのいちいちが、ほんとうに自分の糧になっているのだろうかと疑問に思う。授業では自分でも驚くほどの集中力を出せた。生徒たちもいつも以上に集中していた。そのことには感謝。事後には多くの事を指導され、少しだけ褒められ、勉強になりました。次に生かしますと頭を下げる。気持ちは晴れぬまま。満足感はない。まだまだ努力が足りぬのだ。
 昨夜は部活のコーチたちと学校側との飲み会だった。先輩方の若い頃の話なども聞いた。今自分が尊敬している人の多くは、やっぱり子どもの頃からずっと立派で模範少年だったのかと、話を聞いていて思った。自分は子どもの頃からいいかげんな生き方をしていたので、これから人一倍の努力をしなければ間に合わないのだと思った。
 帰りの車の中で、代行の運転手さんと話をした。前にいた学校のことをずいぶんひどく言っていたので、それはもう昔の話ですよと言いたかったけどやめた。転勤して半年たって、自分自身の中にすごく美化されたイメージができてしまったのかもしれないから。そうはいっても、けして今のところが嫌いなわけではない。むしろもっとよく変われそうな手応えをばんばん感じていて、希望を感じずにはいられない。毎日が貴重な実践の場なのだ。

■頭痛(9.27)
 週末になると頭痛がする。しかもきょうは授業研だ。どうもヤバい。

■E(9.26)
 物を喰うというのを広義に考えると音楽も文学もみな食品だ。近頃食べてばっかりなのがOTのE。憎らしいほどうまい。

■食品(9.25)
 人は物を喰うことでしか自分を維持してゆくことはできないという事実をもっと真摯に受け止めたほうがいい。世の中には粗悪なものもいっぱいあるので注意したい。

■いつも心に(9.24)
 石垣りんの詩がある。食わずには生きてゆけない。親を、きょうだいを、師を、金もこころも…。ほんとうに食い散らかしながら日々生き存えているとしか言い様がない。
 
■脳のしわざ(9.23) 
 ココロの問題は非常に複雑で、コトバではどうにも処理できないことが多すぎる。コトバにしてみようと努力はするが、どうしてもぽろぽろこぼれてしまって、それは夢になったり妄想になったりする。自分の本当の考えはどうなんだか、ようわからへん。脳味噌は厄介物。カニ味噌は北海物。

■エラー(9.22)
 夜中に目覚めてパソコンを起動しようとしたらエラーになってしまうのでいろんなところをいじったらおかしくなってしまった。こんなはずじゃなかったのにと眠い目をこすりながら何回も再起動したりしてようやく直った頃には空が白み始めていた。こんなことに二時間も費やしてしまった。しかもなにも真夜中にやることもなかったのに。

■中秋(9.21)
 月が雲間から顔をのぞかせた頃にはすでに高く小さくなっていた。どうしてウサギに見えようかと思っていたのだが、いつからかウサギにしか見えないようになっていた。地域によってはカニに見えたり女性に見えたりするそうで、見え方はいろいろなのだ。世界中のありとあらゆる場所で人々が月を見上げているのを想像してみる。都会の月。浜辺の月。山岳の月。田園の月。砂漠の月。湖面の月。密林の月。雪原の月…。どの場所からでも同じ月。月は人間の姿を映し出す鏡だ。一晩中月と向きあう夜があってもいい。

■彼岸入(9.20)
 葡萄やら梨やら林檎やら、秋の果物の香りが仏間いっぱいに広がって、差し込む朝の陽を浴びながら、手を合わす。少しずつ少しずつ忘れ去られていく。記憶の彼方にしまわれていく。そして、なくなったものとしてではなく、はじめからそこにあるものとして留められていく。遥かな父祖を思うとき、彼らは常にそばにいる。この世の些末な出来事のいちいちが、泡沫のように消えていく。

■メシヲ喰ウ(9.19)
 すべての新しいものは、古いものからうまれる。遺伝子のような本質が伝わっていけば、それはそれでうまくいってる。

■新人戦(9.18)
 電車での統導は何かと気をつかう。行きはまあまあよかったが帰りはすっかり気が弛んで、禁止されている買い食いをしようとしたり、線路に落とした五十円玉をもう電車が見えてるのに拾おうとしたり。こっちはこっちで必死なんだが、彼らの行動を抑えようとするには限界がある。冷ややかな一般の人々の目もこちらにはきついものがあるし。「中学生は迷惑だ。教員はもっとどうにかしろ!」なんて新聞に投書でもされなければいいなと思ってしまう。
 これでも成長しているのだ。一つ一つクリアしているのだ。そうしていずれは社会の柱になるのだ。実は誰もが通るかわいい時期なのだ。そういう時期を彼らと共有できる楽しみ。自分のその時期が毎日塗り替えられていくような感覚、新しい自分を日々発見させられるような感覚。幻かもしれないけれども確かにあるその感覚のために、前に進むことができる。
 
■野球(9.17)
 巨人戦の中継でアナウンサーが「野球というドラマ、何が起こるかわかりません。まるで政治の世界のように!!」なんて叫んでいた。スポーツと政治をいっしょにしないでほしい。
 ある野球解説者の口癖をみつけた。話の頭に「だから」を付けることだ。これをやると、なんでもかんでも知っている嫌味な人に聞こえてしまうので注意が必要である。
 九回裏の満塁で松井の打席。みんなが期待を寄せる絶好の瞬間。ふいに画面がコマーシャルに切り替わり、戻ると松井はすでに三振していた。

■マイマイ(9.16)
 雨の夜またカタツムリを踏みつぶしてしまった。
 
■Condition Of The Heart(9.15)
 友人に教えたメールアドレスが間違っていたので、何度送っても返ってくるんだと電話がきた。自分のアドレスさえ忘れてしまっているのだから相当なものだ。だが見方を変えてみれば、いいことだったりするかもしれない。
 敬老の日だというのに、テレビも新聞もそれ関係の記事が今年は特に少ないように感じる。これも実はいいことかもしれない。
 きのうきょうと練習試合だった。前任校での教え子たちの何人かと偶然会った。きのうの子たちはすらすらと名前が浮かんできたのだが、きょうの子たちの名前は全然思い出せなかった。それはきのうの子のほうが印象に残っているからというわけではない。思うに、記憶の糸がうまくたどれるかたどれないかは、その時の心のあり方によるということではないだろうか。年を取るから忘れっぽくなるのではない。若いから記憶力がいいというのでもない。
 
■反省、そして(9.14)
 ホームページとプライバシーのことについて考えさせられた。どうするのがいいのかまだわからないのだけれども、匿名ということがもつ恐ろしい面に、もっと神経を使わなくてはならないだろうと思った。
 ちょうどテロの日の前日に、木工室の机の上にたくさんの落書きがしてあるのが見つかった。その中には僕の学級の生徒の名前を挙げて侮辱するものもあった。そして生徒たちの前で僕は、書かれた人の気持ちになってみろ。これはテロと同じようなもんだと、そんな話をしたのだ。
 どこのだれだかわからない人間のホームページに自分のことが書かれていたら、それはとても恐ろしく気味悪いに違いない。そういう状況をずっと放置していたと考えると、反省すること頻りである。僕のホームページにより傷ついた人がいるかもしれない。そのことに対してはやはり責任を負わなくてはいけない。少なくとも今後繰り返さないようにすること。それが大事だ。
 何が侵害で、何が侵害には当らないのか。それは個々の問題によるわけで、一概に判断できるものではない。そこにはきっと対話が必要とされることになるだろう。と、こんなことを考えさせられるのも、ネットワークのなせる技か。これからは今の何十倍も人と人との対話が要求される社会になっていくのかもしれない。

■動物のふしぎ(9.13)
 昇降口に蛇が出たのが月曜日。赤茶色をしていてまだ子どもの蛇だ。そしてきのう二匹目が出た。すっかり同じ色と大きさ。どこかでたまごが孵ったのだろう。タイルの床を滑りながらにょろにょろ這う姿は気持ちが悪かった。あと何匹出るかな。
 タマちゃんというアザラシが都会に出没。ニュースでも「タマちゃんが帷子川に出ました」などと言っているから、あたかもタマちゃんという種がいるかのような感じだ。東京に出たものと横浜に出たもの、ほんとに同一なのか。同じ形をしたタマちゃんが同時に二匹三匹と出てきたら、子どもたちはびっくりするだろうな。

■勤続疲労(9.12)
 土曜日がなくなって、一週間があっという間に感じられるようになった。それはそれでいいのだが、月火水木金と疲労が積み重なってくるのは困ったもんだ。木曜日の夜なんてひどい。お江戸でござるをつけつつ、ぼーっとしているのだった。
 
■できること(9.11)
 なくしてきたものはなんだろう。できることはなんだろう。
 問い続けるには力が必要で、磨いていないとなまくらになってしまう。
 見える景色は場所によって違う。海の向こうには悪魔がいて、それは次々と姿を変えていくらしい。
 何が本当の悪魔なのか。こちらからは天使も悪魔も見ることはできない。
 ただ途方もなく渇いた現実が横たわっているだけである。
 
 いつからか世界は小さくなったような気になっていた。
 楽に手の届くもの、あたかもマジックハンドを得たかのように。
 でも自分ができるのはたいしたことじゃない。
 それはいつでも生身の一個の人間が当たり前に生きることから。
 それはいつでも見落としがちな身の回りのちっぽけなことから。
 
■祭りのあと(9.10)
 祭りの間に雨が降らなかったのは珍しいという。近隣の町の祭りと日程がずれていたせいで、今年の屋台の数はいつもより多かったらしい。祖母は大の祭り好きで、昼前から夜9時近くまで、ときどき家に入って休憩しながらも、ずっと沿道で山車を見たり踊りを見たりしていたそうだ。驚くほど元気な明治生まれ。
 山車を引くかけ声も太鼓の響きも嫌いじゃないが、最近ではマイクとスピーカを通して拡声されるもんだから、正直うるさくてしょうがない。小学生やら若い者やら、やたらと張り切って叫ぶのだが、それがどうも白けてしまう。とても変な感じだ。

■朝(9.9)
 宿題は研究会を経て10倍の仕事になって返された。朝に提案できるようにするためには休むヒマはないのだがまた眠ってしまった。
 また朝がきた。なんてこった。

■雑感(9.8)
 爽やかな湿度の朝。明日までの宿題は指導案。まだ1割もできてない。やりますなんて、少し後悔。実りが有る無しに関わらず、挑戦するのは悪いことじゃない。それはわかっちゃいるけれど。だらだらしてたら、もう11時を回ってしまった。メジャーリーグ。ハセガワはいい仕事をする。松井にはぜひメジャーに行ってほしい。行きたいと思ったらだれが止めようと行ったほうがいい。それにしても、どうしてオリンピックから野球をなくそうなんて話になるのだろう。野球でオリンピックを目ざしている人がいたらどう思うだろう。人生波乱万丈。ラサール石井は好きだな。そんな話になると行き着く先はだいたいきまって「いい人生ってなんだろう」。いくらお金持ちだって、いくら頭がよくたって、それで幸不幸が決まるわけでない。かといってしたいことをすれば幸せかというとそうでもないか。したいことができないからといって不幸ということはいえない。いつであってもそれを判断するのは全くもって時期尚早なのだ。だけど未来のために自爆するとか自分の民族のために他の民族を殺すとかそういうことが繰り返されたら。信念をもってスイッチを押した二十歳の娘の人生ははたして幸せだったといえるのか。それで救済されるのか。インターナショナルディストリクトの中華料理店で出された菓子の中から出てきた紙切れにはこんな言葉が書かれていた。"You are going to have a very comfortable old age."安らかなる老後のために生きるつもりもないが、けして怠惰な日々に埋没するつもりもない。夢や希望をもち続けている結果としてそれは実現されるのだろう。思いと現実の間には深い河が横たわっている。ひとりで渡るのは所詮無理。みんなで渡れば怖くない。けど「みんなで」というのが難しい。赤信号なんて単純なもんじゃないんだから。

■祭り(9.7)
 あの町この町で秋祭り。きょうの夜には学区の巡回をしてきた。予想以上に山車や屋台が出ていて混雑していた。明日からはうちの町も秋祭り。いつもは閑散とした通りがどれくらいの賑わいを見せることか。
 
■開店セール(9.6)
 町に新しいスーパーマーケットができた。広い駐車場に明るい売り場。開店セールには子どもからお年寄りまでたくさんの人々で賑わっていた。レジで僕の前に並んでいた少年はいくつかお菓子をもっていた。百円玉二枚だけもっていたらしく、「207円です」という言葉に困惑していた。「じゃあやっぱりこれ、いいです…」といってラムネをレジのおばさんに返した。すると、予期せぬ出来事に今度はおばさんのほうがおろおろしてレジの操作ができなくなってしまった。だが、それより可笑しかったのはポカリとプリッツだけが入ったカゴを持ってレジに並んでいる自分の姿だった。

■26時30分(9.5)
 なんだきのうとおんなじじゃねえか!知らない間に眠っていたよ。
 一つ一つ片付けていこう。

■26時30分(9.4)
 陸上大会で一日外にいたら顔が真っ赤になってしまった。
 ちょっと一眠りしてからというつもりが、6時間も眠ってしまった。どうすんだよ。脳は疲れないとはいうけれど、このいうことをきかない身体はどうしようもない。火照った頬や腕がひりひり痛い。
 さて、きょうはもう眠ったらおしまいだ。朝まで脳と指先の運動だ。

■祖母の話(9.3)
 デイサービスの会話でも、とにかく今までこんなに暑いことはなかったと、秋祭りが来るというのにこんなに蒸すことはなかったと。祖母の半分も生きてないけれど、僕の実感としてもまったくそのとおりなので、きっとこれは地球の温暖化の所為だろうと思ってしまうのは、果たして短絡的かどうか。
 実は何年か前にも、蒸し暑さがへんに続いていた年があったのを覚えている。あの時は9月いっぱい続いたのだ。

■疲れ(9.2)
 夢の中でどんどん仕事を進めた。だいぶ進んだぞと思ったら目が覚めた。仕事は一つも進んでいなかった。外はもう明るかった。
 こんな調子だから、八月中にやるはずだったこともまだ済んでいない。
 残暑の中で、ほかの人たちはよくがんばっているなあと感心してしまう。

■十年(9.1)
 試合で以前勤めていた学校へ行った。10年ぶりに。懐かしかった。煤けた校舎や、ひと回り大きくなった桜や松の木が10年という時間を感じさせた。何もかも、10年分変化している。街も、子どもも、おとなも。
 めちゃくちゃだったその頃のことが蘇ってきた。体育館だけでも数えきれない思い出がある。ステージの天井裏でパーティしたこと。天井を破って用務員さんに怒られたこと、消火器をぶちまけたこと。目の前にいるのは、ちょうどその頃生まれた子どもたちだ。君たちは大きくなった。
 君たちのように10年分の成長ができたのかはわからない。ただ流されて変わってきただけなのかもしれない。